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小林あにのブログ一覧

2026年10月06日 イイね!

【由良要塞】赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました(1)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町に残る旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました。

この日の午前中は、同じ洲本市由良町にある生石公園を訪れて、同地に残る生石山堡塁跡・生石山砲台跡の遺構を見物してきました。10時半過ぎには見物を終え、「せっかく淡路島まで来ているし、もう1か所遺構を見に行ってみるかな。山のてっぺんだけど…。」ということで、近所のコンビニ(生石公園からだと最寄りが9km先…。)へ移動して昼御飯と持ち歩き用の飲み物を購入。

軽く昼御飯を食べた後は、ふたたび由良の街へと戻って、しばらく駐車場所を探して街中をグルグルと走行。「やはりここしかないなぁ。」ということで、砂防ダムの前にある広い路肩に駐車して目的地へと向かうことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場所から南へと歩くこと5分。この交差点で斜め右側の路地へと入っていきます。この路地が赤松山堡塁跡と、今回は訪れていませんが伊張山堡塁跡へと向かう軍道の起点となります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋名は婦野川橋。渡る川の名称は婦野川です。


この橋、パッと見はよくあるコンクリート橋に見えますが、実は軍道時代の煉瓦アーチ橋をそのまま流用しています。


婦野川橋の先は、軽四がやっと通行できる程度の道幅となります。




小川を渡る石積みの暗渠。こんな些細な場所でもきちんと造ってありますね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

干上がった溜池を眺めながら進みます。


こんな場所にクレスタの廃車が。


また石積み暗渠。


暗渠を過ぎると山道になりました。


標石がありました。これは「防御営造物標石」と呼ばれるものだそうです。表面には「防」と数字、裏面には「陸」(陸軍省)とあるそうです。


いわゆる「明治車道」(明治時代に開削された荷車道)程度の道幅があります。これが開削当時の軍道の姿だと思われます。


道が二股に分かれていますが、右側へと進みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

低い峠を切り通しで通過します。


切り通しの横には地蔵堂があります。


軍道の路肩を固める石積み擁壁。


ここで再び婦野川と交差。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋、先ほどの婦野川橋と同じく煉瓦アーチ橋です。


橋のたもとには「防御営造物標石」。


河原に下りて、橋の上流側を眺めます。


アーチ部分の煉瓦の組み方が鉄道用のトンネルや橋梁と違っています。鉄道用だと煉瓦の小口面が見えるように組みますが、この橋は長手面2列の間に小口面の列をサンドイッチしたパターン。


アーチ部分を真下から眺めると、一般的な煉瓦アーチ橋と同じくアーチ全面に長手面が見えています。なので、わざわざアーチの側面部だけ煉瓦を縦に2列組んだわけです。どういう意図があるのでしょうか。


下流側の眺め。


橋を渡ると石垣の間を通り抜けていきます。


ここに廃屋がありました。作業小屋の跡のようです。多分、陸軍とは関係ないものでしょう。


道の両側に標石が立っています。本来はこんな感じで立てられていたのでしょう。


段々と廃道らしく路面が荒れてきました。


煉瓦アーチの暗渠を発見。


ここのアーチも長手面と小口面の組み合わせ。旧陸軍では道路に煉瓦アーチを用いる場合、このような組み方が定められていたんですかね。


山側の路肩には石組みの側溝が設けられています。今はほとんど埋もれていますけどね。


「由良要塞第一地帯標」の標石。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この標石に記されている「第一地帯」と言うのは、1899年(明治32年)に公布された「要塞地帯法」に定められた区分で、砲台等の「防御営造物」の各突出部を結ぶ線を基線として、基線から250間(約454m)以内(後に1,000m以内に改正)の区域を指すそうです。


