2021年1月10日日曜日、愛知県豊田市連谷町から坪崎町の山越え区間にある、愛知県道484号の自動車通行不能区間を歩いてきました。
地図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
自動車通行不能区間のうち、黒色の実線で記されている区間はジムニーのような車なら一応通行できなくはないですが、破線区間は完全に徒歩道となります。そして、地図上では「県道」を表す「黄色」で上塗りされています。
この道、戦前の地形図でも「里道(聯路)」として記載されています。地図中の赤線が自動車通行不能区間に相当します。

※5万分の1地形図「明知」・明治34年(1901年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行
現在の地形図で「軽車道」表記となっている区間はつづら折りで峠へ向かっていますが、戦前の地形図では斜面を直線的に進むルートになっているので、あわせて旧道ルートも探索していきます。
豊田市連谷町側(地形図で南側の地点。)の自動車通行「可能」区間の終点へとやって来ました。
連谷町の集落から先は、道幅≒ほぼ車幅という狭い道でしたが、一応舗装もされているので、薄く積もった雪でのスリップに注意しつつ徐行で進入してきました。
やって来た道が車の正面方向で、これから徒歩で進む道は右折方向になります。
さて、自動車通行不能区間へと歩き出します。道幅はさほど変化ありませんが、ここから未舗装となるので、轍の部分は瓦礫が剥き出しになっています。
ほどなくして、道の右側に斜面の上へと延びていく凹地を発見。
いかにも古道臭さを感じさせます。当たりかハズレかわかりませんが、取りあえず跡を辿ってみます。
結果的にはハズレでした。大雨時に水が流れる窪地だったようです。まあ、歩いてみないと正否はわかりませんからね。
ふたたび県道を歩き始めます。
今度は左斜め方向に下っていく道跡を発見。けっこう先まで直線が見通せます。
「ということは、真反対に山へと登っていく道跡があるはず。」と振り返ると、案の定、こちら側にも直線の道跡が見て取れます。
これはもう明らかに里道時代の道跡ですね。さっそく跡を追っていきます。
200~300mほど辿ったところで頭上に県道が接近。道跡は瓦礫で埋め尽くされてしまいました。県道建設時に出た瓦礫なのでしょう。
瓦礫をよじ登って県道へと出ました。ここから先は、最初に歩いていた所よりもさらに道幅が狭くなっています。
周りの様子を窺いながら歩いていきましたが、特に気になるような状況は見られませんでした。
県道へ復帰してから7分程歩いたところで、軽車道としての終点に到着しました。ここでUターンできるようにするためか、ちょっとした広場になっています。
正面の山の上が峠のようですが、里道時代の道は抉り取られてしまっています。進むためには斜面をよじ登っていくしかないようです。
閑話休題。ここの斜面にあった霜柱。冷え込みが厳しかったので良く成長しています。
探索当日、途中通過した国道153号伊勢神トンネルでは気温マイナス5℃。その伊勢神トンネルから北へ直線2km余のこの峠もそんなに変わりはないでしょう。歩く道中でもキンッとした冷たさにさらされ続けていますから。
斜面を登り、里道時代の道跡に出ました(と言っても現役県道ですが(笑)。)。峠もすぐそこです。
峠に到着です。地形図には記載がありませんが、ここの峠の名前は「小石神峠」または「小石亀峠」だそうです。車からは25分程でした。
さてさて、ここへとやって来た目的の一つ目(古道探索は二の次(笑)。)、峠の石仏を鑑賞します。
ちょっと自信がないですが、仏像の頭上にあるのが馬頭に見えるので、馬頭観音でよいでしょう。光背には「安永九年」と「子五月日」と彫られているようです。
安永9年は1780年。約240年前の石仏ということになり、けっこう古いですね。「子」とあるのは、安永9年が子年だからです。年号と干支の両方で確認できれば、年代確認の間違いも防げます。台座にも何か彫られているように見えましたが、全くわかりませんでした(そもそも気のせいかもしれませんが。)。
それでは峠を抜けて、豊田市坪崎町側へと下っていきます。今は峠の両側とも豊田市ですが、かつては東加茂郡旭町と東加茂郡足助町の境界でした。
峠のすぐ下に折り返しがありますが、この辺りは道そのものがきれいではっきりしているので、迷うことはありません。
この先、下を流れる坪崎川に出るまで、坂はきつめです。道跡自体ははっきり残っているので、通過に苦労するような所はありませんでした。路面に瓦礫が多いので、歩きづらくはありますが。
目の前に坪崎川が見えてきました。そして、今回二つ目の目的物が写真左側に写っています。
道標です。
