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小林あにのブログ一覧

2025年11月21日 イイね!

【山口県】鹿背隧道と旧桂ヶ谷貯水池堰堤

2025年10月16日木曜日、山口県萩市にある「鹿背(かせ)隧道」と山口市にある「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」を訪れました。

さて、萩市街地の名所・旧跡を巡った後、山口県道32号を南下。悴坂(かせがさか)峠にある「萩往還トンネル」の旧道へと入ってきました。


車を停めて、徒歩で鹿背隧道へと向かいます。途中、山の上へと登っていく階段が分岐しています。


悴坂峠へと登っていく旧街道「萩往還」です。萩往還は、毛利氏の居城がある萩と瀬戸内海の港町である三田尻(現:防府市)を結ぶために慶長9年(1604年)に整備された街道です。同じく萩と防府を結ぶ国道262号が現代の萩往還とも言えます。


萩往還を分岐してすぐにトンネルが現れました。鹿背隧道です。こちらは南側の坑口となります。


鹿背隧道は、萩往還の改修工事の一環として明治16年(1883年)7月4日に着工。明治17年(1884年)5月25日に竣工したそうで、延長は182mです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは戦前の旧版地形図です。

※ひなたGISより引用。

扁額です。「鹿背隧衜」と彫られています。「道」ではなく「衜」という文字が使われていますが、「道」の異体字のようです。


トンネル坑内へと入っていきます。トンネルの内部は総石積み。総石積みトンネルで今までに訪れたことがあるのは、伊豆半島の天城山隧道(現役)、愛知県の伊世賀美隧道(現役)、三重県の長野隧道(廃止・閉塞)といったところですね。


一応、一般車両通行可の現役トンネルですが、内部照明は無し。車に常備しているLEDライトを点けて進んでいきます。


古い煉瓦トンネルでよく見かける「白華現象」により、壁面が真っ白になっています。


アーチ部分。記録によると、トンネル内部の石の巻立ては、明治17年(1884年)2月25日から5月26日にかけて施工したとあります。


しかし、トンネルの竣工日は5月25日なので、1日分食い違ってます。巻立ての工事日数は90日間と記載されているので(5月25日までなら90日。)、25日を26日と誤植したのかもしれません。

壁面にフックが取り付けられています。電線か電話線でも通していたのでしょうか。


反対側の坑口へと来ました。




北側(萩側)の坑門です。両坑門は、明治17年(1884年)4月14日から5月25日にかけて施工されています。


こちらの扁額は、苔に覆われてしまって全く見ることができません。


もうしばらく萩側へと進んでいくことにします。


斜面に設けられた石造りの排水溝。こういう造形も好みですね(笑)。


切り通しにある石積みの土留め擁壁。先ほどの排水溝は整形された石を用いていましたが、こちらの土留め擁壁は不整形な石をうまく組み合わせて積まれています。


悴坂峠を越える萩往還の萩側の分岐です。ここで引き返すことにします。


トンネル前まで戻ってきました。手前の切り通しは、少しでもトンネル延長を短くするために掘削されたのでしょうね。


トンネル内の排水溝。建設当時から設けられていたのかはわかりませんが、その可能性は高いかと思います。


壁面に何か所もチョーク書きがあります。トンネルの安全性を検査した際の痕跡でしょう。




アーチ部分の石の大きさが不揃いで、列が歪んでいますね。それでも隙間なくきちんと組まれているので、しっかりとすり合わせて積んだのでしょう。一定の規格で石を整形してから積んだ方が良いと思うのですが、明治時代のトンネルでは時折こんな状況を見かけますね。


壁面に段差がありますね。土圧でアーチに歪みが出てきているのでしょうか。




これも近づいて見てみると、きちんと石を削って滑らかに整えてありました。この箇所の前後でアーチの大きさが微妙にずれてしまって、調整したのですかね。


南側の坑口へ戻ってきました。


このまま駐車した車の前を通過して、もうしばらく先へと進んでみます。




萩往還が分岐していきます。ここから萩往還は谷筋を直線的に通って、麓の明木集落へと向かっていきます。




小さな沢を渡る場所まで来ました。


ここにも石積みが残っています。


逆方向から眺めています。写真ではわかりにくいですが、道幅が狭くて軽四でないと通行しづらいです。


前述のとおり、この道は明治17年までに開削されたわけですが、その後は平成4年(1992年)に現在の「萩往還トンネル」を含むバイパスが有料道路として開通するまで、特に改修されることがないままでした。