また煉瓦アーチの暗渠を発見。




洗掘されないように河床部分は石畳にしてあります。


引っこ抜かれたのであろう標石。他の種類の石造標石でもそうですが、簡単に抜けないよう、地表に出ているのは実際の長さの上半分以下が多いんですよね。


細々した石ころがたくさん転がっていて非常に歩きにくいです…。嫌でも路面に注意を払わないといけないのでくたびれます。


ふと見上げると石造暗渠がありました。赤松山堡塁跡へ向かう軍道と伊張山堡塁跡へ向かう軍道の分岐点までもう少しのようです。


目の前に薮が…。大したことはなさそうなので、そのまま突っ切ります。


分岐点までやって来ました。赤松山堡塁跡は矢印方向になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

赤松山堡塁跡方面へ進む前に、伊張山堡塁跡への軍道に架かる煉瓦アーチ橋をチェックします。




川幅がだいぶ狭まったので、ふもとのアーチ橋に比べるとアーチの径間もだいぶ短くなっています。


上流側の眺め。


それでは赤松山堡塁跡方面へと進んでいきます。


先ほど見上げていた石造暗渠をチェック。やはり内部は瓦礫で埋まっています。






ヘアピンカーブです。


自動車が通行することを前提としていない時代の道なので、カーブ部分のスペースに余裕がありません。


程なくしてまたヘアピンカーブが現れました。こちらのカーブも非常にタイトです。


廃道探索の目線ではまだ全然問題ないレベルですが、路面に散らばる大量の石ころに加えて、倒木が現れ始めたのはちょっと難儀です。


こんな斜面の只中に煉瓦アーチの暗渠がありました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一般的な明治車道だったなら、この程度の沢だと橋は架けずに洗い越しで済ませてしまいそうです。やはり軍道は「高規格」なんですね。


そして、内部は瓦礫だらけ。このアーチ高では当然な気もします(笑)。


※その2へ続く。
2026年10月04日 イイね!

【由良要塞】生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策しました(2)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町にある旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策してきました。

前回(1)では、第四砲台跡から生石海峡展望台まで進んできました。


さらに駐車場所方向へと進んでいくと第二砲台跡を見下ろすことができます。地面には瓦礫がたくさん転がっています。




円形の砲座が見えます。ここは周りを土塁などで囲まれている場所ですが、第二砲台に設置されていた榴弾砲は、砲弾を高仰角で発射して山なりに目標へと飛んでいくタイプなので、運用には全く支障ありませんでした。


生石鼻灯台。


第一砲台跡まで来ました。こちらもフェンスで封鎖されていますね…。


砲側庫が何とか覗けます。




通路。


公園道路へと出て進んでいくと、また砲側庫が見えてきました。


内部は土砂で埋まっています。


コンクリートの構造物が公園道路の脇に残っています。


こちらにも砲側庫。




こちらの砲側庫には見学用のテラスが設置されています。






きれいな曲面で積まれた煉瓦。大変良いです(笑)。


生石山砲台跡に現存する建造物では、この砲側庫が一番きれいな形で残っています。




一旦、生石山堡塁跡にある駐車場を通過。


第一砲台跡の砲側庫を裏側から見てみると大穴が開いていました。


最後に堡塁跡の塹壕をもう一度見物。




駐車場所へと戻ってきました。


この後は汗をかいて着替えた服を干しながら30分くらい休憩。生石山堡塁・砲台跡ではいろいろな遺構を見ることができましたが、気楽に歩いて回れたので少々物足りない気分。

標高330mの山の頂上まで徒歩で登る必要はありますが、もう1か所、由良の街の西側にある赤松山堡塁跡へ向かってみることにします。
2026年09月29日 イイね!

【由良要塞】生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策しました(1)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町にある旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策してきました。

「由良要塞」は、「紀淡海峡及鳴門海峡ヲ杜絶シ、藝豫要塞ト相待テ内海一部ノ領有ヲ確實ニシ、特ニ大阪灣ヲ掩護スル…。」ことを目的として、旧陸軍により設置された要塞です(陸軍築城部本部 編『現代本邦築城史』第二部 第四巻,陸軍築城部本部,1943. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223513 (参照 2026-09-29)より引用。)。

ちなみに「芸予要塞」は、瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡を封鎖するように設置された要塞です。「由良要塞」と「芸予要塞」が対となって担当する海峡を封鎖することで、戦時に瀬戸内海の占有を確実にし、ひいては大阪・神戸など重要な都市が沿岸にある大阪湾の防衛に資するわけです。

1889年(明治22年)の生石山第一砲台~第四砲台を皮切りに建設が開始され、以降1905年(明治38年)までの間に両海峡の各所に砲台等の施設が設置されました。

その後、日露戦争・第一次世界大戦などの経験を踏まえた戦略・戦術の見直し、兵器の性能向上などを受けて要塞の統廃合が検討される中、「由良要塞」の施設群も多くは廃止、あるいは任務解除されて施設のみ存置されるだけの存在となり、現役だった施設群も事実上実戦を経験することなく終戦に至ったそうです。

