日曜日の夕方にテレビを付けたら、テレビ東京系のTVQで『3秒聴けば誰でもわかる名曲ベスト100』という番組を放送していました。
以前にもテレビ東京系で歌姫とか名曲ベスト100を放送していて、自分は今まで実際にお会いして生の声を知っている歌手の人をカウントしていました。
これまではだいたい15%ぐらいの人に会っているので、今回は何%になるか最初から見入っていました。
ちなみに音の方はテレビからアンプを経由して、ピュアディオ6520で聴いています。
しかし番組が始まって「これはちょっと・・」と思ったのが、テレビ放送が始まるどうかぐらいの時期の歌手の人が含まれていて、なかなか自分がお目にかかった歌手の人が出て来ません。
やっと出て来たのが昭和60年の杉山清隆さんの『ふたりの夏物語』です。
この時点で82位ですから、自分からしたらベスト20でカウントするしかありません。
杉山清隆さんは放送局主催のイベントで2回お目にかかっていて、そのイベントのスポンサー企業の中の1つにサウンドピュアディオが入っていたので、お目にかかる事が出来ました。
その次は91位CHAGE&ASKAさんで・・
これまでサウンドピュアディオはCHAGEさんのソロ活動の応援で、3回ほどラジオ番組を製作して、1つの番組を2局で放送した事もあるので、その関係で合計4回お目にかかっています。
最近ラジオで『夏と言えば頭に浮かぶ曲』というのをやっていて、CHAGEさんと石川優子さんの『ふたりの愛ランド』と杉山清隆さんの『ふたりの夏物語』が入っていましたね。
驚く事に次の92位も福岡出身の方で、これまで2回サウンドピュアディオ関連の番組に出演して頂いたKANさんでした!
ただ運もここまでで、そのご100位まで自分がお目にかかって生の声を聞いた事があるボーカリストの方は現れませんでした。
これまで100人中15人ぐらいで平均15%とすれば、20人中3人なので15%で、計算上はいつもの通りとなりました。
毎週火曜日のTBS系のテレビで夜9時前から放送されている『マツコの知らない世界』ですが、先日の放送は『日本が世界に誇るマツコ!音楽祭』というタイトルでした。
内容は3つのブロックに分かれていて、まず皆さんご存じの世界でも注目されている昭和のポップスについてで、昭和の楽曲のカバーアルバムを色んな方がリリースされています。
2つ目は日本のお家芸的なアニソンで、これは長年日本が世界に誇れるジャンルです。
そして3つ目は『マツコの知らないパラパラの世界』というタイトルで・・
1986年をスタートにして3回のブームを経て今に引き継がれています。
1986年と言えばデッド・オア・アライブやマイケル・フォーチュナティーなどのユーロビートディスコが日本で流行し始めた年で、自分はFM山口で『ソウル&ディスコステイション』という渋めのダンスミュージックをノンストップでかけるという番組のDJをしていて、86年の初めはハイエナジー・ディスコと呼ばれるイヴリン・トーマスの『ハイエナジー』みたいな曲調が流行っていました。
ハイエナジーという1曲がヒットしたために、少し暗めでややスローテンポの楽曲をハイエナジー調と呼ばれるぐらいの大ヒットで、ただやはり暗めだったからか直ぐにブームは下火となり、もっと明るくてテンポの速い『ユーロビート調』の楽曲が流行し始めました。
そこで井川は流行の流れに乗って、番組のタイトルを『ディスコ・フリーク』に変更して、ユーロビートの第一次ブームに乗っかりました。
ただ第一次ユーロビートブームの時はパラパラという言葉はまだなくて、アーハのテイク・オン・ミーのイントロや間奏の楽器の音がパラパッパと聞こえて、フロアーの皆がそれに合わせて「パラパッパ♪」と歌いながら同じ踊りを踊っていた事から、後の1990年代のユーロビートブームに軽くてテンポの速い曲で皆で同じ振り付けで踊る事がパラパラと呼ばれる様になりました。
90年代のユーロビートブームが80年代に比べて明らかに違う部分が、ユーロビートの踊り方の経典と呼ばれるレクチャー用のビデテープが発売されて、ディスコフリークはこれをこぞって買って踊りを覚えた事です。
それまで地方のディスコによって微妙に踊り方が違っていたのが、これで全国統一の踊り方になって、ビデオやCDでエイベックスは大きな利益を上げた事でしょう。
当然自分のパラパラの教典ビデオは買いましたが、89年に長男が生まれて、91年には次男が生まれて、もうディスコなどには行けなくなって、家のオーディオルームで踊っていましたが、やはりディスコに行けないと気分が出ないので、そのうちディスコとは縁の無い生活になりました。
ただ長男が小さい時にはまだ現役でディスコで踊っていて、次男が生まれて何回か行きましたが、妻の機嫌が悪いのでもう行くのを辞めました。
それから20年以上経って息子二人が成人した後に、妻が「あなた達のお父さんは乳飲み子を置いてディスコに行っていた、不良のお父さんだったのよ!」と言っていました。
もし自分に弁解のチャンスを与えられたら、「30過ぎてもディスコに行く様な、ノリの良いお父さんだったから、今の君たちの生活があるんだよ。」と自信を持って言いたいです。
そんな過去の自分を思い出した、『世界に誇る!マツコ音楽祭』でした。
今日7月22日は1978年に映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本で初上映された日で、そこからディスコの日とされています。
日本記念日協会にDJ OSSHYさんが申請して認められた記念日です。
DJ OSSHYさんは日本のディスコミュージックの伝道師で、名司会者の押坂忍さんの息子さんです。
BSフジで毎月第三木曜日の11時30分からディスコTVでDJをされていますが、確か今は30分後ろにずれて12時ちょうどからの放送になっているはずです。
自分はDJオッシーさんのCDボックスを買ったので、ディスコの日とディスコTVのステッカーを持っていて、昨年の7月に福岡店の入り口に貼ろうと思って持っていて、1年経った今も貼るのを忘れていました。
映画サタデー・ナイト・フィーバーのサウンドトラック・アルバムは当時24週1位という、驚異的な売り上げとなり、18歳だった自分も買って毎日の様に聴いていました。
1978年はまだビデオデッキが普及しておらず、テレビでディスコ関連の特番やサタデー・ナイト・フィーバーのダイジェスト番組があったら、その音だけをテレビからカセットテープレコーダーに録音して、その時のダンスを思い出しながら踊るという、今では考えられない様な苦労をしてダンスを覚えるという事をしていました。
1978年の夏にディスコブームに火が付いて、テレビで見て音だけ録音して思い出してを繰り返して、10月だったか11月だったかの高校の文化祭でダンスを踊って、それを見た卒業生が後から「その踊りはどうやって覚えたの? ジョン・トラボルタの映画は何回観たの?」と聞かれて、「一度も観た事がありません。テレビの番組で見たのを頭に焼き付けて覚えました。」と言ったら卒業生は驚いていました。
本当は体育館の裏に呼び出されて「生意気だ!」と殴られるかと思ったら、「あまりに上手いから、どこかのディスコでも行っているのかと思った。」と言われて、当時いた美祢市にはそんな物は全く無く、どこにあるか知りたかったらしくて、ディスコに行ってないどころか、映画も観ていないでそれっぽく踊れるとはと、感心されたのでした。
今は映像も音楽も情報も簡単に手に入りますが、不便な当時だからこそかなりの集中力で見入っていて、「知らないうちに脳を鍛えていたのかな?」と、そんな事を思い出した7月22日のディスコの日でした。
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