これは、大正9年(1920年)に悴坂峠を迂回して、阿武川沿いに萩へと向かう現在の国道262号ルートの新道が開通したためで、鹿背隧道ルートはその後放置されてしまったようです。

※ひなたGISより引用。

それでは、次の目的地へと移動します。


次の目的地である山口市の「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」の駐車場へとやって来ました。


駐車場からは徒歩道を歩いて行きます。雨上がりで多少ぬかるんでいましたが、その辺りは気にしないでおきます(笑)。


草地の向こう側に建造物が見えてきました。あれが旧桂ヶ谷貯水池堰堤のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

堰堤部分がコンクリート造、建物と高欄は煉瓦造ですね。




「堰堤を渡って建物に行ってみるか。」と向かったら、堰堤内は立入禁止となっていました…。


堰堤の下側へと道が続いていたので、降りていって下側からも眺めてみることにします。


堰堤の下(と言ってもやや離れた場所ですが。)に設置されていた説明板。設置場所からして、この堰堤は元々は下流側から見学するようになっていたのかもしれません。ちなみに堰堤から下流側は草ぼうぼうになっていましたが。


見上げた堰堤。


さて、これにて見物終了。車へと戻ることにします。


この草地の谷が、かつては水道用の貯水池だったわけですね。


これで今回予定していた訪問先をすべて巡ったので、帰路につくことにします。時刻は15時50分。最寄りの山陽道 小郡ICから高速道路へ。防府市内の佐波川SAで晩御飯を食べて、そのまま19時20分まで仮眠。

その後は広島まで山陽道を走行していきましたが、「このまま行きと同じ山陽道を通るのもつまらないから、広島から中国道を通っていくか。」と、中国道へと進入。

さらに、「JR芸備線の備後落合駅でも見に行ってみるか。こんな機会でもないと来られないし。」と、JR西日本でトップクラスの赤字路線である芸備線と木次線の分岐駅である備後落合駅へ立ち寄ることを決定。山奥にあって夜の暗闇でまともに見物できるのかもわからないのに(笑)。

中国道 庄原ICで高速道路を下りて、そこから国道183号を走ること約25km。

22時45分、備後落合駅に到着しました。駅舎・駅構内とも真っ暗ですね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「そういえば、途中に明かりが点いていた駅があったなぁ。」ということで、引き返すことにします。

備後落合駅から三次方面への隣駅となる比婆山駅へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駅舎内の様子。この雰囲気、事務室側は目張りされてしまっているようですね。




時刻表。さすが路線維持が危ぶまれるほどの赤字でよく知られたローカル線。やはり本数は少ないですね。


ホームへと出てみます。線路は1本しかありませんが、反対側にもホームがあるので、かつては列車交換駅だったようです。駅舎内の古写真に拠れば、貨物用ホームもあったみたいです。




ホーム側から駅舎を眺めます。


あらためてこの駅名板を見てみると、古い時刻表を再利用したものでした。読み取れる列車名と時刻をもとにネットで検索してみたところ、どうやら昭和33年(1958年)11月以降に設置された岡山駅の時刻表のようです。ある意味、貴重な資料だと思うので、駅名板を更改する時には破棄せず保存してほしいものです。


※38列車 急行霧島 4時48分着、32列車 急行阿蘇 6時42分着、302列車 急行宮島 12時44分着の3列車の運行ダイヤで突合しました。ちなみに昭和33年(1958年)11月ダイヤ改正では東京〜博多間の特急「あさかぜ」が20系客車での運用を開始し、寝台特急のブルートレイン時代が幕を開けました。

※現在の時刻表は発車時刻・行き先表記が普通ですが、この時刻表は到着時刻・始発駅が記載されていました。最初はその事に気付かず、調べるのにだいぶ手こずってしまいました(笑)。