戦後は、連合国軍による旧日本軍の武装解除の一環として破壊措置を受けた後、現在に至るまで放置されたままの施設もあれば、撤去や再開発などにより消滅してしまった施設もあるそうです。

さて、この日は午前3時過ぎに自宅を出発。8時30分頃、生石山堡塁跡にある駐車場へとやって来ました。ここは、由良の街のさらに南側にある生石山の上になります。




場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現在、当地は生石公園として整備されていて、堡塁・砲台の遺構も見学できるようになっています。案内板によると、この駐車場は公園の一番端っこになりますね。


駐車場の脇に展示されている27cm加農砲の砲身。


駐車場から階段を下りると、駐車場を取り囲むように当時の塹壕が残っています。煉瓦壁をガードにして、斜面を攻め上がってくる敵を迎撃する施設です。






こちらは、駐車した場所のちょうど真下にある井戸跡。




井戸跡の先をこのまま進むと駐車場に向かう公園道路へと出てきます。


一方、反対側を眺めると、どう見ても道跡と思われるものが続いています。遺構群を見に行くより先にこちらを確認してみます。


これは道で間違いなさそうです。きちんと盛土されて造られています。


路盤が抉れています。意図的に削ったようにも見えますがどうでしょうか。


古い時代のものらしいコンクリートの塊が残っています。


ヘアピンカーブ。これは自動車道のヘアピンカーブの造りではありませんね。鋭角すぎます。堡塁・砲台の建設に合わせて開削された明治時代の道なのかもしれません。


浅い掘割。


広い場所でも小型普通車レベルの幅です。


道の脇に平地が見えます。何か施設が建っていたのかもしれません。


下の方に駐車場へとやってくる時に通った公園道路が見えてきました。


石組みの側溝。


公園道路へと合流します。


合流地点に落ちていた煉瓦の塊。アーチの一部分のようです。


公園道路はこの場所でヘアピンカーブになっていますが、その突き当りには石垣と階段の一部と思しき残骸が残されています。






この場所からは公園道路で登り直していきます。


この公園へ来た時は右側へと進みましたが、今回は左側へと進んでいきます。


ようやく海が見えるようになってきました。


生石岬展望台へとやって来ました。




場所はこちら。


駐車場を横切って奥へと進んでいきます。


こちらは観測所の跡だそうです。観測所とは、敵艦など目標までの距離・方位・速度などを観測して、砲台へ情報を提供する施設だそうです。この情報をもとに正確に目標を砲撃するわけです。


一旦、展望台駐車場を出て右方向へと進みます。


押し潰れたような状態で大きな煉瓦の塊が見えています。






生石山第四砲台跡です。竣工は1890年(明治23年)。この砲台には27cm加農砲4門が設置されていたそうです。正面に見えている煉瓦造りのドームは「砲側庫」というもので、大砲で使用する砲弾などを一時保管した場所だそうです。


鉄道用トンネルなど違って、アーチ部分の煉瓦の巻厚が非常に分厚いです。敵側の砲撃に耐えたり、弾薬の暴発に備えるためだったのでしょう。






展望台駐車場へと戻り、ここからは駐車場所へと向かって順番に砲台跡を見学していきます。


いきなり急な階段…。汗が止まりません。


階段を登り切った場所にあったのは第五砲台跡。


この砲台の竣工は1899年(明治32年)。第一から第四砲台は煉瓦造ですが、この砲台はより近代的なコンクリートと石で造成された砲台です。


背後上部からしか見ることができないため、残念ながらどんな形状なのかよくわかりません。


またもや急階段…。


第三砲台跡。竣工は1890年(明治23年)。こちらも遺構が見づらいですね。






観測所跡。生石岬展望台近くのものと違って、建屋が残っています。


第三砲台跡の正面側へと回ります。


砲側庫。連合国軍が爆破処理した際に、煉瓦が分厚いので破壊しきれなかったのですかね。もしくは爆破対象外だったのかな。




階段の跡。


第二砲台跡。出入口が新しそうな門扉で封鎖されています。


こちらも砲側庫が残っているようです。


生石海峡展望台。第四砲台跡から駐車場所までの道のりの半分まで来ました。


場所はこちら。


※その2へつづく。
2026年09月17日 イイね!

