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小林あにのブログ一覧

2026年09月29日 イイね!

【由良要塞】生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策しました(1)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町にある旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策してきました。

「由良要塞」は、「紀淡海峡及鳴門海峡ヲ杜絶シ、藝豫要塞ト相待テ内海一部ノ領有ヲ確實ニシ、特ニ大阪灣ヲ掩護スル…。」ことを目的として、旧陸軍により設置された要塞です(陸軍築城部本部 編『現代本邦築城史』第二部 第四巻,陸軍築城部本部,1943. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223513 (参照 2026-09-29)より引用。)。

1889年(明治22年)の生石山第一砲台~第四砲台を皮切りに建設が開始され、以降1905年(明治38年)までの間に両海峡の各所に砲台等の施設が設置されました。

その後、日露戦争・第一次世界大戦などの経験によるに戦略・戦術の見直し、兵器の性能向上などを受けて要塞の改廃が検討される中、「由良要塞」の施設群はあるものは廃止され、あるものは任務解除されて存置されるだけの存在となり、事実上実戦を経験することなく戦後に至ったそうです。

終戦後は、連合国軍による破壊措置を受けた後放置されたり、また再開発により消滅してしまった施設もあるそうです。

さて、まずは生石山堡塁跡にある駐車場へとやって来ました。ここは、由良の街のさらに南側にある生石山の上になります。




場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現在、当地は生石公園として整備されていて、堡塁・砲台の遺構も見学できるようになっています。案内板によると、この駐車場は公園の一番端っこになりますね。


駐車場の脇に展示されている27cm加農砲の砲身。


駐車場から階段を下りると、駐車場を取り囲むように当時の塹壕が残っています。煉瓦壁をガードにして、斜面を攻め上がってくる敵を迎撃する施設です。






こちらは、駐車した場所のちょうど真下にある井戸跡。




井戸跡の先をこのまま進むと駐車場に向かう公園道路へと出てきます。


一方、反対側を眺めると、どう見ても道跡と思われるものが続いています。遺構群を見に行くより先にこちらを確認してみます。


これは道で間違いなさそうです。きちんと盛土されて造られています。


路盤が抉れています。意図的に削ったようにも見えますがどうでしょうか。


古い時代のものらしいコンクリートの塊が残っています。


ヘアピンカーブ。これは自動車道のヘアピンカーブの造りではありませんね。鋭角すぎます。堡塁・砲台の建設に合わせて開削された明治時代の道なのかもしれません。


浅い掘割。


広い場所でも小型普通車レベルの幅です。


道の脇に平地が見えます。何か施設が建っていたのかもしれません。


下の方に駐車場へとやってくる時に通った公園道路が見えてきました。


石組みの側溝。


公園道路へと合流します。


合流地点に落ちていた煉瓦の塊。アーチの一部分のようです。


公園道路はこの場所でヘアピンカーブになっていますが、その突き当りには石垣と階段の一部と思しき残骸が残されています。






この場所からは公園道路で登り直していきます。


この公園へ来た時は右側へと進みましたが、今回は左側へと進んでいきます。


ようやく海が見えるようになってきました。


生石岬展望台へとやって来ました。




場所はこちら。


駐車場を横切って奥へと進んでいきます。


こちらは観測所の跡だそうです。観測所とは、敵艦など目標までの距離・方位・速度などを観測して、砲台へ情報を提供する施設だそうです。この情報をもとに正確に目標を砲撃するわけです。


一旦、展望台駐車場を出て右方向へと進みます。


押し潰れたような状態で大きな煉瓦の塊が見えています。






生石山第四砲台跡です。竣工は1890年(明治23年)。この砲台には27cm加農砲4門が設置されていたそうです。正面に見えている煉瓦造りのドームは「砲側庫」というもので、大砲で使用する砲弾などを一時保管した場所だそうです。


