2022年7月16日土曜日、福島県福島市飯坂町中野の旧国道13号「萬世大路」に残るトンネル「二ツ小屋隧道」へ行ってきました。「萬世大路」を訪れるのは、2008年9月11日以来です。
さて、ここ「萬世大路」は廃道好きならばほとんどの方に知られている廃道であり、またその歴史もよく知られているところですが、少々ここへ書き出してみたいと思います。
「萬世大路」は、旧来、福島県福島と山形県米沢を結んでいた板谷街道に代わる新たな幹線道路として1876年(明治9年)から順次建設が開始され、1881年(明治14年)10月3日に明治天皇を迎えて開通式が行われました。「萬世大路」とは、「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」との思いを込めて明治天皇により命名されたものだそうです。
開通後は福島と米沢を結ぶ交通路として盛んに利用されたそうですが、1899年(明治32年)に福島~米沢間に奥羽本線が開通したことにより、旅客・貨物輸送とも鉄道に奪われていき、「萬世大路」の利用は徐々に衰退していきました。
時代が進み、大正時代になると自動車が普及し始め社会へと浸透していきます。これに伴い、「萬世大路」を馬車道から自動車道へと改修しようとする機運が起こります。これを受け、1933年(昭和8年)から道路拡幅・道路の付け替え・トンネルの道床切り下げ・橋梁の架け替えなど、自動車通行に対応するための改修工事が行われ、1937年(昭和12年)に完成しました(昭和11年とする記事もあります。)。
戦後は国道13号に指定された「萬世大路」ですが、奥羽山脈の山深い峠を越えることにより冬季閉鎖が5か月にも及ぶという道路環境や、戦前の改修による道路施設の老朽化や路面の未舗装という状況が、戦後の増大していく交通量に対応できなくなっていき、新たな道路建設が望まれました。
そして1966年(昭和41年)5月、新たに栗子峠を越える東栗子トンネル(延長:2,376m)と西栗子トンネル(2,675m)の2つの長大トンネルが開通し、明治14年に与えられた「萬世大路」の幹線道路としての役目は85年目に終焉を迎えました。その後、県境の栗子隧道の落盤や道路の損壊・自然回帰による廃道化が進み、現在に至っているわけです。
こちらは周辺の戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「關」:明治41年(1908年)測図・昭和6年(1931年)要部修正測図。
こちらは周辺の現在の地形図です。現在はさらに東北中央自動車道の栗子トンネルが開通し、8,972mのトンネルで一気に福島~米沢間の奥羽山脈を通過しています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
7月16日土曜日の1時50分頃に自宅を出発。国道13号東栗子トンネルの福島側坑口前の駐車帯に12時30分頃到着しました。
国道13号 東栗子トンネル。愛知県在住の私ですが、このトンネルは子供の頃にトラック運転手だった父の仕事についてきて以来、何度も通過していますね。
付近に立っている国道13号の標識。地名板に「二ツ小屋」とあります。
東栗子トンネル前から分岐するこの道を登り、二ツ小屋隧道へと向かいます。
整備され直した道路の終点に建つ「栗子トンネル換気塔」。この場所から東北中央道の栗子トンネルまで2.6kmの斜坑でつながっていて、トンネル内換気に利用されてるそうです。元々は栗子トンネル掘削用の斜坑だったのかもしれませんね。
二ツ小屋隧道へ向かう道は、換気塔の手前で右折していきます。
ガードレールに貼られていた注意書き。
今までの舗装路から砂利道へと変わりますが、この道自体は「萬世大路」ではありません。今も使われているのか、ナンバー無しの軽トラが2台置かれています。
東栗子トンネルを見下ろしています。
木々の間に立つスキー用リフトの支柱。今歩いている道は、昔この場所に存在した飯坂スキー場の作業道だったそうです。
スキー場跡地は、もうすっかり森林へと帰っています。
こういう薮は野生動物が出てきそうで怖いですね。
東栗子トンネル前から歩くこと約20分。「萬世大路」に合流です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
「萬世大路」に入ってから振り返っての景色です。元作業道の方が完全にメインの道路になっています。
それでは「萬世大路」へと歩を進めていきます。
