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小林あにのブログ一覧

2023年08月11日 イイね!

【新城市】カンバンタ山道と海老峠への峠道を探索する

2023年7月16日日曜日、新城市内の山の中で「カンバンタ山道」と「海老峠」への峠道を探索してきました。

まずは前書きです。

「カンバンタ山道」は、旧海老街道仏坂峠道と現在の新城市海老の街を結ぶ間道です。仏坂峠の峠道の途中から分岐して、カンバンタ(地形図に記載が無いため、具体的な場所は不明。)、川売と経由して海老へと向かう経路でした。旧街道である仏坂峠の峠道を歩くと、分岐点に「カンバンタ山道」への道標が立っています。

もう一つの「海老峠」ですが、こちらは海老の街から川売を経由し、設楽町設楽町川合にあった宇連集落とを結んだ道中にある峠です。現在では、岩古谷山~宇連山を縦走する登山道のポイントの一つでしかなく、峠に道標は立っていますが、川売方面・宇連方面とも通行不能の表示になっています。

「鳳来町誌 交通史編」には、「駄賃背負い」の話として、この周辺の山道の往来についての話が以下のように載っています。

『当時(この話が載っている項目の流れからすると明治30年代から40年代のことか。)、駄賃背負いの事をこの辺りでは「しょいこさ」と呼び、農閑期ともなれば四谷の里(新城市四谷)からも大勢の「しょいこさ」達が、連れ立って、ふりくさ道(海老街道)を歩いて神田(設楽町神田)と海老(新城市海老)を往来した。

「しょいこさ」の一日をまとめると、おおよそ次のようであった。

朝、四谷の家を出発(4時~5時)~カンバンタ(4時50分)~海老峠(5時30分)~宇連(7時)。荷造りして宇連を出発(8時)~海老峠(9時)~カンバンタ大杉(10時)~引き返す~海老峠(11時)~宇連(12時)~昼食~宇連を出発(13時)~海老峠(14時30分)~カンバンタ(15時30分)~四谷(16時30分)~カンバンタ(17時30分)~四谷に帰宅(18時)

これは夏の日程である。冬の二回目のカンバンタは、明くる日になることがあった。馬車の来ない日は、カンバンタ引き返しは中止して、海老までの荷車引きとなった。』

以上のような内容です。

日程の例で挙げられている「しょいこさ」さんが、「主に何を運んでいたのか?」とか、「なぜカンバンタと宇連の往復ばかりしているのか?」とか、「話の初めに出ていた神田や海老へはどうして行かなかったのか?」とか、「馬車はどこへ来ていたのか?」とか、突っ込みたいところは色々あります(笑)。

おそらく、この「しょいこさ」さんは、カンバンタと宇連の間の海老峠の峠道を専ら担当していて、カンバンタを中継地として川売・海老や四谷・神田へと運ぶ「しょいこさ」さんへ荷物を引き継いでいたのでしょう。これだけでも、現在では人の往来が全くない山の中の廃道が、かつては頻繁に利用されていたことが十分伺えます。

「海老峠」の峠道が記載されている旧版地形図です。もう一方の「カンバンタ山道」と思われる道は記載されていません。まだまだ徒歩交通が盛んな時代、話通りの利用状況なら地形図に載っていてもおかしくはないのですが…。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

さて、「カンバンタ山道」については、2022年4月9日に新城市四谷側の仏坂峠の峠道から進入して探索しましたが、道筋は途中で途絶えました。また、峠越えする場所も複数の鞍部を探索しましたが、切り通しなどの目印となるような場所が見当たらず、特定するには至りませんでした。

今回は目線を変えて、新城市海老川売側から進入して「カンバンタ山道」の道筋を探索し、時間があれば海老峠へと至る峠道の探索も行うつもりです。

朝8時15分、川売集落下の駐車場所へとやって来ました。ここから川売集落内を通り、「カンバンタ山道」へと向かいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

