2021年10月3日日曜日、三重県の旧縣道「熊野街道」に残る古い橋を3か所巡ってきました。初めは一人で出かけるつもりでしたが、母に「ドライブがてら一緒に行くか?」と声を掛けたら、姉も一緒に行くと言い出し、結局3人で出かけました。
初っ端、国道23号知立バイパスから伊勢湾岸道 豊明ICの料金所へ向かったところ、ETCゲートでストップした車があり立ち往生。仕方くなく一般ゲートへ回り、通行券を取って高速道路へと入りました。
通行券を取ったのは何年ぶりだろうか。覚えがありませんね。ただ、「デザイン、昔と変わってない気がするなぁ。」という感想が湧きました(笑)。
その後は、東名阪道、伊勢道、紀勢道と乗り継ぎ、大宮大台ICで下りて(一般ゲートに入り、料金収受装置にETCカードを挿入して精算しました。)1か所目の訪問場所へとやって来ました。
船木橋(旧舟木橋)です。全長は90.2mになります。
船木橋の開通は明治38年(1905年)。ただし、当時のまま残っているのは橋脚部分のみで、橋台・橋桁は昭和9年(1934年)に改修されています。
大紀町側の親柱には「ふなきはし」と刻まれています。
親柱に取り付けられた登録有形文化財のプレート。平成8年(1996年)に登録されました。
本橋は、宮川の深い渓谷を渡る高い場所(水面から20m程とか。)に架けられた橋ですが、昔の橋らしく欄干が貧弱かつ低いため、あまりにも川面までの見通しが良すぎて、私のような高い場所が嫌いな者にはとても困った橋です。
と言いつつ、今回も含めて4~5回は訪れていますけどね。ただ、姉が貧弱な欄干にもたれ掛かって川面を眺めている姿を見て、肝が冷える思いでした(笑)。
こちらは上流側。本流である宮川に支流の大内山川が左側から合流してきています。それぞれの川の水の色が明確に違っています。隣に架かっている橋は、国道42号の船木大橋です。
下流側の眺めです。
大台町側へと渡ってきました。
こちらの親柱には、読み取りにくいですが「船木橋」と刻まれています。
突然ですが一つ疑問があって、この橋の名称は「船木橋」、国道42号の橋の名称は「船木大橋」、大紀町側の橋名の由来になったと思われる地名は「船木」。にもかかわらず、登録有形文化財での登録橋名はなぜか「旧舟木橋」。
この事に言及しているブログやサイト記事は見当たらず、特に関心は持たれていない様子。まあ、いいと言えばいいのですが、何せ名称(=名前)のことなので、モヤモヤした感じは残りますね。
大紀町側へと戻ってきて、今度は船木大橋の下から船木橋の全景を撮ります。
ちょうどいい場所に大木が被さってしまい、何ともはや…。
橋のたもとから斜面を下りて、木々の隙間から撮ってみました。
本当は宮川の河原まで下りて、橋を見上げる写真や煉瓦橋脚の写真を撮りたかったのですが、ここ数年のうちに何度も発生した豪雨の影響で橋周辺の地形が改変されてしまい、今回訪れた時は河原まで下りることができませんでした。
こんな写真も撮っておきたかったです(この写真は2015年1月訪問時にガラケーで撮ったもの。)。
さて、母・姉が飽きてきたので、次の場所へと移動します。
国道42号を走ってやって来たのは、大台町神瀬にある神瀬橋。明治40年(1907年)竣工の煉瓦アーチ橋です。説明板には隣接地に紀勢本線が建設された際に二重アーチだったうちの一つを埋め立てたとあります。
橋の全景を撮影するには河原から見上げるようなアングルになるのですが、タイミングが悪いことにちょうど逆光…。撮影した写真データは真っ黒だったので、思いっきり明度を補正してあります。
橋の側面に取り付けられている銘板。「神瀬橋」とあります。
川の中を薮をかき分けて進み、橋の反対側へと出ました。いかにも煉瓦の塊が架かっている感じで重量感があります。
ちなみにこの橋、欄干部分がガードレールになっているため、わかっていないと道路から見ても煉瓦橋とは全然わかりません。
3か所目の橋の入口へとやって来ました。ここから橋までは400mほど歩きます。ちなみに、車を停めている場所が旧熊野街道になります。
前回ここを訪れたのは2012年5月。その時は車を停めた場所から砂利道が奥へと続いていた気がしたのですが、その砂利道が見当たらず、しばらく付近を探す羽目に。