鉄道用トンネルなど違って、アーチ部分の煉瓦の巻厚が非常に分厚いです。敵側の砲撃に耐えたり、弾薬の暴発に備えるためだったのでしょう。






展望台駐車場へと戻り、ここからは駐車場所へと向かって順番に砲台跡を見学していきます。


いきなり急な階段…。汗が止まりません。


階段を登り切った場所にあったのは第五砲台跡。


この砲台の竣工は1899年(明治32年)。第一から第四砲台は煉瓦造ですが、この砲台はより近代的なコンクリートと石で造成された砲台です。


背後上部からしか見ることができないため、残念ながらどんな形状なのかよくわかりません。


またもや急階段…。


第三砲台跡。竣工は1890年(明治23年)。こちらも遺構が見づらいですね。






観測所跡。生石岬展望台近くのものと違って、建屋が残っています。


第三砲台跡の正面側へと回ります。


砲側庫。連合国軍が爆破処理した際に、煉瓦が分厚いので破壊しきれなかったのですかね。もしくは爆破対象外だったのかな。




階段の跡。


第二砲台跡。出入口が新しそうな門扉で封鎖されています。


こちらも砲側庫が残っているようです。


生石海峡展望台。第四砲台跡から駐車場所までの道のりの半分まで来ました。


場所はこちら。


※その2へつづく。
2026年09月17日 イイね!

【佐久市】龍岡城跡を訪れました

2026年7月19日日曜日、姉弟三人で長野県佐久市に残る龍岡城跡を訪れました。

当日は、朝5時頃に自宅を出発。豊田東ICから高速道路に乗り、東海環状道・中央道と経由し、長野道岡谷ICで高速道路を下りて、国道142号を走行。新和田トンネルの手前で和田峠の旧道へと入り込んで峠越えします。

峠を越えた長和町内にある旧中山道に関連する施設へ少々立ち寄り。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「接待」(和田峠施行所)です。和田峠の旧道を通る時にはたまに立ち寄るので、私にとってはすっかりおなじみの場所です。


以前にも記していますが、「接待」は江戸の豪商が中山道での旅の苦労を少しでも助けようと、江戸幕府に千両を寄附したことに始まります。寄附された千両により生み出された利子百両を碓氷峠の坂本宿と和田峠の和田宿に50両づつ下付し、施行所を設置させたものです。

「接待」(施行所)では、11月から3月までの期間に峠越えをする旅人に対して粥と焚火を、牛馬に対しては1年を通して小桶一杯の煮麦を施行していました。

建物の内部です。現在の建物は、当時の外観等を復元したものだそうです。








それではふたたび佐久市へと向かい移動します。


トイレに立ち寄った道の駅「ほっとぱ~く浅科」からの眺め。浅間山に雲がかかっていたのは少々残念。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

11時頃、ようやく龍岡城跡に到着しました。ここを訪れるのは、2019年7月6日以来、2回目になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入口にあるガイダンスセンターに置かれていたマンホール。左側が岡崎市、右側が佐久市のものです。


江戸時代末期に現在の岡崎市内にあった奥殿藩の藩主であった松平乗謨が、もともと飛び地の奥殿藩領であった現在の佐久市田口に本拠地を移転し龍岡藩主となった縁で、岡崎市と佐久市は現在も交流があるそうです。

こちらは門前にある説明板。説明板によると、龍岡城は藩の本拠地を移転することに伴い、1864年(元治元年)に着工、1867年(慶応3年)に竣工したそうです。


築城の際は、従来の城郭の築城法ではなく、西洋式の築城法(稜堡式)を用いたため、五稜郭タイプの城郭となっています。

それでは堀を渡って城内へと入ります。




城跡は小学校(現在は廃校。)となっていたため、中央部はかつて運動場だった広場が広がっています。


こちらの建物は「御台所」。城跡に残る唯一の建物遺構です。その名称のとおり、藩主のための料理を作る台所がありました。


廃城後は、学校の校舎として利用されていました。もともと立っていた場所は城内の違う場所だそうで、1929年(昭和4年)に現在地に移転させたそうです。








これは井戸の跡でしょうかね。


旧田口小学校の校舎。2023年3月31日をもって統合により廃校となったそうです。


旧校舎の前を通り抜けて、土塁の上を歩きながら稜堡式に造られた堀の様子を眺めていきます。










橋を渡り、外郭に沿って歩いて行きます。


前回来た時もそうでしたが、堀にはたくさんの鯉がいます。うじゃうじゃ泳いでいて、ちょっと気味が悪いくらいです(笑)。


城郭の突端部です。平面で眺めるなら、この場所が一番お城の形状の特徴をつかめると思います。


姉と弟は、どんどん先へと歩いて行ってしまうので追いかけます。


最初に城内へと入っていった入口の横にある堀の筋交い形状。


これで城跡の北側部分を半周した感じになります。南側部分の堀は埋め立てられていますが、外郭の石垣は現存しているので、付近を通る道路から眺めることができます。今回は南側までは行きませんでした。

