2022年11月6日日曜日、本宮山の「新城登山口」から本宮山山頂までを往復し、その足で「新城登山口」の近くから始まる廃林道を歩いてきました。
さて、本宮山の山行記録をネット検索すると、この廃林道を「新城登山口」から本宮山に至る登山道「新城道」として紹介しているものをいくつか見かけます。
しかし、下記の写真のとおり「新城登山口」からの参拝道とこの廃林道は接続しているわけではありません。ただ、その辺りを言及している記録はありませんでした(まあ、「道」そのものに興味が無ければそれも当然ですが。)。
「新城登山口」へ向かうため、国道301号和田峠の途中にある駐車帯へとやって来ました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
駐車帯から何気に山側を見た時に、大きな石碑が立っているのが目に入りました。この国道は何度も通っていますが、今まで全然気が付きませんでいた。
文言を読むと「林道開鑿記念」とあり、上部には「其功不朽」とあります。書は愛知県知事 田中 廣太郎 氏によるもの。田中氏が愛知県知事に在任していたのは昭和12年(1937年)から昭和15年(1940年)のこと。そして裏面には「昭和十三年四月建立」とあります。
「林道開鑿記念」との文言を見た時は、てっきり戦後のものかと思いましたが、これは想像していたよりも古い石碑でした。
現在、国道301号と廃林道は切り離されていて、人目に付かない状態になっています。国道とは段差が付けられていて、なおかつ廃林道の出入口には盛り土がされています。
盛り土の奥へと入ると明瞭な道跡が残っています。
この後は、まず本宮山までの参拝道の探索を行うため、廃林道の探索は戻ってきて時間があれば行くことにしました。
山頂から戻ってきて時刻は16時10分。間もなく日が暮れようかという時間ですが、せっかくなのでアタックすることにしました。
現代の「林道」だと、少なくとも自動車が通れる道幅は確保されているイメージを持っていますが、この道幅は軽トラでも厳しいのではないでしょうか。
道幅が広がってきました。
岩壁を削って、道幅を確保しています。
一旦は自動車が通行できるレベルの道幅になったと思ったら、ついに軽トラでも通行不能な道幅になってしまいました…。しかし、私のテンションは逆に上がってきています(笑)。路肩の乱積みされた石積みの擁壁。まるで明治期車道のような雰囲気です。
狭いですね。明治期車道はいわゆる馬車道・荷車道ですが、それらの道よりも狭い。ちゃんと「林道」として木材搬出などに利用された道なのでしょうか?
それはともかくとして、急傾斜地に石積みで路盤を確保して道路を通すというシチュエーションは大変結構であります(笑)。
暗渠が見えてきました。
場所はこちら。
覗いてみると、側壁はコンクリート製で、天板は石材になっています。粗雑な造りでしたが、コンクリートを使われているところから見ると、やはり記念碑どおりの時期の建設のものでしょう。
この場所は谷側を細い道で通っていますが、山側の岩盤には段差が付いており、掘削し切れなかったのかと思われます。本当なら岩盤を平らに仕上げて、谷側には石積みの擁壁を築き、道幅を確保したのだと考えられます。
ここも石積みの擁壁で道幅を確保していますが、道幅が狭いですね。
大きく上部まで岩盤を掘削して林道を通しています。ここまで「狭い、狭い」と連発してきましたが、この林道工事が相当な難工事だったことは想像に難くありません。
場所はこちら。
すっかり昔の街道レベルの道になってしまいました。
ここまでの道中、岩が剥き出しの荒々しい場所が多いですね。
倒木を越えていきます。
深い谷底を流れていた沢が接近してきました。
どうやら林道の終点に来たようです。正面に岩があり、大きな段差になっています。
場所はこちら。
そして、「この先はどんな様子かな?」と覗いてみたところ、何と林道はまだ先へと続いているようです。もう明らかに「車」が通行できる道ではないですが、岩盤を掘り下げて道形にしてあります。
「こんな良い廃道が本宮山にあるなんて!」とまたテンションが上がります(笑)。今回はすでに日没が迫っているため、あんまりのんびりと留まって写真を撮っているわけにもいかず、残念ながらそこそこの枚数を撮ったら移動です。
沢の真横を通り、林道はさらに続いていきます。
沢に接近したことで、だいぶガレ場が増えてきましたが、まだまだ道は鮮明に見えています。
ここはもう徒歩道の幅しかありません。周囲は岩なので、開通時からこの幅だったのかもしれません。
すでに16時半を回っていますが、ここまで来たら区切りの付く所まで行くしかありません。
