2020年6月14日日曜日、雨がぱらつく中、岡崎市石原町の旧田原坂を歩いてきました。田原坂は、「たはらさか」ではなく「たばらさか」と読みます。
現在、岡崎市と新城市作手の間にある「田原坂」と言えば、愛知県道37号のくらがり渓谷から本宮山スカイラインとの交差点付近までの曲がりくねった急坂区間のことを指します。自転車乗りの方のブログなどによく見かけますね。
しかし、現在の自動車通行ができる田原坂ができる以前の「本来の」田原坂は、くらがり渓谷までは行かずに、手前1.5kmほど西側にある谷筋に入り、ほぼ一直線に作手まで登るルートを取っていました。今回はこの道を歩きます。赤色の線が今回歩いた区間になります。

※5万分の1地形図「御油」(明治23年(1890年)測図、大正7年(1918年)修正測図、昭和2年(1927年)鉄道補入、昭和4年(1929年)発行。)。
現在の地形図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
県道37号から旧田原坂に重なる山道へと入ってきました。ほとんど車が通行しないのか、枯れ葉や枯れ枝が路上にたくさん散らばっています。
今のところ舗装されてはいますが、道幅は狭く、すでにけっこうな急坂です。
まずはこの谷川(「田原坂ノ沢」と呼ぶようです。)に沿って、坂の上部にある県道37号との交差地点まで登っていきます。
道を横切る沢に石積み橋台が残っていました。今歩いている舗装路より古い時代の道のものと思われます。
地図を見て予想はしていましたが、延々と続く急坂に序盤から足取りが重いです…。なまじスタスタと歩いてしまえる舗装路の方がかえってキツいです…。
石垣に囲まれた平場が続いています。かつては田んぼや畑だったのでしょうか。
分岐路が現れましたが、ここは道なりに直進です。
路肩の崩落箇所に岡崎市の三角コーンが置かれています。ということは、一応この道は岡崎市道ということですね(後で確認したら、岡崎市道田原坂線というそうです。)。
また分岐路が出てきました。ここは谷川を渡らない右側の道が旧田原坂と思われるので、そちらへと進入します。
舗装路から一転、荒れた道になりますが、じきに落ち着きます。
先ほど分かれた市道が交差してきました。知らぬ間に砂利道になっています。ちなみに旧田原坂の道跡は直進です。
短い区間ですが、幅広なU字型に道跡が残っています。
すぐに市道と再合流です。
また分岐路が現れました。ここも右側の道へと入っていきます。左側へと分岐していく市道とは、ここで完全にお別れとなります。
ちなみに、左へと分岐していった市道の先には、田原坂の集落跡があるようです(家屋は残っていないようです。市道もそこで終点となります。)。
分岐した後、坂を登っていくと作業小屋?があります。
小屋の先で左へカーブして、沢を渡ります。砂防ダムの工事に合わせて川が護岸されて、コンクリート橋になったようですね。
沢を渡ったら、今度は右に曲がります。この辺りは立派な石垣が多いです。これも廃集落の田んぼや畑の名残りでしょうか。
しばらく進んで、石垣に突き当たったら左へとカーブ。
今までと撮影方向が変わっていますが、ここは写真右側から登ってきて、写真左上側へと進んでいきます。実際の進行方向に合わて言うなら、この角は右折ということになります。
直進方向(写真手前側)にも廃道化した林道?が続いていましたが、今回の探索には関係ないので行きませんでした(入り込むと余計な体力を使うので(笑)。)。
ここまでは何となく軽トラくらいなら通れそうな道幅でしたが、ここからは古道らしい徒歩道になります。ちなみに、戦前の地形図で旧田原坂は、麓から峠まで全線が荷車の通れる道として表記されています。
石積み擁壁。用途的には道路用というよりは土地区画用でしょうか。
道の上を沢からの水が流れています。午前中まで雨が降っていたためでしょうね。
長靴なので、気にせずジャブジャブと歩いていきます。ついでに手や腕に水を浴びて冷やしました。
この旧田原坂、風の通らない谷底の沢沿いの杉林の中を通っており、しかも雨上がりのためかすごく湿度が高くて、眼鏡は曇るは、汗が止まらず上着はびしょ濡れだわと、ひどい状態で歩いています。まあ、こうなることも承知で来たわけですけどね(笑)。
道の先が明るくなってきました。
無事に県道37号へ到達しました。車からは約40分で来ることができました。
この地点で標高445 m。車を停めてきた辺りが標高220mなので、標高差約225mを登ってきたわけです。おおざっぱですが、歩いてきた距離が約1.8kmなので、平均勾配は12%といったところです。
この先は、元々、旧田原坂が使っていたルートを改良して現在も使用しています。
さて、初めはここで引き返そうと思っていましたが、もしかしたら戦前の地形図にすら載っていない古い時代の田原坂が、まだ沢沿いに上へと続いているのではないかと思い立ち、「ここまで来たらどこまで行っても一緒だな。」ともう少し進んでみることにしました。
