2022年2月12日土曜日、長野県塩尻市の旧国道19号の旧片平橋、旧中央本線の旧大岨隧道、旧中央本線の桜沢橋梁を巡ってきました。
付近の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
国道19号桜沢トンネルの旧国道区間にある旧片平橋の最寄りとなる駐車帯へやって来ました。駐車帯は旧国道となったためか除雪されておらず、雪に乗り上げて駐車します。
旧国道から旧片平橋へと続く道を歩いていきます。
旧片平橋です。鉄筋コンクリート造りのアーチ橋で竣工は昭和10年(1935年)。土木学会の選奨土木遺産に選定されています。
奈良井川の河原から見上げるときれいなアーチを眺めることができるのですが、橋の付近の斜面も積雪していて足場がわからないので止めておきました。
こちらは旧国道の片平橋の下部。最近建設された橋と違い橋脚が華奢で、素人目にはこれでよく「木曽高速」と言われた国道19号の交通量を支えたものだと感心します。
片平橋へ来ました。車線の真ん中に立って写真を撮るなんて、現役国道時代だったら絶対にできなかったことです。
親柱にある銘板です。
「昭和39年(1964年)12月竣工」とあるので、それまでは旧片平橋が国道19号の橋梁として利用されていたということですね。
国道沿いの仮歩道を歩いていきます。本来、車道左側に路外へ張り出すように歩道が設置されていましたが、国道指定から外れることに伴い、撤去工事をしています。
旧中央本線の小岨橋梁跡です。国道が拡幅された際に線路敷きのスペースがなくなり橋梁化されたようです。
「明治天皇櫻澤御小休所」(めいじてんのうさくらざわこやすみどころ)の碑。明治13年(1880年)6月26日に明治天皇がここで休憩されたという記念碑です。
明治時代になったとは言え、かつて宿場町であった贄川が近くにあったわけで、大人数の対応(天皇の行幸が少人数なわけがないですから。)ならばそちらの方がいろいろと都合が良かったと思いますが、どうして桜沢集落で休憩することになったのでしょうかね。
碑が立っている家には立派な門がありますが、おそらく天皇陛下が休憩するからと準備したものの一つなのでしょう。
碑の前を通り過ぎ、次は右側へ上っていく路地へと入り込みます。
登ったところにあるのが石仏と旧中央本線の旧大岨隧道。
明王形で忿怒面の馬頭観音像。塩尻市のホームページでも紹介されています。
並んで置かれている石碑。一つは南無阿弥陀仏碑だそうです。
あらためて旧大岨隧道です。今までに何度も訪れているので、特に書くべきことはありません。今も崩壊が進んでいるので、いつまで現状を保っていられるでしょうかね。
次は、馬頭観音像の左側から始まり、わずかな区間残っている旧中山道を歩いていきます。
人の足の踏み跡がまったく無い急坂を登っていくと、旧国道沿いの崖の上へと出ます。
落石防護柵と崖の間にある旧中山道を歩いていきます。地面が雪で覆われているので、気持ち柵寄りを進みます。
崖上を過ぎたところに石碑と石仏が立っています。こういうものが立っているとこの道は街道だったのだと実感できます。
石仏は表面の摩滅が進んでいて、頭の飾りや顔の面立ちがはっきりしませんが、これもおそらく馬頭観音でしょう。
石碑は最初の二文字が「厄除」とわかる以外は、達筆過ぎてさっぱりわかりません。
崖上から下っていきます。
踏み跡がまったく無いまっさらな雪の上を歩くのは、いくつになっても気持ちいいものです(笑)。
雪に覆われて周囲の様子があまりわかりませんが、旧中山道からの続きとなる道跡と思われる窪地を進んでいきます。
旧国道へと出てきました。かつて中山道が通っていた山の端を国道拡幅時(さらには明治時代の車道建設時。)に削り取ったため、こんな形で接続しているのでしょう。
降りてきた場所に立っている「是より南 木曽路」の碑。
さらに北隣にある「尾州領傍示杭跡」の案内板。江戸時代、尾張藩の北限がここ桜沢だったわけです。傍示杭が木杭ではなく石柱だったら今も残っていたかもしれません。
桜沢橋のたもとに立つ「標高812m」の標識。谷底にいるのであまり実感がありませんが、けっこう標高の高い場所にいるわけです。
国道19号桜沢トンネル。桜沢集落付近の険しい地形を回避するため、飯田国道事務所により「桜沢改良」と呼ばれる改良事業が進めら、2021年(令和3年)11月28日に開通したものです。
旧国道の桜沢橋の下にある石垣。おそらく、昔の桜沢橋の橋台跡ではないかと思われます。
ここから桜沢を上流に向かって歩いていきます。
旧国道の桜沢橋の眺め。
桜沢の行き止まり地点まで来ました。正面の谷は埋め立てられていて、その上を旧中央本線が通っていました。
そして、この地点の右側斜面の中腹に桜沢橋梁があります。
名称は橋梁ですが、実態は煉瓦造りの水路トンネルです。
以前に訪れた時は、さらに上流側から水路トンネル内に進入し、この坑口へと出てきました。出てはきましたが、この高低差のために降りることはできず、そのままトンネル内へと引き返しました。
標高の高い、常に日陰の谷底とあって、落差部分の流れは凍り付いています。
ここ桜沢橋梁は、本来の桜沢の谷を埋め立てて、その上に旧中央本線を通しました。そして桜沢の谷へ真横から流れ落ちるように桜沢橋梁(水路トンネル)が設置されています。
同じようなケースの場合、迂回のための水路トンネルを掘削するのでなく、ほとんどは川を覆うように煉瓦や石のアーチを建設し、その上に盛り土をして築堤を築いています。
しかし、周囲の山を見るに旧中央本線が通過する付近の桜沢はおそらく屈曲していたように思われます。屈曲した河川に蓋をすると土石流などが発生した場合に詰まりが発生して水の流れを阻害し、築堤の破壊につながる恐れがあります。そのために新たに沢の流れを迂回させるための水路トンネルを掘削したのだと考えられます。
そのような理由を何か確認できるかと、手持ちの「日本鉄道請負業史 明治編」を読んでみましたが、桜沢橋梁に関する記述はありませんでした…。
桜沢から旧国道を歩き、車へと戻ってきました。時刻は15時45分です。
このまま国道19号を岐阜県中津川市まで走っていくつもりだったので、もう2か所寄り道しました。
奈良井ダム。ダム湖は完全結氷。
旧中央本線 鳥居隧道。氷筍を見に立ち寄りましたが、先客がいて氷筍を撮影中。お邪魔にならないように少しだけ撮って退散しました。