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小林あにのブログ一覧

2026年10月10日 イイね!

【由良要塞】赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました(2)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町に残る旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました。

前回(1)では、山の中の斜面にある煉瓦アーチの暗渠まで到達しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

標石。今までのような石造物ではなく、コンクリート造です。


路上に太い根が張り出しています。この軍道が使われなくなってからの長い年月を感じさせます。


この辺りは道の状態が良いですね。


と思いきや、前方の斜面が荒れた様子です。


土砂崩れで軍道の路面は無くなっていました。横断するには特に支障はなかったので、そのまま進んでいきます。


この石、側面を削って加工したように見えますが、どうなんでしょうか。


石造りの暗渠です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

暗渠を渡ってから、ふと沢の下流側へと目をやると、円形の構造物が見えます。「見た以上、素通りできないなぁ…。」ということで、近寄ってみることにします。




外側は煉瓦で組まれています。場所からして井戸のような気がしますね。


これは間違いなく井戸ですね。沢の伏流水を汲み上げて利用したのでしょう。内部の上半分はコンクリート塗り。下半分は石積みです。


まだまだ登っていきます。


今までと大きさ・形状が違う標石を発見。上半分が欠けていますが、下部には「所轄地」と彫られています。


道が二股に分かれていますが、まだまだ登っていく必要があるので左側へと進んでいきます。


また標石がありました。今度の標石はすべて文字が残っていて「陸軍省所轄地」とあります。先ほど見かけた標石も同文でしょう。


久しぶりにヘアピンカーブが現れました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しばらく進むと折り返すようにまたヘアピンカーブ。




木々の間からは空しか見えないので、もう間もなく目的地に到着するはずです。


駐車場所から歩くこと約1時間45分。ようやく赤松山堡塁跡に到着しました。


赤松山堡塁は、1893年(明治26年)に起工され、1894年(明治27年)に竣工しました。設置目的は、南側に隣接する伊張山堡塁と連携し、堡塁の西側・北西側から陸上を侵攻してくる敵勢力を排除することでした。

しかし、早くも日露戦争(1904年〜1905年)後、同戦争により得られた知見、要塞設置時よりも戦術・技術が進歩したこと、日本の勢力圏が国外に向けて拡大したために本土の海岸防備に対する考え方が変化したこと等を受けて、要塞の整理について検討されるようになりました。

そして、赤松山堡塁は「担当する目的はもはや深く顧慮する必要が無い。」として整理対象となり、1914年(大正3年)には配備されていた大砲が全て撤去され、1932年(昭和7年)3月に「全部除籍」となってしまいました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく堡塁内部を見物していきます。出入口に近い平場には建物の基礎らしきものは残っていますが、一面に大量の煉瓦や石が瓦礫となって散らばっています。


これは、生石山砲台跡と同じく、戦後に旧日本軍の武装解除の一環として連合国軍により破壊されたためです。


こちらは便所の跡。




交通壕を進んでいきます。交通壕は、敵襲を受けずに堡塁内を移動できるように土塁で囲まれた通路です。


前方に窪みが見えてきました。


両壁面は石積みの擁壁となっています。


穴が設けられています。アーチ部分は煉瓦ではなくコンクリート造り。


中を覗いてみます。こちらは堡塁外周の交通壕と堡塁中央部をつなぐトンネルだそうです。残念ながら奥は土砂で埋まっていました。


低い位置にトンネルがあるのは、外部からの攻撃に晒されずに行き来できるようにするためなんでしょうね。


ふたたび交通壕を進んでいきます。


土塁に石組みの排水溝が設けられています。


なかなか立派な石積み擁壁です。






堡塁跡の中央部へとやって来ました。こちらも破壊されていて、大きな瓦礫がゴロゴロしています。




こちらは井戸の跡。完全に埋まっていますね。


こちらは井戸の横にある濾過槽。文字通り、井戸からくみ上げた水を濾過して浄水し、飲料水を確保していました。


倒木が覆いかぶさってしまって、なおさら状態がわからなくなっています。


棲息掩蔽部なんですかね。


内部はボロボロです。


この辺りは潰れてしまって、何が何だかわかりません。




煉瓦塀があります。




このスロープへと進んでいってみます。




この辺りも相当破壊されていて、元の状態が想像できません。




こちらも煉瓦塀が巡らせてあります。塀に設けられている穴は、弾薬等の一時的な置き場所だそうです。




これにて赤松山堡塁跡の探索を終了します。


時刻は15時を過ぎたところですが、密生するウバメガシのおかげで周囲はすでに薄暗くなりつつあります。少しでも早く由良の街へと戻るため、往路とは違うルートで山から下りることにします。