どうやら、写真左側の部分から入り込むことができそうです。
県道37号を見下ろします。右カーブの内側にここまで登ってきた旧田原坂があります。
何となく平場がありますので、通り抜けます。
木々の間に通路のような穴が開いています。
木々の穴を出たら明瞭な道跡が現れました。右下側の沢底付近には道跡らしい平場は見い出せないので、これを田原坂の道跡と見込んでこのまま進んでみます。
道跡がやせている所に、罠のごとく腐りかけた倒木が何本も横たわっています。1本づつ慎重に跨いでいきます。
路肩に石積み擁壁を見つけました。これで、この道跡が古い時代の田原坂である可能性が大になりました。
この辺りは、20~30m上の斜面を県道37号が通っているので、道路から投げ捨てられたゴミが散らばっています。
沢にかく乱されてしまったのか、道跡がはっきりしなくなってきました。
谷を塞ぐように大きなコンクリートブロックを積んだ土留めが現れました。これで道跡を辿るのは不可能になりました。
県道37号はすぐ上に見えているので、何とか登っていきます。
見覚えのある平坦地へと出てきました。この辺りで標高530m。車を停めてきた場所から標高差310mほどを登ってきたことになります。
あの先のカーブを曲がれば、じきに本宮山スカイラインとの交差点です。車からここまで1時間10分程でした。
現在の県道37号が、勾配を抑えるためにくらがり渓谷から大回りするルートで作手まで登っていくところ、旧田原坂は沢伝いにほぼ一直線で作手側へと登ってきました。やはり徒歩道は最短距離で峠まで詰めますね。
さすがに途中の県道との交差地点から上は、荷車道に改修するには急坂過ぎるので、古い時期に放置されてしまったのでしょう(ざっくりと計算すると距離400mで標高差85mなので、平均勾配21%になります。)。
これで旧田原坂を踏破したので、車へと戻ることにします。県道を通って最初の交差地点まで戻っても良かったのですが、ここは狭い峠道ながら通行量が多いし、大回りすることで歩く距離も伸びるので、元来た道跡を帰ることにします。
途中、蒸し暑くて、何度も沢の水で顔や腕を洗っていたりしましたが、引き返し地点から15分程で県道との交差地点を通過。
足が疲れていたので、ペースは抑え気味にして急坂を下っていきます。
この作業小屋が見えてきたら、じきに車が見えるはず。
帰りは55分で戻ってこれました。急坂を往復した疲れもありますが、とにかく湿気の高さには本当に参りました…。
さて、あと1か所、見つけていた旧道の遺構を見に行くために、駐車していた所からやや下った場所へと移動。
分岐している道跡を追います。
突き当りに来ました。ここは左側に見えている「どろめき橋」の旧橋跡と思われます。
大きな石を積んだ橋台が残っています。
現道の橋から見下ろしています。写真中央の流れが泡立っている辺りに橋台があります。
最後に、県道37号から旧田原坂へと進入する道路の交差点です。正面の橋は石原橋。戦前の橋の親柱が残されています。
道中の下半分は舗装路でしたが、上半分は昔の道の雰囲気がよく残っていました。この谷の狭さと急坂では、自動車道を造る際に別ルートを選択したのも頷けます。その迂回する県道も、地形の険しさに未だに狭隘路が解消されていませんけどね。
市の図書館で、旧自治体である額田町が出版した額田町誌を読んでみましたが、旧田原坂から現在の県道への付け替えがいつ頃行われたのかはわかりませんでした。くらがり渓谷の観光開発に合わせたのなら昭和30年代後半ですが、参考になりそうな路線バスの開業記事にも、くらがり渓谷から作手方面のものは記載されていませんでした(路線バス自体がなかった可能性も。)。
図書館で調べる以上のことまではやる気はないので、ひとまずはこんなところですかね。
※追記
額田町誌にこれという記載がなかったので、今度は田原坂の上の村である旧作手村の村誌を読んでみたら、旧田原坂から現在の県道ルートへの付け替えについての記事がありました。
一つ目は、「田原坂の改修については、昭和7年(1932年)に作手村内の改修が竣工したことで全線開通した。」という記事。
二つ目は、「府県道清岳~岡崎線が昭和7年(1932年)11月に竣工、昭和8年(1933年)宮崎村亀穴(現在の岡崎市宮崎町亀穴)の宮崎自動車会社が乗合自動車(6人乗り)を宮崎~高里(現在の新城市作手高里)で運転を開始。」という記事。
二つとも、改修工事が昭和7年に竣工したとあり、さらに昭和8年からは乗合自動車が運行。旧田原坂は、当然、自動車が通行できるような道ではありませんでしたから、現在の県道ルートへの付け替えは昭和7年で間違いないでしょう。
戦前の改修とは、現在の県道の田原坂も古い道だったわけですね。