2023年3月19日日曜日、和歌山県新宮市の旧越路隧道とその旧道及び三重県熊野市の旧国道42号 小坂隧道へと行ってきました。今回のメインは旧越路隧道で、過去に訪れたことのある小坂隧道はオマケです(笑)。
旧 越路隧道の周辺図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
新宮市街地の西部にある越路峠には、新旧合わせて3つのトンネルが存在しています。現在のメインルートである国道168号新越路トンネル(2008年(平成20年)開通)、すぐ北側に並行する先代の越路隧道(1964年(昭和39年)開通)、先代の越路隧道の真上にある先々代の旧越路隧道(1936年(昭和11年)開通)となります。そして、旧越路隧道がある旧道には、もう一つ無名の短いトンネルがあります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さて、いつものパターンだと離れた場所に車を停めて、徒歩で現場へと接近するのですが、過去のレポートを読むとトンネルまで車で乗り付ける方が多かったので、今回は私もそのようにしてみました。
新越路トンネル前の交差点から進入。1.5車線幅から1車線幅へと狭くなっていきましたが、舗装はされていたので「これはインプレッサでも大丈夫かな。」と進んでいきましたが、大きな廃屋が現れるとその先から未舗装となり、最後は狭くてガタガタな道の段差に腹を擦らないかとおびえながら(笑)、何とかトンネルの前へとやって来ました。
こちらが旧越路隧道です。日差しが強いため陰影が濃く、見づらい写真になってしまいました・・・。華美な装飾が全く無い、昭和戦前期の標準的なデザインのコンクリート製坑門です。
昭和16年(1941年)3月に内務省土木試験所より発行された「本邦道路隧道輯覧」によると、起工は昭和10年(1935年)7月3日、竣工は昭和11年(1936年)3月31日とあり、トンネル延長は165.5m。当時はまだ国道ではなく、指定府縣道本宮新宮停車場線のトンネルでした。
扁額です。パッと見では気づきにくい程度の大きさです。
内部を覗いてみると、アーチ部はコンクリートブロック積み、側壁は場所打ちコンクリートとなっています。
コンクリートブロックで巻き立てられている部分は漏水が多いようで、壁面も路面も濡れており、水溜りもあります。「本邦道路隧道輯覧」中、越路隧道のページの地質欄にも、「花崗岩(亀裂多く隧道入口は漏水甚だし)」と記されています。
トンネル中央部は素掘り状態のままとなっています。コンクリート巻き立て部分と違って乾燥しています。トンネル上の土被りの厚みの違いや地質の違いによるものでしょうか。
新宮市街地側と違い、反対側の坑口付近は短い距離しかコンクリート巻き立てがされていません。「本邦道路隧道輯覧」には、巻き立て延長が「新宮口施工延長67.55m、高田口施工延長14.15m」とあります。
そして、やはり坑口付近は水浸しになっています。
反対側の坑門です。当然ですが坑門のデザインに違いはありません。坑門前には崩落してきた土砂が積もっています。
坑門の上を見上げると、尾根に向かって凹地が伸びています。これがスロープになって、付近の斜面から崩れてくる土砂を坑門前へと落としているようです。
反対側の扁額。文字が土に埋もれている部分がありますが、書体は市街地側の扁額とやや違うようにも見えます。
せっかくなので、旧道を歩いてみることにします。
木々の隙間から熊野川の流れが見えています。
高い岩壁を切り崩して道路を通しています。軽四同士でもすれ違うのが難しそうな程度の道幅しかありません。
目の前に巨岩が山積みになっている場所が現れました。「これはすごいなぁ。この先の道は大丈夫かな?」と直線方向を眺めると道がありません。「あっ、もしかして無名トンネルがある場所が崩壊したということ!?」と少々パニックに。
1個1個岩を踏みしめて浮石になっていないか確認しながら、慎重に巨岩の山を登ります。
崩落した斜面を見上げます。岩壁に幾筋もの縦線が入っています。斜面の上部が土色をしていて風雨に晒された感じが無いので、あのあたりの岩壁が筋に沿って一気に崩落したのでしょう。恐ろしい・・・。
「トンネルは潰されたのか埋まってしまったのかなぁ。」と進んでいくと、かろうじてトンネルの上部が見えてきました。
巨岩はトンネル内へとなだれ込んではいますが、トンネル自体に被害は無いようでヤレヤレです。
