2023年10月28日土曜日、奈良県吉野郡十津川村上葛川を通る「旧逓信道」を途中まで歩いてきました。
前回(1)では、この場所まで来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
沢を塞ぐようにカーブで築かれた石垣です。一番下の部分には、沢水を流すためなのか穴が開いています。
沢の上流側にも低い石垣が組まれていて、ちょっとした築堤になっています。
植林地を通り抜けていきます。
二股に育った杉の片面が枯れてしまったものなのでしょうか。
道が崩れて、ガタガタに荒れた斜面になっています。足元に気を付けながら通過します。
また切り通しを越えていきます。
切り通しを抜け、ガレ気味の荒れた場所を歩いていきます。奥には石垣が見えています。
岩の切り取り工に石垣を組み上げて道を通しています。
小さな沢を石垣で埋めてあります。沢の水を石垣の路上に流すようにした「洗い越し」のようです。
目の前の斜面が崩落して、道が完全に寸断されています。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
寸断された場所からほんの少し戻り、下側へと迂回していきます。
迂回ルートの岩壁には、明らかに人工的に削られた跡があります。まだ「旧逓信道」が現役の頃(少なくとも里道・生活路として。)に、すでに本来の道筋は崩落により通行できなくなり、この迂回ルートを造り直したのかもしれません。
迂回ルートから上を見上げると石垣が残っています。ただ、本来の「旧逓信道」の道筋はさらに上の黄色の線の部分を通過しているので、何のための石垣なのかはよくわかりません。
迂回ルートを100mも歩かないうちに、滝のような大きな段差がある枯れ沢に遭遇しました。この部分も、「旧逓信道」の本来の道筋は崩落により消滅したようです。
枯れ沢を渡ると、迂回ルートは急斜面を無理やり上り、「旧逓信道」の本来の道筋へと復帰します。
倒木が被さっている場所にロープが掛けられています。
木製桟道が腐って落ちています。ここもロープでバランスを取りつつ、わずかな岩の出っぱりを伝って通過します。
岩の切り通しを通過。
ここも材木を並べた桟道があったようですが、ご覧のとおりボロボロ。張り出した岩の上を歩いて渡ります。一応、登山ルートではあっても、廃道転用のマイナーなルートなので、管理の手はなかなか及ばないようですね。
岩壁に沿った崖道です。きれいな壁面ですが、やっぱり自然にできたものなのでしょうね。
そして谷側を覗き込むと、けっこう縮み上がるような高さなんですよね…。
岩場の崖道が続きます。
荒れた沢を通過します。
まだまだ石垣が現れます。この「旧逓信道」、本当に一体どのくらいの期間と費用を掛けて整備された道なんですかね。きちんとした来歴が知りたいものです。
そして、岩の切り通しを通過。
ここも本来の路面が流失して凹地になっています。大きな破断はないので、一歩一歩注意しながら通過していきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
大きな根っこの塊が道を塞いでいます。ここは山側を通っていきます。
岩壁と石垣の道が、崩れながらもまだまだ奥へと続いています。
どうにも怪しい雰囲気の木製桟道…。念のため、岩壁にもたれ掛かるようにして通過します。
これはいかにも人の手で削った感じがするゴツゴツした壁面。
また道の状態が悪くなってきました。地形図で確認すると、この辺りから尾根まで上るようです。ただ、この現場を見ると、崩れやすい場所を踏み跡のような細道で上っていく感じ。
この日は夜に用事があったため、もともと目的地を定めて踏破することまでは考えていませんでしたが、道の状況や時間的なことを踏まえて、この地点で引き返すことにしました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
まだまだ気は抜けませんが、元来た道を引き返していきます。
白いキノコの上に誰が乗せたのか唐辛子の瓶が…。意味がわからん…。
往路ではハラハラした道中も、復路では状況がわかっているので、要所要所は注意しつつ、サクサクと歩いていきます。
