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小林あにのブログ一覧

2022年04月15日 イイね!

旧伊那街道「アンザの坂」を歩く

2022年2月20日日曜日、愛知県北設楽郡設楽町清崎地区に残る旧伊那街道「アンザの坂」を歩いてきました。「アンザ」は漢字では「安沢」の字を当てるようで、現在も「アンザの坂」が通る場所の地名(設楽町清崎字安沢)になっています。

さて、やって来たのは設楽町の中心地である田口の街の南の外れ(住所上は設楽町田口ではなく設楽町清崎。)。ここから「アンザの坂」へと向かっていきます。


街の外れをクネクネと歩き、安沢峠まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

低い峠をやや下った場所に石仏が一体立っています。


石仏の背後には祠。祠の周りは窪地になっており、元は池であったようです。


安沢峠から100mほど進むと「アンザの坂」の入口があります。ここまでは車が通れる舗装路となっていましたが、この先は昔ながらの街道跡となります。


場所はこちら。


入口の案内板(経年劣化でほとんど判読不能。)によると、入口付近の石畳は平成14年(2002年)に補修したとあります。


さらに100mほど下っていくと、路肩に設楽町が設置した史跡指定の案内標識が立っています。この辺りは補修されていない往時のままの石畳だそうです。




案内標識をやや下った場所に石橋があります。まあ、石板を並べただけのものですが。


さらに石橋の下側にも石畳が残っています。


路肩には土留めの石垣も残っています。


この先も街道跡は良好に残っており、辿っていくことに支障はありません。


つづら折りの区間を歩いていきます。








現在の場所はこちら。


つづら折りを過ぎても街道跡はどんどん下っていきます。


路肩に転がっていた碍子。表面に「1936」とあるので1936年(昭和11年)製のものでしょう。マークから日本碍子製とわかります。


電柱か電信柱の痕跡。


路盤が崩れた場所に細い丸太が並べられていますが、あまりに苔むしているので、念のために山側へと迂回して通過します。


ふたたび石橋が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石橋の先には石畳が残っていますが、石橋の真下や上流側に枝が絡まって詰まっているために沢の流れが街道跡へと流れ込んでしまい、一部損壊してしまっています。






石畳の区間が終わり、また土の上を歩いていきます。


この付近は短い距離ですが街道跡が消失していたり、荒れ気味になっています。




路肩に立つ石。自然石にしか見えませんが、横に設置されている案内板(すでに全く読めない。)によると馬頭観音だそうです。


坂を下ると、国道257号が並走してきます。




この辺りからは川沿いを進んでいきます。




何本もの倒木が路上に重なり合っています。初めに目に入った時は「川へ降りないと通過できないかも…。」と思いましたが、通り抜けられるだけのスペースが開いていたので、倒木をくぐるようにして通過できました。




路肩を削られた街道跡をどんどん進んでいきます。


川との境があいまいになってきました。


案の定、砂防ダムの登場です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

下流側に街道跡が残っているのか堰堤の上から覗いてみると、しっかりと残っていました。


右岸側から砂防ダムの堰堤を乗り越えて下流側へと降ります。


砂防ダムから程ない場所に立つ馬頭観音碑。側面に刻まれていた日付けは「明治十六年二月十三日」。西暦では1883年になります。


国道257号が見えてからは川沿いを進んできましたが、一旦川を離れて進んでいきます。


その川と交差。渡渉して左岸側へと進みます。


正面に豊川が見えてきました。


つい真っ直ぐ進みそうになりますが、街道跡は左斜め上へと進みます。


路盤に切り欠きがあります。枯れ沢を渡る場所なので、元は橋が架かっていたところ、橋が不要になり半分だけ埋め立てたのかもしれません。


同じ場所を水路はU字溝の橋で越えます。


小さな切り通しを通り抜けていきます。


植林地を抜けて草むらへと突っ込んでいきます。




草むらが終わった所で一旦左へと曲がり、さらに矢印のように進んでいきます。


実はこの時点で旧伊那街道の道跡を見失っていました。正面に見えていた国道257号の高い擁壁に潰されたのか、横を流れる豊川の河原を通っていたのか…。もう少しだけ先へと進んでいきます。