ふたたび高速道路に乗り直そうと国道314号を走行していたら、またしても明かりが点いた駅舎を発見。道後山駅です。今の時刻は23時45分(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらの駅舎も地元の方がいろいろな物を飾っています。


この駅もかつては列車交換駅だったようですね。列車本数が減って、線路を撤去したのでしょうね。




道後山駅の駅舎。やや離れた場所に小さな集落はありましたが、駅周辺は本当に真っ暗でした。


引き続き国道314号を走行し、中国道 東城ICからふたたび高速道路へ。しかし、いよいよ眠気が辛くなってきて、10月17日(金)午前1時、ついに力尽きて大佐SAで仮眠することに。結局、そのまま朝まで寝てました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※おまけ
鹿背隧道の開通について、山口県が行った報告が明治17年(1884年)9月8日付け官報第360号に掲載されていたので、興味がある方はどうぞ。旧字体の漢字や古めかしい言い回し・用語が多いので読むのは少々大変ですが、内容を汲み取ることは十分できますね。

〇隧道開鑿(山口縣報告)
山口縣阿武郡萩ヨリ美禰郡大田ヲ經テ吉敷郡上郷ニ達スル路線中 明木村字鹿背ヶ阪ノ隧道 本年五月竣工セルヲ以テ 去ル七月十七日開通式ヲ行ヘリ 抑く鹿背ヶ阪ハ萩舊城市ノ南里ニ在リ縣下北部ヨリ南部ニ達スルノ咽喉ニシテ崎嶇險嶢物貨運輸ノ便ヲ遮斷ス 既ニ前後ノ道路改修ヲ竣ルモ此ノ險阪ヲ平夷ナラシメサレハ九仭一簀ノ歎ヲ免レス 茲ニ於テ隧道開鑿ヲ企圖シ昨年七月業ヲ創メ本年五月功ヲ竣ヘタリ 隧道ハ長六百尺高拾三尺幅拾四尺其ノ工事ノ景況ヲ略述センニ岩質ノ軟硬一ナラス掘鑿一晝夜多キハ七尺少キハ六寸ニ過キス然リト雖全体ノ巖質堅硬ナルヲ以テ兩口合セテ拾六間五分ヲ除クノ外更ニ巻石等ノ工事ヲ用ヒス坑中多少ノ出水アルモ巖石ヲ破碎スル「ダイナマイト」「ゼラチン」ヲ併用シ發火ハ電氣器械ヲ以テシタレハ工事上敢テ支障ナシ 右「ダイナマイト」「ゼラチン」兩火藥ノ効力ヲ實驗シ優劣ヲ比較スルニ「ゼラチン」ノ「ダイナマイト」ニ優ル凡五割ノ利アルヲ知ル 坑路ノ方向ハ東南ノ間ヨリ西北ノ間ニ出テ眞直ニシテ地盤無勾配ナルカ故ニ日光能ク徹射シ洞内明ニシテ更ニ點燈ヲ要セス 洞門ノ兩口ハ斫石ヲ以テ甃ミ南門ノ頂上大理石ノ額ヲ嵌レ鹿背隧道ノ四大字ヲ彫ル 工業日ヲ閲スルニ三百廿七日工ヲ役スル壹萬八千百貮拾貮人六分金ヲ費ス 壹萬三千四百七拾壹圓七拾貮餞ニシテ其ノ金圓タル地方費及地民協議費有志醵金國庫補助金等ヲ以テスト雖全路線ノ改修費ト合算スルカ故ニ獨此ノ隧道ノ工費ノ細目ヲ分チ難シ 舊藩主毛利元徳モ亦壹千金ヲ寄送シケレハ之ヲ洞門甃石ノ工費ニ充テタリ
※「大蔵省印刷局 [編]『官報』1884年09月08日,日本マイクロ写真 ,明治17年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2943565 (参照 2025-11-21)」より。
Posted at 2025/11/21 00:16:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年11月16日 イイね!