自分が歩いていた細い舗装路の下側に薮に覆われた平場が続いているのが見えて、「もしかして完全に廃道になったのか?」とその平場へと下りました。
少し進むと何となく見覚えのある景色が現れました。どうやらここが旧熊野街道で間違いないようです。
採石会社の敷地に沿って進む道でしたが、この辺りの敷地は使われていないようで、9年前とは様相が一変していました。
これまた見覚えのある背の低い煉瓦の欄干が現れました。ねじりまんぽの道路橋に到着したようです。
この道路橋は当初「姉橋」と紹介されていました。旧熊野街道が通る以前にかつてこの付近には兄姉弟妹の名を冠した橋があり、この道路橋の架橋位置付近には「姉橋」が架かっていたらしく、そこから名称を取られました。その後も有志の方々が文献調査などを進めましたが、名称を確定できるような資料が発見できず、現在は名称不明となっています。
欄干はフランス積みされた煉瓦にかまぼこ型に整形された石材が載せられています。
やって来た方向を眺めています。この橋を再発見した人はよく見つけたものです。
橋を渡った先にある広場まで進みます。ここから左方向へと曲がり、雑草に覆われた斜面を下りて河原へと出ます。
河原へと出ました。
真っ暗で申し訳ないですが、これが世にも珍しい「ねじりまんぽ」の道路橋です。前述したとおり、名称も来歴もわかりません。
ここからはフラッシュを焚いて撮りました。
煉瓦アーチの道路橋というものは、鉄道橋梁と比較して数は少ないですが、前述の神瀬橋のようにまずまず存在しています。
しかし、さらに全体的に数が少ない「ねじりまんぽ」に造られたものは、明治時代に開通した「鉄道」の築堤に設置された水路暗渠や人道通路として残っている(けっこう現役で使用・利用されている。)ものがほとんどです。
「道路が上を通る」煉瓦アーチ橋が「ねじりまんぽ」で造られているのは、福井県坂井市のえちぜん鉄道にある「眼鏡橋」と、この橋くらいだそうです。
というように希少な橋なわけですが、知名度はほとんどありません。地元自治体も文化財的な把握はしていないでしょう。廃道趣味の方々に多少知られているくらいであることは、ここへとやって来た道の状況を振り返ってもらえればわかっていただけると思います。
この「ねじりまんぽ」は、捩じり度合いはそんなにきつくありません。川に対しての橋の斜め度合いがきつくないからです。
昔はよくあることですが、クランクになったとしても、川に対して直交するように橋を架ければこんな面倒な施工は必要なかったでしょう。それでも「ねじりまんぽ」にしたのは、それなりの理由に基づく必然性が有ったはずですが、何にも記録が残されていないわけです。
橋の下流側を眺めています。橋の先に段差があり、小さな滝になっています。天然のものか人為的なものかはわかりませんが。
段差の縁のギリギリまで下がって撮りました。橋台部分はコンクリートで施工されていますが、元々は石積み橋台だったのでしょう。分厚く塗り込められているので、昔の様子は全くわかりません。
「ねじりまんぽ」の捩じり度合いが緩い場合、施工の精度を相当きちんとしていないと崩壊してしまうのだそうです。そういう点からしても、技術力のある建設会社が関与していそうですが、その線からも解明できないのでしょうね。
この橋のもう一つの特徴は、アーチ環の部分に縦方向に薄い化粧煉瓦を貼り付けてあること。この装飾も他所では見られない手法だそうです。
わからないことだらけですが、希少であり、建設レベルも高い橋、「ねじりまんぽの道路橋」でした。
帰りも廃道と化した旧熊野街道を歩いていきます。
路肩に「地下電話線あり」の注意看板が残っていました。かつての主要道路の旧道や廃道に電信・電話線が通っていることはありますが、今も電話線が残っているのでしょうかね。
車まで戻ってきました。母がトイレに行きたかったようで、相当焦っていました。
トイレのご要望のため、近くにある紀勢本線栃原駅へと移動。
ホームで写真を1枚。
落ち着いたところで、「どこか寄り道する?」と尋ねたら、姉が「『深野のだんだん田』というのが割と近い所にあるから寄ってみて。」ということで、向かうことにします。
松阪市大石町にある「深野のだんだん田」。段々田の一番上から眺めないと景色がよくわかりませんが、もうそこまでの気力がありませんでした…。