川売集落を見上げています。ご覧のとおり、海老から続く谷川の谷が行き止まりとなる場所になります。


川売集落を通り抜けた場所にある「猿ヶ岩」。私はあまり猿の顔に似ているとは思えませんでした。似たように見えるアングルがあるのかもしれません。


ここで棚山高原へと向かう林道と別れて左側へと分岐します。


しばらく歩くと次の分岐点が現れます。古道を通らずに山の奥へと進むのであれば林道を直進ですが、できる限り古道をなぞって進みたいので、ここは左側へと曲がります。


川に洗い越しがありました。横溝が入っているタイプは初めて見ますね。


この洗い越しを渡ってすぐの場所から「カンバンタ山道」へと入ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

どの程度残っているのか心配でしたが、まずのところは辿れる程度に道跡は残っています。




林道と交差して直進していきます。


程なくして林道へと出てきました。この先にも道跡があるように見えますが、ここからしばらくは林道を歩いていくことにします。


それでもはっきりと古道が残っている場所は、その都度古道側を歩いていきます。


林道に関してはすっかり廃道化しています。これだけ洗掘が進んで路面がボロボロになっていると、トラックや軽トラでは入ってこられないでしょう。まあ、こういう路面が大好物な方もみえるわけですけどね(笑)。






この場所で林道は高度を稼ぐために大きく迂回していきます。古道は川沿いを直進するため、ここで林道と再び別れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

川には砂防ダムが連続して設置されています。この状況ではしばらくの間、古道は埋もれてしまっているかもしれません。




再び道筋が姿を現しました。


折り返しを登っていきます。


折り返しの先はしばらく急坂が続きます。




川へと近づいてきたところで古道の道筋が消えてしまいました。落石で埋もれてしまったようです。真上を林道が通っているので、その影響かもしれません。




仕方がないので、ここからは川の中を歩いていきます。

対岸から流れ込む滑らかな沢に巨石が乗っかっていますね。落石なのか、沢の奥から徐々に流れてきたのか。何とも言えない変な光景です。




またもや砂防ダムが現れました。


昔の砂防施設の跡のようです。


何となく道筋らしきものがあるので、ひとまず辿っていきます。




また砂防ダムです。


らちが明かないので林道へと出ました。ここまで土石に埋もれてしまうと、もはや林道なのか?と思ってしまいますが(笑)。


「カンバンタ山道」の峠擬定地に向けて方角だけ合わせて適当に歩いていると、作業道に遭遇しました。しばらく歩いていってみることにします。




最後の砂防ダムを過ぎると作業道は徒歩道へと変わりました。


路肩に石積みを見つけました。徒歩道に石積みがあると、手を入れる必要がある道だったのだと少々期待してしまいます。


深い雨裂が現れました。対岸には道筋が見えているので、上流側へと迂回して対岸へと渡ります。


折り返しを通ります。


折り返しを過ぎたところで道が無くなってしまいました…。周囲を見渡しますが、続きとなる道筋は見い出せません。本当に「カンバンタ山道」は峠越えの道筋を拝ませてくれませんね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

先程の道の折り返しまで引き返し、沢を渡ってさらに右隣の谷筋へと移動します。


まだこちらの谷筋の方が鞍部へと取り付きやすそうです。


谷筋の源頭部まできました。あとは斜面をよじ登って鞍部へと出るだけです。


カンバンタ峠の擬定地へと来ました。私の中では、この場所が峠の最有力地なのですが、いかんせん、この鞍部の前後に人が往来したと感じさせるだけの道筋がないのです。まあ、この尾根のどこにもそのような場所は発見できませんでしたが…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠擬定地から川売方面へと進む細い道筋(獣道よりはマシな程度。)を進んでいくと、違う尾根の上へと出てきました。


他に進む道筋は無いので、そのまま尾根を下っていくと鞍部が現れました。しかし、この鞍部にも人が往来していたような道筋は付いていません。ここで「カンバンタ山道」の事はあきらめて、「海老峠」の峠道の探索に切り替えます。


