2022年5月22日日曜日、三重県津市美杉町奥津のJR名松線「伊勢奥津駅」と伊勢本街道「奥津宿」、津市美杉町上多気の「北畠氏館跡庭園」へ行ってきました。
この週末は、「廃道歩きのネタを思いつかないなぁ。」という感じで、せめてどこかドライブにでも出かけようかと考えていました。ふと「北畠氏館跡庭園へ行ったことがないなぁ。」と思い、行ってみることにしたわけです。
自宅から国道23号知立バイパス、伊勢湾岸道、東名阪道、伊勢道と乗り継ぎ、久居ICで高速を降りて、三重県道15号で現地へと向かいました。そして、雲出川に沿っていく県道15号を走行していくと、津市美杉町上多気ではなく山ひとつ西側の集落である奥津へと出ることになります。
せっかくなので、JR名松線の終端駅である伊勢奥津駅へと立ち寄ってみました。JR名松線はJR東海の中でもトップクラスのローカル線です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
駅構内です。
駅前から集落へと歩いていきます。
駅前にある映画館跡の空き地。案内板が立っています。
奥津は、かつて伊勢本街道の宿場町として栄えていたそうです。明治時代に入り、伊勢本街道を歩いての伊勢参りが徐々に廃れていくことで集落は寂れていきますが、昭和10年(1935年)に名松線が伊勢奥津駅まで開通したことで、周辺地域の交通拠点として活気が戻ったそうです。
空き地となった映画館跡は、その往時の賑わいの名残りの場所という訳です。
駅前通りと伊勢本街道の交差点へと来ました。この場所には明治時代に立てられた大きな石柱の道標が立っています。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
交差点に建つ古い店舗「ぬしや」。
交差点を右折し、集落内を西に向かって歩いていきます。
古い案内標識が残っています。かつてはこの道が国道369号でした。
案内標識の先にも、宿場町時代のものと思われる古い家屋があります。
伊勢本街道と交差して美杉町川上へと向かう、県道695号と古い橋。親柱に橋の名前が彫られていましたが、読めませんでした。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
伊勢本街道と県道695号との交差点の眺め。
伊勢本街道「奥津宿」の案内板。
今度は奥津宿の東側へと伊勢本街道を歩いてみます。
宮城橋。旧国道は雲出川の左岸を直進しますが、伊勢本街道は宮城橋で右岸へと渡り、奥津宿の東側にある飼坂峠を目指します。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
宮城橋から先は路地のような狭い道になりますが、道沿いには古い家屋が点々と続いています。
家並みが途切れたところで引き返し、車へと戻ります。
帰りは伊勢本街道を戻らず、雲出川とJR名松線を渡り、旧国道へと入っていきます。
旧国道へと入った所にあった古い看板。「ヂーエッチ號自転車」とあります。ネットで検索してみましたが、該当する自転車メーカーはヒットしませんでした。
伊勢奥津駅に残る給水塔。かつて運行していたSLに給水するための施設です。
ここからは国道369号を東方向へと進み、飼坂トンネルを抜けて美杉町上多気へと向かいます。
北畠神社へとやって来ました。ここは「伊勢国司」北畠氏の居館跡だそうです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
北畠氏は、建武新政期から南北朝内乱期の頃に伊勢へ国司として赴き、戦国時代に至るまで「伊勢国司」を名乗り、一定の勢力を保持し続けました。
しかし、1569年に南伊勢に侵攻してきた織田信長の圧力により、信長の次男「茶筅丸」(のちの織田信雄)を養子として受け入れますが、最終的には1576年に織田氏により滅ぼされました。
さて、北畠神社境内にある北畠氏館跡庭園は、1528年頃に細川高国(細川京兆家15代当主。室町幕府の管領。摂津国・丹波国・山城国・讃岐国・土佐国守護。)により造園された説が有力で、戦国時代に造園された庭園が埋没することなく残されていたものとして貴重な例だそうです。
一時期は室町将軍を差し置いて政権運営を担っていた権力者の細川高国が、わざわざ伊勢の山奥で庭園の造園に関わったのは、当時の北畠氏当主の義父だったことと、なにより高国自身が権力闘争に敗れて京都から北畠氏を頼って落ち延びている状況だったからです。
庭園を見学する場合は、社務所にて入園料を支払います。
庭園内部です。説明によると「池泉鑑賞様式の武家書院庭園」だそうです。「米」字型の池を中心に各種の石木が配されていますが、枯山水庭園の趣きも備えています。日光が差すと木々や苔の緑色が鮮やかに映えて、とてもきれいでした。
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ドライブ | 日記
Posted at
2022/07/09 23:31:30