上葛川の集落まで戻ってきました。ようやく一安心です。
自分の車もちゃんと待っていてくれました(「もしかして無くなっているかも…。」という気持ちは、毎回ちょびっとだけ持っています(笑)。)。
今回の探索ルートの全体図です。青線は未踏の「旧逓信道」、赤線が今回踏査した部分です。往復距離8.6km、4時間45分の行程でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
また出直して、続きを歩くかどうかは未定です。いっそ歩くなら、下北山村浦向側から笠捨山へと向かい歩くか、上葛川の集落からさらに十津川村折立方面へと歩いてみることを考えています。
ただ、「旧逓信道」のことをネット検索しているうちに、今度は十津川村内の旧道「西熊野街道」の記事を見つけてしまったり、先回探索した立合川には、実は対岸側にも木馬道があることを知ってしまったりと、いろいろと興味をそそるネタが出てきて、訪問する優先順位をどうしようかといったところです。
まあ、一番の問題は、自宅から片道4~5時間かかる場所ばかりであることなんですけどね。
最後に、ネットで調べることができた「旧逓信道」の情報について記しておきます。ちなみにネットで閲覧できる地誌の類で、この道を「逓信道」として記述しているものはありませんでした。
今回「旧逓信道」と呼んでいる道については、「笠捨越」という呼び名が一般的なようです。「奈良県吉野郡史料」の内、下北山村の道路の項目によると、「(前略)大字浦向より笠捨峠を経て十津川村上葛川に通ずる里道(後略)」とあります。
次に「下北山村史」です。
1924年(大正13年)の吉野郡役所あて僻地小学校の調査報告書に次のように述べられています。「(前略)隣村十津川村に通ずる山道、『笠捨越』の如きは、これまた数里の間人家絶えて無き険坂にして、或いは道と云わんよりは、僅かに人跡を印すと云うが当れるとなす所あり、怪物、野獣、強盗、追剥等につきては、前述伯母峰(東熊野街道の峠)よりも甚だしきものあり、堂々たる男子にして大抵のものは道連れを雇いて越すを例とせり(後略)」。
険しい山道というだけでなく、危険極まりない場所で、男性でも一人で歩けないほどだ(わざわざ「道連れ」を雇うほど。)と言っています。まあ、脚色もあるような気がしないではありませんが…。
「十津川への道」という項目にも「笠捨越」が記載されています。「浦向の奥地から奥地谷をのぼり、十津川橋を渡り笠捨峠を登り詰め、一寸向こう側へ下りて白谷辻を右すれば白谷奥へ、左すれば笠捨山の北の方から葛川上流に下り、田戸・小原・折立・平谷方面に通じている。約十五キロの間家一軒無い淋しい山道で、よく熊が出た。椎茸作りに来る人などよく通り、幕末頃北山中を震え上がらせた天誅組が越えてきたのもこの道であった。」。人家の無い寂しい山道であるという点は、僻地小学校の調査報告書と同様です。
それから「十津川への道」には、「同じく熊野川水系に属しながらも、大峰山から南に連なる奥駆道の稜線は北山と十津川を隔てる大きな障壁だった。主な道路はみな南北に通じ、両者を結ぶ道らしい道もなく、したがって交流も少なかった。」ともあります。
最後に「郵便局」の項目。これは「笠捨越」とは直接関係ありませんが、浦向郵便局は1882年(明治15年)に開局したこと、「当時の郵便は不動峠(浦向の南東側にある峠。)を郵便夫の肩に背負われて運んでいた。」とあります。
この記述から、十津川村上葛川から「旧逓信道」である「笠捨越」を通り、下北山村の郵便局と郵便物のやり取りをしていたというのであれば、それは浦向郵便局だったはずです。
逓送ルートとして不動峠を通行していたということですが、新宮(和歌山県新宮市)の郵便局と直接郵便物のやり取りをするようになってからのことでしょう。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
「約十五キロの間家一軒無い淋しい山道」であることと、「両者(十津川村と下北山村)を結ぶ道らしい道もなく、したがって交流も少なかった。」(=両村間の郵便物の往来も少ない。)という理由により、岩壁を切り取り、石垣を築き上げて造られた「逓信道」は早々にその役目を解かれてしまったのでしょう。