水路を支える石垣。水路自体は完全に埋もれてしまっています。


豊川のほとりへと出てきました。河原に街道が通っていたような痕跡は見い出せません…。川沿いの斜面も崖のような急斜面でこちらも街道が通っていたようには見えません…。


引き返して、小さな切り通しまで戻ってきました。ここから山側へと登ってみます。


堀割り道がありました。旧伊那街道はこの辺りから豊川沿いを離れて、国道257号が通る高所まで登っていたようです。


しかし、すぐに前方を大量の倒木が埋め尽くし、進むことができなくなってしまいました。仕方ありませんが街道跡のルート探索はこれで打ち止めです。


引き返した地点の周辺の地形図です。青線のようにぐるぐると周辺を歩き回り、最後は赤線の末端まで進んで引き返すことになりました。


帰りの道すがら、落としたことに全然気づいていなかった傘を見つけ回収。ナップザックに引っ掛けて歩いていたので、見つけるまで傘の存在をすっかり忘れていました(笑)。


帰り道は降られる雪にまみれながらでしたが、幸い積もるほどにはひどく降らず、無事に車へと戻ってきました。


旧伊那街道「アンザの坂」のルート図です。現在の国道よりはショートカットとなるルートで田口の街へと登っています。


ここ「アンザの坂」の存在は以前から知っていましたが、「まあ気が向いたらそのうち。」という程度で特に意識していませんでした。ここ最近、旧伊那街道の峠道である与良木峠や知生坂を歩く機会があったので、「いい加減歩いておくか。」という気分になり歩いてみた次第です。

ここ2年くらい廃道探索の方向性が旧街道探索(特に峠道探索。)に偏ってきている中、各地に街道跡が残っている旧伊那街道は自宅からの距離も比較的近くて良い探索ルートでした。

ただ、今回「アンザの坂」を歩いたことで、旧伊那街道で街道跡が残る峠道はひとまず終わりとなりそうです。また県内で探索し甲斐のある峠道を探さないといけませんね。
Posted at 2022/04/15 22:55:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧伊那街道 | 日記
2022年02月27日 イイね!

旧伊那街道「知生坂」を探索する(2)

2022年1月8日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町八橋地内に残る旧伊那街道「知生坂」の峠道を探索してきました。ちなみに「知生」は「ちしょう」と読みます。

その1の終わりは、旧伊那街道「知生坂」の区間で、一番高い所を通る林道へと出てきた場面でした。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道へと左折し、しばらくこのまま林道を歩いていきます。


この林道はいわば「知生坂」の峠部分に当たるので、ここから峠の反対側へと下っていくポイントを探します。

林道の両脇を見渡しながら「街道の跡はないなぁ。」とつぶやきつつ進んでいったところ、林道の右側に落ち込んでいく沢筋がありました。

そこは、まるで人の出入りができるように路肩が抉られていて、その部分に「設楽町」のコンクリート製標石が立っています。


覗き込んでみると、道跡のような平場が下方へと続いていっています。


現地点はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「違っていたら引き返せばいいし、取りあえず辿ってみるか。」ということで、道跡と思しき平場を進むことにします。


歩いている平場の真下にも道跡と思しき平場が並行して続いています。これはあとで確認することにします。


進んでいくと、さらに奥へと向かって平場が続いています。道跡であることは間違いなさそうです。


深い切り通しが現れました。この道跡が旧伊那街道で間違いなさそうです。街道ではない単なる山道では、わざわざこんなに深く切り通しを造るような事はしません。


切り通しを通り抜けると、先ほど真下に見えていた別の道跡へと合流していくのが見えました。


合流地点にも「設楽町」の標石が立っていました。ただ、この標石が旧伊那街道のルートがたまたま町道となっているので立ててあるのか、町有地の境界などを示しているものなのかは不明です。


