2021年11月13日土曜日、兵庫県朝来市の竹田城跡、神子畑鋳鉄橋及び神子畑選鉱場跡を巡ってきました。
出かけるきっかけとなったのは、弟から「11月13日の土曜日は仕事休みだから、兵庫県の竹田城へ行こう。」との話があったため。どこから竹田城のネタを仕入れたのかはわかりませんが、普段はドライブへ一緒に出かけることがない姉も「行く。」と言い、最後の最後まで迷っていた(長距離だから。)母も結局行くことになり、久しぶりに家族4人でのドライブとなりました。
自宅を早朝5時45分頃出発。国道23号知立バイパス→伊勢湾岸道→新名神→名神→新名神→中国道→舞鶴若狭道→北近畿豊岡道のルートで進み、北近畿豊岡道の和田山ICで下りて国道312号へ。
和田山ICからさらに走ること約2.5km。竹田城跡への最寄りの駐車場の一つである「竹田まちなか観光駐車場」に到着です。自宅から約5時間かかりました。
さて、竹田城跡は正面にある山の頂上にあるのですが、ここでちょっとトラブル発生。母は城跡があの高さの山の頂上にあったとは思っていなかったようで(一応説明したはずなんですが…。)、「(山の中腹まで巡回している)バスに乗っていく!」と聞かず、「本数が少ないから待っているだけ時間がもったいない。」と兄弟で説得。渋々、歩いて登ることに同意しました。
気を取り直して、城跡へと出発です。駐車場から「たけだ城下町交流館」の敷地を通っていきます。
敷地内にある煉瓦構造物。何も説明書きはありませんでしたが、ここはもともと酒造場の跡地(建物の一部は再利用されている。)らしく、一番下に焚口らしきものがあるので大型の竈か何かだったのでしょう。
敷地を通り抜けて、播但線の踏切を渡るとお寺が並ぶ街路に出ます。
右へと曲がり、しばらくこの街路を歩いていきます。
竹田城跡への登山道の入口に来ました。ここからの登山道は「駅裏登山道」と名付けられています。ちょうど播但線竹田駅の裏側にあたるからです。
ここからの道は、城跡を見物するために歩いていく単なる通路ではなく、まさしく「登山道」でした(笑)。
予想以上にハードな登山道を登ること約40分。「竹田城跡料金所」に到着です。城跡まではもう少し登りますが、ここで一旦小休止。
料金所で入場料500円を支払い、城内へと入ります。登ること程なくして石垣が目の前に現れました。
城内からの眺め。さすが「天空の城」と呼ばれるだけのことはあります。
眼下に見える竹田の街。
細長い山頂部の各所に石垣が築かれているので、景色を眺めつつ奥へと進んでいきます。
天守台の石垣が見えてきました。
これは播但連絡道のアーチ橋ですね。
天守台の上から北側の眺め。ここまでに歩いてきた城内を見ています。
こちらは南側の眺め。竹田城跡の紹介写真でよく見かける景色です。この高所によくもまあこれだけの規模の石垣を築いたものだと感心します。
天守台の南側へと下り、天守台を振り返って眺めた景色です。
城内の南の端まで来ました。これで竹田城跡とお別れです。
帰りは違う登山道で駐車場へと戻ります。「表米神社登山道」とあります。
この道が「駅裏登山道」よりもさらにすごい急坂(笑)。行きにこちらを選ばなくて良かったです。
道の名前になっている表米神社へと出てきました。
「せっかく来たから。」と母が参拝中。
「相撲桟敷」。中央に土俵があり(ブルーシートを被せてある所。)、その周りを半円形に囲むように石積みの桟敷が設けられています。兵庫県の有形民俗文化財に指定されているそうです。
表米神社の参道を下っていきます。
播但線竹田駅に停車中のキハ41。
旧木村酒造場。
駐車場へと戻ってきたのは13時半過ぎ。
お腹が減ったので飲食店を検索しましたが、周辺に適当なお店が見つからず、結局近くにあったうどん屋で昼食。
これで今回のメインは終了しましたが、せっかくここまで足を伸ばしてきたので、私の希望で寄り道します(笑)。
竹田城跡からさらに南方向へと移動。同じ朝来市内にある「神子畑鋳鉄橋」へやって来ました。竣工は1885年(明治18年)。日本に現存する鋳鉄製の橋梁では最古のものだそうで、国の重要文化財に指定されています。