赤松山堡塁跡から少し下って、細道が分岐している所まで戻ってきました。ここから細道へと入り込んで堡塁跡の東側にある沢筋へと下り、直線的に駐車場所へと戻る腹積もりです。




この道を歩き始めた頃は細い道筋でしたが、途中から幅広くなってきました。


この道は赤松山堡塁跡と由良の街を直線的に結ぶルートなので、もしかしたらこのルートも軍関係の道なのかと思いましたが、標石などの証拠は得られませんでした。


ただ、この不必要に広い道幅は、この山の中を通る徒歩道としては不自然な感じがするので、やはり赤松山堡塁跡と由良を結ぶルートの一つとして軍が関わって整備されたものだという気がします。

尾根筋を通るのはこの場所で終わり、道筋は沢底へと向かって下っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ヘアピンカーブ。


沢が近づいてくるに従い、だんだんと道筋があいまいになってきました。






砂防ダムを通過。


とにかく歩ける道筋を進んでいきます。


道路まで出られるのか少々心配になってきていましたが、無事に合流できました。


駐車場所へと戻ってきました。


今回の探索ルートの全体図です。移動距離は約6km、時間は3時間10分でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
2026年10月06日 イイね!

【由良要塞】赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました(1)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町に残る旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました。

この日の午前中は、同じ洲本市由良町にある生石公園を訪れて、同地に残る生石山堡塁跡・生石山砲台跡の遺構を見物してきました。10時半過ぎには見物を終え、「せっかく淡路島まで来ているし、もう1か所遺構を見に行ってみるかな。山のてっぺんだけど…。」ということで、近所のコンビニ(生石公園からだと最寄りが9km先…。)へ移動して昼御飯と持ち歩き用の飲み物を購入。

軽く昼御飯を食べた後は、ふたたび由良の街へと戻って、しばらく駐車場所を探して街中をグルグルと走行。「やはりここしかないなぁ。」ということで、砂防ダムの前にある広い路肩に駐車して目的地へと向かうことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場所から南へと歩くこと5分。この交差点で斜め右側の路地へと入っていきます。この路地が赤松山堡塁跡と、今回は訪れていませんが伊張山堡塁跡へと向かう軍道の起点となります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋名は婦野川橋。渡る川の名称は婦野川です。


この橋、パッと見はよくあるコンクリート橋に見えますが、実は軍道時代の煉瓦アーチ橋をそのまま流用しています。


婦野川橋の先は、軽四がやっと通行できる程度の道幅となります。




小川を渡る石積みの暗渠。こんな些細な場所でもきちんと造ってありますね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

干上がった溜池を眺めながら進みます。


こんな場所にクレスタの廃車が。


また石積み暗渠。


暗渠を過ぎると山道になりました。


標石がありました。これは「防御営造物標石」と呼ばれるものだそうです。表面には「防」と数字、裏面には「陸」(陸軍省)とあるそうです。


ちなみに、「防御営造物」とは、行政法上の「営造物(官公署や学校などの公的な物的施設)」 のうち、特に防衛・軍事の用に供されるものを指します。

いわゆる「明治車道」(明治時代に開削された荷車道)程度の道幅があります。これが開削当時の軍道の姿だと思われます。


道が二股に分かれていますが、右側へと進みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

低い峠を切り通しで通過します。


切り通しの横には地蔵堂があります。


軍道の路肩を固める石積み擁壁。


ここで再び婦野川と交差。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋、先ほどの婦野川橋と同じく煉瓦アーチ橋です。