【佐久市】龍岡城跡を訪れました

2026年7月19日日曜日、姉弟三人で長野県佐久市に残る龍岡城跡を訪れました。

当日は、朝5時頃に自宅を出発。豊田東ICから高速道路に乗り、東海環状道・中央道と経由し、長野道岡谷ICで高速道路を下りて、国道142号を走行。新和田トンネルの手前で和田峠の旧道へと入り込んで峠越えします。

峠を越えた長和町内にある旧中山道に関連する施設へ少々立ち寄り。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「接待」(和田峠施行所)です。和田峠の旧道を通る時にはたまに立ち寄るので、私にとってはすっかりおなじみの場所です。


以前にも記していますが、「接待」は江戸の豪商が中山道での旅の苦労を少しでも助けようと、江戸幕府に千両を寄附したことに始まります。寄附された千両により生み出された利子百両を碓氷峠の坂本宿と和田峠の和田宿に50両づつ下付し、施行所を設置させたものです。

「接待」(施行所)では、11月から3月までの期間に峠越えをする旅人に対して粥と焚火を、牛馬に対しては1年を通して小桶一杯の煮麦を施行していました。

建物の内部です。現在の建物は、当時の外観等を復元したものだそうです。








それではふたたび佐久市へと向かい移動します。


トイレに立ち寄った道の駅「ほっとぱ~く浅科」からの眺め。浅間山に雲がかかっていたのは少々残念。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

11時頃、ようやく龍岡城跡に到着しました。ここを訪れるのは、2019年7月6日以来、2回目になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入口にあるガイダンスセンターに置かれていたマンホール。左側が岡崎市、右側が佐久市のものです。


江戸時代末期に現在の岡崎市内にあった奥殿藩の藩主であった松平乗謨が、もともと飛び地の奥殿藩領であった現在の佐久市田口に本拠地を移転し龍岡藩主となった縁で、岡崎市と佐久市は現在も交流があるそうです。

こちらは門前にある説明板。説明板によると、龍岡城は藩の本拠地を移転することに伴い、1864年(元治元年)に着工、1867年(慶応3年)に竣工したそうです。


築城の際は、従来の城郭の築城法ではなく、西洋式の築城法(稜堡式)を用いたため、五稜郭タイプの城郭となっています。

それでは堀を渡って城内へと入ります。




城跡は小学校(現在は廃校。)となっていたため、中央部はかつて運動場だった広場が広がっています。


こちらの建物は「御台所」。城跡に残る唯一の建物遺構です。その名称のとおり、藩主のための料理を作る台所がありました。


廃城後は、学校の校舎として利用されていました。もともと立っていた場所は城内の違う場所だそうで、1929年(昭和4年)に現在地に移転させたそうです。








これは井戸の跡でしょうかね。


旧田口小学校の校舎。2023年3月31日をもって統合により廃校となったそうです。


旧校舎の前を通り抜けて、土塁の上を歩きながら稜堡式に造られた堀の様子を眺めていきます。










橋を渡り、外郭に沿って歩いて行きます。


前回来た時もそうでしたが、堀にはたくさんの鯉がいます。うじゃうじゃ泳いでいて、ちょっと気味が悪いくらいです(笑)。


城郭の突端部です。平面で眺めるなら、この場所が一番お城の形状の特徴をつかめると思います。


姉と弟は、どんどん先へと歩いて行ってしまうので追いかけます。


最初に城内へと入っていった入口の横にある堀の筋交い形状。


これで城跡の北側部分を半周した感じになります。南側部分の堀は埋め立てられていますが、外郭の石垣は現存しているので、付近を通る道路から眺めることができます。今回は南側までは行きませんでした。

入口に掲げられているもう一つの説明板。木板に説明文を彫り上げた形式ですが、これは1934年(昭和9年)に龍岡城跡が国の史跡に指定された際に設置された当時のものではないかと思っています。


見物を終えた後は、市街地があるJR小海線臼田駅付近まで移動し、飲食店を探して昼ごはん。最初に決めた店舗がちょっとした人気店のようで満員だったため、その近所でそれなりに評価良さそうな小さなお店へ。年配の男性が一人で切り盛りしているお店でしたが、おいしくいただきました。

帰り際に店主さんが「遠くから来たのに、こんなお店で申し訳なかったね。」と謝られていましたが、「そんなことは全然無いですよ。」とこちらが恐縮しきりでした。
Posted at 2026/09/17 19:39:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2026年09月10日 イイね!