合流地点で右折して坂を下っていき、前方に見えている沢を渡って対岸へと進んでいきます。




沢の右岸を進んでいきます。斜面が急傾斜のためか、道跡の一部が崩落している箇所もあり、注意して進みます。




また深い切り通しを通り抜けていくと、次の沢が現れます。




沢で街道跡は折り返し、さらに中腹を進みます。ここの沢は大きな石が転がっていないために、一見すると沢筋が街道跡に見えてしまいます。




街道跡の道幅が細くなってきています。


街道跡の真下に県道10号が並行してきました。


直線的な坂を下り切ったところで作業道と交差。この地点で街道跡があいまいな状況になってしまいました。




ここまで県道が近づいてきているので、もう県道へと出ても良かったのですが、行ける所まで直線方向へ林の中を突っ切ることにします。






県道10号へと出てきました。右側の山の斜面には道跡らしき平場は見い出せなかったので、旧街道はこの辺りへと出てきていたのでしょう。


合流地点からすぐ先にある県道10号の境橋へ来ました。


橋から境川を眺めると旧橋の橋台が残っていました。


さらにその右側には石積みの橋台が残っていました。これは予想外でしたが、明治時代の旧伊那街道の車道改修時に架けられた旧旧橋の橋台でしょう。


河原から見上げた旧旧橋の橋台です。


これで旧伊那街道「知生坂」のルートを踏破することができました。この時点で時刻は15時20分。今いる場所は日陰側になるので、薄暗くならないうちに峠まで登り返します。


峠の反対側も登り返していくと、けっこうな急坂であることを実感します。


旧伊那街道と並行していた道跡との分岐点まで戻ってきました。ここからは真っ直ぐに並行していた道跡へと入っていきます。


急坂である旧伊那街道の迂回路として造られた道かとも思っていましたが、この雰囲気は林業用の作業道が廃道化したもののようです。


真相は不明ですが、自分としては一気に興醒めしました(笑)。


分岐が現れました。私としてはとにかく山の上へと登りたいので、左側の道跡を進んでいきます。


道跡は稜線部を通過する林道へと合流する気配もなく右側へとカーブしていくので、ここからは林道まで直登します。


日が陰る前に知生地区の遠山家まで戻ってこられました。


そして16時半頃、車へと戻ってきました。


今回踏破したことで確認できた旧伊那街道「知生坂」のルートはこちらです。






旧伊那街道が知生坂を通っていたことはけっこう以前から知っていましたが、出入口が判然としないというような話をどこかの本で読んだ記憶があり、ずっと手付かずでした。県道10号で付近を通過するたびに斜面を見上げては、道跡が無いかと気にしていたものです。

これでまた一つ、愛知県内の旧街道の峠道を確認することができました。今回は訪れた方の記録が確認できたことで、大いに助けられました。


※ここからは余録です。

旧伊那街道「知生坂」には、江戸時代の物騒な事件の記録が残されています。「設楽町誌」と「奥三河郷土館」の「郷土館発」という記事で詳細が紹介されています。

弘化4年(1847年)7月4日、信州飯田町(現在の長野県飯田市。)の銀兵衛の伜である丈兵衛(29歳)が、知生峠で三人組の盗賊(綱吉、熊次郎、源治郎)に殺されるという事件が発生しました。信州飯田の商人である丈兵衛は、所持する商取引の集金を三人に狙われて殺害され、そのうちの二人は逃げ失せましたが、綱吉は田口十箇村(現在の設楽町田口周辺の十の村々のことか。)の人々の協力により逮捕されました。

この逮捕劇に動員された人員は田口十箇村だけで千二百人以上だそうです。その後にやって来る検視役人の接待も田口十箇村が担い、その準備に苦慮し、出費も大変だったようです。また、この事件の裁判のために江戸から出頭命令が来て対応したのも、やはり田口十箇村としてだったそうです。田口十箇村の区域内で事件が起きたばっかりに、とんだとばっちりを受けてしまいました。

事件が発生した知生峠がある向林村(当時)は、現在の福島県いわき市に拠点があった磐城国平藩の飛び地領の一つでした。三河国内の飛び地領支配のための陣屋が宝飯郡国府村(現在の豊川市国府。)にあり、そこから検視役人はやって来ました。また、被害者である丈兵衛の出身地である信州飯田藩からも役人が出向いてきました。