入口に掲げられているもう一つの説明板。木板に説明文を彫り上げた形式ですが、これは1934年(昭和9年)に龍岡城跡が国の史跡に指定された際に設置された当時のものではないかと思っています。


見物を終えた後は、市街地があるJR小海線臼田駅付近まで移動し、飲食店を探して昼ごはん。最初に決めた店舗がちょっとした人気店のようで満員だったため、その近所でそれなりに評価良さそうな小さなお店へ。年配の男性が一人で切り盛りしているお店でしたが、おいしくいただきました。

帰り際に店主さんが「遠くから来たのに、こんなお店で申し訳なかったね。」と謝られていましたが、「そんなことは全然無いですよ。」とこちらが恐縮しきりでした。
Posted at 2026/09/17 19:39:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2026年09月10日 イイね!

【新潟市秋葉区】「旧新津油田 金津鉱場跡」を訪れました

2026年7月9日木曜日、新潟県新潟市秋葉区にある「旧新津油田 金津鉱場跡」を訪れました。「旧新津油田 金津鉱場跡」は、1874年(明治7年)から1996年(平成8年)まで操業していた油田です。

「我が国を代表する新津油田の一翼を担い、約120年間操業を継続した施設であり、採油から精製までの一連のシステムが良好に残る。我が国近代のエネルギー産業の発展を知る上で重要である。」との理由により、2018年(平成30年)に国の史跡に指定されています。

この日は、山形県の道の駅「あつみ しゃりん」を出発し、鳥越山、旧大正浦隧道、新発田城跡と見物。

あともう1か所くらい立ち寄ろうかなと考え、「そういえば新津に油田の遺構があったっけ。新発田市からなら、そんなに時間かからずに行けるだろう。」ということで次の訪問場所に決定。

新発田城跡を7時50分頃出発し、通勤車両で混みあう道路を移動。ナビの指定したルートが新津駅前を通るルートだったので、つい「新津鉄道資料館にも寄り道しようかなぁ。」とも思いましたが、「資料館はまた今度。」とグッと我慢(笑)。

9時頃、「旧新津油田 金津鉱場跡」の最寄りとなる「里山ビジターセンター」の駐車場へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

遺構の見物にはちょっとした山歩きもあるので、里山ビジターセンターで飲み物を購入してから出発。

というか、駐車場の傍らにさっそく石油採油用の櫓が立っています。こちらは「C86号井」。1941年(昭和16年)に掘削され、1996年(平成8年)まで採油していたそうです。


付属の設備。用途は不明ですが、「火気厳禁」の表示が今も有効なようで、ちょっと怖いですね。


こんな路地裏みたいな場所にも採油用櫓が。これは特に整備されておらず放置されていますね。パンフレットによると「K210号井」のようです。


というか、「中東の油田」ほどの規模ではなくても、一般的な「油田」のイメージで来るといい意味で裏切られますね(笑)。

道路脇のこんな場所にも採油用櫓があります。こちらは「C39号井」。1909年(明治42年)掘削で、こちらも1996年(平成8年)まで稼動していました。


こちらは「集油タンク」。1984年(昭和59年)竣工の施設だそうで、大型タンクと中型タンクの2基あります。






こちらは「送油所」。1917年(大正6年)竣工。




「送油所」の奥に円形の煉瓦構造物があります。


こちらは「計量タンク」。1907年(明治40年)頃の設置と思われる。タンクを煉瓦で覆ってあるそうで、これはパイプラインで輸送するために加熱して流動性を高めた石油を冷やさないためだそうです。


こちらは「集油所」。1907年(明治40年)頃の設置と思われる。採油井戸からくみ上げられた石油を一旦集めるための場所だそうです。


こちらは「加熱炉」。1968年(昭和43年)頃の設置と思われる。水切りタンクで水分と分離させた原油を約70度に加熱する施設だそうです。加熱することで、さらに水分の除去を進めます。