「海老峠」への峠道が通っていたと考えられる谷筋へと移動するため、鞍部を左へと曲がり、緩斜面をどんどん下っていきます。


滑沢の中を進んでいきます。


さらに小さな稜線を越えて、峠道が通っていたと考えられる谷筋へと出ました。


河原へと下りて周囲を見渡しますが、これだけ岩石に埋め尽くされていると、どこに峠道が通っていたのか見当が付きません。ひとまず、旧版地形図と登山用アプリを頼りに登っていってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

植林地の終端がありました。土地の境と考えられるので、道筋の名残りかもしれません。どんどん登っていってみます。




どんな山奥にも残っている炭焼き窯の跡。


巨石に埋め尽くされた急峻な枯れ沢。この先のどこに「海老峠」への峠道は通っていたのか…。精度が甘い旧版地形図に記載されている道筋を辿るのは、現行地形図と比較しながらでも厳しいです。読図力が無いと言えばそれまでですが、昔の測量に元づく地形と現在の測量による地形では、山や谷の形が異なっていることがけっこうありますからね…。


峠道は、この辺りで右側の稜線へと登ってから峠へと向かうように記されているので、斜面へと取り付いて、それらしき道筋がないか獣道を歩いて探してみます。急斜面なので、けっこう緊張します。


それらしき道筋をようやく見つけました。


稜線をぐるりと回り、先へと進むと断崖の道…。いや、本当に道なのか?荷物を背負った人が歩いていた道なのだから、もう少し幅はあったはず。岩の段差が道に見せているだけなのか?


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

取りあえず少し踏み込んでみましたが、見渡せる限りでは道に見えなくもない。しかし、土砂が積もり、ずっと谷側へと傾斜している状態。ここで探索を断念しました。私のレベルや感覚ではこの先に進むのは怖い…。

あきらめついでに、眼下に見えていた滝まで急斜面を下って行ってみました。これまで鬱蒼とした山の中、高い湿度に包まれて汗だくになって歩いていたので、滝の水が冷たくて気持ちいいです(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここまで下りてしまったら、もう一度先ほどの引き返し地点まで登り直すのも面倒なので、このまま沢を下っていきます。


林道の終点へと出てきました。ここからは林道を歩いて車へと戻ることにします。まあ、廃道化した林道なので、崩れたりしていなければいいですが。


道中で見かけた廃車。


洗い越しまで来ました。ここでも沢の水で顔や腕の汗を流します。


川売集落の対岸にある田んぼが見えてきました。車まではもうすぐです。


今回歩いた探索ルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ということで、今回も「カンバンタ山道」絡みの探索、成果なく撤退となりました…。「鳳来町誌 交通史編」に記載されているとおりであれば、もっとしっかりとした道跡が付いていると思うのです。今までいろいろな古道を歩いてみましたが、けっこうしっかりとした痕跡があったものです。でも、ここの峠道にはそんな名残りが無い…。

「カンバンタ山道」、もっとしっかりとした記録が残っていないのかなぁ。現存していなくとも、道筋が確定できればもう満足なんですが…。

あとは、「海老峠」。あれだけ石に埋め尽くされた谷筋を通るのであれば、痕跡が見つけられないのは仕方がないですし、地形図で見ると峠付近の等高線が密なので、峠付近の道跡がもともと険しい可能性は否定できません。

次は、宇連集落側からの探索かなぁ。宇連集落は廃墟好きの方々には知られた廃集落。鳳来湖から集落へ至る林道が狭いそうで、その点は気がかりですが、集落から峠までは行ける可能性はあるかもしれません。

山行記録で「海老峠」と宇連集落の間を歩いた方の記録自体はネットにあったのですが、歩いたルートが旧版地形図の道筋と違っていたので、残念ながらそれは参考にはできません。いつものように、旧版地形図という手がかりと自分の勘を頼りに探索するしかありませんね。
Posted at 2023/08/11 15:48:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧海老街道 | 日記
2022年06月04日 イイね!