一方、丈兵衛の遺体は峠から引き揚げられ、7月7日に塩漬けにされたそうです(検視に供するために遺体の防腐処置として施されたのでしょう。)。その後、丈兵衛の遺体は国府陣屋の役人の検視を受けて、綱吉は連行されていったようです。

そして、丈兵衛の遺体は、村内の寺へ仮埋葬されたそうです。

この事件から、当時、信州と三河の間を商人が普通に行き来していたこと(しかも、丈兵衛さんは「集金」のために信州から三河まで出向いてきている。)、当然、物資の往来も盛んであったであろうことが伺えます。だからこそ、往来する商人を狙う盗賊が山深い峠に出没したわけです。
Posted at 2022/02/27 21:59:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧伊那街道 | 日記
2022年02月23日 イイね!

旧伊那街道「知生坂」を探索する(1)

2022年1月8日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町八橋地内に残る旧伊那街道「知生坂」の峠道を探索してきました。ちなみに「知生」は「ちしょう」と読みます。

まずは前置きから記していきたいと思います。

さて、この付近では愛知県道10号が「伊那街道」の通称で呼ばれることがありますが、この県道10号は設楽町八橋の谷合橋から設楽町津具字簀ノ子の境橋まで、旧来の伊那街道とは違ったルートを取っています。

これは、伊那街道の車道改修(馬車が通行できるようにするもの。)の際に勾配のきつい「知生坂」を避けて、付近を流れる境川の渓谷に沿って新たに道路が開削されたからです。いつ頃改修されたかについてははっきりとした資料は無いようで、「明治10年代から20年代にかけて。」とか「明治の中頃。」のようなあいまいな記述しか見当たりません。

「知生坂」付近の現在の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

明治時代以前の伊那街道がわざわざ「知生坂」を越えていたのは、一つには境川沿いの渓谷が険しく、街道の建設とその後の維持が困難だったためと考えられます。同じポイントで昔の街道は山の上の峠道を通っていて、現代の道路は勾配の緩い川沿いや海沿いを急斜面や崖を掘削して通過しているのはよくあることです。

あとは、交通手段の違いもあるでしょう。明治時代以前はもっぱら徒歩・牛馬といったところであり、通行時に地形から受ける制約は馬車や荷車(さらには自動車。)に比べればずっと少ないものです。その上、移動速度は遅いわけで、それならば勾配を嫌っていたずらに迂回した街道で余計な時間がかかるよりも、急坂であっても短絡的なルートを選択するのもありなわけです。

ここ「知生坂」に関しては、遅くとも明治中頃には境川沿いの新街道へと交通が移行し、峠を越える旧街道は寂れていったようです。

それでは探索時の内容について入っていきます。

やって来たのは設楽町八橋の谷合橋から知生地区へと向かう細道へと数百m入り込んだ場所。時刻は13時です。


車を駐車した場所から谷合橋側へとやや移動し、旧伊那街道が分岐する場所へと来ました。


この場所から探索を始めることにしたのは、事前にインターネットで探索した方がいないか調べてみたところ、「知生坂」を歩いた方の記事が1件だけヒットし、その方が峠からこの場所へ出てきたことが特定できたからです。

それでは街道跡を辿っていくことにします。




歩き始めて5分ほど。石積み橋台が現れました。


大人でないと一抱えできないような大きさの石を積み上げています。


歩いてきた方向を振り返っています。「知生坂」では一番目立つ遺構でしょう。


石積み橋台の先へと進んでいきます。


谷の中に突き出している小高い尾根へと登っていきます。






川沿いへと出てきました。街道跡の下の斜面が崩落しているため、道幅が狭くなっています。注意しながら通過していきます。




街道跡が折り返していきます。


折り返しを登ったところで行き止まりになってしまいました。下調べの時点でわかっていましたが、完全に埋め立てられていますね。


この行き止まり地点の右側に石仏があります。設楽町誌村落誌によると「庚申塔」とのことです。石仏はおそらく青面金剛、石台に彫られているのは三猿だそうです。


埋め立て地の斜面を登っていきます。


埋め立て地を横切り、ひとまず奥に見えている道路へと向かいます




道跡らしきものをなぞりつつ道路へと出てきました。写真に書き込んであるとおり、正面方向の道が旧伊那街道になりますので、そちらへと進みます。


坂道を登っていくと大きな家屋があります。見たところすでに誰も住んでいないようです。


設楽町誌村落誌によると「知生のはずれ、遠山宅横に茶店があり、知生峠を往来する人の憩いの場で、五平餅などを商いしていたようである。」とあります。この大きな家屋に掛かる表札には「遠山」とあり、おそらく設楽町誌に記述されている遠山宅そのものでしょう。

