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2023年10月17日

【設楽町】キビウと椹尾の間の峠道を探索しました(2)

2023年9月2日土曜日、北設楽郡設楽町松戸のキビウと椹尾(さわらお)の間の峠道を探索してきました。

前回(1)では、峠を通過して、背の高い倒木を乗り越えるところまで来ました。


倒木を越えると堀割り道が始まりました。




堀割り道のまま折り返していきます。


堀割り道がこれだけ続くのは、あまり見たことがないですね。


小刻みにつづら折りを繰り返して下っていきます。




つづら折りが終わると、過去に斜面が崩落した場所なのか峠道そのものが無くなり、所々に組まれている石垣の上を伝って歩いていきます。




椹尾側の沢へと出てきました。傍らに「田口小学校部分林」の標柱が立っています。


「部分林とは何ぞや?」と思い、ネットで検索してみたところ、「国有林野に契約によって国以外の者が造林し、その収益を国と造林者が分けあう林地。設定区部分林・旧慣部分林・学校部分林・各種記念部分林・その他部分林の五種がある。」とありました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは、沢に沿って峠道を下っていきます。






坂を下って行くと、結構広い平場がありました。何か建物が建っていたのか、耕作地だったのか…。


椹尾川へと出てきました。川を渡った対岸が椹尾になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

緩傾斜地が広がっていますが、全面植林されていて、これといった遺構は残っていないようです。


椹尾を通る林道へと出てきました。この林道はかつての森林鉄道の跡だそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひとまず下流方向へと向かうと、林道の交差点がありました。分岐していく方の林道には「松尾線」の標識が立っていましたが、私が歩いてきた方向の林道には標識が見当たりませんでした。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

歩いてきた林道を引き返していきます。

林道から緩傾斜地を見下ろしていますが、やっぱりこれといった遺構を見つけることができません。


林道の山側には石垣が残っています。


林道をさらに進んでいくと廃屋がありました。


廃屋の軒下に中部森林管理局の標柱が立っています。国有林の管理に関わる建屋だったのかもしれません。ちなみに、廃屋の左側には大量のビール瓶が転がっていました(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧宮内省帝室林野局の標石。赤い部分に「宮」の字が刻まれています。この周辺がかつて御料林であった証ですね。森林鉄道段戸山線の田峰鰻沢線を探索した時にもよく見かけました。


杉林とシダが生い茂る緑の世界です。


防火用水の跡でしょうか。


ここで椹尾の緩傾斜地は終わりとなるので引き返します。


かつて椹尾の地にあった秋田木材製材所の痕跡を見に行きます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

痕跡と言っても、かつて使用されていた機器類の土台であるコンクリートの塊が、シダの群落の中に点在しているだけです。








ネットで検索すると大正時代の製材所の写真を見ることができます。


製材所跡をもうしばらく歩いてみましたが、コンクリートの土台以外の遺構は無さそうでした。マムシらしき蛇も見たので、あまり長居はせずに林道へと脱出します。


最初に到着した緩傾斜地の植林地の中も、あらためて歩き回ってみましたが、本当に何も残っていません。まあ、かつての椹尾集落の状況が具体的にわかる資料は無いので、土場だったのか田畑だったのかなど確認のしようがありませんね。


「山火事注意」の看板から山側へ斜面を登ると墓碑がありました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

墓碑に彫られている日付を確認すると、右側から弘化四年十二月十二日(1848年)、文政八酉〇月十九日(1825年)、寛政二戌十一月十一日(1790年)とありました。弘化四年の墓碑については「設楽町誌」に記述があり、小椋文左衛門さんという段戸山周辺や松戸村周辺で活動していた木地師の墓だそうです。

ここで、段戸山周辺の木地師集落及び椹尾集落についての余談を。記述する内容は基本的には「設楽町誌」及び「設楽町誌 村落誌編」に拠ります。

ウィキペディアからの抜粋ですが、「木地師」とは、「轆轤(ろくろ、轆轤鉋)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。」とあります。

また、「幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。」ともあります。

まず、段戸山周辺で木地師によって開墾されたといわれる場所には、椹後(さわらご)、松戸のキビウ、田峯の古田・平野、三都橋の落目、豊邦(桑平)の一部があるそうです。

段戸山は御林(江戸幕府直轄の山林)であったため、木地師の特権が行使できず活動が制限されていたようですが、前述のように段戸山の周辺地域では開墾された集落の存在により、木地師としての活動があったことが確認できます。

