2021年2月11日木曜日、愛知県新城市連合と北設楽郡設楽町清崎の境にある旧伊那街道与良木(よらき)峠の峠道を歩いてきました。
旧伊那街道は、東海道から小坂井(豊川市)で分岐し、豊川(豊川市)-新城(新城市)ー海老(新城市)-与良木峠-田口(設楽町)-津具(設楽町)-折元峠-根羽(長野県下伊那郡根羽村)とつないでいく街道で、三州と信州との交易を担う街道の一つでした。
やって来たのは与良木峠の真下を通る与良木(與良木)隧道。もう何度も訪れたり、通り抜けたりしているトンネルですね(笑)。
与良木隧道は、旧伊那街道与良木峠の峠道が車道改修(馬車道・荷車道)された際に建設されました。地形図中の赤線が旧伊那街道の車道改修後のルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
開通年は資料により明治26年(1893年)とされたり、明治27年(1894年)とされたりしていますが、愛知県下では最も古い近代的道路トンネルです。
設楽町側の坑門。トンネル上部の崩落によりいびつな形で修復されています。
内部は坑口付近のみ石積みで巻き立てられていますが、内部はコンクリート巻き立てになっています。コンクリート部分はかつては素掘りだったと思われます。
新城市側の坑門。
こちらはトンネルの真上にある与良木峠です。
ここには馬頭観音碑があります。
ここまでは、今までに何度も見てきたことのある場所です。今回の本当の目的地はこのトンネルから東方にある旧伊那街道のもう一つの峠。そこを目指して歩いていきます。
トンネルの真上の与良木峠から新城市側を向き、左方向に残る峠道跡を辿っていきます。
途中、尾根へと向かって斜めに交差する道があります。そちらの道の方がよりはっきりとした道ですが、気にせず直進します。
きれいに道が残っている場所もありますが、
所詮は人が全然通らない古道なので、倒木がそのまま残された場所もあります。
私が歩いてきた峠道跡の真下に並行していた道が合流してきました。ここで峠道跡は右へと曲がっていきます。
そして、この場所に石碑が一つ立っていました。
正面には「耕夫禅門」と彫られています。耕夫は田畑を耕す人。禅門は俗人のまま剃髪して仏門に入った男子のことだそうです。
右側面には「文政七申年七月」とありました。西暦では1824年です。左側面にも7~8文字彫られていましたが、読み取ることはできませんでした。おそらくはこの石碑にまつわる人物の名前だろうと思われます。
山中の古道でたびたび見かけるこのような石碑。簡潔な文言しか彫られていない場合、墓碑であるのか供養塔であるのか、まったく見分けがつきません。ただ、写真を撮る時は一声かけるようにはしています。
※後日、図書館で旧鳳来町誌を読んだ際に与良木峠の項目を見たところ、この石碑が載っていて、左側面には「遠州榛原郡」とあり、旅人を弔ったものであろうとありました。
さて、峠へ向かい先へと進みます。
与良木トンネル付近から続く細い谷ですが、ずっと田んぼの跡が続いています。かつては周辺の集落の人々がここまでやって来て耕作していたのでしょう。
鹿の角が落ちていました。生え変わりで落ちたものかな。
谷が行き止まりとなり、峠道跡は右へと折り返していきます。
上り坂になり、いよいよもう一つの峠へ向かうようです。
この坂には石畳が敷かれているようです。
日の光が差し込んできました。もうじき峠のようです。
もう一つの峠に到着しました。峠の名はわかりませんが、こちらも与良木峠と呼ぶのが妥当な気がします。
ここの峠には多くの石仏が祀られていました。ちょっと驚くくらいの数があります(笑)。
この石碑には「奉納百八十八箇所」と彫られています。
「百八十八箇所」とは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の各観音霊場に四国八十八箇所を合わせたものだそうです。これらの霊場を巡礼し満願された記念に立てたものでしょうか。
これは役行者でしょうね。
こちらは三十三観音。三十三観音以外の石仏もあります。
三十三観音のさらに右側にある石仏群。
峠のすぐ下に石段がありました。本来はこの石段から出入りしていたのでしょう。
石段の真向いにある馬頭観音。光背に大正八年(1919年)三月とあり、けっこう新しい馬頭観音です。
最初の方で、旧伊那街道与良木峠の峠道は明治26年か明治27年に車道改修されたと書きましたが、この馬頭観音はそれよりも新しい年代の物であり、この峠道をトンネル開通後もしばらくの間は利用していた人や馬がいたという証でしょう。
もう少し坂道を下ると石仏に倒木が倒れ掛かっていました。かろうじて直撃は避けられたようです。