あと、この知生地区については、「伊那街道で搬送馬の往来が盛んだったころは、馬宿をする家も多かったらしいが…、明治の中ごろに現在の県道ができ、馬車が通るようになるまでは賑わったそうである。」と記述されています。

インターネットでヒットした「知生坂」の記事は10年くらい前のものでしたが、添付の写真には遠山家以外に何軒も住宅が写っていました。しかし、今はこの遠山家以外、住宅は見当たりません。

さて、旧伊那街道は遠山家の家屋を囲むように進んでいきます。


古道の中にはどう見ても人様の家の敷地にしか見えない場所を通っている場合もあるので、念のためひと声かけるのが肝要ですね。

遠山家の裏山を登っていきます。




崖崩れで街道跡が途絶えてしまいました。


大木の下をショートカットして、一段上の街道跡へと移動します。




街道跡が荒れてきましたね…。


またしても途切れて行き止まりです。


どうやら、進行方向に対して右側の折り返し部分が、ことごとく崖崩れに巻き込まれてしまったようです。


さらに伐採地になって、その後にきちんと再植林されなかったのか、周囲が荒れ放題になってきました。街道跡は目で追えますが、忠実に通過するのがとても厳しい状態です…。






何とか荒れ地を通過し、地形図で軽車道表記されている道との交差地点に出ました。見たところ、廃道化した林道のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

廃林道との交差地点を直進していきますが、周辺が緩斜面となって明瞭な道跡を見い出すのが難しくなってきました。


地表にわずかに残る連続したU字型の窪みを探して、林の中を進んでいきます。


何か違和感を感じる木。切り株?でも断面が見えてなくて、樹皮が頭頂部を包むように被っています。枝葉もない。何でこうなってるの?


街道跡を進んでいくと、またしても崖崩れで途切れて行き止まりに。




地形図にきちんと表記されているほどの大きな崩落地のようです。


崖の端を歩いて迂回して、街道跡の続きへと出ます。


深く掘り込まれた切り通しが連続して現れます。










再び林道との交差地点に出ました。旧伊那街道はここで左折します。


場所はこちら。この林道付近が「知生坂」の一番高い地点になります。なので、この付近のどこかが「知生峠」と呼ばれていたのでしょう。


ここからしばらくは林道を進むことになります。林道の左右を見渡しながら歩きましたが、旧伊那街道の痕跡はわかりませんでした。おそらく林道建設時に破壊されてしまったのでしょう。


※その2へ続きます。
Posted at 2022/02/23 17:16:39 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧伊那街道 | 日記
2021年02月12日 イイね!

旧伊那街道 与良木峠道を歩く

2021年2月11日木曜日、愛知県新城市連合と北設楽郡設楽町清崎の境にある旧伊那街道与良木(よらき)峠の峠道を歩いてきました。

旧伊那街道は、東海道から小坂井(豊川市)で分岐し、豊川(豊川市)-新城(新城市)ー海老(新城市)-与良木峠-田口(設楽町)-津具(設楽町)-折元峠-根羽(長野県下伊那郡根羽村)とつないでいく街道で、三州と信州との交易を担う街道の一つでした。

やって来たのは与良木峠の真下を通る与良木(與良木)隧道。もう何度も訪れたり、通り抜けたりしているトンネルですね(笑)。


与良木隧道は、旧伊那街道与良木峠の峠道が車道改修(馬車道・荷車道)された際に建設されました。地形図中の赤線が旧伊那街道の車道改修後のルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

