2023年1月8日日曜日、山梨県南巨摩郡身延町にある廃トンネルなど3か所を巡ってきました。まずは旧国道52号の廃トンネル「下山隧道」と、国道から格下げ後、町道として現役の「榧ノ木隧道」の2か所を訪れました。
今回は、3か所目となる廃トンネルの訪問記録を記します。「訪問」と言うよりも、明らかに「探索」でしたが(笑)。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。
榧ノ木隧道から南部町方向へと国道52号を進み、最寄りとなる駐車帯へとやって来ました。
場所はこちら。駐車場所から目的地と推定される場所まで、徒歩で向かいます。地形図で見ると富士川沿いに破線道があるようなので、それを利用するつもりです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
国道から進入ポイントへと向かう細い道へと入ってきます。
ところが、進入ポイントに到着して確認したところ、沢へと落ち込む急傾斜の斜面があるだけで、どう見ても破線道が見当たりません…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
仕方がないので、南隣にある小さな沢を下ってみましたが、突き当りが崖…。
次は、破線道が分岐しているはずの沢の対岸へと移動。戦前の地形図だとこちら側に徒歩道があったようなので、道が残っているかわかりませんが、取りあえず進入してみます。
3軒ほどの家屋が残る無人の集落を通り抜けたら、鬱蒼とした竹薮に遮られ、進めなくなってしまいました。この後も、竹薮には散々苦しめられることになります…。
山の中を上り下りしながら、なんとか富士川を目指して進んでいくと、低い尾根の突端に出ました。そして、眼下には興味を引くような平場。
何とか平場へと下りて、周囲の様子を見てみると、どうやら道の分岐点のようです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
沢へと下る道があったので進んでみます。
なんと斜面に立派な石垣があります。「これは橋台だな。ということは『南部新道』へ出てきたんだ!」。
対岸にも石垣があります。こちらの石垣は、おそらく沢水による洗掘を防止するための擁壁でしょう。
先ほど「南部新道」という言葉を出しましたが、ここで少々説明を。「南部新道」という呼び名を知ったきっかけは某著名廃道系サイトです。探索時点では、廃トンネルが残るこの廃道が、かつて「南部新道」と呼ばれる道だったとしか理解していません。
今回ブログを書くにあたって、ネットで「南部新道」の出典をいろいろと検索してみましたが、全然わかりませんでした。結局、この廃道について私がわかった事柄は、某著名廃道系サイトとネット検索でヒットした「身延町誌」に記述されていた内容まででした。
書き表すと、従来の街道である「身延道(駿州街道)」に代わって、明治9年(1876年)から明治11年(1878年)にかけて、身延町大野から南部町中野の間の富士川沿いに「新道」が建設され、「縣道一等 駿州往還」と呼ばれたこと(新道区間も縣道に含まれた。)。その後は大正期の道路法施行により「府縣道 甲府静岡線」となり、昭和7年の榧ノ木隧道竣工を含むルート変更により府縣道ではなくなった。というところまでです。
身延町誌では「新道」または「縣道」と記されており、「南部新道」という言葉は全く出てきません。「南部」は隣町の南部町を指しているので、あえて記していない可能性もあります。南部町は「南部町誌」を発行しているので、閲覧することができれば新しい情報が得られるかもしれません。
それでは話を戻します。
ここで橋跡を見つけたわけですが、一旦逆方向となる身延町大野側へ少し進んで、南部新道を辿ってみることにしました。
路肩に土留め擁壁が残っています。廃道は目立つ遺構が少ないので、このような石造物はやはり目を引きます。
土留め擁壁を確認したところで、あっけなく寄り道は終了。寄り道でこの折り重なった枯れ竹を乗り越えていく気にはなりません。
沢まで戻ってきました。この先も沢がある場所は、このように深く抉れていることが予想されます。この場所は沢へと下りられる道が残っていましたが、この先もあるとは限らず、頭が痛い問題です。
沢底から両側の廃道を見上げます。高低差10m以上はあるでしょう。
急斜面を登って、対岸にある廃道の続きへと出ます。
そして、ほんの少し歩いたら笹薮の海…。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
背丈以上の高さがある笹薮で前方が見通せず、このまま突っ切って進めるのかわからなかったので、木によじ登って前方を偵察。少なくとも崖崩れはしていないようです。
至る所にぬた場がある笹薮を勢いを付けて突っ切り、なんとか笹薮の海は突破しました。
そして、また深い沢に遭遇です…。
足場になりそうな場所を選んで、露出している木の根っこや笹にしがみついて沢底へ。また対岸の廃道へと登り直します。
今度は廃道の路面が大きく崩落しています…。
急斜面で下りることができないので、山側へ高巻きして迂回。しかし、密生した竹薮と折り重なる枯れ竹が行く手を阻みます。体をよじり、跨いでくぐって、わずかなすき間を見つけながらジリジリと進んでいきますが、「なんでこんなことしてるんだろう…。」という気分になってきます…。