新津油田から産出される石油は水分の含有量が多いため、原油から水分を分離・除去する作業(水切り)を繰り返し行う必要があり大変だったそうです。

こちらは「木工所」。この油田の施設がまだ木製中心だっと頃に使用されていた施設。1968年(昭和43年)から1996年(平成8年)までは石油会社の事務所として使用されていました。


平地にある遺構の見物はこれくらいにして、続いては山の中にある遺構を見物しにいきます。


遊歩道脇にあった用途不明の穴。


この穴、閉鎖されていないどころか注意書きすらなく、誰でも入れるような状態。支保工と思われる細い鉄骨が残っているので、この油田で利用されていた穴だと思われます。


これはけっこう急な坂道ですね。


坂の途中に立っている注意看板。石油を採るために、江戸時代からこの山の中では手当たり次第に穴を掘りまくっていたようなので、このような看板が設置されているのは当然ですね。


これはとても珍しい光景です。岩の表面が濡れてベタベタしていますが、岩の隙間から石油が染み出ているのだそうです。石油が染み出している地層は、500万年前に海底に積もってできたもので「金津層」と名付けられています。


まだまだ急坂を登っていきます。


急坂を登り切った所にある「休憩所」。作業員の休憩所で「暖室」とも呼ばれていたそうです。


こちらは各井戸を駆動する「ポンピングパワー」が設置されている建屋。この動力装置を使い、油田にある55か所の石油井戸から原油のくみ上げを行っていました。




「ポンピングパワー」についての説明板。


建屋に入ってすぐ目に付くのがこの巨大な滑車(と言っていいのかな?)。上部にはとても幅広いベルトが巻かれており、下部の車輪には多くの金属製継ぎ手が連結されています。




ベルトの行く先を追っていくと、小さなモーターに連結されていました。この小さなモーターの力を「ポンピングパワー」で増幅・連動させて、数多くの石油井戸の動力へと変換しているわけです。すごい仕組みですね。




建屋の隅にはたくさんの金属部品が放置されていました。「ポンピングパワー」などで使用され交換された部品なのでしょう。


建屋の内部を眺めます。


さらに先へと進んでいきます。


薮に覆われた簡素な造りの櫓。「C16号井」でしょうか。




山の中にポツンと残されていたタンク。原油を一時的に溜めたタンクでしょうか。


「C14号井」。「落下危険」として立入禁止になっていました。地面に穴が開いたのか、櫓からの落下物があったのか。




「C7号井」。1904年(明治37年)掘削。1996年(平成8年)まで稼動。稼動末期に建て直された櫓なのか、まだ外観がきれいでいかにも現代的な造りの鉄塔です。




私にとって、原油をくみ上げる装置といえば、「水飲み鳥」のようなこのタイプのものがイメージされます。


遊歩道を少し下っていきます。


こちらは「5号継転機」。この装置で「ポンピングパワー」から伝えられた動力を各石油井戸へと分配しています。




「C38号井」。




草むらの中にこのような機械がポツンと佇んでいるのは、稼働当時を知らない人間から見ると違和感しかありませんね。


さて、山の中の遺構の見物を終えて、続いて集落の中に残る遺構を見に来ました。


こちらは「C3号井」と「ポンピング装置」。立てて設置されている巨大な円盤が印象的です。山の上の「ポンピングパワー」の滑車は水平に設置されていましたからね。








隣接して設置されている「ろ過池」。原油から分離された水が最終的にこの「ろ過池」へと送られてきて、その水からさらに原油を分離して回収していたようです。






この真っ黒な液体、いかにも原油っぽいですね。本当は残りかすが長年の雨水と混ざってそう見えるだけなんでしょうけどね。


最後に隣接する「石油の世界観」で、この史跡や石油業界の仕組みと歴史をお勉強。ここに置いてあった「旧新津油田金津鉱場総合調査報告書」という分厚い本、いろんな範囲を網羅してありながらも読みやすくて、多少高くても買ってもいいなぁと思ったのですが、残念ながら非売品でした…。


「一度は日本の油田を見てみたいな。」とずっと思っていたので、新潟県内にいるうちにこの場所の事を思い出せて良かったです(笑)。こういう産業遺産は、時間が許せば同じ場所を何周でもしてしまいたいのですが、まだ愛知県まで500km近く走行しないといけないので、これにて帰ります。

と言いつつ、新津から北陸道へと向かうまでに、さらにもう1か所寄り道。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧新潟交通 月潟駅です。「かぼちゃ電車保存会」により管理保存されてます。