開通年は資料により明治26年(1893年)とされたり、明治27年(1894年)とされたりしていますが、愛知県下では最も古い近代的道路トンネルです。

設楽町側の坑門。トンネル上部の崩落によりいびつな形で修復されています。


内部は坑口付近のみ石積みで巻き立てられていますが、内部はコンクリート巻き立てになっています。コンクリート部分はかつては素掘りだったと思われます。




新城市側の坑門。


こちらはトンネルの真上にある与良木峠です。


ここには馬頭観音碑があります。


ここまでは、今までに何度も見てきたことのある場所です。今回の本当の目的地はこのトンネルから東方にある旧伊那街道のもう一つの峠。そこを目指して歩いていきます。

トンネルの真上の与良木峠から新城市側を向き、左方向に残る峠道跡を辿っていきます。


途中、尾根へと向かって斜めに交差する道があります。そちらの道の方がよりはっきりとした道ですが、気にせず直進します。


きれいに道が残っている場所もありますが、


所詮は人が全然通らない古道なので、倒木がそのまま残された場所もあります。


私が歩いてきた峠道跡の真下に並行していた道が合流してきました。ここで峠道跡は右へと曲がっていきます。


そして、この場所に石碑が一つ立っていました。


正面には「耕夫禅門」と彫られています。耕夫は田畑を耕す人。禅門は俗人のまま剃髪して仏門に入った男子のことだそうです。


右側面には「文政七申年七月」とありました。西暦では1824年です。左側面にも7~8文字彫られていましたが、読み取ることはできませんでした。おそらくはこの石碑にまつわる人物の名前だろうと思われます。

山中の古道でたびたび見かけるこのような石碑。簡潔な文言しか彫られていない場合、墓碑であるのか供養塔であるのか、まったく見分けがつきません。ただ、写真を撮る時は一声かけるようにはしています。

※後日、図書館で旧鳳来町誌を読んだ際に与良木峠の項目を見たところ、この石碑が載っていて、左側面には「遠州榛原郡」とあり、旅人を弔ったものであろうとありました。

さて、峠へ向かい先へと進みます。


与良木トンネル付近から続く細い谷ですが、ずっと田んぼの跡が続いています。かつては周辺の集落の人々がここまでやって来て耕作していたのでしょう。


鹿の角が落ちていました。生え変わりで落ちたものかな。


谷が行き止まりとなり、峠道跡は右へと折り返していきます。


上り坂になり、いよいよもう一つの峠へ向かうようです。


この坂には石畳が敷かれているようです。


日の光が差し込んできました。もうじき峠のようです。


もう一つの峠に到着しました。峠の名はわかりませんが、こちらも与良木峠と呼ぶのが妥当な気がします。


ここの峠には多くの石仏が祀られていました。ちょっと驚くくらいの数があります(笑)。


この石碑には「奉納百八十八箇所」と彫られています。


「百八十八箇所」とは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の各観音霊場に四国八十八箇所を合わせたものだそうです。これらの霊場を巡礼し満願された記念に立てたものでしょうか。

これは役行者でしょうね。


こちらは三十三観音。三十三観音以外の石仏もあります。


三十三観音のさらに右側にある石仏群。


峠のすぐ下に石段がありました。本来はこの石段から出入りしていたのでしょう。


石段の真向いにある馬頭観音。光背に大正八年(1919年)三月とあり、けっこう新しい馬頭観音です。


最初の方で、旧伊那街道与良木峠の峠道は明治26年か明治27年に車道改修されたと書きましたが、この馬頭観音はそれよりも新しい年代の物であり、この峠道をトンネル開通後もしばらくの間は利用していた人や馬がいたという証でしょう。

もう少し坂道を下ると石仏に倒木が倒れ掛かっていました。かろうじて直撃は避けられたようです。


峠を越えて新城市側に入ると急坂になり、つづら折りも現れます。




3か所折り返すと長い直線の下り坂になります。


坂の途中に軽四の廃車体がありました。まだ割ときれいです。よく路肩へ押し込めたものだと思います(笑)。


直線の下り坂の終点には民家がありました。峠道跡は民家の庭先で右へ折り返して、さらに下っていきます。


この先は舗装路になっていたのと、まだまだ急坂が続いていたようなので、これ以上跡を辿るのは止めました。

現在地は星印の地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠下まで戻ってきました。今度は、ここから右方向へと分岐していく道を辿ってみます。


