2022年4月16日土曜日、旧津具村(現:北設楽郡設楽町津具)の南部を通る愛知県道80号東栄稲武線の前身道を探索してきました。
今回探索してきた周辺の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
県道80号は、旧津具村の南隣となる東栄町側から来る場合、東栄町内は鴨山川沿いをゆるゆると登ってきますが、町境を越えると一気に急な登り坂となり、旧津具村の高原地帯へと出てくるルートとなっています。町境の標高が505m、旧津具村の高原地帯へと出る地点が659mと、約2kmの間で標高差が150m余りあります。
こちらは戦前の地形図。見比べるとわかりますが、県道80号の前身道であるこの当時の街道は、県道よりも直線的なルートを通って旧津具村の高原地帯へと登ってきています。今回はこの前身道を探索するわけです。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。
現地へとやって来ました。駐車場所は、県道80号が旧津具村の高原地帯から東栄町方面へと坂を下り始めた辺りです。
参考とする戦前の地形図は現在の地形図に比べると精度が甘く、地形の表現もあいまいなので、地形が谷側へと突出している怪しい場所を2か所ピックアップして、しらみつぶしにしていく作戦です。
1か所目。駐車場所から県道を旧津具村方面へと歩き、左側(谷側)へと入り込んでみます。
ここはハズレですね。急斜面で道のようなものはまったく見当たりません。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
2か所目。さらに旧津具村方面へと歩き、再び左側(谷側)へと入り込みます。
ここは先ほどの場所よりもなだらかな斜面ですが、街道が通っていたような形跡はありませんでした。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
県道80号へ戻ってきました。
さて参りました。仕方がないのでもう一度地形図を見直すと、現在地からさらに西側、半場地区の先、地形の突出部に道の記載がないのに家屋の記号が連なっている場所があります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
これは怪しいですね。廃道化により道の表記だけが無くなっているのかもしれません。行ってみる価値ありと判断して、さらに西側へと歩いていくことにします。
半場地区を通る細い道へと合流します。谷側へ向かう道も存在していますね。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
進んでいくと石仏群がありました。他所にあったものの寄せ集めの可能性もありますが、道に向かって立てられているものも何基かあり、どうやらこの道が県道の前身道である街道で間違いなさそうです。
舗装路は左へと曲がっていきますが、真っ直ぐにも道(道跡)が続いているのが見えます。
もう間違いないですね。確定です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ただ、ここの獣害防止柵、扉が付いていません…。たいていは廃道・古道であっても、人の出入りができるよう扉が付いているものですが、これは困りました。
無事に柵の向こう側へとやって来ました。一旦、柵が途切れる場所まで引き返して、山の斜面を伝ってこの場所へと出てきました(笑)。
害獣捕獲用の檻ですね。これも廃道ではよく見かけます。廃道なんて基本人間はもう通らないですから、動物にとっては安心・安全に通行できる道ですよね。
路傍にちらほらと石仏が見えますね。
馬頭観音碑(右側)と判読不能の石碑。判読不能の石碑は地面にうつ伏せになっていました。形状からして供養碑の類と思われます。
三体の石仏。
左側から見ていきます。これは馬頭観音ですね。光背には明治廿六年(明治26年、1893年)とあります。
顔の摩滅が酷いですが、この石仏も頭上に馬頭と思しきものを乗せているので、馬頭観音でしょう。光背には天保十四年(1843年)とあります。
こちらも馬頭観音です。光背には「明治卅六年」(明治36年、1903年)とあります。
判読不能の石碑(左側)と石仏。
前述の石仏群もそうですが、村への出入口となる重要な場所なので、多くの石仏・石碑が寄進されて祀られているのでしょうね。
さて、石仏群の前を通り過ぎると道が二手に分かれます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
右側へと分岐する道を少し歩いてみます。尾根部を一気に下っていっているので、この街道の旧道といったところでしょうか。
それでは、左側の道を下っていくことにします。道の流れからして、こちら側がこの街道の最終期の「本道」でしょう。
分岐から少し下った所にも石仏がありました。破損して頭部がありません。台座が2つあるにもかかわらず、もう一体は見当たりませんでした。
山肌を巻くように下っていきます。
路肩がコンクリートで補強されています。道としての補修ではなく、治山工事によるものでしょう。
古道の証しとも言えるU字型の道跡が続いています。
道跡は山肌に沿ってさらに右へと巻いていきます。