【山口県】萩市街地の観光地を巡ってきました

2025年10月16日(木)、山口県萩市の市街地にある観光地を巡ってきました。

唐突ですが、実は職場の同僚の都合により、この週の出勤日と翌週の休暇日との入れ替えがあって、私は急きょ木曜日から月曜日まで5連休となりました。「5連休なんてめったにない事だから、長距離ドライブに出かけよう!」と思い立ち、5月の連休の時は山形県へ行ったので、今度は西の方へと向かうことにしました。

「山形県までの距離と同じくらいだと山口県か。それならだいぶ昔に行ったけど、また萩市へ行ってみるかな。全然忘れてしまっているし。」というわけで、萩市を目的地としました。

自宅を15日(水)22時30分頃に出発。伊勢湾岸道~新名神~名神~新名神~山陽道と経由し、山口県へと向かいました。途中、山陽道 淡河PA、吉備SA、宮島SAで1時間づつ仮眠。

吉備SA(岡山県岡山市北区)。


宮島SA(広島県廿日市市)。


自宅を出発してから約12時間半後、最初の目的地である萩城跡に到着しました。萩城跡は、長門・周防2か国を治めた毛利氏の居城の跡です。到着時の天気は小雨。天気ばかりは仕方ありません…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

城主だった毛利氏は、豊臣政権の頃には中国地方8か国112万石を領有する大大名でしたが、関ケ原の戦いで西軍の総大将を務めたことが徳川方から咎められ、周防・長門36万9千石へと大幅な減封処分を受けます。

そのため、安芸国広島(現:広島市)にあった居城 広島城も追われることとなり、当時日本海沿いの一寒村であった萩に新たな居城を築城することとなりました。

城跡の背後に聳えている山は指月(しづき)山。標高は145mで、山頂には萩城の詰城の役割を担った城郭跡が存在しているそうです。


こちらは萩城の説明板。明治時代に解体されてしまった天守の古写真が掲載されています。


かつては塀が存在した石垣の上に登って、天守台を眺めます。


天守台まで来ました。


天守台の上には天守の礎石が並んでいます。


天守台から城内へと入ってきた御本丸御門跡前の橋を眺めます。


城内にある志都岐山(しづきやま)神社へとやって来ました。この神社は、長州藩主であった毛利氏歴代を祀るために明治12年(1879年)に創建されたそうです。




万歳(ばんせい)橋。


この橋の下にヌートリアがいました(笑)。望遠で撮るしかなかったので、ピンボケしています。


志都岐山神社の社殿。




東園(とうえん)。城内にあった庭園の跡です。


城跡から菊ヶ浜を眺めます。


こちらは、旧厚狭毛利家 萩屋敷長屋です。ここは厚狭毛利家の萩城下の屋敷跡で、安政3年(1856年)に建てられたこの長屋が、屋敷跡で唯一現存している建物だそうです。




さて、続いては市街地の東部にある松陰神社へとやって来ました。吉田松陰を主祭神とする神社です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは境内に保存されている「松下村塾」。




松下村塾の説明板。


この小さな建物で、幕末から明治維新への時代の変革を担っていった多くの人々が、切磋琢磨しながら学んでいったわけですね。






こちらは、アメリカ船への乗船に失敗した吉田松陰が、江戸から萩へと送られてから幽囚されていた部屋だそうです。




松陰神社から歩くこと5分程、今度は初代内閣総理大臣である伊藤博文の旧宅へと来ました。


外観から想像したよりも部屋数が多いですね。


伊藤博文旧宅の説明板。


萩市街地で最後に訪れたのは、萩反射炉。西洋式の金属溶解炉で、鉄製大砲製造のために導入されたものです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

萩反射炉の説明板。


国道191号沿いの駐車場から階段を登っていくと反射炉があります。




ちなみに、静岡県伊豆の国市の韮山反射炉を見物したことがありますが、韮山反射炉の外観は総煉瓦積みでした。


一方、萩反射炉は上部の一部だけが煉瓦積みで、外観のほとんどは石積みとなっています。その見た目のためか、風化が進んでいるように見えてしまいます。


萩市街地での観光地巡りはこれにて終了。次は、萩市街地の南側にある峠に残る古いトンネルを見物しに向かいます。
Posted at 2025/11/16 22:14:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年11月11日 イイね!

