2022年8月20日土曜日、愛知県新城市作手白鳥地区の旧挙母街道を探索しました。
旧挙母(ころも)街道は、現在の名古屋市天白区平針から豊田市を経由して新城市に至る街道でした。明治12年(1879年)の愛知県内の街道名一覧表によると、「縣道二等 挙母街道 愛知郡平針村ヨリ南設樂郡新城村ニ至ル」とあります。
今回の区間を探索することにしたきっかけは、戦前の地形図で旧見代発電所の取水堰堤がある作手白鳥地区を見直した時のことです。
現在の国道301号は巴川に沿って通っているのですが、戦前の地形図をよくよく見てみると旧挙母街道は国道301号ルートよりも西側の山の中を越えていることに気が付きました。

※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行。
ちなみに作手村誌によると、挙母街道の改修は大正2年(1913年)に旧新城町から開始されましたが、旧作手村に至る前に滞ってしまったそうです。それを見かねた当時の作手村出身の県会議員 佐宗九一が村内へと街道改修を継続するよう献身的努力を続け、
大正7年(1918年):保永地内
大正8年~9年(1919年~20年):保永地内~白鳥地内
大正10年(1921年):白鳥地内
大正11年~13年(1922年~24年):清岳地内~高里地内
大正14年(1925年):高里地内~田原地内
と進められたことにより改修は完成を見ました。
この記述から、作手白鳥地区の挙母街道が現在の国道301号ルートへと切り替えられたのは大正8年~大正10年の間と考えられます。なお、昭和4年発行の地形図に新ルートが反映されていないのは、修正測図されたのが大正7年だからでしょう。
この旧挙母街道のルート、現在の地形図にもほとんどの区間が道路として記載されていたので、気楽なルート探索という感じで赴くことにしました。
旧挙母街道と国道301号が分岐していく付近にある「安城市作手高原野外センター」の入口へとやって来ました。安城市民である私、小学生の頃に一度だけ、林間学校でこのセンターを訪れたことがあります。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
旧挙母街道が国道301号ルートから逸れていったであろう予想地点に来ました。ここから斜面へと入り込みます。現在の国道は山を切り崩して直進しており、かつては山の斜面に旧街道が残っていたのだと思われます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
斜面へと入り込むと細い道がありました。しかし、これは国道の切り通しを建設した時に付けられたものでしょう。
国道が眼下に見えています。
山の尾根まで登ると道跡らしいものに遭遇しました。さらに奥へと進んでみます。
浅い切り通しがありました。どうやらこの道跡が旧挙母街道のようです。
切り通しを下ると右側から合流してくる道があります。探索時は右側の道は確認しませんでしたが、一応行き先を見ておくべきだったかなと思っています。
この先は一本道となり、この道が旧挙母街道ということでもう間違いないでしょう。
国道から入り込んで歩くこと20分ほど。分岐点に出てきました。左側には牛舎があります。ここは直進方向で進んでいきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
牛舎のある分岐点から5分ほどで次の分岐点。唐突な形での分岐に行くべきが少し悩みましたが、地形図では左へと入り込むようになっていますし、きちんと刈り込みもされているので、そのとおりに進むことにします。
どうやら正解だったようです。
沢が現れました。古い橋の橋台や石造暗渠が無いか見渡してみましたが、それらしいものはありませんでした。ここから道が右側へと分岐しているので、少し辿ってみます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
分岐した道は、程なくして国道301号の法面に阻まれて途絶えてしまいました。
地形図を見てみると、どうやらこの分岐した道は、旧見代発電所の探索の時に発見した橋跡を通って野郷集落へと向かう道のようです。

※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行。
それでは旧挙母街道へと戻ります。
特に目を引くようなものが見当たらないまま、林道・作業道化した旧街道を歩いていきます。
旧街道に並行する電線に気が付きました。
どうやら新城と作手を結ぶ電話線のようです。電話線は設置当時の主要道路に沿って建設されたようで、その名残からか、今では人すら通らないような廃道に沿って現在も電話線が通っているのをまま見かけます。ある意味、この道が旧街道の証拠とも言えるでしょう。
小さな峠を越えていきます。
林道・作業道は右へとカーブしていきますが、直進方向にいかにもという道跡が見えています。当然そちらへと突っ込んでいきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
旧街道は道路と交差してさらに直進していきます。
そして、小さな川にぶつかって途絶えました。昔はここに橋が架かっていたのでしょうが、目立った痕跡は見い出せませんでした。
対岸からの眺め。築堤はわかりますが、橋台と思しきものは見当たりません。
ここからは舗装路を歩いていきます。
左側の山の斜面に旧街道と思われる道が付いていますが、入口が人家に入り込んでいるようだったので、この箇所は通りませんでした。
程なく旧街道と思われる道が合流してきました。
わずかな距離だったので、逆戻りして辿るのは止めました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さてさて、この場所には鳥居が立っています。しかし、神社の社殿は全然見当たりません。
鳥居をよく見てみると扁額には「本宮山」と彫られています。
そして、鳥居の傍らには「正一位 砥鹿神社」の石碑。
この二つの要素から考えるに、この場所は砥鹿神社の神奈備山である本宮山の遥拝所だったのではないでしょうか。実際には視界が開けていないので、直接本宮山を目で見ることはできませんが、鳥居の立っている方角からして、間違いはないかと思います。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
もう一つ考えられる理由があります。この鳥居が立っている交差点から国道301号へと向かうと、国道との交差点に本宮山の登山口であることを示す古そうな石碑が立っています。
現在の本宮山のメインルートは豊川市側から本宮山の南面を登るルートですが、かつては新城市作手側から尾根を縦走して本宮山へと向かうルートも使われていたようで、この鳥居が本宮山への登山口を表していたのかもしれません。
燈籠の石柱には「大正六年一月」の年号が刻まれています。大正6年は西暦で1917年。この鳥居の前を通る道が挙母街道であった時代のものです。
鳥居の南側にある水場。祭祀用の水場なのか、本宮山へ登る前の水垢離の場なのか、街道沿いであるので単に牛馬の水飲み場だったのか。これも一体何なのかわかりませんね。
鳥居とは道路を挟んで反対側にある石仏と石碑。
明王形の石仏ですが、頭に小さな馬頭を頂いているので、馬頭観音のようです。
百八拾八ヶ所塔。「百八拾八ヶ所」というのは、四国88か所、西国33か所、坂東33か所、秩父34か所の合計188か所の観音霊場を表しています。これだけの功徳を持って供養するという意味でしょうか。
石仏・石碑側から見た鳥居の眺め。
それでは先へと進んでいきます。
※その2へつづく。