「田峯日光寺過去帳」によると、承応元年(1652年)から安永四年(1775年)の123年間に38人(男21人、女17人)の木地師が記帳されているそうです。過去帳にある38人の居住場所は、大滝7人、「古田3人」、出来山3人、「椹吾2人」、金床2人、「キビウ4人」、バラゴ1人、「落目4人」、野平12人です。

過去帳に記載があった木地師の子孫は、天明年間(1781年~88年)以降は存在が消えてしまっているそうです。一番の理由は、天明二年(1782年)から始まった大飢饉が、食糧生産者ではない木地師の生活をまともに襲い、いくつかの木地師集落が消滅したためといわれています(居住者が亡くなったか、他所へ転出していったと思われる。)。

続いて本題の椹尾集落ですが、こちらは木地師の亦兵衛さんによって開かれた土地だそうです。亦兵衛さんとその一派も、どこか見知らぬ土地から木工品の材料を求めて椹尾の地へと分け入って、この地を切り開いていったのでしょう。

椹尾の土地は開拓されたことを受けてか、元禄2年(1689年)に検地を受け、12石9斗5合の石高が定められます。集落の本村は、キビウ集落と同じく松戸村(現:設楽町松戸)となります。

旧版地形図で見ると、椹尾の周辺はほとんどが旧段嶺村(現:設楽町)に属していますが、椹尾の集落(旧版地形図では「澤尾」。)付近だけは突出した形で旧松戸村が合併した旧田口町(現:設楽町)の町域となっています。これは椹尾集落の本村が旧松戸村であった名残りと考えられますね。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

椹尾集落は、本村である松戸村から離れていることと、自然条件に恵まれていないこともあって、日照りなどによる飢饉で離村がしばしば行われたそうです。

その証拠の一つとして、寛政3年(1791年)に清右衛門さんという人によって集落が再開発されていたことが石碑から確認できるそうです(石碑の場所は未確認。)。よって、残っている墓碑は、再開発以降の時代のものだとわかります。

また、キビウ集落の余談でも書きましたが、天保8年(1837年)8月の大風雨が原因で、穀類の収穫が皆無となり、また馬での賃稼ぎもできなかったことで集落の2戸が「潰れ」、椹尾とキビウを合わせて4戸が病死または転出を余儀なくされています。

キビウ集落と違い、江戸時代の戸数の記録は残っていないようですが、明治4年(1871年)の戸数は、わずか1戸のみとなってしまいました。

しかし、明治以降になると様相は一変。今度は豊富な原木を目当てにした「炭焼き師」が入山し始め、最盛期には30世帯以上が椹尾集落で生活していたそうです。

椹尾集落で生産された木工品や炭製品は、今回私が歩いてきた峠を越えてキビウ、呼間を経由し海老方面へと出荷されていましたが(ここでも新城市海老が出てくる。)、道路事情の改善に伴い、森林鉄道の開通前後の頃には田口経由で出荷されるようになったそうです(おそらく椹尾川沿いの道が、運搬に使えるようになったのでしょう。)。

そして、森林鉄道段戸山線の田口椹尾線が昭和9年(1934年)に開通し、段戸山御料林の森林開発が本格化。御料林の造林事業の推進によって、伐採された原木を利用する「秋田木材製材所」が設立されます。

ちなみに、「設楽町誌」では、「秋田木材 所在地:田峯字裏谷 稼働期間:大正初期から昭和10年頃 工員数:200名 動力源:水力」とあります。秋田木材製材所があった場所は、旧段嶺村(現:設楽町田峯)になるため、同じ製材所で間違いないと思われます。

ただし、すでに大正時代から稼働は開始しており、その後、森林鉄道が椹尾まで開通して1~2年の内に稼働停止していることになります。秋田木材製材所が稼働停止した理由は記述されていませんが、森林鉄道が開通したことで原木のまま大量に搬出できるようになり、現地で運搬しやすいように加工する必要が無くなったのかもしれません。

椹尾集落から上流側にあった製材所周辺には人家が集まり、また営林署の事務所も開設されたことで営林署関係者も住み込み、最盛期には集落内に雑貨店が一軒できるほどの賑わいをみせたそうです(お店一軒で賑わいというのも何ですが、それほど山奥なのです。)。

