2020年5月4日月曜日、北設楽郡設楽町大字神田と大字川合の間にある愛知県道424号振草三河川合停車場線の自動車通行不能区間(いわゆる「点線県道」というものですね。)を歩いてみようと思い、出かけてきました。
道中にある県道32号仏坂トンネル。1971年(昭和46年)3月の竣工で、延長は608.5mになります。
ここ仏坂峠も、トンネルが開通するまで自動車が通行できない峠でした。トンネル坑門の真上には旧街道である「ふりくさ道(海老街道)」の道跡が残されています。
仏坂トンネルから設楽町神田方面へ1.5kmほど下った所で車を停めます。
道路を挟んだ反対側に石仏がありましたのでごあいさつ。仏坂峠から神田までの「ふりくさ道(海老街道)」沿いには、西国三十三カ所霊場を模した石仏が設置されていたそうなので、関連する石仏かもしれません。
さて、何気に車を停めたこの場所。川へと向かって突出している形からして、どうも橋を架けようとした場所である感じがします。県道424号へ向かう前に、少し観察することにします。
川へと降りて眺めてみます。コンクリート擁壁で固められた短い築堤で、いかにもと言った風情です。石積みではないことから、あまり古いものではないでしょう。
対岸の斜面には何も手が加えられていません。
対岸の斜面を見上げながら少し下流へと進んでいくと、コンクリート擁壁が現れました。
全面鮮やかな緑色に苔むしています。治山工事により設置された擁壁である可能性もありますので、ひとまず上へと登ってみます。
上流側はわずかに平場が続くだけで、自然の斜面になっています。
一方、擁壁側を見ると、車が十分通行できるほどの平場があります(手前は崩れていますけど。)。
右側の岩壁は明らかに人為的に開削されていて、おそらく未成の道路だと思われます。
ほんの20~30mほど施工されているだけで、県道424号へと向かうはずの方向へ工事を進めた形跡は全くありませんでした。県道424号の自動車道として工事を始めたものの、何らかの理由により断念された名残りなのでしょうか?
それでは、本題へと進むことにします。
駐車場所からさらに下流へ100~200mほど向かうと幅の狭い橋が架かっています。歩行者しか通行できなさそうであるのに、造りは頑丈そうです。
これが県道32号と県道424号の交差点になります。いきなりこの地点から自動車通行不能区間が始まるわけです(笑)。橋のたもとには「車両通行止め」の標識も立っています(「ここから」の補助標識付き。)。
橋の名前は「田代橋」。小字の地名を取った名称のようです。一応「県道」ゆえの過剰スペックな造りなのでしょうか?
橋を渡るとすぐに未舗装の徒歩道になります(当然ですが。)。
標高約520m(国土地理院地形図による。)の峠に向かって、小さな沢沿いにグイグイと急登していきます。ちなみにスタート地点の田代橋は標高約410mなので、標高差110mといったところ。
沢頭まで来ると、今度はつづら折りの道になります。
途中にあった石積み。円形に積まれているようなので、炭焼き窯の跡かもしれません。
急斜面の杉林の中をジグザグに登り詰めていきます。運動不足のわが身には十分過ぎるほどに堪えます(笑)。
こんな山の中にビールの空き缶が。しかも2リットルサイズ(笑)。このサイズを飲みながら歩いていたか、仕事をしていた人がいたということでしょうかね(笑)。
まだまだ登っていきます。
ようやく尾根が見えてきました。
峠に到着です。田代橋から18分。思ったよりも時間はかかっていませんね。地図上では直線400~500mしか離れていません(その分、急坂なわけです。)。
峠には名称や案内の標識はありません。周辺には愛知県内でよく登山される山々が連なっていますが、この峠はそれらの山々への登山ルートや連絡ルートではないためかもしれません。古いものも含めて地形図にも峠名の記載は無く、何峠と呼ばれていたのかは今のところ不明です。
また、県道指定されているくらいですから、おそらく古くから地元で使われていた峠道だと思うのですが、峠に付きものの石仏や石碑も全然見当たりませんでした(そういう物を期待していたところもあったのでちょっと残念…。)。
せっかくなので、峠のある尾根を少し探索。
峠から左側に少し入った所に大岩が顔を出していました。こういう場所に石仏とかがちょこんと祀られていそうなものですが、何にも無し。
続いて、右側の尾根を歩いてみます。
小さなピーク。ここもペグが刺さっているだけで何もありません。