【富山県】黒部ダムへ出かけてきました

2025年10月12日(日)、家族4人で富山県立山町の黒部ダムへと出かけてきました。

当日は午前2時に自宅を出発。何度かの休息を挟みつつ、7時半頃に黒部ダムへの最寄りとなる長野県大町市の扇沢駅へと到着しました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

扇沢駅からは、電気バスに乗って関電トンネル(延長:5,430.6m)を通り抜け黒部ダムへと向かいます。電気バスは黒部ダムへと向かう唯一の交通手段のためにやはり混雑していて、結局、9時発の便まで順番待ちすることになりました。

9時にようやく扇沢駅を出発。長大トンネルの中を走るバスに揺られること約15分、黒部ダム駅に到着です。




駅からダムまでは、トンネル内を徒歩で進みます。




自宅を出発してから約7時間半、やっと黒部ダムに到着しました。このダムを訪れるのは、母・姉・私は2度目ですが、弟は初めてになります。




黒部ダム周辺の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

背後の山の斜面には、巨大なコンクリート構造物が聳え立っています。ダム建設時の遺構でしょうか。


ダム周辺の山の斜面は、補強のためか相当な高さまでコンクリートで固められています。


ダム湖を眺めています。穏やかな天気だったので、湖面も凪いでいます。


ダム堰堤から放水を眺めます。この放水は、黒部渓谷の景観維持のために実施されている「観光放水」だそうで、毎秒10トン以上を放水しているそうです。


ふたたび黒部ダム駅側を振り返っています。扇沢駅からのトンネルが貫通する山は巨大な岩山ですね。


反対側からも放水を覗き込んでみます。


ダム堰堤を反対側まで歩き通して、富山側にあるケーブルカーの駅「黒部湖駅」前へとやって来ました。団体客が多くて、なかなか混雑しています。


黒部湖駅前からは、黒部川上流方向へと延びるトンネルを進んでいきます。


トンネルの湖畔側の坑口は、車両が曲がりやすいようにカーブが付けられています。珍しい構造ですね。


吊り橋が見えてきました。


橋の名称は「かんぱ谷橋」とあります。すでに母が渡っていってしまっているので、私も橋を渡って追いかけます。


対岸側からの眺め。


湖畔の山の上に巨大な箱型のコンクリート建造物が残っています。


黒部ダムのダム堰堤まで戻ってきました。


富山側の山を眺めています。たぶん「立山」だと思うのですが、よくわかりません。


何気にあちらこちらとダムを訪れていますが、黒部ダムは周囲のスケールが違いますね。


コンクリートで固められた斜面に付けられた階段を、大勢の観光客が行き来しています。元々は巡視路なんでしょうが、あんまり行く気にはなりませんね(笑)。


母・姉・弟がレストハウス前で休憩したいる間に、一人、ダムの下方にある展望台へ行ってダムを眺めます。




殉職者慰霊碑。黒部ダムの建設中に171名が亡くなられたそうです。


帰りのバスの待ち時間にまだ余裕があったので、今度はダムを見下ろせる展望台まで登ってきました。


真ん中に見える建物は、立山ロープウェイの大観峰駅でしょうか。


扇沢駅まで戻ってきました。駅前の駐車場には、私たちが朝到着した時と相変わらずにたくさんの車が駐車しています。


駅併設のレストランでダムカレーをいただきました。


ここで、「どこか他に寄り道していくかどうしようか。」という話になり、姉が「展望の良い山があるそうだから行ってみよう。」と言うので、行ってみることにしました。

やって来たのは、大町市街地の東側にある鷹狩山。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場の近くに長い石段がありました。山の上にある金毘羅神社の参道のようです。


石段を登るのは大変そうなので、道路を歩いて行きます。


山頂の展望台に到着しました。




展望台からの眺め。眼下に大町市街地が広がります。西日で、雲も出てきていたので、北アルプスがかすんでしまっていたのは残念でした。


この後は道の駅へと立ち寄って小休止してから、長野道 安曇野ICから高速へ。進んでいくと、岡谷IC~岡谷JCTの車線規制工事による渋滞が酷いことになっていたので、結局、塩尻北ICで高速を下りて、国道153号善知鳥峠を越えて、伊北ICからふたたび高速へと乗り直し。