その後の経緯についての記述はありませんが、製材所の稼働停止、森林鉄道の廃止、営林署事務所の閉鎖、林業の不振などで椹尾集落は過疎化・消滅へと向かっていったのでしょう。

最後に「さわらお」という地名についての疑問。旧版地形図では集落があった場所は「澤尾」(さわらお)と記しています。現在の地名も、集落跡付近は設楽町大字松戸字沢尾となっています。

しかし、川の名前は椹尾川、川が流れる谷の名前は椹尾谷。江戸時代はひらがなで「さわらおう」でしたが、明治15年の愛知県への地名調査の報告では、松戸村の「さわらおう」は「椹尾」(サワラヲ)と報告されています。隣接する段嶺村側には、類似する地名の報告はありませんでした。

明治15年の報告が誤っているのか、報告以降に地名表記を改めたのか、よくわかりません。ネットで検索すると、昭和34年(1959年)発行の地形図を載せている記事があり、そこには旧来の集落が「澤尾」、製材所付近の集落が「椹尾」と分けて表記されています。

さらに、森林鉄道段戸山線の田口椹尾線では、「椹尾」を「さわらご」と読むとありました。「設楽町誌」内でも原典によって表記のブレがあるようで、前述のように「椹後」や「椹吾」といった表記もあります。「さわらお」も「さわらご」も当地の呼び名としては間違いではないことを伺わせますし、地名の書き文字にいろいろな「当て字」を使っていた面もあるのかもしれません。

それでは話を戻します。

墓石の下側には狭い段々地が並んでいます。おそらくこの場所に住居があったのでしょう。


墓石から上流側の隣地には広い平地が残っています。平地の山側には土留めのためと思われる石垣が巡らしてある箇所もあり、ここがかつての営林署の事務所だったのではないかと考えられます。


墓石のあった場所から真っ直ぐ椹尾川へと向かっていきます。


道らしい雰囲気があったので歩いてみましたが、川にぶつかってそのまま終わってしまいました。これが本来の峠道の跡かと思いましたが違ったようです。


これで椹尾での探索を終了し、峠を越えて戻ることにします。


峠を越えて庄ノ津川へと出たところで、すぐにキビウ集落へは向かわず、上流側に続く徒歩道を歩いてみることにしました。






この徒歩道も段戸山へと入り込んでいく道ですが、目的もなくダラダラと入り込んでいっても無駄なので、倒木に塞がれている場所で引き返しました。


キビウ集落への入口まで戻ってきました。


呼間川には、こんなにたくさん小さな滝があるとは知りませんでした。ネットで調べてみると、沢登りを楽しんでいる方々もいるようです。


町道大滝菅平線の脇にあった砂防ダム。


おそらく田んぼの跡。今も水が流れ込んでいるので、多分そうかなと思います。


田んぼ跡の上にある、住居跡と思われる平場に残る小さな庭園跡とその流水路と思しきもの。




車に戻ってきました。今回は6時間45分、歩行距離10.5kmの探索となりました。呼間川大滝からスタートしたことと、椹尾で歩き回ったことで距離が伸びてしまいましたね。


今回の探索ルート図です。青線は復路で寄り道した時のルートです。


探索する時は、現地でどれだけ「拾い物」ができるかが大事になります。よく写真に撮っている石仏・石碑は年代を確認するのに良い資料となりますが、今回は墓碑がその対象となりました。

今回、事前にネットで下調べした中で、「椹尾は明治時代以降の集落。」という情報を得ていたので、江戸時代の墓碑が残っていることに混乱しましたが、「墓があるということは江戸時代にも人が住んでいた時期があったが、何かあって明治時代まで無人になったのだろう。」という大まかな推測はできました。その後に「設楽町誌 村落誌編」を図書館で読んで、「飢饉による離村があった。」という記述を見つけ、推測の裏付けができたわけです。

私のように地元史誌を読むくらいで、あまり深堀りしない人間には、探索しても大体はわからないことだらけで終わってしまいますが(万古集落跡は地元村誌に記述があまりなくて、まさにそんな感じでした。)、たまにはこんなふうに裏付けまで取れることもあるので、そこもおもしろいところですね(今回もわからないまま残った事柄もありましたけどね)。
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Posted at 2023/10/17 23:46:41

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