2026年7月25日土曜日、兵庫県洲本市由良町に残る旧陸軍「由良要塞」の遺構群の一つである赤松山堡塁跡へ至る軍道と堡塁跡を探索しました。
この日の午前中は、同じ洲本市由良町にある生石公園を訪れて、同地に残る生石山堡塁跡・生石山砲台跡の遺構を見物してきました。10時半過ぎには見物を終え、「せっかく淡路島まで来ているし、もう1か所遺構を見に行ってみるかな。山のてっぺんだけど…。」ということで、近所のコンビニ(生石公園からだと最寄りが9km先…。)へ移動して昼御飯と持ち歩き用の飲み物を購入。
軽く昼御飯を食べた後は、ふたたび由良の街へと戻って、しばらく駐車場所を探して街中をグルグルと走行。「やはりここしかないなぁ。」ということで、砂防ダムの前にある広い路肩に駐車して目的地へと向かうことにしました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
駐車場所から南へと歩くこと5分。この交差点で斜め右側の路地へと入っていきます。この路地が赤松山堡塁跡と、今回は訪れていませんが伊張山堡塁跡へと向かう軍道の起点となります。
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橋が現れました。
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橋名は婦野川橋。渡る川の名称は婦野川です。
この橋、パッと見はよくあるコンクリート橋に見えますが、実は軍道時代の煉瓦アーチ橋をそのまま流用しています。
婦野川橋の先は、軽四がやっと通行できる程度の道幅となります。
小川を渡る石積みの暗渠。こんな些細な場所でもきちんと造ってありますね。
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干上がった溜池を眺めながら進みます。
こんな場所にクレスタの廃車が。
また石積み暗渠。
暗渠を過ぎると山道になりました。
標石がありました。これは「防御営造物標石」と呼ばれるものだそうです。表面には「防」と数字、裏面には「陸」(陸軍省)とあるそうです。
ちなみに、「防御営造物」とは、行政法上の「営造物(官公署や学校などの公的な物的施設)」 のうち、特に防衛・軍事の用に供されるものを指します。
いわゆる「明治車道」(明治時代に開削された荷車道)程度の道幅があります。これが開削当時の軍道の姿だと思われます。
道が二股に分かれていますが、右側へと進みます。
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低い峠を切り通しで通過します。
切り通しの横には地蔵堂があります。
軍道の路肩を固める石積み擁壁。
ここで再び婦野川と交差。
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この橋、先ほどの婦野川橋と同じく煉瓦アーチ橋です。
橋のたもとには「防御営造物標石」。
河原に下りて、橋の上流側を眺めます。
アーチ部分の煉瓦の組み方が鉄道用のトンネルや橋梁と違っています。鉄道用だと煉瓦の小口面が見えるように組みますが、この橋は長手面2列の間に小口面の列をサンドイッチしたパターン。
アーチ部分を真下から眺めると、一般的な煉瓦アーチ橋と同じくアーチ全面に長手面が見えています。なので、わざわざアーチの側面部だけ煉瓦を縦に2列組んだわけです。どういう意図があるのでしょうか。
下流側の眺め。
橋を渡ると石垣の間を通り抜けていきます。
ここに廃屋がありました。作業小屋の跡のようです。多分、陸軍とは関係ないものでしょう。
道の両側に標石が立っています。本来は軍用地の境界にこんな感じで立てられていたのでしょう。
段々と廃道らしく路面が荒れてきました。
煉瓦アーチの暗渠を発見。
ここのアーチも長手面と小口面の組み合わせ。旧陸軍では道路に煉瓦アーチを用いる場合、このような組み方が定められていたんですかね。
山側の路肩には石組みの側溝が設けられています。今はほとんど埋もれていますけどね。
「由良要塞第一地帯標」の標石。
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この標石に記されている「第一地帯」と言うのは、1899年(明治32年)に公布された「要塞地帯法」に定められた三区分の一つで、砲台等の「防御営造物」の各突出部を結ぶ線を基線として、基線から250間(約454m)以内(1940年(昭和15年)に1,000m以内に改正。)の区域を指すそうです。
ちなみに、「第二地帯」は基線から750間(約1,363m)以内(改正後は5,000m)、「第三地帯」は基線から2,250間(約4,090m)以内(改正後は15,000m)が指定されていました。
「第一地帯」内の規制が一番厳しく、家屋・工場・倉庫等工作物の新築・改築・増築ほか、多くの事柄について、要塞司令官の許可なく実施する事が禁止されていました。
また、要塞地帯外であっても、「第三地帯」の境界線から外側3,500間(約6,363m)までは、要塞司令官の許可なく水陸の地形の形状や施設物の形状について、撮影、模写、模造、録取(記録を取ること)すること、また撮影等されたものを複写、複製することを禁じられていました。
基線から15kmまでが要塞地帯に指定されて、常に何らかの禁止・規制事項が存在していたため、要塞と旧来からの街が隣り合わせである由良では、日常生活や農林水産業・工業などの各種産業活動などにおいて、何かと制約や支障が多かったことでしょう。
また煉瓦アーチの暗渠を発見。
洗掘されないように河床部分は石畳にしてあります。
引き抜かれたか押し流され、地面に横たわる標石。他の種類の石造標石でもそうですが、簡単に抜けないよう、地表に出ているのは実際の長さの上半分以下が多いんですよね。
細々した石ころがたくさん転がっていて非常に歩きにくいです…。嫌でも路面に注意を払わないといけないのでくたびれます。
ふと見上げると石造暗渠がありました。赤松山堡塁跡へ向かう軍道と伊張山堡塁跡へ向かう軍道の分岐点までもう少しのようです。
目の前に薮が…。大したことはなさそうなので、そのまま突っ切ります。
分岐点までやって来ました。赤松山堡塁跡は矢印方向になります。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
赤松山堡塁跡方面へ進む前に、伊張山堡塁跡への軍道に架かる煉瓦アーチ橋をチェックします。
川幅がだいぶ狭まったので、ふもとのアーチ橋に比べるとアーチの径間もだいぶ短くなっています。
上流側の眺め。
それでは赤松山堡塁跡方面へと進んでいきます。ここからの道程は山登りとなります。
先ほど見上げていた石造暗渠をチェック。やはり内部は瓦礫で埋まっています。
ヘアピンカーブです。
自動車が通行することを前提としていない時代の道なので、カーブ部分のスペースに余裕がありません。
程なくしてまたヘアピンカーブが現れました。こちらのカーブも非常にタイトです。
廃道探索の目線ではまだ全然問題ないレベルですが、路面に散らばる大量の石ころに加えて、倒木が現れ始めたのはちょっと難儀です。
こんな斜面の只中に煉瓦アーチの暗渠がありました。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
一般的な明治車道だったなら、この程度の沢だと橋は架けずに洗い越しで済ませてしまいそうです。やはり軍道は「高規格」なんですね。
そして、内部は瓦礫だらけ。このアーチ高では当然な気もします(笑)。
※その2へ続く。