ショベルカーが停まっています。有志による「萬世大路」整備用のものでしょうか。
山側の路肩に石積み擁壁が露わになっています。これは草木を刈ってきれいにしたものでしょう。
ほんのわずか視界が開け、山深さを垣間見せてくれます。
この辺りも石積み擁壁が山側に連綿と設けられています。
地面が露出しているのは車1台分ほどの幅ですが、本来の道幅は草に埋もれてしまった部分にまで広がっています。
ヘアピンカーブです。
ここのカーブの内側に明治時代の切り通しが残っています。急カーブなので、自動車道への改修の際にカーブを外側へと緩く造り直したのでしょう。
降り続いた雨により山から流れ出た水が石垣を洗っています。
この辺りも元の道幅がよくわかります。馬車道から自動車道へと拡幅したとはいえ、今の感覚で言うと1.5車線程度の狭い道です。これではトラックやバスの通行には支障が出たことでしょう。
いよいよトンネルが見えてきました。
二ツ小屋隧道に到着です。東栗子トンネル前から45分かかりました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
開通は1881年(明治14年)9月(明治13年10月という記事もある。)。その後、道床の掘り下げによるトンネル内部の拡大化やコンクリート巻き立てなど、自動車用トンネルへの改修工事を受けて竣工したのは1934年(昭和9年)12月12日のこと(「本邦道路隧道輯覧」(1941年(昭和16年)3月内務省土木試験所発行)及び「福島県直轄国道改修史」(1965年(昭和40)3月建設省東北地方建設局福島工事事務所発行)による。)。
扁額です。扁額には「昭和九年三月竣功」とあり、記録上の竣工年月と一致しません。
二ツ小屋隧道の改修工事は昭和8年5月16日に着手し、同年度中の竣工を予定していました。そのため、扁額用の石材へ彫る日付は、年度の最終月にしておいたのだと思われます。しかし、実際には人手不足や掘削上のトラブルにより、工事は翌9年度へと持ち越しとなります。「福島県直轄国道改修史」によると、坑門の工事は昭和8年(1933年)10月2日に起工し、同年12月15日に竣工したとあります。扁額は坑門が完成した時点でそのまま取り付けられ、その後、竣工年月の修正はされなかったということなのでしょう。
ここでトンネルの少し手前に戻ります。こちらは「鳳駕駐畢之蹟」碑。天皇の行幸一行が途中で御駕籠を止めて休憩することを鳳駕駐蹕(ほうがちゅうひつ)と言うそうです。この場所については、明治天皇が休憩した場所ということになります。
側面には「明治十四年十月三日 御通輦」とあります。
こちらは「山神」の碑。
それでは二ツ小屋隧道へと入っていきます。
一部コンクリートの巻厚が厚くなっています。坑口から程ない場所に破砕帯があったようで、その補強のためかもしれません。
さらに進むと各所で壁面が破れ、岩石が崩れ出しています。この状態でも通行させてもらえるのは、ある意味すごいと思います(笑)。
崩れた壁面を見ると一応鉄筋が入っていることがわかりますが、何とも細くて弱そうな鉄筋です。
トンネル内部の路面はコンクリート舗装です。
山の内部を見学するための観察窓かというくらい、あちらこちらに盛大に穴が開いています。
今度はナンバー無しのジムニーが停まっています。この車も道路整備に使われているんでしょうかね。
反対側の坑口が近づいてきました。
こちらが二ツ小屋隧道の名物、トンネル内の滝です(笑)。雨が降ったおかげで、山からの水が盛大に流れ落ちています。
水浸しとなったトンネル坑口を進んでいきます。
滝から沸き上がったしぶきが靄となって、トンネル坑口から流れ出しています。
扁額です。
このまま坂を下って、次の遺構である橋を目指します。
烏川橋です。これといった特徴のないコンクリート造りの桁橋です。
場所はこちら。
親柱の銘板はすべて剥ぎ取られています。写真の親柱は、少しだけ銘板のかけらが残っていました。
高欄もボロボロになって、鉄筋がむき出しになっています。
対岸へと渡って振り返った眺め。
高欄の鉄筋の編み方がよくわかります。
それでは二ツ小屋隧道へと戻ります。
靄があふれ出る二ツ小屋隧道を再びくぐっていきます。
トンネルを通過し、この地点まで戻ってきました。
トンネルへと向かっていた際、ここから分岐していく平場がどうにも気になっていました。明治14年開通当初からの「萬世大路」の道跡で間違いないはずなので、入り込んでみることにします。
※つづく。