【新潟市秋葉区】「旧新津油田 金津鉱場跡」を訪れました

2026年7月9日木曜日、新潟県新潟市秋葉区にある「旧新津油田 金津鉱場跡」を訪れました。「旧新津油田 金津鉱場跡」は、1874年(明治7年)から1996年(平成8年)まで操業していた油田です。

「我が国を代表する新津油田の一翼を担い、約120年間操業を継続した施設であり、採油から精製までの一連のシステムが良好に残る。我が国近代のエネルギー産業の発展を知る上で重要である。」との理由により、2018年(平成30年)に国の史跡に指定されています。

この日は、山形県の道の駅「あつみ しゃりん」を出発し、鳥越山、旧大正浦隧道、新発田城跡と見物。

あともう1か所くらい立ち寄ろうかなと考え、「そういえば新津に油田の遺構があったっけ。新発田市からなら、そんなに時間かからずに行けるだろう。」ということで次の訪問場所に決定。

新発田城跡を7時50分頃出発し、通勤車両で混みあう道路を移動。ナビの指定したルートが新津駅前を通るルートだったので、つい「新津鉄道資料館にも寄り道しようかなぁ。」とも思いましたが、「資料館はまた今度。」とグッと我慢(笑)。

9時頃、「旧新津油田 金津鉱場跡」の最寄りとなる「里山ビジターセンター」の駐車場へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

遺構の見物にはちょっとした山歩きもあるので、里山ビジターセンターで飲み物を購入してから出発。

というか、駐車場の傍らにさっそく石油採油用の櫓が立っています。こちらは「C86号井」。1941年(昭和16年)に掘削され、1996年(平成8年)まで採油していたそうです。


付属の設備。用途は不明ですが、「火気厳禁」の表示が今も有効なようで、ちょっと怖いですね。


こんな路地裏みたいな場所にも採油用櫓が。これは特に整備されておらず放置されていますね。パンフレットによると「K210号井」のようです。


というか、「中東の油田」ほどの規模ではなくても、一般的な「油田」のイメージで来るといい意味で裏切られますね(笑)。

道路脇のこんな場所にも採油用櫓があります。こちらは「C39号井」。1909年(明治42年)掘削で、こちらも1996年(平成8年)まで稼動していました。


こちらは「集油タンク」。1984年(昭和59年)竣工の施設だそうで、大型タンクと中型タンクの2基あります。






こちらは「送油所」。1917年(大正6年)竣工。




「送油所」の奥に円形の煉瓦構造物があります。


こちらは「計量タンク」。1907年(明治40年)頃の設置と思われる。タンクを煉瓦で覆ってあるそうで、これはパイプラインで輸送するために加熱して流動性を高めた石油を冷やさないためだそうです。


こちらは「集油所」。1907年(明治40年)頃の設置と思われる。採油井戸からくみ上げられた石油を一旦集めるための場所だそうです。


こちらは「加熱炉」。1968年(昭和43年)頃の設置と思われる。水切りタンクで水分と分離させた原油を約70度に加熱する施設だそうです。加熱することで、さらに水分の除去を進めます。


新津油田から産出される石油は水分の含有量が多いため、原油から水分を分離・除去する作業(水切り)を繰り返し行う必要があり大変だったそうです。

こちらは「木工所」。この油田の施設がまだ木製中心だっと頃に使用されていた施設。1968年(昭和43年)から1996年(平成8年)までは石油会社の事務所として使用されていました。


平地にある遺構の見物はこれくらいにして、続いては山の中にある遺構を見物しにいきます。


遊歩道脇にあった用途不明の穴。


この穴、閉鎖されていないどころか注意書きすらなく、誰でも入れるような状態。支保工と思われる細い鉄骨が残っているので、この油田で利用されていた穴だと思われます。


これはけっこう急な坂道ですね。


坂の途中に立っている注意看板。石油を採るために、江戸時代からこの山の中では手当たり次第に穴を掘りまくっていたようなので、このような看板が設置されているのは当然ですね。


これはとても珍しい光景です。岩の表面が濡れてベタベタしていますが、岩の隙間から石油が染み出ているのだそうです。石油が染み出している地層は、500万年前に海底に積もってできたもので「金津層」と名付けられています。