しばらく奥へと歩いていってみましたが、ペグが点々と打ち込まれた歩きやすい尾根が続くだけだったので引き返しました。
峠に戻り、設楽町川合側(宇連ダム側)へと下っていきます。
宇連ダムの上流部になる設楽町大字川合は、現在は住民がいないそうです。インターネットで見ると、廃墟マニアの方々が家屋や小学校分校の校舎が残る大字川合字宇連の集落跡を訪れているようです。
こちら側もつづら折りの道が続きます。
峠を見上げます。なかなかの急斜面。この中をジグザグと降りてきたわけです。
先が明るくなってきました。
伐採地へと出てきました。
傍らに巨岩があったので、いろいろ眺めてみましたが、特に目を引くようなものはありませんでした。
伐採でかく乱されてしまい峠道がわからなくなってしまったので、ここからは谷底の作業道を歩いていきます。
峠を振り返って見たところ。左側の谷筋に峠があります。
作業道を塞ぐように地面が掘り返されて、そのまま土砂を積んであります。侵入車両を防止するためのものでしょう。辺りには土砂に混ざっていた木の幹同士が擦れたことによるものか、焦げ臭いにおいが強く残っていました。
ようやく宇連ダム側の道路が見えてきました。
ここが宇連ダム側からの自動車道の現時点での終点となります。
細いロープと虎柵が1つ置いてあるだけなので、気付かないとそのままジャンプしてしまいそうです。まあ、そんな車はいないでしょうが(笑)。
宇連ダム側で最初に現れた橋、中山橋。平成6年(1994年)2月竣工。終点からはあまり離れていないので、26年前の時点で道路の延伸工事は中断しているということですね。
次は、中山橋から200~300mくらいの所にある平和橋。平成3年(1991年)10月竣工。
平和橋に立っている勾配標識と車両通行止め標識。
今回歩いていた区間で、標識以外に愛知県が管理していることを明示している唯一の物件。
路肩には若木が育ち始めています。これだけでもこの県道の現状がわかります。
愛林橋。1984年(昭和59年)12月竣工。ここは竣工年が西暦表示ですね。
岩佐橋。昭和56年(1981年)3月架設。和暦に戻りました。「竣工」ではなく「架設」という文言を使っています。
終点から岩佐橋までは地図読みで1km弱。これだけの距離を延伸するのに13年もかかっています。その後、さらに26年放置されているわけですが、今また大規模に伐採をしている意味は何なのでしょうか?
伐採自体は「収穫」以外の何物でもないでしょうが、終点の脇にあった工事内容の掲示板には「地形改変を伴う県道改修工事」というような名目が書いてあったと思います(写真を撮らなかったのでうろ覚えですが。)。峠越えはしないまでも、行ける所までは整備しておこうということなのでしょうかね。山林管理に治山・治水と建設理由はいくらでもありますからね。
林道との分岐点に来ました。
「林道平田線」です。一見、舗装林道に見えますが、カーブの先の路上は土砂で埋まっているようです。
伐採地に降りてからここまで、ずっと小雨が降り続いていたので、体は雨と汗でずぶ濡れです(長時間探索するつもりはなかったので、カッパも傘も持ってこなかった。)。
この先、宇連ダムのダム湖まで行ければと思っていましたが、この直線を見たところでこれ以上進むことを止めました(この後にまた峠を越えて車まで引き返さないといけないことを想像して、心が折れました(笑)。)。
伐採地の突き当たりまで戻ってきました。もしここに自動車道を通すならば、最低600~700mくらいのトンネルを掘るしかなさそうです。
トンネルができれば、設楽町の中心部から三遠南信道鳳来峡インターチェンジへと出るための連絡路にふさわしいルートになるでしょう。ただそのためには、あわせて県道32号と宇連ダム湖岸道路の大々的な改良も必要になりますが。
峠まで戻ってきました。相当息が切れています(笑)。この峠、どうして切通しにしていないのか不思議でしたが、ご覧のとおり尾根に岩脈が露出しているので、掘り下げるのが大変だったんでしょうね。
今度は下り坂です。実際には写真よりももっと薄暗くなっています。
田代橋までようやく戻ってきました。けっこう時間がかかった気がしていましたが、計算したら2時間ちょっとでした。いやぁ、いい運動になりました。
ここを訪れると決めた時、最初は峠で引き返すつもりだったんですけどね(笑)。
車に戻ってきました。