モハ10形電車。


モワ51形電動貨車。


キ100形ラッセル車。


月潟駅駅舎。


時刻は12時。あらためて最寄りのインターチェンジへと向かいます。


巻潟東ICから北陸道に乗り、栄PAで昼御飯。その後は、米山SA、妙高SAと休憩を取りながら走行していましたが、岡谷JCT付近の車線規制工事でひどい渋滞が発生していたため、様子見も兼ねて梓川SAで長めの休憩を取りつつ晩御飯。

時間は19時30分を回っていましたが、渋滞が全然解消されていなかったため、松本ICで高速道路を下りて、松本盆地西部を通るアルプスグリーン道路で塩尻市南部の国道19号へと迂回。そのまま中津川市までトラックに追いかけられながら「木曽高速」と呼ばれる夜の国道19号を走行し、ようやく中津川ICから高速道路へ乗り直し。

7月10日金曜日午前1時50分にようやく帰宅しました。今回の長距離ドライブの走行距離は1,410kmあまり。運転免許を取ったばかりの頃並みに、着々とエブリィワゴンの累計走行距離を伸ばしております(笑)。
Posted at 2026/09/10 21:56:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2026年09月07日 イイね!

鳥越山・旧大正浦隧道・新発田城跡を巡る

2026年7月9日木曜日、新潟県村上市の鳥越山、旧大正浦隧道、新発田市の新発田城跡を巡りました。

前日の7月8日は、山形県鶴岡市の道の駅「あつみ しゃりん」まで移動。車内で眠り、夜を明かすことにしました。しかし、エンジンを切ってエアコンが効かなくなった車内はじわじわと暑くなり、午前2時過ぎに目が覚めることに…。

蒸し暑さで寝直す気分になれず、午前2時45分頃、取りあえず道の駅を出発。


いつもなら国道7号で新潟県村上市まで南下するところですが、「『笹川流れ』の方は全然通ったことがないから、そっちへ行ってみるか。」と村上市勝木から日本海沿いを通る国道345号へと進入。

ここからしばらくは、羽越本線の駅へと立ち寄りながら進むことにします。まずは勝木駅。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。





越後寒川駅。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。





何となく空が白み始めました。


今川駅。三角屋根の待合室が特徴的です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。





桑川駅と道の駅「笹川流れ」。景勝地である「笹川流れ」は道の駅からだと北側になりますが、まだこの暗さのためそのまま通過しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。







正面の山の稜線が日本海へと落ち込んでいる辺りが「笹川流れ」になります。名前の由来は、笹川集落の沖合の岩の間を潮が激しく流れる様子からだそうです。


道の駅を出発してすぐ、トンネルが穿つ岩山が気になり停車。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは羽越本線のトンネル。


トンネルの名称は「鳥越山」とあります。


こちらは国道345号のトンネル。




国道のトンネルは「鳥越トンネル」という名称です。竣工年月が1989年10月とありますが、周囲に旧トンネルが見当たらないので、従来あったトンネルを拡幅改修したものでしょう。


そして、トンネルの海側には海食洞があります。これだけ海水が入り込んでいるので、「昔々はトンネル代わりに利用されていた。」なんてことは無さそうですね。




海食洞の前から鳥越山を見上げます。圧倒される光景です。


鳥越山を南側から眺めます。


落石防止用のネットが岩壁に設置されています。これだけの高さがある断崖で一体どうやって施工したのか、素人はただただ感心するばかりです。


さらにもう少しだけ進んだところで、今度は山側に廃トンネルを発見。近くの駐車帯に車を停めて、接近を試みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「もしかして、これが江戸時代に開通したと言われる旧大正浦隧道なのか?」と気が付き、スマホでチェック。どうやらそのようです。


あらためて旧大正浦隧道です。竣工は1858年(安政5年)とされています。当初は人道トンネルだったわけですが、その後に自動車の通行ができるように拡幅改修されたわけです。




