2021年4月10日土曜日、愛知県と長野県の県境にある旧新野峠の古道を探索してきました。2月下旬に膝を痛めてから山中を歩く古道探索は控えていたので、前回の探索から約2か月ぶりの活動再開となります。
峠付近の地図はこちら。ひとまず、国道151号の新野峠から長野県側にある旧道の路肩(星印の場所)に駐車しました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
現在は、かつての別所街道である国道151号が県境を通過する場所を新野峠と呼んでいますが、旧の新野峠はさらに西方にあったそうです。
戦前の地形図には徒歩道として記されていて、図中の赤線がその峠道となります。

※5万分の1地形図「根羽」:明治41年(1908年)測図・昭和8年(1933年)修正測図。
それでは、駐車場所から国道151号に向けて旧国道を歩いていき、古道らしきものがないか確認していきます。
駐車場所からヘアピンカーブを一つ通り抜けた場所で、峠方向へと登っていく道跡を見つけました。さっそく突入してみます。
鮮明に道跡が残っています。
と思いましたが、すぐにあいまいになってしまいました。少し周囲を歩き回り、左斜め上へと向かっている窪地を道跡と判断して進みます。
ここは明確な道跡があった右方向へと曲がっていきます。
少し進むと堀割りに合流しました。先程、右へと曲がりましたが、真っ直ぐ進んでもこの地点へ出たようです。
同じ街道でありながら、峠へと向かう道筋が幾筋もあるというのは、今までの経験からみても比較的よくある状況です(特に緩斜面だと。)。峠道の新旧ルートだったり、人が通るルートと牛馬が通るルートの違いだったりします。
早くも峠が近い雰囲気になってきました。
坂を登り切ったところで、道跡は平坦な地形を右へとカーブしていきます。
切通しを通り抜けたり、鞍部を越えたりする、いかにも「峠」といった感じではなく、少々肩透かしな気分です。
正面に石仏が見えてきました。どうやらここが古来の新野峠のようです。
「愛知の歴史街道」によると、この石仏は「聖観音」像で寛保二年(1742年)の銘が刻まれているそうです。
石仏の右側に上へと登っていく道があるので行ってみることにします。
「金刀比羅大神」と刻まれた大きな石碑が立っていました。側面には「明治二十八年(1895年)八月建立」とありました。
石仏から先の道跡を進んでいきます。
この辺りは地形がなだらかなためか道跡が不鮮明で、わずかに窪んだ道筋や木の生え方を頼りに先へと進んでいきます。
倒木や薮で道跡が荒れてしまい、このまま進んでよいものか迷ってしまいます。
もう少し進んでみると道跡が復活してきました。
100mも進まないうちに、今度は道路で切断されてしまいました。
道路からさらに先を眺めてみると、道跡らしき窪地が見えています。
ひとまず道跡で間違いないでしょう。
道跡が切り刻まれた木材で埋もれてしまっています。これもよくある事です。
程なくして旧国道へと出てきました。短いですが、今回の探索としてはこれにて終了です。新野峠の古道は、このまま正面の谷へと下っていっていたそうです。
ここまで歩いてきたルートは図中の青線となります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
帰りは大回りになりますが、そのまま国道151号を歩いて車まで戻りました。
国道の新野峠にある国道標識と「長野県・阿南町」の案内標識。
国道151号の長野県管理区間のスタートとなる0kmポスト。
車へと戻ってきました。
今回探索した旧新野峠は別所街道の後身である国道151号沿いにある峠ですが、別所街道に指定されたことはなかったようです。
明治9年(1876年)に「渥美郡豊橋驛より長野縣伊奈郡界に至る」三等県道として別所街道が指定された当時、新野峠付近では現在の愛知県道74号に相当するルートが指定されていたようです。その後、明治30年代に別所街道の車道(馬車道・荷車道)化改修に伴い、新たに指定されたのが現在の国道151号ルートでした。
なので、旧新野峠を通る道が何と呼ばれていたのかわかりませんが、江戸時代には峠に石仏が置かれたり、明治時代に入っても石碑が建てられたりしているので、人馬の往来はそれなりにあったのでしょう(地元の町村誌を読んでみたところ、新野峠から旧海老街道を経由して新城へ出る交易路として江戸時代から利用されていたようです。)。
さて、探索を終えて、そのまま道の駅「信州新野千石平」まで移動。ここで昼御飯を食べて一息つきました。
その後の帰り道も、あちらこちら寄り道しながらのんびり帰りました。
根羽村の旧国道153号に残る国道標識。
同じく根羽村の「月瀬の大杉」。
豊田市連谷町「伊世賀美隧道」。
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別所街道・国道151号 | 日記
Posted at
2021/04/14 23:11:02