「カンバンタ山道」を探索しました

2022年4月9日土曜日、愛知県新城市四谷の山道、「カンバンタ山道」を探索してきました。「カンバンタ山道」は、旧海老街道仏坂峠道と現在の新城市海老の街を結ぶ間道です。仏坂峠の峠道から分岐して、カンバンタ(地形図に記載が無いため、具体的な場所は不明。)、川売と経由して海老へと向かう経路だそうです。

カンバンタ山道が通過する地域の旧自治体である旧鳳来町が発行した「鳳来町誌」には、同山道に関する記述はありません。存在が確認できる資料と言えるのは、「愛知県の峠」という本に「カンバンタ峠」として地図無しの短い記述があることと、仏坂峠の峠道に立てられている道標くらいでしょう。

旧海老街道(ふりくさ道)仏坂峠への新城市四谷側入口へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからしばらくは、旧海老街道を歩いていきます。


「カンバンタ山道」との分岐点に来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからカンバンタ山道へと入り込みますが、まだしばらくは先週4月2日土曜日の夕方に歩いた区間となります。


なかなかの急坂を登っていきます。


細い道ながら、所々の路肩に補強のための石垣が積まれています。


細い沢筋を進んでいきます。


先週に確認した石積み橋台の跡まで来ました。


場所はこちら。


黄枠で囲った部分が石垣になっています。


橋台跡の写真です。






さらに奥へと進んでいきます。


この付近も石垣で路肩が補強されています。


明確な道跡が残る区間の最終地点へと来ました。


場所はこちら。


この周辺は、四方から小さな沢筋が集まってくる地形になっており、比較的なだらかな地形をしていますが、その表面は多くの岩石で埋め尽くされてしまっています。

先週訪れた時は、この地点から直線的に奥へと進んでみましたが、道跡は見い出せませんでした。

今回は、この地点から左側の斜面を登っていってみることにします。


こちら側も道跡を見つけることができません。それでも何か痕跡があることを期待して、斜面をどんどん登っていきます。


枯れ滝にぶつかりました。


場所はこちら。


この周辺の山は、尾根まで上がろうとすると必ずこのような岩盤が露出した場所へと遭遇してしまいます。このような岩場を越えて山道が通っていたならば、細いなりにも道を開削した跡が残っているはずです。ですが、どこにもそのような痕跡が発見できません。

あきらめずにさらに上へと斜面を登っていきます。


斜面に石垣が築かれているのを見つけました。確認してみるに山道の普請のために造られたものではなさそうです。斜面の土留めのためか、田畑の造成のためのものでしょう。


この辺りで斜面に道跡を探すことはあきらめ、尾根へと登ることを優先します。一気に尾根まで登り、地形図で峠と推定される鞍部を目指すわけです。


大きな岩壁の下へと取り付きました。尾根へと登っていけそうな場所を探し回ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上へ上へと登り詰めていきましたが、岩壁が険しく、尾根へとたどり着く前にこれ以上登れなくなってしまいました。


一旦引き下がり、土砂崩れを起こした後の沢を横断して、右隣の山筋へと移ります。


峠と推定した内で、一番東側の鞍部へと到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

なだらかな地形で悪くないですが、肝心の山道と思えるような踏み跡がありません。せいぜい獣道レベル。その獣道も、鞍部を越えた先の急傾斜地で消えてしまいます。


仕方がないので、次の推定地へと向かいます。

646mピークへと一旦登り、ここから西側の急斜面を一気に下っていきます。


2か所目の推定地へと来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

探索を始める前に推測した際には、この鞍部がカンバンタ山道が越える峠の最有力候補と考えていました。しかし、この鞍部に付いている踏み跡は、間道だったとは言え、人がそれなりに往来した道の跡とはとても思える状態ではありませんでした。

普通、地形が険しければ険しいほど、道を通せる場所の選択肢は狭まるので、おのずと答えは見つけやすくなるものです。それがアプローチしやすそうな(それでも疑問符だらけでしたが。)鞍部が2つありながら、どちらもカンバンタ山道が峠越えをしていた場所だととても断言できない状況だったわけです。