ロックシェッドの柱の表面が剥落して、鉄筋が剝き出しになっています。潮風や波に洗われたためなのでしょうか。


旧道から現国道の馬下大橋を眺めます。


それではふたたび深い雑草をかき分け、トンネルの反対側へと行ってみます。




反対側は、坑口直前まで木々や雑草が覆いかぶさり塞がれてしまっていますね。これはちょっと接近がためらわれます。


羽越本線のロックシェッド。


ロックシェッド上部の崖はコンクリートで塗り固められています。崖の最上部まで型枠の跡が付いているのがすごいです。こんなのは見たことがありません。


旧大正浦隧道の見物はこれくらいにして、移動を再開します。


続いてやって来たのは、新発田市にある新発田城跡。新発田城は、新発田藩主 溝口氏の居城でした。溝口氏は、1598年(慶長3年)の入封後、転封されることなく明治初期の版籍奉還まで12代に渡り新発田藩を治めました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

三階櫓。本来の櫓は1874年(明治7年)に破却されてしまいましたが、2004年(平成16年)に木造により復元再建されたものです。


水堀の眺め。




こちらは二の丸隅櫓。本来あった場所からは移築されているそうです。国の重要文化財に指定されています。






新発田城跡の説明板。


本丸表門。国の重要文化財に指定されています。通常ですとこの門から城内へと入場することができるのですが、訪れたのが朝早くだったため入ることはできませんでした。




辰巳櫓。この櫓も明治初期に破却されてしまいましたが、三階櫓と同じく2004年(平成16年)に木造により復元再建されました。




「新発田城三階櫓には自衛隊・財務省との協定により立入りができません。」との新発田市による案内板。新発田城跡は、廃城後に旧陸軍の部隊が駐屯。戦後も引き続き陸上自衛隊の新発田駐屯地として使用されているためです。


新発田城跡の見物を終えて、次の目的地へと移動します。
Posted at 2026/09/07 23:43:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2026年09月06日 イイね!

【山形市】立石寺(山寺)を訪れました

2026年7月8日水曜日、山形市山寺にある立石寺を訪れました。

立石寺は、860年(貞観2年)に第3世天台座主 慈覚大師円仁により開かれた寺院だそうです。一般的には「山寺(やまでら)」という通称の方が知られていると思います。1689年(元禄2年)に松尾芭蕉が訪れて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んでいることで有名ですね。

当日は午前1時50分頃に自宅を出発。東海環状道、中央道、上信越道、北陸道、日本海東北道と経由して、国道113号で山形県へ。途中、駒ヶ岳SA、米山SA、黒埼PAと3回休憩しました。

国道113号を走行中、西置賜郡小国町にあるJR米坂線小国駅へちょっと寄り道。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

JR米坂線は、2022年8月の豪雨で被災し、現在も今泉駅~坂町駅間が運休となっています。




続いて、国道113号新宇津トンネルを越えた先にある手ノ子駅にも立ち寄り。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小国駅の駅構内はまだきれいでしたが、手ノ子駅の構内は草ぼうぼうとなってしまい廃線同然となっています。


14時40分頃、今回の長距離ドライブの目的地である立石寺へようやく到着しました。自宅からは休憩も含めて13時間弱かかりました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは根本中堂。国の重要文化財に指定されています。