橋のたもとには「防御営造物標石」。


河原に下りて、橋の上流側を眺めます。


アーチ部分の煉瓦の組み方が鉄道用のトンネルや橋梁と違っています。鉄道用だと煉瓦の小口面が見えるように組みますが、この橋は長手面2列の間に小口面の列をサンドイッチしたパターン。


アーチ部分を真下から眺めると、一般的な煉瓦アーチ橋と同じくアーチ全面に長手面が見えています。なので、わざわざアーチの側面部だけ煉瓦を縦に2列組んだわけです。どういう意図があるのでしょうか。


下流側の眺め。


橋を渡ると石垣の間を通り抜けていきます。


ここに廃屋がありました。作業小屋の跡のようです。多分、陸軍とは関係ないものでしょう。


道の両側に標石が立っています。本来は軍用地の境界にこんな感じで立てられていたのでしょう。


段々と廃道らしく路面が荒れてきました。


煉瓦アーチの暗渠を発見。


ここのアーチも長手面と小口面の組み合わせ。旧陸軍では道路に煉瓦アーチを用いる場合、このような組み方が定められていたんですかね。


山側の路肩には石組みの側溝が設けられています。今はほとんど埋もれていますけどね。


「由良要塞第一地帯標」の標石。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この標石に記されている「第一地帯」と言うのは、1899年(明治32年)に公布された「要塞地帯法」に定められた三区分の一つで、砲台等の「防御営造物」の各突出部を結ぶ線を基線として、基線から250間(約454m)以内(1940年(昭和15年)に1,000m以内に改正。)の区域を指すそうです。


ちなみに、「第二地帯」は基線から750間(約1,363m)以内(改正後は5,000m)、「第三地帯」は基線から2,250間(約4,090m)以内(改正後は15,000m)が指定されていました。

「第一地帯」内の規制が一番厳しく、家屋・工場・倉庫等工作物の新築・改築・増築ほか、多くの事柄について、要塞司令官の許可なく実施する事が禁止されていました。

また、要塞地帯外であっても、「第三地帯」の境界線から外側3,500間(約6,363m)までは、要塞司令官の許可なく水陸の地形の形状や施設物の形状について、撮影、模写、模造、録取(記録を取ること)すること、また撮影等されたものを複写、複製することを禁じられていました。

基線から15kmまでが要塞地帯に指定されて、常に何らかの禁止・規制事項が存在していたため、要塞と旧来からの街が隣り合わせである由良では、日常生活や農林水産業・工業などの各種産業活動などにおいて、何かと制約や支障が多かったことでしょう。

また煉瓦アーチの暗渠を発見。




洗掘されないように河床部分は石畳にしてあります。


引き抜かれたか押し流され、地面に横たわる標石。他の種類の石造標石でもそうですが、簡単に抜けないよう、地表に出ているのは実際の長さの上半分以下が多いんですよね。


細々した石ころがたくさん転がっていて非常に歩きにくいです…。嫌でも路面に注意を払わないといけないのでくたびれます。


ふと見上げると石造暗渠がありました。赤松山堡塁跡へ向かう軍道と伊張山堡塁跡へ向かう軍道の分岐点までもう少しのようです。


目の前に薮が…。大したことはなさそうなので、そのまま突っ切ります。


分岐点までやって来ました。赤松山堡塁跡は矢印方向になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

赤松山堡塁跡方面へ進む前に、伊張山堡塁跡への軍道に架かる煉瓦アーチ橋をチェックします。




川幅がだいぶ狭まったので、ふもとのアーチ橋に比べるとアーチの径間もだいぶ短くなっています。


上流側の眺め。


それでは赤松山堡塁跡方面へと進んでいきます。ここからの道程は山登りとなります。


先ほど見上げていた石造暗渠をチェック。やはり内部は瓦礫で埋まっています。






ヘアピンカーブです。


自動車が通行することを前提としていない時代の道なので、カーブ部分のスペースに余裕がありません。


程なくしてまたヘアピンカーブが現れました。こちらのカーブも非常にタイトです。


廃道探索の目線ではまだ全然問題ないレベルですが、路面に散らばる大量の石ころに加えて、倒木が現れ始めたのはちょっと難儀です。


こんな斜面の只中に煉瓦アーチの暗渠がありました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一般的な明治車道だったなら、この程度の沢だと橋は架けずに洗い越しで済ませてしまいそうです。やはり軍道は「高規格」なんですね。


そして、内部は瓦礫だらけ。このアーチ高では当然な気もします(笑)。


※その2へ続く。
2026年10月04日 イイね!