ここで長靴を履き替えようかと足元を見たら、ヤマビルが何匹もくっついていました(長靴の中で踏まれて団子状になっているものもいましたが…。)。ほとんどは指で弾き飛ばしましたが、長靴の内張りに喰い付いてなかなか剥がせないものもいたので、そういうのはティッシュペーパーでつまんで草むらへ返しました。
血を吸われていなかったのは幸いでした。吸われると何時間も血が止まりませんからね。過去に靴下を真っ赤にしたこともありますので(笑)。
さて、帰宅してから今回歩いた峠道のルートを地形図で再確認してみたところ、どうにも違和感が。徒歩道の峠道を一直線に表示していることはけっこうあることなので、その点はいいのですが、県道32号と田代橋との交差点が谷筋一つ分ずれているようです。
実際に歩いたルートは、おおむね赤線になりますね(つづら折りの部分は適当なので雰囲気だけということで。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆したもの。
地形図上の渡河地点は、おそらく車を駐車していた場所。そう、架橋予定地点ですね。ここから峠を越えて、宇連ダム側の谷底道と一直線に結んだ線を点線(徒歩道)県道として表示してあるようです。現地の実態は無視していますが、県道の計画は無視していないのかなと思いました。
ここからは、裏付けのないお話を少々。
さて、この峠は両側とも設楽町ですが、現在の主な移動手段である車で大字川合から大字神田や設楽町の中心部へ行くためには、隣の市町へと迂回していくしかありません。今の見方からすると、同じ川の流域ならともかく、峠を挟んだ集落同士がどうして一緒の町になったのか理解しがたいところです。
しかし、大字神田と大字川合が一緒の村になったのは明治22年(1889年)のこと(現在の東栄町振草までを含めた「振草村」となった。)。まだまだ徒歩で移動するのが当たり前の時代。
特に大字川合側としては、渓谷である宇連川沿いに長距離の移動を要する下流の村と一緒になるより、たとえ急峻であっても峠を越えさえすれば、より短い距離で行き来できる大字神田側と一緒になったのは当然と言えるでしょう。
もっと言えば、大字神田と旧振草村の中心であった東栄町振草も、間に峠はありますが、前述の街道「ふりくさ道(海老街道)」を介して繋がっていて、山越えの徒歩道が村内の各集落を結んで縦貫することで、当時は一つの村として十分機能できていたことが窺えます(現在は、神田と振草の間にある峠「花丸峠」も県道424号の自動車通行不能区間となってしまいましたが。)。
県道424号は1972年(昭和47年)に指定されたそうですが、車社会となった時代にどうしてわざわざこういうルートで県道指定したのかは意図を図りかねますけどね。国道151号の迂回ルートとして整備する考えでもあったのでしょうか?
安城市の図書館には旧振草村の村誌があるので、図書館が再開したら、峠名の確認も含めて読み込んでみますかね。
※追記:市の図書館が再開したので6月14日日曜日に行ってきました。
振草村誌には神田と川合の間の峠道について、
・「宇連道」:印地から高畑峠を越え、赤目沢を過ぎて宇連へ。
・「ワランボ道」:かわぶちより、かわぶち(側淵)峠を越え、ワランボに出て三輪村川合へ。
と2つ記載がありましたが、いかんせん、添付の周辺図に地名や道名、峠名の記載がなく、さてどうしたものかと書架を探してみると愛知県の峠をまとめた本を発見。
さっそく閲覧してみたところ、「ワランボ道」のかわぶち(側淵)峠とわかりました。これで一つすっきりしました(笑)。
あと、振草村誌には、花丸峠と仏坂峠についてはトンネル開通を期待する声が載っていましたが(実現したのは仏坂トンネルのみ。)、かわぶち峠については特に何もありませんでした。
まず、かわぶち峠は、村内のかつての主要道路であった「ふりくさ道(海老街道)」とは関係のない峠だからでしょう(繋がってはいますが。)。峠を越える「ワランボ道」も、古い地形図を見る限りでは、人家のほとんど無い山間地(ルート上に宇連ダムが建設された時、水没したのは6戸だけ。)を通り抜けるだけの道のようですし。
ただ、村から最寄りとなる現JR飯田線三河川合駅まで鉄道が延伸された1923年(大正12年)から村内に乗合バスが乗り入れる昭和初期までは、徒歩道の峠とは言え、駅のある三輪村川合への最短ルートだったわけで、それなりに利用されていた時期もあったかもしれません(全くの憶測ですが。)。
なので、かわぶち峠を越えるワランボ道区間の県道指定については、地元側の要望ではなく、県側の都合で指定されたものかもしれませんね。