こちらは日枝神社。立石寺一山の総鎮守とするため、近江国(滋賀県)の日吉大社より分祀し勧請されたのが起源だそうです。


山門へとやって来ました。ここで拝観料を納め、石段を登って奥之院を目指します。




口を開けて見上げるような大きな岩壁。こういう奇観が、修行の場に相応しいと見られた理由の一つかもしれませんね。




この幅の狭い石段は「四寸道」。昔からこの道幅だそうで、立石寺の開山 慈覚大師の足跡をなぞることができる場所ということみたいです。


石段を登っていくこと自体は苦になりませんが、とにかく汗が止まりません…。




こちらは弥陀洞。長年の風雨で岩壁が削られて、阿弥陀如来の輪郭が現れたとされるものです。


こちらは仁王門。


埋め尽くすように千社札が貼られています。


さらに石段を上り、仁王門を見下ろします。


こちらは性相院。


こちらは開山堂。赤色の小さなお堂は納経堂です。


振り返って山上の境内を眺めます。


開山堂の横を通り抜けて、さらに石段を登っていきます。


こちらは五大堂。懸造りにより、岩の斜面からせり出して建てられています。




このお堂には五大明王が祀られています。


良い眺めですね。眼下に門前町が見えています。


開山堂から奥之院へと向けて進んでいきます。


こちらは「行啓 山寺記念殿」。1908年(明治41年)9月18日に東宮 嘉仁親王(後の大正天皇。)が参拝した際の休憩所だそうです。


ようやく奥之院に到着しました。


こちらは金灯篭。ご覧のとおり、金属製の巨大な灯籠です。


こちらは奥之院。


こちらは三重小塔。覗いてみると、精巧に造られた三重塔が納められています。国の重要文化財に指定されています。




山上の境内にポストがありました。郵便物の取集めに来る郵便局員さん大変そう…。


反対側の山の中の岩場にも懸造りの建物が点在しています。あちらは僧侶の修行用の場所のため、参拝者は立入禁止となっています。




山上の境内の見物を終えて麓へと戻ってきました。こちらは立石寺本坊の脇にある「神楽岩」。


JR仙山線 山寺駅。


山寺ホテル。


これにて山寺地区を出発します。


さて、ここから元来た道を帰るか、もう少し山形県内をブラブラするかどうするか…。

取りあえず、月山を越えて鶴岡市へと出て、国道7号で新潟県方面へと向かうことに決めました。山形道 山形北ICから高速道路に乗って、寒河江SAで早めの晩御飯。

まだ夕暮れまでには時間があったので、西川ICで山形道を下りて国道112号を走行。途中から県道へと入って山を登り、西村山郡西川町岩根沢にある岩根沢三山神社へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

巨大な「唐門」(山門)に掲げられた「湯殿山」の扁額。


これは天狗の面なのでしょうか。同じく唐門に掲げられていました。


本殿です。


白木なので地味に見えますが、精緻な彫刻で飾られています。




本殿の全景。よく見かける神社の本殿とは規模が全然違い、正面の全長が66.9m、高さは25.7mあるそうです。国の重要文化財に指定されています。


普通であれば別々に存在する境内の建物群を、一つの巨大な建屋に収めてあるイメージだそうです。


岩根沢三山神社は、明治初期の神仏分離令により神社となるまでは「日月寺」と呼ばれる天台宗の寺院でした。現在ある神社の本殿は、もともと「日月寺」の「本堂」だったわけです。


続いてやって来たのは、「本道寺口ノ宮 湯殿山神社」。


この神社も明治初期の神仏分離令までは本道寺という真言宗の寺院で、江戸時代は徳川氏の勅願寺の一つとして、また、出羽三山参拝の拠点として隆盛を誇っていたそうです。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石段の頂上から国道112号を見下ろしています。


こちらは本殿。この神社の本殿も、先ほどの岩根沢三山神社の本殿のように大柄な建屋となっています。


元来あった建物群は、幕末から明治初期の戊辰戦争時、徳川氏の勅願寺であったことを理由に、当地へと進軍してきた新政府軍の手により焼き払われてしまったそうです。

こちらも「湯殿山」の扁額が掲げられています。


佛足石。こういう遺物が残されているのも、元が寺院に由来する神社なのだと実感させます。




神社の傍らに残る旧本道寺代参塔群。




だいぶ日も傾いてきたので寄り道はこれくらいにします。普通であれば、この先は国道112号のバイパス路である月山道路を通行して鶴岡市へと向かうところです。

しかし、せっかくめったに来ない場所へと来ているのにバイパスを通行しても面白味がありません(笑)。ここは、戦前改修の車道に由来する国道112号六十里越街道を通行することにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは現地の戦前の地形図。

※ひなたGISより引用。

この国道版の六十里越街道の原型は、庄内出身で山形県議会議員・議長を歴任した大館藤兵衛氏の尽力により、1899年(明治32年)に県道として着工されたそうですが、徒歩道である旧来の六十里越街道よりも距離が長くなったため、利用者は少なかったそうです(旧街道の車道改修でよくある話。)。

時代が進み、自動車利用が浸透してきたことを受けて、1932年(昭和7年)から1934年(昭和9年)にかけて自動車道として再改修。そして1953年(昭和28年)に国道112号に指定され、これが現在へと引き継がれています。

当たり前ですが、夕闇迫るこの時間帯、月山越えというとても山深い峠越えの道。対向車も後続車も全くありませんでした(笑)。






この後は予定どおりに鶴岡市街地へと出て、そこからは国道7号を走行。新潟県境に程近い道の駅「あつみ しゃりん」で車中泊することとしました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2026/09/06 00:07:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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