10分ほどかかって、ようやく密生地帯を脱出。
久しぶりに廃道が現れました。ここでちょっと一息つきます。
ホッとしたのも束の間、もう嫌になるほど折り重なった枯れ竹の群れが現れました…。「こんなの通り抜けられるわけないだろう!」と心の中で愚痴ります。
「もういいや、さっさと沢へ下りよう。」と沢底へ迂回。沢の中まで枯れ竹が折り重なっています。
対岸の廃道へ登り直し、枯れ竹が無ければ歩いたはずの場所を眺めます。長くて立派な石垣が残っています。沢に沿った道なので、法面を守るために石垣で固めたのでしょう。
「ヘアピンカーブの地点に暗渠が残っているかも。」と思いながら、奥へと進んでいきます。
暗渠が残っていました。一瞬、石アーチかと思いましたが、よく見ると石をコンクリートでアーチ状に固定してあるようです。
そして、沢から上がり、頭を上げたところ、「あっ、あった…。」。
やっと3か所目の目的地である無名の廃トンネルに到着しました。廃道側から来ると廃トンネルは直角方向なので、山の陰に隠れて直前までわかりませんでした。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
まさにこのトンネルです。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。
さてこのトンネル、扁額が無いため名称は不明。建設された時期も経緯も不明のようで、「身延町誌」にも記録はありません。ただ、戦前の地形図が測図された昭和3年には存在していたことは間違いないでしょう(このコンクリートトンネルではなく、素掘りトンネルだった可能性もありますが。)。
関係性があるのかはもちろん不明ですが、坑門から突出したアーチ部の分厚い巻き立ては下山隧道を彷彿とさせます。
丁寧に造られた感じで、見た目の雰囲気だけで言えば、粗製乱造の昭和戦中期ではなく、昭和初期のコンクリートトンネルと言って全然差し支えないように思います。
トンネル内部へ入っていきます。シミは多いですが、特に剥落している箇所も見当たらず、きれいなものです。
指摘されていることですが、路面には車両の轍が全くありません。
現在の国道52号である峠越えルートが開通した昭和7年以降、この廃道が利用されなくなっていったとして90年余が経過しているわけですが、旧版地形図に描かれているということは当時は一般に供用されていたわけですし、そうなれば自動車は通っていないとしても、荷車や馬車は通過していたはずです。長い年月で路面が均されてしまったのでしょうか。
トンネル内は全面コンクリートで覆工されていますが、あちらこちらで砂利が浮き出ています。建設された当時のコンクリートの製造品質によるものでしょう。
反対側の坑口へと出てきました。こちら側は土砂が流入して、半分ほど埋没しています。
反対側の坑門です。こちら側も扁額はありません。
廃トンネルを後にして、廃道を進める所まで進んでみることにします。
また路面が崩落しています。山側へ迂回し、先へと進みます。
廃道の川側に標石が立っています。読み取れたのは、「山梨縣」と「右 二八五」という文言ですが意味不明です。
次に現れたのは、建設省のものと思われる標石。「建 33-4」とあります。富士川の河川区域の境界を表す標石なのでしょうか。全然わかりませんね。
また崩落箇所に遭遇です。山側へと迂回します。本当にこのパターンの繰り返しが続きます。
明治期車道(馬車道)らしい道幅に戻りました。
倒木が絡まっていますが、通過には支障なさそうです。
川側の路肩には石積み擁壁が残っています。ここで落ちたら富士川まで真っ逆さまです。
けっこうな落差のある崩落箇所に突き当たりました。一応、山側に獣道のような踏み跡が残っていましたが、この先を探索しても同じことの繰り返しにしかならなそうなので、ここで引き返すことにしました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
廃トンネルまで戻ってきました。帰りはこのまま廃トンネルのある尾根へと登り、短距離で戻れそうなルートを探します。
尾根へ登ると古道を発見。これは助かります。
見覚えのある場所へと出てきました。国道から曲がって入り込んだ細い舗装道です。廃トンネルからこんなにあっけなく出てこられるとは、ここまでの苦労は一体…。
場所はこちら。このルートがわかっていれば、廃トンネルまでほぼ一直線でした…。まあ、廃トンネルを訪問した誰かが接近ルートを公表しない限り、どのルートが最短かは現地を歩き回ってみないとわかりませんからね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
最後に追い打ちをかけるような急坂を国道52号まで登り、やっと車へと戻ってきました。出発して約3時間半が経過していました。
ここ最近の探索では最悪の部類に入る悪コンディションにすっかりグロッキーです…。廃トンネルそのものの情報はあっても、アプローチに関する情報が乏しかったので、接近するルートが試行錯誤になり無駄足が多かったのと、とにかく竹薮と枯れ竹と路面崩壊がねぇ…。
まあ、これで目的は果たしたので、新しい情報でも入らない限りは再訪することはないでしょうけどね。