【由良要塞】生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策しました(2)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町にある旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策してきました。

前回(1)では、第四砲台跡から生石海峡展望台まで進んできました。


さらに駐車場所方向へと進んでいくと第二砲台跡を見下ろすことができます。地面には瓦礫がたくさん転がっています。




円形の砲座が見えます。ここは周りを土塁などで囲まれている場所ですが、第二砲台に設置されていた榴弾砲は、砲弾を高仰角で発射して山なりに目標へと飛んでいくタイプなので、運用には全く支障ありませんでした。


生石鼻灯台。


第一砲台跡まで来ました。こちらもフェンスで封鎖されていますね…。


砲側庫が何とか覗けます。




通路。


公園道路へと出て進んでいくと、また砲側庫が見えてきました。


内部は土砂で埋まっています。


コンクリートの構造物が公園道路の脇に残っています。


こちらにも砲側庫。




こちらの砲側庫には見学用のテラスが設置されています。






きれいな曲面で積まれた煉瓦。大変良いです(笑)。


生石山砲台跡に現存する建造物では、この砲側庫が一番きれいな形で残っています。




一旦、生石山堡塁跡にある駐車場を通過。


第一砲台跡の砲側庫を裏側から見てみると大穴が開いていました。


最後に堡塁跡の塹壕をもう一度見物。




駐車場所へと戻ってきました。


この後は汗をかいて着替えた服を干しながら30分くらい休憩。生石山堡塁・砲台跡ではいろいろな遺構を見ることができましたが、気楽に歩いて回れたので少々物足りない気分。

標高330mの山の頂上まで徒歩で登る必要はありますが、もう1か所、由良の街の西側にある赤松山堡塁跡へ向かってみることにします。
2026年09月29日 イイね!

【由良要塞】生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策しました(1)

2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町にある旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである生石山堡塁跡・生石山砲台跡を散策してきました。

「由良要塞」は、「紀淡海峡及鳴門海峡ヲ杜絶シ、藝豫要塞ト相待テ内海一部ノ領有ヲ確實ニシ、特ニ大阪灣ヲ掩護スル…。」ことを目的として、旧陸軍により設置された要塞です(陸軍築城部本部 編『現代本邦築城史』第二部 第四巻,陸軍築城部本部,1943. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223513 (参照 2026-09-29)より引用。)。

ちなみに「芸予要塞」は、瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡を封鎖するように設置された要塞です。戦時には「由良要塞」と「芸予要塞」が対となって担当する海峡を封鎖することで、海上からの外敵の侵入を阻止して瀬戸内海の占有を確実にし、ひいては大阪・神戸など重要な都市が沿岸にある大阪湾の防衛に資するわけです。

1889年(明治22年)に生石山第一砲台~第四砲台の起工を皮切りに建設が開始され、以降1905年(明治38年)までの間に紀淡・鳴門両海峡の各所に砲台等の施設が設置されました。

しかし、日露戦争後、日本の勢力圏が国外へ向けて拡大した事、日露戦争・第一次世界大戦などの知見を踏まえた戦略・戦術の見直し、兵器等の技術向上などを受けて、日本本土の海岸防備に当たる要塞の配置について新設・改廃が検討されるようになりました。

その結果、「由良要塞」の施設群も、多くは除籍されて施設のみ存置されるだけの存在となり、現役だった施設群も事実上実戦を経験することなく終戦に至ったそうです。

戦後は、連合国軍による旧日本軍の武装解除の一環として破壊措置を受けた後、現在に至るまで放置されたままの施設もあれば、撤去や再開発などにより消滅してしまった施設もあるそうです。

さて、この日は午前3時過ぎに自宅を出発。8時30分頃、生石山堡塁跡にある駐車場へとやって来ました。ここは、由良の街のさらに南側にある生石山の上になります。




場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現在、当地は生石公園として整備されていて、堡塁・砲台の遺構も見学できるようになっています。案内板によると、この駐車場は公園の一番端っこになりますね。