小黒川PAで晩御飯を食べてから、中央道を名古屋方面へと進んでいましたが、今度は恵那山トンネル内で重大事故が発生していて、飯田山本IC~中津川ICが通行止め。早めに飯田ICで国道153号へと下りましたが、迂回路が国道153号しかないので結局国道も渋滞に。

ジリジリとしか動かない状況となったため、ナビを頼りに国道151号まで移動。新野の道の駅まで進んでから国道418号へ入り、平谷村でふたたび国道153号へと合流。稲武・足助と経由して、日付が変わる頃にやっと帰宅しました。
Posted at 2025/11/11 01:11:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年11月02日 イイね!

新車「エブリィワゴン」でドライブしてきました(2)

2025年10月4日土曜日、今度は母と姉を誘って、2回目となる新車「エブリィワゴン」のドライブへと出かけてきました。行き先は、先週に弟とドライブした時と同じ目的地である浜松市天竜区の山住神社です(笑)。

山住峠にある駐車場からの眺め。どんよりとした曇り空で、あまり良い眺めとは言えませんね。


山住峠にある鹿の案内板。


「山住峠」の標柱。標高1107mとあります。けっこう高い場所だったんですね。


今回も山住神社へお参り。ちなみに門前の飲食店はお休みでした。日曜日しかお店を開けていないのかもしれません。


神門をくぐって境内へ。先に入っていった二人は、巨大なご神木を眺めています。






神社の拝殿。


境内を散策していたら雨がパラついてきたので、車へと戻りました。水窪から続いている谷間は、雲で覆われてしまっていました。


今回も山住峠から東側にある門桁集落へと峠を下り、門桁集落からは気田川に沿って走っていきます。

先週は素通りした気田川の明神峡へちょっと寄り道。一番見応えのある場所は道幅が狭くて路駐できる場所がなく、やや通り過ぎた場所で停車。


この場所に「明神峡」の標柱が立っていました。


気田川の中には巨岩がゴロゴロと転がっております。




この場所は、紅葉の時期に来るととても綺麗そうですね。


この後は国道362号へと合流。浜松市天竜区二俣を経由して、新東名 浜松浜北ICから高速道路に乗って帰宅しました。
Posted at 2025/11/02 20:24:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年10月27日 イイね!

新車「エブリィワゴン」でドライブしてきました

2025年9月28日日曜日、私にとって21年ぶりの新車購入となった「スズキ・エブリィワゴン」でドライブしてきました。

さて、私は4台に渡り「スバル・インプレッサ」を乗り継いできたわけですが、昔のように週末に夜な夜な山の中を走り回ることもなく、サーキット走行するわけでもなく、ここ数年来の休日の行動を思い返しても、オーバースペックで用途にもそぐわない車になってきていました。

もちろん、「ハイパワーターボ4WD」という車の味を知ってしまっている以上、この車に対する魅力が無くなってしまったわけではありませんが、日常生活の上で、その威力を必要とする機会は、高速道路を走行する時くらいしかないのもまた事実でした。

それでも、今まではインプレッサ1台でどんな状況もこなしてきたわけですが、「やはり『日常の足』・『自分の趣味(廃線・廃道探索など)で使いやすい車』があるといいなぁ。」という思いも膨らんできていて、いよいよ新車購入に踏み切ったというわけです。

「次に乗り換えるなら軽ワゴンだな。」ということは、周りには話していたりしていました。過去に弟がスバル・ディアスに乗っていて、当然よく同乗していたわけですが、やはり軽ワゴンの使い勝手の良さや、足を伸ばして寝られる(長距離ドライブ好きなのでこれ大事。)というのは魅力でしたからね。


新車が我が家へやって来て2日目。もう車は買ってしまったわけですが(笑)、「期待通り」の車であるか品定めをするため、弟と一緒にさっそく山の中へとドライブへ出かけたわけです。

今回の目的地は、浜松市天竜区の山住神社。道中に狭い道に急坂など、私単独や家族でのドライブなどで突入しそうな条件がふんだんにあるのと、山住神社へ行ったことがなかったというのが理由です。