この橋は、さらに上流にかつて存在した神子畑鉱山の鉱石を運搬するため、1883年(明治16年)から始められた馬車道の整備に関連して架橋されました。
鋳鉄材は、当時の神奈川県横須賀にあった横須賀製鉄所で製作。兵庫県の飾磨港まで海上輸送されたのち、現地まで陸送されてきたそうです。
この後に見物した神子畑選鉱場跡の説明員さんの話では、どうしてこんな兵庫県の山奥の橋の材料をわざわざ横須賀製鉄所から調達したのかは記録が無いそうです。
ただ、「鉱山開発は明治政府としても重要なプロジェクトの一つだったのは間違いないので、政府が工事に関与していてもおかしくはないですね。」と言われていました。
最後に立ち寄ったのは「神子畑選鉱場跡」。
もともとは銀鉱山として運営されていましたが、資源枯渇により1917年(大正6年)に閉山。その後、1919年(大正8年)に山を隔てた場所にある錫鉱山である明延鉱山の選鉱場として、ここ「神子畑選鉱場」が建設されたそうです。
そして、1987年(昭和62年)に明延鉱山が閉山したことにより、神子畑選鉱場も操業を停止。その後も建物群が残っていたそうですが、これも2004年(平成16年)に解体され、現在の状態になったそうです。
なお、選鉱場内で使用されていた選鉱用機材は、解体の際に東南アジアなどの鉱山へ売却されたそうです。説明員さん曰く、「そこは中古でも日本製の高性能な選鉱用機材ですからね(笑)。」。
インクラインの跡。
トロッコ用のレールでしょうか。
明延鉱山と神子畑選鉱場を結んでいた鉱山鉄道に使用されていた車両。
「明延」と「神子畑」を結んでいたので「明神電車」と呼ばれたり、登山客などの部外利用者から運賃を1円徴収していたので、「一円電車」とも呼ばれていました。
「ムーセ旧居(旧神子畑鉱山事務舎)」。神子畑選鉱場跡や各種鉱山関係の資料が展示されています。説明員の方からの説明を受けることもできます。
弟と二人で見物していましたが(母と姉は車で寝てた。)、ほかに見物者がいなかったためか、説明員の方が事細かに熱心に説明してくれました。
シックナー跡。
「シックナー」を辞書で見ると、「液体中に混じる固体粒子を泥漿(スラッジ)として分離する装置。」とあります。よくわかりませんが(笑)、選鉱場の上部から砕いた鉱石を流し、比重選鉱→浮遊選鉱の順に選別していった後、下部まで流れてきた鉱石成分を含む液体をさらに有用な鉱石成分と不要物と水とに濃縮・分離するための最終装置ということのようです。
今となってはただただ巨大なコンクリート遺構です。
神子畑選鉱場跡にある鉱滓ダム。
鉱滓ダムはウィキペディアによると「鉱山の選鉱・製錬工程で発生するスラグ(鉱滓)を水分と固形分とに分離し、その固形分を堆積させる施設である。鉱滓堆積場とも呼ばれる。」とあります。
神子畑選鉱場跡周辺の地形図を見てみると、鉱滓ダムと思われる場所が3か所あります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
説明員さんが、「鉱山は開発を一度してしまうと閉山後も永久に管理をし続けなければいけません。」と話をしていました。
私「鉱毒などが漏れ出すのを防ぐためですか?」
説明員さん「その通りです。漏れ出すようなことがあれば大変なことになりますからね。今も三菱の関連会社の社員が常駐して監視や工事をしています。」
私「近くに大きなダムがあるのを見ましたけど、工事現場でよく見かける建屋がありますね。」
説明員さん「見られましたか。あそこのダムも管理されていますし、嵩上げ工事をしたりしています。」
一応、観光地での説明で、こんな裏側のことまできちんと話をしてもらえるとは思ってもみませんでした。なかなか良い勉強になりました。
何だかんだで16時半過ぎまで神子畑選鉱場跡でぶらぶら。母と姉が「いい加減にしてほしい。」という感じだったので、帰ることにいたしました…。
帰り道は播但連絡道へ朝来ICから乗り、福崎ICから中国道へ。時々、休憩を挟みつつ名神高速 大津SAまで進んでから晩御飯。
さらに新名神 鈴鹿PAまで進んだところでまたストップ。
ここで弟と運転を代わり、私のこの日の「営業」は終了いたしました(笑)。