100~200mほどで尾根へ出ました。何か見覚えのある景色です。


小さな高圧線鉄塔の下へと出ました。1年前に見上げた鉄塔です。


旧伊那街道とは全く関係ない道ですが、もうしばらく高圧線沿いを歩いていきます。


山を越えて、ふたたび林の中へ。本来は左手へと下っていく道が正解ですが、真っ直ぐ進んでみます。


道のように歩きやすい尾根が続いています。


尾根が終わり、下り斜面になりました。このまま分岐していった道へ戻れると算段していたので、そのまま下っていきます。


ところが、予想以上に下へと下っていく斜面…。正面には見上げるように別の尾根があります。どうやら気付かぬ間に左へと分岐した尾根があったようで、そちらの尾根を辿るのが正解でした…。

ここが人里離れた深山幽谷なら尾根へと引き返すのが正しい行動ですが、このまま降りていっても車道の旧伊那街道のどこかへと出ていけるはずなので、そのまま進んでいってしまいました。

ようやく谷底まで降りてきました。正面の斜面に上方向へと登っていく道が見えます。これを使って駐車場所へと戻ることにします。


谷底から降りてきた斜面を見上げます。この急傾斜なので降りるのに相当難儀しました。


で、坂道を登っていったら、呆けなく与良木隧道前の駐車場所へと出てきてしまいました(笑)。


石仏群のある峠から駐車場所まで歩いてきたルートが青線になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

どうやら、登ってきた坂道は設楽町側の旧伊那街道の峠道跡だったようです。それでは最後に設楽町側の峠道跡を辿るため、もう一度坂道へと入り込みます。




先ほど斜面を降りてきた場所にある、道の折り返し。


路盤がU字型に窪んでいますが、元からそのような道形だったのが、雨水などで洗掘されたのかよくわかりません。


軽トラが通れるくらいの道幅があります。


隣の沢が合流してきたため、峠道跡は左へとカーブしていきます。


カーブした先は堀割り道になっていました。倒木が邪魔なので土手になっている所を歩いて進みます。


真っ直ぐ道跡が続いています。


小さな沢にぶつかりました。けっこう抉れています。


幅の狭い場所で飛び越して対岸へと渡ります。

振り返って峠側の道跡を撮ります。積み方は粗いですが橋台でしょう。


道跡が荒れてきましたが、そのまま進んでいきます。




砂利道へと出ました。


写真中央に立つ電柱の右側が峠道跡への入口になります。


そして、すぐに旧伊那街道の車道へと出てきました。


現在位置は星印の地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは、旧伊那街道の車道(現在は設楽町道。)を登って帰ります。

最後のおまけ、車道のミニ廃道です。今までこの場所に廃道があることに全然気が付いていませんでした。


沢水を通水するための石渠が設けられています。


車へと戻ってきました。


最後に歩いた区間は緑線になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

廃道以外にも道路から外れた所を歩いていますが、道のとおりに歩くと距離が長くなるので、斜面をショートカットしただけです(笑)。

あらためて今回歩いて確認した旧伊那街道与良木峠道です。今回の区間だけだと片道1kmあまりという短い距離です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧伊那街道与良木峠をインターネットで検索すると、トンネルの真上の峠や石仏群のある峠をピンポイントで訪れている方はあるようですが、峠道跡を辿っている記事は見つけられませんでした(古道探索時によく参考にする本「愛知の歴史街道」の著者様は歩いているようです。)。

これでまた一つ、昔の街道の峠道が確認できました。

しかし、そろそろ鉄道煉瓦トンネルや構造物を見に行きたいですねぇ…。愛知県内に行動範囲を絞ると対象物件が線路下の水路暗渠くらいしかないのがどうにも困りものです。
Posted at 2021/02/13 01:28:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧伊那街道 | 日記

プロフィール

「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(4) 
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2025/04/19 15:50:49
甚目寺と名鉄築港線東名古屋港駅 
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2025/04/19 15:27:31

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