ここは二本杉峠。静岡県道290号の峠です。ここまで登ってくるまでの道中は、予想以上に急坂で狭く屈曲していました(笑)。ですが、特にストレスを感じるような挙動やアンダーパワー感は無く、まずは及第点をクリアです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは峠の説明板。


峠には石碑や石仏がありました。大きな石碑は、「二本杉峠を越える道を横浜市の原田久吉翁の協力により改修した。」といった内容の記念碑のようで、「大正十五年」(1926年)の年号も彫られています。




続いて北条(ほうじ)峠。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

北条峠の由来を記した説明板。地形図には北条峠とありますが、ホウジ峠、傍示峠と言う表記もあるそうです。


こちらの峠にも石碑・石仏がありました。


二本杉峠から北条峠までは、等高線に沿って屈曲して進む感じでしたが、北条峠からはまた一気に急坂で下っていきます。国道152号へ合流し、水窪まで進んだら、次は静岡県道389号へと入ります。

水窪河内川に沿って谷を進み、谷奥の河内浦集落からまたも急坂を一気に登っていきます。ピカピカの新車に容赦のないルート設定です(笑)。

坂を登り切り、無事に山住峠に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠の交差点に立つ、鹿の案内板。


交差点の脇にある駐車場に車を停めて、山住神社へとやって来ました。


門前には飲食店が一軒。神社を参拝後に立ち寄って、蕎麦とヤマメの塩焼きをいただきました。


境内には巨木の杉があちらこちらに生えています。




山住神社の拝殿。山住神社は山犬(狼)伝説を持っていて、徳川家康も絡んでいるそうです。そのためか、拝殿には葵の御紋が飾られています。


神門と山犬。


参拝を終えて、ドライブを再開。山住峠を越えてさらに県道389号を進み、麓へと向けて一気に急坂を下っていきます。山住峠の東側の麓にある門桁集落まで下ると、ここからは気田川の渓谷に沿って進みます。

門桁国有林への森林鉄道跡を転用した気田川沿いの県道389号を進み、山と山に挟まれた大島橋を渡ったところで小休止。


山住神社から現在地までのルート図。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここ大島橋の傍らには、森林鉄道時代の橋梁の跡が残っていました。






この後も気田川沿いを下って国道362号へ合流。このまま素直に新東名 浜松浜北ICへと直行すれば早く帰宅できたのですが(笑)、国道362号から逸れて秋葉神社下社の前を通過し、天竜川を渡って国道152号へ。浜松市天竜区横山町からは県道295号へと入り、ふたたび山越えに挑みます。

県道295号の峠にある一本杉トンネル。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一本杉トンネルから峠を下り、麓の浜松市天竜区熊の集落にある道の駅で一服。熊からは県道9号を南下。県道47号でふたたび山を越えて浜松市浜名区引佐町渋川へ。若い頃、週末の夜中に走ったことがあるルートです。

こちらは県道9号と県道47号との分岐点に残る道標。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道標には、「左 二俣 熊」、「右 澁川 熊」往還とあり、その下部には距離が彫られています。背面には「大正七年」(1918年)とあります。「二俣」は浜松市天竜区二俣のことです。


山越えをして渋川へと出たら、県道289号へ入り、静岡・愛知県境の峠を目指します。愛知県へ入ると県道番号は愛知県道505号へと変わります。最後は国道151号へと出て、新城ICからようやく新東名に乗り、帰路へとつきました。

今回、いきなりハードなコース(笑)を走行し、最後は新東名も走行しましたが、走行性能については特に不満を感じることはありませんでした。

狭い道での取り回しも、インプレッサの大きさを思えばワゴンタイプでも全然問題なく、何よりインタークーラー付きターボなので、急坂でもそれなりに安定したスピードで登ってくれました。

これから、いろんな場所へと出かけることになるでしょうが、重宝することになりそうです。
Posted at 2025/10/27 22:40:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「【山口県】鹿背隧道と旧桂ヶ谷貯水池堰堤 http://cvw.jp/b/1796277/48776481/
何シテル?   11/21 00:16
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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