駐車場の脇に展示されている27cm加農砲の砲身。


駐車場から階段を下りると、駐車場を取り囲むように当時の塹壕が残っています。煉瓦壁をガードにして、斜面を攻め上がってくる敵を迎撃する施設です。






こちらは、駐車した場所のちょうど真下にある井戸跡。




井戸跡の先をこのまま進むと駐車場に向かう公園道路へと出てきます。


一方、反対側を眺めると、どう見ても道跡と思われるものが続いています。遺構群を見に行くより先にこちらを確認してみます。


これは道で間違いなさそうです。きちんと盛土されて造られています。


路盤が抉れています。意図的に削ったようにも見えますがどうでしょうか。


古い時代のものらしいコンクリートの塊が残っています。


ヘアピンカーブ。これは自動車道のヘアピンカーブの造りではありませんね。鋭角すぎます。堡塁・砲台の建設に合わせて開削された明治時代の道なのかもしれません。


浅い掘割。


広い場所でも小型普通車レベルの幅です。


道の脇に平地が見えます。何か施設が建っていたのかもしれません。


下の方に駐車場へとやってくる時に通った公園道路が見えてきました。


石組みの側溝。


公園道路へと合流します。


合流地点に落ちていた煉瓦の塊。アーチの一部分のようです。


公園道路はこの場所でヘアピンカーブになっていますが、その突き当りには石垣と階段の一部と思しき残骸が残されています。






この場所からは公園道路で登り直していきます。


この公園へ来た時は右側へと進みましたが、今回は左側へと進んでいきます。


ようやく海が見えるようになってきました。


生石岬展望台へとやって来ました。




場所はこちら。


駐車場を横切って奥へと進んでいきます。


こちらは観測所の跡だそうです。観測所とは、敵艦など目標までの距離・方位・速度などを観測して、砲台へ情報を提供する施設だそうです。この情報をもとに正確に目標を砲撃するわけです。


一旦、展望台駐車場を出て右方向へと進みます。


押し潰れたような状態で大きな煉瓦の塊が見えています。






生石山第四砲台跡です。竣工は1890年(明治23年)。この砲台には27cm加農砲4門が設置されていたそうです。正面に見えている煉瓦造りのドームは「砲側庫」というもので、大砲で使用する砲弾などを一時保管した場所だそうです。


鉄道用トンネルなど違って、アーチ部分の煉瓦の巻厚が非常に分厚いです。敵側の砲撃に耐えたり、弾薬の暴発に備えるためだったのでしょう。






展望台駐車場へと戻り、ここからは駐車場所へと向かって順番に砲台跡を見学していきます。


いきなり急な階段…。汗が止まりません。


階段を登り切った場所にあったのは第五砲台跡。


この砲台の竣工は1899年(明治32年)。第一から第四砲台は煉瓦造ですが、この砲台はより近代的なコンクリートと石で造成された砲台です。


背後上部からしか見ることができないため、残念ながらどんな形状なのかよくわかりません。


またもや急階段…。


第三砲台跡。竣工は1890年(明治23年)。こちらも遺構が見づらいですね。






観測所跡。生石岬展望台近くのものと違って、建屋が残っています。


第三砲台跡の正面側へと回ります。


砲側庫。連合国軍が爆破処理した際に、煉瓦が分厚いので破壊しきれなかったのですかね。もしくは爆破対象外だったのかな。




階段の跡。


第二砲台跡。出入口が新しそうな門扉で封鎖されています。


こちらも砲側庫が残っているようです。


生石海峡展望台。第四砲台跡から駐車場所までの道のりの半分まで来ました。


場所はこちら。


※その2へつづく。
2026年09月17日 イイね!