峠の石仏とこの道標、この道の事を下調べした時に、この峠を自転車を担いで通過した方のブログがあり、その中で触れられていました。「おおっ、これは要チェックだな!」という訳で、実の主目的は峠の石仏とここの道標なのです(笑)。
さっそく道標をチェックするわけですが、彫刻された手指の下には「せんからし」と彫られています。「せんからし?どこの事だ?」。峠を越えた先は連谷や中馬街道伊勢神峠(昔なら石亀峠か。)に小田木、もう少し先の大きい街なら稲橋(豊田市稲武町。)や足助。まったく思いつきません…。
「まあいいや、家で調べよう。次。」。道標を右へと回ります。
「うっ…。」。「右 山〇」。「右」と「山」はご覧のとおり誰でも読めます。しかし、「山」の下の崩し字がわかりません。諦めて次の面へと移ります。
※複数の崩し字検索サイトで試してみたところ、「道」が妥当なようです。よって「右 山道」と解釈しました。実際、右側の小径の先(坪崎川の上流。)は、戦前の地形図には道の記載がなく、集落も記されていません。伊勢神峠へと通じる間道があったくらいでしょう。
次の面も難解ですね…。下の四文字は「坪崎村中」でしょうが…。
一文字目がまったく見当つきません…。二文字目は「主」かな。「坪崎村中」が道標の設置に際して何かの「主」となったのでしょうが、その「何か」がわからないと文字もわかりません。ちなみに「施主」は残る一面にあるので違う。う~ん…。
※こちらの字も、複数の崩し字検索サイトで書体を入力して試してみましたが、「これだ!」という文字はありませんでした。
最後の面です。表題は「施主」ですね。「施主」の下に2列分文字が彫られていますが、摩滅しているため、読み取ることができませんでした。
おそらくは施主の名前が彫られているはずです。
道標を峠方面へ向いて眺めています。この方向で見るのが、この道標の本来の使われ方のはずです。
道標に10分ほど滞在した後、先へと進みます。
道標の直下で坪崎川を渡っていたはずですが、橋の痕跡はありませんでした。
対岸の道路へ上がると県道標識があります。
ここから下流へと向かう道路が県道484号になります。ちなみに、上流側の道路はここから豊田市道になるそうです。
ここまで来たなら物はついでということで、坪崎町内の県道490号との交差点まで歩いていってみることにします。
途中、1か所だけ坪崎川を渡る橋があります。里道時代もほぼ同じルートで坪崎町内へと向かっていたようです。
20分程歩き、県道490号との交差点へと出てきました。
左折方向が県道490号になります。この先の峠にはものすごい急坂があります。
直進方向は引き続き県道484号。
ここに巡回バスのバス停があります。バスは1日2本あるようです。
右折した先にある常夜灯。台座には大正7年(1918年)とありました。
今回の探索はこれにて一応終了。車へと戻ることにします。
帰り道、途中で渡った橋の上流で石積み橋台を見つけました。その先に道跡が続いているので、里道時代の橋の跡でしょう。
道標まで戻ってきました。
手の彫り物をアップ。こういう物も遊び心なんでしょうかね。
で、また文面をしげしげと眺めていたら、「せ」の字の横に「〃」が。
「『せんからし』じゃなくて『ぜんかうし』、善光寺か!」とようやく合点がいきました。善光寺講の「坪崎村中」が「願主」となってこの場所に道標を建てたのでしょう。ただ、先ほどの文字が「願」であるのかは、まだわかりませんけどね。
ちょっとスッキリした気分になって小石神峠への道を登っていきます。
馬頭観音にごあいさつして峠を通過。
急坂を下って、連谷町側の道へと出ます。
のんびりと県道を下っていきます。
帰り道は旧道跡へと降りずに、そのまま県道を歩いていきます。途中に1か所分岐がありますが、ここは左側へと進みます。
さて、行きに見つけた里道時代の道跡です。今度は下っていく方向へと道跡を追っていきます。
何か所か道跡の残り方が怪しい場所がありますが、まあ雰囲気で判断して(歩いてきた道跡と無理のない自然な方向へ向かっているか等。)、先へと進んでいきます。
2か所連続の折り返しを抜けたところで、道跡は県道に削られて無くなっていました。
道跡と県道にまだ高低差があるので、もう少し先へと県道を歩いていったところ、左斜めへと登っていく小道を見つけました。
ここが本来の分岐点で、里道時代はここから山へと取り付いていたのでしょう。
出発してから約2時間40分、ようやく車へと戻ってきました。今回は冷気が身に染みました…。
峠と道標、旧道跡の位置はこんな感じです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
最後にちょっと寄り道。現在実施中の「国道153号伊勢神改良工事」により建設中の「新郡界橋」です。少し見ない間に橋桁まで架かっていました。
橋が架かり、トンネル工事に利用できるようになれば、いよいよ新伊勢神トンネルの工事も始まりそうですね。