あらためて無名のトンネルです。岩脈に直接トンネルを穿ってあり、坑門はありません。また、高さ・道幅も旧越路隧道と比較すると小さく、自動車は1台づつしか通行できなかったでしょう。
ここは旧道(廃道)ですが、平成13年(2001年)に法面工事を行ったようです。旧道の真下には住居や国道(現在は旧国道)があったので、それらの防護のためでしょう。
新越路トンネルが見えました。戦前と現代では、トンネルの規格も造りも全く違いますね。
路上にも巨岩が落ちていました。すぐ上の斜面にぶら下がっている岩がまだあったので、そのうちに旧道が塞がれてしまうかもしれません。
熊野川と山の急斜面の間の狭い土地に現国道、旧国道、倉庫らしい建屋と並んでいます。
ここの路肩はコンクリートで保護されています。しかし、ガードレールは設置されていなかったようです。支柱を差し込む穴が見当たりません。
小さな切り通しが見えてきました。
この切り通しの路肩に標石を見つけました。
「電話」とあるので、旧電電公社が設置したものでしょう。かつては電話線が地中を通っていたのかもしれません。
切り通しを通り抜けると真新しい橋がありました。左側にこれまた新しそうな砂防ダムがあったので、建設時に架け替えられたのでしょう。
ようやく旧道と現国道との合流地点が見えてきました。正面奥の住宅がある所を国道が通っています。合流地点まで行く必要もないので、この場所で引き返すことにします。
それではふたたび旧道を通り、車へと戻ることにします。
旧越路隧道を通り抜けます。
市街地側にあるコンクリート巻き立て部には、ブロックが抜け落ちて岩盤が見えている箇所があります。
車へと戻ってきました。
今回、旧越路隧道自体は、昭和戦前期の目立った特徴の無いコンクリート・素掘りトンネルということで、「淡々と見物しました。」といった感じでした。正直、どちらかというと無名トンネル前の崩落現場のインパクトの強さに上書きされてしまった感じでしたね(笑)。
旧道から眺めた新宮市街地。
これで旧越路隧道の見物は終わり、明日は月曜日で仕事があるということで、熊野市からさっさと高速道路(正しくは熊野市-尾鷲市間は国道42号「熊野尾鷲道路」ですが。)に乗って帰宅しても良かったのですが、「せっかくなので」、熊野市から高速道路には乗らずに国道42号の佐田坂を登っていくことにします。
やって来たのは、国道42号小阪トンネルの前。
小阪トンネル付近の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
かつて、この場所を通過していた国道42号の前身となる県道は、トンネルの真上にある小阪峠を越えていました。そして小阪峠から木本(現在の熊野市の中心地)へは、国道42号とは違うルートである評議峠を越えるルートを取っていました。
ただ、評議峠越えのルートは、明治時代に荷車道として開削された当時から難所であり、自動車交通が普及してきた昭和初期においては通行に支障をきたしていました。そこで、小阪峠にトンネルを建設し、現在国道42号が通過する佐田坂を自動車通行できるように改修する計画が立てられました。
今から見に行くのは、この改修計画により建設されたトンネルです。
そのトンネルは小阪トンネルに並行する場所に残っています。短い旧道へと入り込みます。
小坂隧道です。こちらも陰影が濃すぎて写真がダメですね・・・。トンネルの竣工は昭和13年(1938年)。しかし、計画のもう一つの要となる佐田坂の改修が戦争勃発などにより全然進まず、改修が完成した昭和24年(1949年)まで供用されなかったようです。
小坂隧道の扁額。現地の地名や現トンネル名は「小阪」ですが、このトンネルはなぜか「小坂」と名付けられています。
扁額には「三重縣知事 佐藤正俊」と刻まれています。佐藤氏は、昭和12年(1937年)12月24日から昭和14年(1939年)3月1日まで県知事に在任しています。
トンネルは門扉で封鎖されています。
トンネル内部は一部が水没。
門扉の前は泥沼になっています(笑)。
小坂隧道は昭和24年(1949年)からようやく供用されたわけですが、戦前期に造られたトンネルであり、その後の車両大型化に規格が合わなくなったことで、昭和41年(1966年)に現在の小阪トンネルが竣工。小坂隧道は竣工から28年、供用開始から17年という短命でお役御免となってしまいました。立派な坑門を持っていることからも、竣工当時の同トンネルへの期待度の高さが伺えますが、結局、時代の波に翻弄されて終わってしまったみたいですね。