【佐久市】龍岡城跡を訪れました

2026年7月19日日曜日、姉弟三人で長野県佐久市に残る龍岡城跡を訪れました。

当日は、朝5時頃に自宅を出発。豊田東ICから高速道路に乗り、東海環状道・中央道と経由し、長野道岡谷ICで高速道路を下りて、国道142号を走行。新和田トンネルの手前で和田峠の旧道へと入り込んで峠越えします。

峠を越えた長和町内にある旧中山道に関連する施設へ少々立ち寄り。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「接待」(和田峠施行所)です。和田峠の旧道を通る時にはたまに立ち寄るので、私にとってはすっかりおなじみの場所です。


以前にも記していますが、「接待」は江戸の豪商が中山道での旅の苦労を少しでも助けようと、江戸幕府に千両を寄附したことに始まります。寄附された千両により生み出された利子百両を碓氷峠の坂本宿と和田峠の和田宿に50両づつ下付し、施行所を設置させたものです。

「接待」(施行所)では、11月から3月までの期間に峠越えをする旅人に対して粥と焚火を、牛馬に対しては1年を通して小桶一杯の煮麦を施行していました。

建物の内部です。現在の建物は、当時の外観等を復元したものだそうです。








それではふたたび佐久市へと向かい移動します。


トイレに立ち寄った道の駅「ほっとぱ~く浅科」からの眺め。浅間山に雲がかかっていたのは少々残念。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

11時頃、ようやく龍岡城跡に到着しました。ここを訪れるのは、2019年7月6日以来、2回目になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入口にあるガイダンスセンターに置かれていたマンホール。左側が岡崎市、右側が佐久市のものです。


江戸時代末期に現在の岡崎市内にあった奥殿藩の藩主であった松平乗謨が、もともと飛び地の奥殿藩領であった現在の佐久市田口に本拠地を移転し龍岡藩主となった縁で、岡崎市と佐久市は現在も交流があるそうです。

こちらは門前にある説明板。説明板によると、龍岡城は藩の本拠地を移転することに伴い、1864年(元治元年)に着工、1867年(慶応3年)に竣工したそうです。


築城の際は、従来の城郭の築城法ではなく、西洋式の築城法(稜堡式)を用いたため、五稜郭タイプの城郭となっています。

それでは堀を渡って城内へと入ります。




城跡は小学校(現在は廃校。)となっていたため、中央部はかつて運動場だった広場が広がっています。


こちらの建物は「御台所」。城跡に残る唯一の建物遺構です。その名称のとおり、藩主のための料理を作る台所がありました。


廃城後は、学校の校舎として利用されていました。もともと立っていた場所は城内の違う場所だそうで、1929年(昭和4年)に現在地に移転させたそうです。








これは井戸の跡でしょうかね。


旧田口小学校の校舎。2023年3月31日をもって統合により廃校となったそうです。


旧校舎の前を通り抜けて、土塁の上を歩きながら稜堡式に造られた堀の様子を眺めていきます。










橋を渡り、外郭に沿って歩いて行きます。


前回来た時もそうでしたが、堀にはたくさんの鯉がいます。うじゃうじゃ泳いでいて、ちょっと気味が悪いくらいです(笑)。


城郭の突端部です。平面で眺めるなら、この場所が一番お城の形状の特徴をつかめると思います。


姉と弟は、どんどん先へと歩いて行ってしまうので追いかけます。


最初に城内へと入っていった入口の横にある堀の筋交い形状。


これで城跡の北側部分を半周した感じになります。南側部分の堀は埋め立てられていますが、外郭の石垣は現存しているので、付近を通る道路から眺めることができます。今回は南側までは行きませんでした。

入口に掲げられているもう一つの説明板。木板に説明文を彫り上げた形式ですが、これは1934年(昭和9年)に龍岡城跡が国の史跡に指定された際に設置された当時のものではないかと思っています。


見物を終えた後は、市街地があるJR小海線臼田駅付近まで移動し、飲食店を探して昼ごはん。最初に決めた店舗がちょっとした人気店のようで満員だったため、その近所でそれなりに評価良さそうな小さなお店へ。年配の男性が一人で切り盛りしているお店でしたが、おいしくいただきました。

帰り際に店主さんが「遠くから来たのに、こんなお店で申し訳なかったね。」と謝られていましたが、「そんなことは全然無いですよ。」とこちらが恐縮しきりでした。
Posted at 2026/09/17 19:39:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「【由良要塞】赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました(2) http://cvw.jp/b/1796277/49357271/」
何シテル?   10/10 22:00
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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