2023年2月23日木曜日、静岡県掛川市佐夜鹿に残る国道1号の前身道「中山新道」の跡を歩いてきました。
やって来たのは国道1号小夜の中山トンネル付近。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
国道1号小夜の中山トンネル付近の戦前の地形図です。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。
ちょっと長いですが、ここで「中山新道」の歴史を記しておきます。
かつて、金谷宿(現:島田市金谷)から日坂宿(現:掛川市日坂)の間の東海道は、現在の国道1号のルートとは違う場所を通過していました。金谷坂・菊川坂という急坂に加えて、特に間の宿である菊川宿から日坂宿の区間は、わざわざ小夜の中山峠へと登って長い尾根を縦走して日坂宿へと至るルートを取っていました。
金谷坂・菊川坂・小夜の中山峠と標高差150mほどのアップダウンを繰り返すこの牧ノ原台地越えのルートは、箱根や大井川のように有名ではないにせよ、東海道の大変な難所に変わりありませんでした。
明治時代に入り、牧ノ原台地で茶園の開墾を手掛けていた杉原権蔵という方が、茶園の開墾をより一層進めるためには金谷-日坂間の荷車道の整備が必要と考えました。これが「中山新道」建設のきっかけとなります。
杉原氏は出資者を募って明治11年(1878年)に静岡県へ新道開削を出願。これを受けて明治12年(1879年)8月に明治政府内で「中山峠新道開鑿之儀付伺」が提出され、明治12年9月に工事許可。10月に国の助成金を受けて工事を開始し、明治13年(1880年)5月に開通式が行われました。
さて、この「中山新道」、出願時に「国から金7,000円を借用して工事を行い、完成後31年間は通行料を徴収して返済に充てる。」という申し出をしています。工事費用の計画は総額で32,100円40銭。国からの7,000円は助成金として支出されたので、残額25,100円40銭を通行料徴収により26年間で返済する計画となりました。要するに「中山新道」は有料道路として開通したわけです。
開通後、道路利用は順調だったようですが、明治22年(1889年)4月16日、「中山新道」へ大きなダメージを与える出来事が起きます。東海道本線 静岡−浜松間の開通です。当時はまだ自動車はなく、陸路は徒歩や牛馬車が主力。それまで鉄道空白区間であったことにより平穏に利益を享受できていた「中山新道」は、東海道本線の開通によりスピードも輸送力も圧倒的な「鉄道」の猛烈な脅威に晒されることとなり、利用者を根こそぎ奪われてしまいました。
このため出資金の返済計画はとん挫し、明治35年(1902年)に「中山新道」は公道となり、明治38年(1905年)に国道となりました。
現在、当時の道路の面影を残しているのは、国道1号小夜の中山トンネルの真上の区間。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
戦前の地形図では赤線の区間に該当します。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。
それでは現地へと向かうことにします。
まずは国道1号小夜の中山トンネル。
旧道トンネルの扁額。旧道と言っても現在も国道指定はされているようです。
バイパストンネルの扁額。このバイパストンネルは、元となるトンネルが昭和7年(1932年)に開通し、昭和29年(1954年)に改修。さらに昭和47年(1972年)にバイパス建設に伴い拡幅改修を受けています。
「中山新道」跡の出入口へと来ました。さっそく入り込んでみます。
切り通し区間が昔のまま残っているようです。古い方の小夜の中山トンネルが昭和7年(1932年)に開通しているので、切り通し区間が早い時期に国道指定を外されて廃道となり、そのおかげで往時のまま残ったのでしょう。
「この先行き止まり」の看板が立っています。「掛川市」とあるので、現在は市道なのかもしれません。
電柱が立っています。古い街道の跡には、昔からの電話線が通っていることがままありますが、この電話線の由来もそうなのでしょうか。
路面に丸石が散らばっています。石畳だったわけではなく、地面に埋もれていた丸石が長年の洗掘により姿を現したものでしょう。
この部分は往時の道幅がそのまま残っているようです。
小夜の中山トンネルの金谷側坑口の真上に出てきました。
道は右側へと進んで国道1号へと下っていきます。往時の道もこのような取り回しになっていたのかはわかりませんが、無理矢理な感じはまったくありません。
ヘアピンカーブの下側の斜面にあった低い石垣。「中山新道」に関わるものなのでしょうか。
国道1号へと出ました。本来は国道を斜めに横断して、向かい側にある道へと進んでいきますが、ここで引き返します。
もと来た道を戻っていきます。
入ってきた側の出入口に戻ってきました。
「中山新道」跡は以上となります。地図読み200mほどの短い廃道ですが、昔から随時改良されている国道1号で、明治時代の面影がそのまま残っている廃道は非常に珍しいと思われるので、貴重な場所です。
ここからはオマケです。思ったよりもあっけなく探索が終わってしまったので、峠から分岐していた古道をちょっと追ってみました。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。
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Posted at
2023/03/12 21:29:23