井川のブログのこのシリーズは現在写真が無い状態でお届けしていますが、実は古いカーオーディオ専門誌を入手して店頭のマガジンラックに入れていたら、「こんな古い本はいらない。」と専務に捨てられてしまい、自分が置き場を間違えたために当時のデッキやスピーカーの写真が掲載出来ない状態になっています。
なぜあんな貴重な物をうっかり人目に付く場所に置いたんだろうと、後悔してももうどうにもなりません。
さて今回の1988年から1992年は日本の自動車史としても大変革の年で、トヨタセルシオや日産シーマやR32スカイラインやS14シルビア、ホンダのプレリュード・インテグラ・シビック、マツダのロードスターと当り車の連続で、カーオーディオ業界はセルシオ以外の車は多くピットに入る様になりました。
その一方で『平成元年はオーディオ元年で、10年以内にカーオーディオの専門店はぶっ潰す!』と言っていた自動車メーカーもあったそうで、アフターマーケットのカーオーディオの牙城を崩そうと自分車メーカーも純正に力を入れ始めた頃でした。
一般的なカーオーディオメーカーは自動車メーカーの名前が入った市販の初級から中級モデルのオプション設定も出て来て、自分は主力製品を純正では扱っていないナカミチをメインにして、当時は全国に30店舗弱だったナカミチスペシャルショップに年会費15万円を払って入会しました。
このスペシャルショップに入ったのが人生の転機になって、これまでは周りの量販店が取付工賃サービスのキャンペーンを度々行うのでなかなか工賃が取れないという仕事の受け方が、音をきちんと合わせる調律系のセッティングできちんと工賃が頂ける仕事という風に変わって来るという、仕事のやり方の根本が変わる様な出来事でした。
特に毎年1月に当時小平にあったナカミチの本社のコンサートホールに招待されて生演奏を聴いて、そのCDをもらって帰って、1年間その音を基準に音造りを行って、また次の年にコンサートホールで生演奏を聴くという、一つのビジネススタイルが出来上がりました。
ただまだ当時はディーラーや中古車店の業販の取付のみの仕事を辞める勇気がなくて、ナカミチの製品を使った調律系のサウンドの仕事の合間に下請け仕事を受けていて、結果的に体に無理が来て直腸を切って1カ月入院するという事態になってしまいました。
この時長男が生まれたばかりで、下請け仕事は月にある程度の安定した収入が見込めるので辞められずにいて、さすがに入院してしまえば仕事が受けられず、遂に下請け仕事は一切やめてユーザーの方に直販のみという、安定収入を捨てて音造り一本という決断をした時でした。
それと同時にナカミチのスペシャルショップのメンバー店の社長さんで、自分がこの方を手本にしたいという方に声をかけて頂いて、更に自分の人生は大きく変わりました。
東京のそのショップの社長さんは自分よりも一回り上ぐらいの年齢で、スペシャルショップのミーティングの後に、自分ともう一人同じ年代の当時は30前の若者にデモカーを音を聴かせて頂きました。
新人にやればこんな音が出せるんだよという事で音を聴かせて頂いたのでしょうが、自分以外のもう一人は、「この音は良い音かもしれないけれど、自分は自分のやり方で良い音を探す。」と言って、自分は逆に「どうしてもこの音を出したいので、この音の出し方を知りたいです!」と弟子にして欲しいみたいな事を言ったと思います。
この時の2人の若者の運命は自分のやり方を見つけるのか、成功者のやり方を自分の物として完全に手に入れるという2つの道に分かれて、その10年後20年後がどうなったかというと、成功者の習慣を完全に自分の物にした方が成功者になれるという、成功の法則みたいな考えが自分の中にあったので、素直に受け入れる事が出来て、自分のオリジナルを入れる事無く完全にコピーする事が成功への確実な道というのを自然に身に付いていました。
このシリーズを1話からご覧の方ならお判りでしょうが、自分は成功者の話を真剣に聞いて、それを自分の物にするという習慣があって、無線の講師の先生に始まり、通信社の優れた社長さんとか、不動産で成功した方など真剣に話を聞いて、複数の優れた方の手法を身に付けていました。
ただ世の中はそんなに甘くなく、カーオーディオの業界は売り上げがどんどん上がって行く一方で、メーカーの考えが甘い施策で扱う販売店をどんどん増やして行って、なかなか集客に困る様になり、本来は調律系でお店を選ぶはずのナカミチもどんどん販売店が増えて、いつの間にか調律など無視して売れればいいという店が増えて来て、そういうお店が取り付けたシステムの手直しをする工賃が収入の一部になるという、情けない状態になって行きました。
そんな戦国時代の様なカーオーディオ乱売期を迎えた時期に今32歳の次男が生まれて、その次男に東京のM社長の名前を勝手に付けて、次のナカミチのスペシャルショップのミーティングの時に、「自分の息子に尊敬するM社長のお名前を勝手に使わせて頂きました。」と報告したら、M社長は「僕の名前を付けたら僕ぐらいの大した人間にしかなれないよ。」とかなり謙遜して言われていて、でもその事でM社長に気に入って頂いて、色々な事を包み隠さず教えて頂きました。
そのおかげで業界の戦国時代を乗り切る事が出来て、「自分が凄いんじゃなくて、東京のM社長の指導がいいからこういう音が表現出来ます!」と、自分の人生の中では黄金期が訪れたのですが、今でも専務と「あの頃が一番儲かっていた。自分がトップにいるよりもナンバー2でいる方が販売に専念出来るから効率が良い。」と話しています。
自分もこんなナンバー2時代がずっと続くと信じていたら、ある日M社長が「カーオーディオもホームオーディオももう先が無い。」、「いくら良い音を出してもメーカーと評論家と雑誌社が結託して良くないものを最高と書いているので、こんな業界は引退する。」、「井川君も他に道を探した方がいい。」と、突然の引退宣言をされたのです!
これはとてもショックでした。
M社長のお店は他の人が受け継いで今もありますが、M社長の時代の情熱とナカミチの創業者の中道悦郎氏と二人三脚で作り上げた取付・音だし技術はここで止まってしまうのかと不安もあって、後は自分で考えないといけないという、ピンチに立つことになりました。
ちょうどこの頃中道悦郎さんが亡くなったというのもあって、M社長はカーオーディオの前にされていたエレクトロニクスの世界に戻られて、一番良かった頃のナカミチが終わったという、時代の転換期となっていました。
またこの頃カーオーディオ専門店オーディオボックスは宇部市の中野開作から山陽小野田市の有帆に店舗を移転して、正確に音を表現するためにエアコン付きピットを設けて、吹きっさらしのシャッターを開けただけのピットに差を付けていたつもりですが、それが分かる方よりもブランド品を少しでも安く買いたいという人も多く、その差が解って頂けたお客様は30年・40年経っても今でもお客様としてお付き合い頂いています。
これより先は第12話につづく
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2023/02/02 11:00:22