まだまだ急坂を登っていきます。


急坂を登り切った所にある「休憩所」。作業員の休憩所で「暖室」とも呼ばれていたそうです。


こちらは各井戸を駆動する「ポンピングパワー」が設置されている建屋。この動力装置を使い、油田にある55か所の石油井戸から原油のくみ上げを行っていました。




「ポンピングパワー」についての説明板。


建屋に入ってすぐ目に付くのがこの巨大な滑車(と言っていいのかな?)。上部にはとても幅広いベルトが巻かれており、下部の車輪には多くの金属製継ぎ手が連結されています。




ベルトの行く先を追っていくと、小さなモーターに連結されていました。この小さなモーターの力を「ポンピングパワー」で増幅・連動させて、数多くの石油井戸の動力へと変換しているわけです。すごい仕組みですね。




建屋の隅にはたくさんの金属部品が放置されていました。「ポンピングパワー」などで使用され交換された部品なのでしょう。


建屋の内部を眺めます。


さらに先へと進んでいきます。


薮に覆われた簡素な造りの櫓。「C16号井」でしょうか。




山の中にポツンと残されていたタンク。原油を一時的に溜めたタンクでしょうか。


「C14号井」。「落下危険」として立入禁止になっていました。地面に穴が開いたのか、櫓からの落下物があったのか。




「C7号井」。1904年(明治37年)掘削。1996年(平成8年)まで稼動。稼動末期に建て直された櫓なのか、まだ外観がきれいでいかにも現代的な造りの鉄塔です。




私にとって、原油をくみ上げる装置といえば、「水飲み鳥」のようなこのタイプのものがイメージされます。


遊歩道を少し下っていきます。


こちらは「5号継転機」。この装置で「ポンピングパワー」から伝えられた動力を各石油井戸へと分配しています。




「C38号井」。




草むらの中にこのような機械がポツンと佇んでいるのは、稼働当時を知らない人間から見ると違和感しかありませんね。


さて、山の中の遺構の見物を終えて、続いて集落の中に残る遺構を見に来ました。


こちらは「C3号井」と「ポンピング装置」。立てて設置されている巨大な円盤が印象的です。山の上の「ポンピングパワー」の滑車は水平に設置されていましたからね。








隣接して設置されている「ろ過池」。原油から分離された水が最終的にこの「ろ過池」へと送られてきて、その水からさらに原油を分離して回収していたようです。






この真っ黒な液体、いかにも原油っぽいですね。本当は残りかすが長年の雨水と混ざってそう見えるだけなんでしょうけどね。


最後に隣接する「石油の世界観」で、この史跡や石油業界の仕組みと歴史をお勉強。ここに置いてあった「旧新津油田金津鉱場総合調査報告書」という分厚い本、いろんな範囲を網羅してありながらも読みやすくて、多少高くても買ってもいいなぁと思ったのですが、残念ながら非売品でした…。


「一度は日本の油田を見てみたいな。」とずっと思っていたので、新潟県内にいるうちにこの場所の事を思い出せて良かったです(笑)。こういう産業遺産は、時間が許せば同じ場所を何周でもしてしまいたいのですが、まだ愛知県まで500km近く走行しないといけないので、これにて帰ります。

と言いつつ、新津から北陸道へと向かうまでに、さらにもう1か所寄り道。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧新潟交通 月潟駅です。「かぼちゃ電車保存会」により管理保存されてます。


モハ10形電車。


モワ51形電動貨車。


キ100形ラッセル車。


月潟駅駅舎。


時刻は12時。あらためて最寄りのインターチェンジへと向かいます。


巻潟東ICから北陸道に乗り、栄PAで昼御飯。その後は、米山SA、妙高SAと休憩を取りながら走行していましたが、岡谷JCT付近の車線規制工事でひどい渋滞が発生していたため、様子見も兼ねて梓川SAで長めの休憩を取りつつ晩御飯。

時間は19時30分を回っていましたが、渋滞が全然解消されていなかったため、松本ICで高速道路を下りて、松本盆地西部を通るアルプスグリーン道路で塩尻市南部の国道19号へと迂回。そのまま中津川市までトラックに追いかけられながら「木曽高速」と呼ばれる夜の国道19号を走行し、ようやく中津川ICから高速道路へ乗り直し。

7月10日金曜日午前1時50分にようやく帰宅しました。今回の長距離ドライブの走行距離は1,410kmあまり。運転免許を取ったばかりの頃並みに、着々とエブリィワゴンの累計走行距離を伸ばしております(笑)。
Posted at 2026/09/10 21:56:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「【由良要塞】赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました(1) http://cvw.jp/b/1796277/49351642/」
何シテル?   10/06 22:26
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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