2023年1月15日日曜日、静岡県浜松市天竜区にある国道152・362号の鹿島橋と煉瓦トンネルの鳥羽山洞門へ行ってきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらは鳥羽山公園の駐車場。グーグルマップで目的地周辺の駐車場所を探してみたところ、ここが適当そうな場所だったのでやって来ました。
鳥羽山にはかつて鳥羽山城というお城があり、現在は公園になっています。最後に立ち寄ってみたいと思います。
まずは鹿島橋へと向かうため、鳥羽山を下りていきます。
下りていく道は、かつて二俣(天竜区の中心街)と浜松を結ぶ街道の峠道だったそうです。
細い路地を見下ろします。この真下には後ほど紹介する鳥羽山洞門があります。
「筏問屋 田代家住宅」の裏手へと下りてきました。今は素通りしますが、こちらも後ほど訪れてみたいと思います。
天竜川に架かる国道152号・362号の橋梁「鹿島橋」へとやって来ました。
鹿島橋の開通は昭和12年(1937年)。同地に明治44年(1911年)10月に開通していた吊り橋「天竜橋」が、昭和時代に入って自動車を含む交通量の増大(信号所を設置して通過車両の交通整理をするほどだった。)と老朽化の進行に悩まされ、その解消のため新たに架橋された橋梁です。
土木学会発行の「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選」によると、全長は216.6m。現存する戦前の道路用鋼トラス橋で最大のスパン(102m)を持つ上曲弦トラス橋だそうで、Aランク(国指定重要文化財相当)に評価されています。
こちらは鹿島橋のやや上流側に現存する旧浜名用水取水口跡。昭和17年(1942年)から昭和21年(1946年)にかけて建設されました。その後、昭和53年(1978年)にさらに上流に船明ダムが完成して取水口がダムへと移動したことにより、その役目を終えました。
この取水口跡はご覧のとおり天竜川の水面とは接していません。上流に多くのダムがあり、水量が減っていることもありますが、進行し続ける天竜川の河床低下により、常に取水量不足に悩まされていたそうです。
鹿島橋のたもとへと来ました。このまま対岸へと渡っていきます。
対岸の橋のたもとです。
下流側には天竜浜名湖鉄道の天竜川橋梁が見えています。
戦前製の武骨な鋼橋の姿を眺めながら二俣側へと戻っていきます。
二俣側へと戻ってきました。
下流側へとしばらく歩きます。
天竜浜名湖鉄道の天竜川橋梁です。昭和15年(1940年)完成。全長は403mで、3連トラス橋と7連桁橋の構成となっており、国の登録有形文化財に指定されています。
鳥羽山をくぐり抜ける天竜浜名湖鉄道のトンネル。名称はわかりませんでした。
トンネルの横にある椎ヶ脇神社御旅所。椎ヶ脇神社の本社は鹿島橋を渡った対岸にあります。「御旅所」というのが気になり調べたところ、椎ヶ脇神社の例大祭の時に、祭神が神輿に乗って天竜川を渡り、一泊する場所だったそうです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
椎ヶ脇神社御旅所から歩くこと2分。ようやく今回の本命「鳥羽山洞門」へ来ました。
鳥羽山洞門は、明治32年(1899年)の開通。トンネル延長は137.8mになります。かつて二俣と浜松を結ぶ街道は、トンネルの真上にある鳥羽山峠を上り下りしていたわけですが、その峠越えの労を解消するために開削されたトンネルです。
以下は天竜市史下巻に記載されていた鳥羽山洞門に関する記事の抜粋です。
「浜松・二俣間道路」
「浜松町元城から二俣町二俣に至る道路で、古くから二俣西街道と呼ばれていた。明治26年(1893年)7月、路線整備のために浜松町、曳馬村、有玉村、中郡村、美島村、平貴村、小野田村、麁玉村、赤佐村、二俣町で「浜松町外九ヵ町村組合」を組織。」
「この組合の最も重要な事業が鹿島の天竜川に橋を架けることと、鳥羽山に隧道を掘ることであった。鳥羽山洞門は、明治32年(1899年)9月に開通。長さ75間(約135m)、高さ12.5尺(約3.8m)、道幅12尺(約3.6m)、工事費は22,618円33銭1厘であった。」