陶製の土管。現在ならコンクリート製の土管かコルゲート管を使っているので、もしかしたら戦前製のものかもしれません。
倒木や雑草などが増えてきましたが、まだ林道を追っていけます。
林道が削れてしまい、沢の水が流れ込んでいます。
沢のほぼ最上流まで来ました。ここで左へとヘアピンカーブしていきます。
そして伐採用の作業道へと出てきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この先、作業道を進んでも直に本宮山スカイラインへと合流するだけなので、廃林道の探索はこれにて終了し、引き返すことにします。帰りは作業道から本宮山臼子道へと入り込み、薄暗闇となった植林地の中の山道を急いで下っていきます。このような場所で急ぎたい時は、直線的なルートを取る古道の徒歩道に勝るものはありませんよね(笑)。
本宮山山頂への往復時に通った高圧線鉄塔。往復時には明るかった場所も夕闇に沈み始めています。
17時05分、無事に車へと戻ってきました。最後はスマホのライトを頼りに歩く状況でしたが、一度通った道なので迷うことはありませんでした。
今回のルート図です。
さてさて、この廃林道の建設目的を考えてみたいと思います。戦前開通の「林道」は珍しいので、地元の安城市図書情報館へ出かけて、地誌などの本をあたり、該当しそうな記事を探してみることにしました。
まずは新城市の「新城市誌」で本宮山や林業の項目について調べてみましたが、関係する記事は見当たりませんでした。次に「愛知県議会史」の7巻(昭和7年から12年の議事が掲載されている。)で林道の建設や補助金に関する議事が無いか探してみましたが、これも該当するような案件がありませんでした。
最後に「愛知の林業史」という本を調べてみました。やはり、この林道についての記事はありませんでしたが、戦前の林道建設に対する助成事業ついての概略的な記事がありました。
その記事によると、昭和7年(1932年)に国の時局匡救林道助成事業及び山村救済林道助成事業というものがあったようです。これらは当時勃発した世界恐慌に端を発する不況により大きなダメージを受けた山村地域を救済するために行われた助成事業の一つです。
この助成事業は、「小規模な林道を普遍化することを本旨とした助成」ではありましたが、当時の国の山林局長通牒(昭和7年山第1297号)には、「ナルベク短距離ノ林道ヲ多数助成スルヲ本義トス、…ナルベク多数ノ山村救済ニ努メラレタシ。」とあります。
乱暴に言ってしまえば、「とにかく短距離でも良いので、林道建設をするのであれば助成する。その建設事業によって山村地域での雇用を確保し、もって住民の救済を図りなさい。」という訳です。
この記事を読んで、今回歩いた廃林道はこの助成事業に基づいて建設されたものではないかと推測しました。
・記念碑の建立は昭和13年であり、当然それ以前に工事が始まっているわけで時期的には符合すること。
・距離の短い一林道の記念碑にわざわざ愛知県知事が揮毫しているが、当時は官選知事(選挙で当選した者ではなく、内務省を中心とした政府官僚より任命された知事。)であり、この林道建設が国の助成事業の一環で施工されたものであれば、このような事もあり得そうなこと。
・林道の規格が、建設当時も存在した自動車どころか、牛馬車でも通行困難なレベルだが、とにかく建設工事を実施して雇用を生み出すことが目的だったから、規格は二の次だったのではないか(場合によっては、道路の完成度や実際に利活用できるか否かすらも問題にならなかったかも。)。
図書館で調べ物をしただけでは、上辺をなぞっただけで本当のところはわかりませんが、状況についてはある程度合致しているので、自分としては納得いきました。
まあ結局のところは、想定外で遭遇した物件が自分好みのなかなかの出物だったのがうれしいだけなんですけどね(笑)。
※2023年11月4日追記
最近得た知識から推察すると、この廃林道は「木馬道」として造られた林道だったのではないかと考えます。「木馬」(伐採した木材を搬出するための木橇。)を通すための「木馬道」であれば、この廃林道の規格で十分であり、実際、他所で探索した「木馬道」の規格も同様レベルか多少幅広い程度のものでした。
路面も、自動車や牛馬車の通行を考慮するとしっかりと整地する必要がありますが、「木馬道」では「木馬」を滑らせるための横木である「盤木」を設置できる程度に整地できればよく、路面を整地したり造成できない場所は桟道を渡したりと、建設上の自由度は比較的高いと思われます。
また、「愛知県」が建設に関わった「木馬道」の記録が、昭和3年度(1928年度)のものですが「愛知県林業報告」にあるので、この推察を裏付ける材料になるかと思います。