このカーブ、違和感ありますね。道が山肌から離れて造られていて、その内側に窪地があります。窪地の部分に水でも湧いていたのか、元々あった山肌が崩落し整地してこのような状態になったのか。
この辺りから岩肌が露出する斜面がちらほら現れてきます。
岩の中へと根が張れず、岩を包むように根が這っています。
つづら折りが連続します。
ようやく川沿いまで下りてきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここから先は林道化されているようです。が、ご覧のとおり倒木がひしめいており、思わずため息が出ます…。間伐した木々をそのまま放置してあるのでしょう。
林道化されているのを見て、半ば興味は薄れてしまいましたが、県道80号へどのように合流しているか、道中に街道の名残りは残っていないかを確認するため、先へと進むことにします。
まるでマングローブのような根の張り方です。愛知県内で幹を宙に浮かせるような生え方をしている木を見たのは初めてです(他県でも見たことはないですが。)。
ここまで林道はおおむね道形がきれいに残っていますが、自動車の轍は全く見られません。
高圧線鉄塔の巡視路標識。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
簡易トイレがあります。全く使われている様子はありませんが、かつてこの辺りまではそこそこ出入りがあったのでしょう。
川側の路面が削れてしまい、道幅が3分の1くらいになっています。
対岸に石積みを発見。どうやら橋台ではなく、護岸のためのもののようです。
この川沿いを歩くこと25分、橋の遺構が現れました。石積みの橋台と橋脚があります。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
増水時のことを考慮していないようで、橋台・橋脚とも背が低いですね。見た目どおりの古い時代のものかもしれません。
橋脚の上流側は水切り形状になっています。
川を渡渉して対岸へと回りました。はっきりとした道跡が残っています。
そして急なヘアピンカーブで折り返していきます。このヘアピンカーブの形状からして、この付近は馬車道への改修がされている可能性はあります。
そして間もなく県道80号の法面に埋もれてしまいました。
そのまま法面を歩き、林道の橋へと出てきました。橋の名称は段戸橋。川の名前は段戸川とありました。
ようやく県道80号と合流です。ちょうど設楽町と東栄町の境界になります。
ここからは県道の坂を登って車まで戻ることにします。
県道に合流して歩くこと約2km、25分で車に到着しました。
今回探索で歩いたルート図です。歩行距離は4.6km、時間は2時間30分でした。
最後にこの県道80号の前身道についての経歴を記載しておきます。資料元は旧津具村が発行した「津具村誌」になります。道の呼び方や名称は旧津具村側のものとなります。
江戸時代は古戸道(古戸は「ふっと」と呼びます。)と呼ばれていたようです。古戸は現在の東栄町大字振草字古戸になります。
「津具平の南はずれから古戸村方面へと南下している道。水田の乏しい古戸・川合方面から津具平への出作り道でもあり、上津具・下津具や信州平谷・根羽の人たちが遠州秋葉山詣でに通行した重要な道。」
明治時代に入ると、遠州街道と呼ばれたようです。
「上津具村で伊那街道より分岐し、下津具村を経て振草村に入り、別所街道に接続する郡道。幅員3m弱だが一部に荷馬車が通行できな箇所があった。上津具・下津具の林産物の10%はこの道路を利用して搬出され、逆に遠州で産出された織物、楮などがこの道を経由して長野・岐阜両県へ運ばれた。」
明治42年(1909年)の「上津具・下津具村組合統計」に記載されている道路一覧には「振草街道:下津具村中央ヨリ古戸界ニ至ル」とあります。
大正期には郡道「上津具本郷線」と呼ばれました。大正9年(1920年)に旧道路法が施行され、道路が国道・府県道・郡道・市道・町村道の5種に分けられているので、その際に指定された路線名と思われます。
「上津具で県道「豊橋飯田線」から分岐して、下津具村を経て振草村古戸で県道「本郷飯田線」に接続して本郷(現:東栄町本郷)に至る道路。」
大正12年(1923年)の郡制廃止後は町村道へ格下げになったようです。そのため、大正12年と大正15年(1926年)に県道昇格の請願書が提出されています。特に大正15年は沿線の上津具村・下津具村・振草村・御殿村・本郷町・下川村の六町村長連名で提出されましたが、実現しなかったようです。
その後の経歴は不明ですが、現在の愛知県道80号に認定されたのは、昭和34年(1959年)12月15日です。
一方、道路改修に関する記述は、
「下津具村と振草村は、監督庁の認可を得て大正11年(1922年)以降改築工事に着手し、同14年(1925年)に至り延長6.3kmを竣工した。従って余すところ3kmほどになった。」
とあるだけです。この改築工事の目的は不明ですが、時代的には自動車通行も視野に入れた改築工事であった可能性はあります。
この工事が地形的に容易と思われる振草村古戸側から進められたとして、国道151号(旧別所街道)分岐から県道80号で距離を測っていくと、現在の設楽・東栄町境で約6kmとなります。残り3kmを旧街道経由で測っていくと、終点は下津具の中心地入口となります。
この結果から、少なくとも昭和初期は今回探索した旧街道がまだ使われていたと考えるのが妥当でしょう(あくまでも憶測に過ぎませんが。)。