2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。
その3からのつづきですが、ここからは「矢ノ川峠昭和道」を外れるので、おまけの内容となります。
「安全索道 小坪駅跡」へ向かうため、矢ノ川隧道の先にある交差点から右側へと延びていく八十谷林道へと入ります。
「安全索道」とは、明治期に開削された矢ノ川峠の車道のうち、道路状況が最もひどかった尾鷲側の大橋~小坪間の輸送状況を改善するため、1927年(昭和2年)に完成した「日本初の旅客用ロープウェイ」です。もちろん貨物も輸送していました。
ロープウェイの利点は、どんなに険しい地形であっても空中を直線的に輸送できること。絶対的な輸送量は限られますが、なかなか好調でゴンドラを増備して年間4,000人を輸送したそうです。矢ノ川峠昭和道の開通により衰退し、最終的には運営会社の戦時統合により廃止されたようです。
この交差点にはだいぶ傷んだ道標が立っています。八十谷林道はここからは熊野灘の海岸沿いにある三木里へとつながる林道です。
この林道についても、ブログなどを探して様子をチェックしてみましたが、通行困難な状態になっているようです。
この林道の矢ノ川隧道から安全索道小坪駅跡までの区間は、明治時代に開削された矢ノ川峠への道(通称「矢ノ川峠明治道」と呼ばれる道。)を改修したものと言われています。
本編とは全然関係しませんが、この林道で外国人とすれ違いました。ちょっとした驚きでした。世界遺産の熊野古道からは全然外れているし…。一体何のためにどこから来て、どこへ行くつもりなのだろうか?しかもこの深い山の中、近所を散歩するような軽装にリックサックしょって…。
さて、小坪駅跡が具体的にどこにあるのかわからないまま歩き出したのですが(元々行く予定はしていなかったので。)、何がしかの案内があるだろうと高をくくっていました。
しかし、15分歩いてもそれらしい案内が林道には掲示されていません。
はるか眼下に尾鷲の市街地が見えています。
よくわからないまま歩いてきましたが、尾鷲の市街地の眺めを遮るようにそびえる山並みが見えてきました。これはさすがに行き過ぎです。
実は途中で「小坪」と書かれた札が木にぶら下がっているのを見かけていました。その他には何もなかったので、気に留めずに通過しましたが、一旦そこまで戻ることにします。
「小坪」の札が掛かっている場所まで戻ってきました。
周囲の谷側を見渡してみたら、「明治道入口」・「矢ノ川安全索道駅舎跡へ」の木札を見つけました。もう少し目立つ場所へぶら下げてくださいよ…。
少し斜面を下りると石垣がありました。しかし、特に何も案内はありません。もっと下へと行ってみることにします。
どんどんと下っていくと平場がありました。しかし、小坪駅跡を示すような案内板が見つけられません。
平場からは左右に道が伸びていました。「これは明治道なのか?」と思いつつ、右側に伸びる道は矢ノ川峠とは反対方向であり、今まで歩いてきた林道にも合流してくる道はなかったので、関係ない道かもしれないと辿るのは止めました。

※実は、この道の先に安全索道小坪駅跡があると後日知った…。
平場の真下にも道があります。「あれは明治道で間違いないだろう。」と判断。しかし、今日はそこまで踏み込むつもりはなかったので、またの機会にします。
ひとまず、左側へと延びる道を追ってみることにします。
平場の下を通っていた矢ノ川峠明治道との合流地点。歩いてきた方角へと振り返って撮っています。写真だとわかりづらいですが、上下二又に道が分かれています。
で、この合流地点から先、巨岩がゴロゴロしている斜面に見えますが、明らかに「道」があるんですよね…。「これは確認するしかないよなぁ…。」ということで進むことにします。
大きな岩が転がってはいますが、道跡で間違いないです。おそらくこの道は明治道でしょう。
道跡が完全に崩落していますが、その先にはまた道跡が見えています。行けないことはなさそうなので、崩落箇所を渡っていきます。
渡った先には完全に道跡が残っていました。
しかし、またすぐに路盤が崩落しています。
道跡の先端から前方を眺めると、土留めの石垣の残骸があります。そして、その先にはまた道跡が見えています。なかなかいやらしい残り方です…。
また崩落箇所を渡り、次の道跡へと上がりました。
路肩には土留めの石垣がしっかりと残っています。
そしてまたすぐに道跡が無くなりました。崩落した土砂に道跡が埋没してしまっています。その先を眺めると崩れの無い苔生した石垣が見えています。
この先へ進むには、土砂崩れを起こした不安定な斜面を高巻きするか、一旦土砂崩れの下側まで下りて、もう一度道跡まで登り直すしかありません。
そこまでしてこの先の道跡に取り付いても、多分また路盤が崩落していて同じことの繰り返しになる確率が高いでしょう。そして、何とか辿り続けても、じきに矢ノ川隧道付近で八十谷林道に吸収され消滅してしまうはずです。
翌日は弟と奈良県南部の山中にある国道309号行者還トンネルまでドライブする約束をしているので、これ以上無理はしたくありません。ここで引き返すことに決めました。
引き返すと決めた途端、この崩落した斜面を何か所も渡って戻る気力も失せました(笑)。
自分の経験則では、険しい地形であっても、足を引っ掛けることができるだけの足場と木が生えてさえいれば(これ特に重要。)、上り下りすることはできます。幸い、上には八十谷林道があるわけで、この急斜面を上っていくことに決めました(言うほど険しいわけでもないので。)。
明治道の道跡と八十谷林道にそんなに高度差があるわけでもないので、割とあっけなく林道まで上ってきました。
矢ノ川隧道まで戻ってきました。ここからは昭和道をひたすら下っていくだけです。
車を停めた国道42号千仭橋の駐車帯まで戻ってきました。帰りも多少写真を撮りながらでしたが、道中は早足で歩いていたので、1時間ちょっとしかかかりませんでした。
最後のおまけで、駐車帯の尾鷲側にあるミニ廃道も覗いておきます。
典型的な廃道になっていますね。
橋が残っていました。
梅木谷橋とあります。親柱の形状は紅葉橋と同じですね。
全く利用されていないので、路面は荒れ放題です。
あっけなく国道へと合流しました。
現在の梅木谷橋から千仭橋方向の眺め。「矢ノ川峠」の案内標識が目立ちます。
私が車に戻ってきた時に、ちょうど入れ違いで昭和道へと入っていく人がありました。手頃なハイキングコースとして利用している方もいるのでしょう。
今まで国道42号は何度となく通過していながら、入り込むことがなかった旧国道「矢ノ川峠昭和道」をようやく歩き通しました。本来は矢ノ川峠を越えて、熊野市側の国道合流地点までが昭和期に再改修された道なわけですが、まあそこまではいいかなと。
とにもかくにも、高性能の重機など期待できない戦前期に、この険しい地形にそびえる岩盤・岩壁を開削して1.5車線幅の道路を造り上げたのは、なかなか驚嘆に値すると感じました。
次は、少し歩いたことで興味が増した「矢ノ川峠明治道」の踏破を予定しています(今回歩いた区間はもう行きません(笑)。大橋~小坪の区間です。)。それと安全索道小坪駅跡の見物ですかね。