峠を越えて新城市側に入ると急坂になり、つづら折りも現れます。
3か所折り返すと長い直線の下り坂になります。
坂の途中に軽四の廃車体がありました。まだ割ときれいです。よく路肩へ押し込めたものだと思います(笑)。
直線の下り坂の終点には民家がありました。峠道跡は民家の庭先で右へ折り返して、さらに下っていきます。
この先は舗装路になっていたのと、まだまだ急坂が続いていたようなので、これ以上跡を辿るのは止めました。
現在地は星印の地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
峠下まで戻ってきました。今度は、ここから右方向へと分岐していく道を辿ってみます。
100~200mほどで尾根へ出ました。何か見覚えのある景色です。
小さな高圧線鉄塔の下へと出ました。1年前に見上げた鉄塔です。
旧伊那街道とは全く関係ない道ですが、もうしばらく高圧線沿いを歩いていきます。
山を越えて、ふたたび林の中へ。本来は左手へと下っていく道が正解ですが、真っ直ぐ進んでみます。
道のように歩きやすい尾根が続いています。
尾根が終わり、下り斜面になりました。このまま分岐していった道へ戻れると算段していたので、そのまま下っていきます。
ところが、予想以上に下へと下っていく斜面…。正面には見上げるように別の尾根があります。どうやら気付かぬ間に左へと分岐した尾根があったようで、そちらの尾根を辿るのが正解でした…。
ここが人里離れた深山幽谷なら尾根へと引き返すのが正しい行動ですが、このまま降りていっても車道の旧伊那街道のどこかへと出ていけるはずなので、そのまま進んでいってしまいました。
ようやく谷底まで降りてきました。正面の斜面に上方向へと登っていく道が見えます。これを使って駐車場所へと戻ることにします。
谷底から降りてきた斜面を見上げます。この急傾斜なので降りるのに相当難儀しました。
で、坂道を登っていったら、呆けなく与良木隧道前の駐車場所へと出てきてしまいました(笑)。
石仏群のある峠から駐車場所まで歩いてきたルートが青線になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
どうやら、登ってきた坂道は設楽町側の旧伊那街道の峠道跡だったようです。それでは最後に設楽町側の峠道跡を辿るため、もう一度坂道へと入り込みます。
先ほど斜面を降りてきた場所にある、道の折り返し。
路盤がU字型に窪んでいますが、元からそのような道形だったのが、雨水などで洗掘されたのかよくわかりません。
軽トラが通れるくらいの道幅があります。
隣の沢が合流してきたため、峠道跡は左へとカーブしていきます。
カーブした先は堀割り道になっていました。倒木が邪魔なので土手になっている所を歩いて進みます。
真っ直ぐ道跡が続いています。
小さな沢にぶつかりました。けっこう抉れています。
幅の狭い場所で飛び越して対岸へと渡ります。
振り返って峠側の道跡を撮ります。積み方は粗いですが橋台でしょう。
道跡が荒れてきましたが、そのまま進んでいきます。
砂利道へと出ました。
写真中央に立つ電柱の右側が峠道跡への入口になります。
そして、すぐに旧伊那街道の車道へと出てきました。
現在位置は星印の地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここからは、旧伊那街道の車道(現在は設楽町道。)を登って帰ります。
最後のおまけ、車道のミニ廃道です。今までこの場所に廃道があることに全然気が付いていませんでした。
沢水を通水するための石渠が設けられています。
車へと戻ってきました。
最後に歩いた区間は緑線になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
廃道以外にも道路から外れた所を歩いていますが、道のとおりに歩くと距離が長くなるので、斜面をショートカットしただけです(笑)。
あらためて今回歩いて確認した旧伊那街道与良木峠道です。今回の区間だけだと片道1kmあまりという短い距離です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
旧伊那街道与良木峠をインターネットで検索すると、トンネルの真上の峠や石仏群のある峠をピンポイントで訪れている方はあるようですが、峠道跡を辿っている記事は見つけられませんでした(古道探索時によく参考にする本「愛知の歴史街道」の著者様は歩いているようです。)。
これでまた一つ、昔の街道の峠道が確認できました。
しかし、そろそろ鉄道煉瓦トンネルや構造物を見に行きたいですねぇ…。愛知県内に行動範囲を絞ると対象物件が線路下の水路暗渠くらいしかないのがどうにも困りものです。