扁額は制限高・制限幅の注意標識に挟まれていますが、文字を読み取ることはできます。普通、トンネルのことを昔は「隧道」と表記していますが、ここは「洞門」と表記しています。
アーチ部分は焼過煉瓦の4重巻きです。
かつてトンネルの坑口付近は鉄骨で補強されていましたが、現在は鉄骨が撤去されて、代わりにメッシュで覆われています。
中央部は煉瓦巻きのままになっています。古い道路用トンネルだと、中央部は素掘り剥き出しのままが多いですが、このトンネルは総煉瓦巻き立てになっています。
反対側の坑口付近も天井がメッシュで覆われています。
反対側の坑門と扁額です。
アーチ部分を見ていたら、煉瓦を竪積みにしている箇所がありました。鉄道用の煉瓦アーチでは時々見かけますが、道路用煉瓦トンネルでは初めて見ました。
それではまたトンネルをくぐって戻ります。
トンネル遠景。手前の建物は筏問屋の田代家が明治30年(1897年)に建てた船宿で、昭和初期まで天竜川を筏流しで下ってきた筏師が宿泊していたそうです。
「筏問屋」田代家住宅です。主屋は安政6年(1859年)の再建です。田代家は、徳川家康が浜松城を本拠地にしていた時代に朱印状を下されたことをきっかけに、天竜川を行き来する船や筏に課税する役所の請負をしたことで大いに栄えたそうです。江戸時代に入ると名主と渡船場の船越頭も務めました。
ボランティアの方に説明を受けながら、主屋の中を興味深く見学させてもらいました(その分、部屋の写真を撮るのをすっかり忘れましたが…。)。ボランティアの方によると、田代家が朱印状を下されたのは、武田氏の遠州侵攻の際に、徳川方の天竜川渡河に協力したことがきっかけらしいです。
実際、武田氏は信玄・勝頼の二代に渡って徳川氏と二俣城(天竜区二俣の天竜川河畔にあった山城。)の争奪戦をしていますので、ほぼ事実なのでしょう(家康による遠江領の領地経営について、地元の有力者として協力していたようですし。)。
最後に鳥羽山城跡へと立ち寄ります。
各所に背の低い石垣が残っています。
大手門跡。
鳥羽山城跡の説明板。隣の山にある二俣城を巡る徳川氏と武田氏の攻防の際には、鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれたそうです。徳川家康の関東転封以降は堀尾氏が入城し、現在残る石垣を有する城郭へと改修したそうです。
山頂からの眺め。眼下に鹿島橋が見えています。
四等水準点「鳥羽山」。標高は108.52mです。
東門跡。
暗渠。
城跡南面の石垣。発掘調査の結果によると、堀尾氏入城後は、戦時用の城ではなく、迎賓館的な性格を帯びた城へと変化したようです。
車へと戻ってきました。いろいろな場所を巡りましたが、歩き回った時間は2時間ほど。当日は曇天ながら気温が17度まで上がり、汗ばみながらの散策となりました。
さて、帰宅後、いつも通りにブログを書くための復習と資料収集でネット検索をし、ヒットした記事を読み漁っていましたが、とんでもないブログを見つけてしまいました(廃道好きな人間的に(笑)。)。
鳥羽山には、鳥羽山洞門が開通する前にも別のトンネルが存在していたというもの。そのブログによると、鳥羽山洞門が開通した明治32年よりも古い地形図の違う地点にトンネルの記号が記されているそうです。ブログ主は実際に現地を訪れ、トンネルの埋没地点と思われる場所を確認しています。
「今昔マップ」により確認したところ、鳥羽山洞門の開通よりも10年古い1889年~1890年の地形図にトンネルが載っています。現在の地形図に書き込むと以下の場所になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
これは早急に現地へ行って確認してみないと気が済まない…。しかし、このブログを書いている時点で実はまだ再訪していません。先週は資格試験の受験があり、今週末はラリー絡みの用事があるので、ちょっと行くことが難しい…。
再来週までお預けです…。