2021年3月7日日曜日、弟を誘って、三重県いなべ市の三岐鉄道丹生川駅に隣接する貨物鉄道博物館へ行ってきました。
三岐鉄道丹生川駅。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
丹生川駅に隣接する敷地に博物館が収集した貨車などが屋外展示されています。
タム8000形8000号(1962年 汽車製造製)。15トン積過酸化水素専用タンク車。
タム5000形6263号(1968年 富士重工業製)。15トン積塩酸(及びアミノ酸)専用タンク車。
タム500形2920号(1958年 日本車輌製造製)。15トン積ガソリン専用タンク車。
タ2000形2001号(1939年製造・1941年改造 新潟鐵工所製)。元は、タム200形15トン積二硫化炭素専用タンク車として製造。後に10トン積アルコール専用車に改造されタ2000形となりました。
DB101号(1957年 協三工業製)。
テワ1形。旧関西鉄道の鉄製有蓋車。
旧ライジングサン石油 ア1900形タンク車。1893(明治26)~1898(明治31)年にイギリスで製造され輸入されたと思われるもの。石川県七尾市の企業で、油槽として再利用されていた。
B4型39号(1898年 英国SharpStewart社製造)。元は、日本鉄道が発注した蒸気機関車。1922年に東武鉄道B4形39号となり、1966年に引退。
ト1形15号(1912年 名古屋電車製作所製)。瀬戸電気鉄道(現在の名古屋鉄道瀬戸線)で使用された10トン積無蓋車。
ト200形246号(1917年 日本車輛製造製)。愛知電気鉄道(名古屋鉄道の前身)が製作した有蓋車で、大正末期に10トン積無蓋車に改造。
ワ11型11号(1929年 新潟鐵工所製)。蒲原鉄道の10トン積有蓋車。
ここで真横を通る三岐線を電車が通過していきます。元西武鉄道の801系です。
ワフ21000形21120号(1934年 汽車製造製)。
丹生川駅方向を振り返っての眺め。
シキ160形(1955年 日本車輌東京支店製)。130トン積吊掛式大物車。
ホサ1形1号(1930年 浅野造船所製)。元は、石灰石輸送用の23トン積ホッパ車。晩年は砕石散布用として使用。
テラ1形146号(1965年 協三工業製。)生石灰などを輸送するための鉄製有蓋車。
これで展示されている車両を見終えました。このほかにあともう1両、ワフ21000形21120号の裏側で修理されている貨車がありました。
展示車両の先にもしばらく線路が続いていますが、本線に戻ることなく途切れています。
これで見終わったので、丹生川駅前へと戻っていきます。
そこへ東藤原駅行きの貨物列車がやって来ました。
引き付けて撮ろうと思ったら見切れました…。
7~8分ほどその場にいたところ、今度はJR関西本線富田駅行きの貨物列車がやって来ました。
今度は2両目の機関車が撮れました…。
先ほどの東藤原駅行きは返空列車なので空荷ですが、こちらは太平洋セメントからのセメントを積み込んでいます。
貨物鉄道博物館はこれくらいにして、次の場所へと移動します。
次にやって来たのは、三岐線の終点である西藤原駅。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ちょうど折り返しの電車が停車しています。
この駅にも保存車両が3両展示されています。
西藤原駅構内と線路の終端部。
次は東藤原駅。場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
駅前に展示されているホキ5700形25767号。
東藤原駅は貨物列車の始発・終着駅なので、構内には機関車や貨車が各所に留置されています。
駅構内を横切る踏切には、貨車の入れ換え作業の時間が表示されています。
この踏切を挟んで東藤原駅と太平洋セメントの工場があるので、入れ換え作業中は踏切は長時間閉鎖されることになるため、このような表示があるのでしょう。
最後に寄り道したのは、三岐鉄道北勢線の六把野井水拱橋。この場所から水路沿いに奥へと入っていきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
六把野井水拱橋です。もう少し大きな橋だと思っていました。
この橋は構造の特殊さから、土木学会選奨土木遺産に指定されています。
何が特殊なのかというと、日本で唯一、コンクリートブロックで造られた「ねじりまんぽ」だということ。
もともと数が少ない「ねじりまんぽ」ですが、通常は煉瓦積みです。
例:琵琶湖疎水 蹴上のインクライン下の「ねじりまんぽ」。
例:関西本線鳥谷川橋梁。
ねじって積み上げるだけでも相当の手間がかかるはずですが、六把野井水拱橋はねじりに合うようにいちいち個々のコンクリートブロックを作り、それを積み上げて造られていることがその特殊性を際立たせているわけです。
弟曰く、「これくらいの長さなら、(わざわざ用水の方向に橋台の向きを合わせずにすむように)用水からもう少し距離を取れば普通の橋ができたんじゃないの?」。
まあ、その通りだと私も思います。台地側の崖をもう少し削り取るとか方法はあったでしょう。それでもこのような形状で造ったということは、技術的に何か理由があるはずです。少なくとも、「コンクリートブロックによるアーチ橋」にこだわった結果の解決策だったと思います。
橋梁の上流側の側面には銘板が取り付けられています。銘板には、橋梁の名称、工期、関係者氏名が刻まれています。
以上、六把野井水拱橋でした。
すぐ近くにはコンクリート三連アーチ橋の明智川拱橋もありますが、そちらは電車の撮影をしている方がいたので、遠くから眺めただけで立ち寄りませんでした。
今回は久しぶりに鉄道関係三昧でした。鉄道関係でいうと新装なった京都鉄道博物館へ行きたいとは思いますが、こちらはもうしばらく機を見るかなといったところですね。