「一体、『カンバンタ山道』はどこを越えていたんだ?」

3つ目、最後の推定地へと来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

鞍部の両サイドは一気に切れ落ちるような地形で、ここもとても「峠」として使えそうな地形ではありませんでした。

2つ目の鞍部へと戻ってきました。尾根に凹みが付いてますが、人工的に掘削した「切り通し」ではありません。鞍部へと連なるような道跡も見出せません。




この場所の斜面を少し下っていくと岩場の上へと出ます。岩場に道跡と思しきものなく、徒手空拳のまま下っていけるような場所ではありません。


足場・手がかりのある斜面をもう少しだけ強引に下ってみましたが、そこも最後は10mぐらいの崖地になり万事休す。仕方なく鞍部まで登り返しました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

完全にお手上げです。久しぶりに成果無しの探索となってしまいました…。

さて、ここまで登ってくるのもけっこうハードでしたが、今度は安全に下っていけるルートを探さないといけません。元来たルートを帰れば一応は安全に帰れますが、646mピークへと登り直すのがとてもきついので…。

地形図を頼りに少しでも緩そうな傾斜地を進んでいきます。

下へ行くほど急傾斜になる沢の上を横断。沢へ滑り落ちて止まらなかったら、最後は岩場の枯れ滝でダイブですね。


ようやく安心して降りられそうな沢へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

岩の隙間に足を落とさないよう、足元を確認しながらゆっくりと沢を下りていきます。


旧海老街道まで出てきました。


無事に仏坂峠の峠道の入口へと帰ってきました。


今回探索したルートはこちら。


以前に設楽町内で探索したグミンタ峠の里道跡は、峠からのルートを確認することで里道跡全体のルートも特定することができましたが、今回は峠の場所が特定できず、結果、峠へ向かう山道の確認もできませんでした。

正直、すぐに再アタックするだけの価値が見い出せないので、当面はこのまま放置案件ですかね。

もし再アタックするとなれば、今度は峠の南側である川売地区からしかないですね。それでも、峠直下のルートが発見できるかわかりませんが…。
Posted at 2022/06/04 16:28:48 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧海老街道 | 日記
2022年06月01日 イイね!

旧海老街道(ふりくさ道)仏坂峠道を歩く(2)

2022年4月2日土曜日、愛知県新城市四谷にある旧海老街道(ふりくさ道)の峠「仏坂峠」の峠道を歩いてきました。今回の目的は旧街道のルートを地図上に確定させるためのGPSデータを取ることです。

ここ仏坂峠の峠道は、2011年5月21日、2019年3月9日と2回訪れていて、今回で3回目となります。なので、もはや「ルート探索」というよりは「散策」といった感じですが、峠道周辺の一部の山林が近年の豪雨などによる崩落で荒れ果てて、踏破が困難になっています…。

前回(1)では、仏坂峠道の最大の難所である釜滝の上までやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠側から釜滝の滝壺を眺めています。何も知らずに峠から下ってくると、いきなり大穴へと飛び込んでいくような感じに見えます。


登ってきた道筋を振り返ります。岩盤を削って道を付けたような場所ですが、特に石仏の前は狭く、路面も荒れています。こんな場所を重い荷物を背負った牛や馬が通行するのは、さぞ大変な事だったでしょう。


少しお遊びで、滝の上の巨木の隙間(2本の木がくっついている形なので、真ん中に隙間がある。)から巨岩の先端へと出てみます。


この巨岩の上にも石仏が祀られています。しかし、私では見ることができるのは背中のみ。間近で顔を見ようと接近するには、あまりに危険な場所です。


釜滝の滝口も覗き込んでみます。すくみ上がりますね…。


石仏の顔を収めたいと思い、少しだけ坂を下った場所から望遠で捉えてみます。

明王像でしょうか。光背には火焔形の線刻が施されています。「大林村」、「文化」の文字も読み取れます。


巨木付近の峠道に残る石畳。


釜滝を後にして、ふたたび仏坂峠へと進んでいきます。


こちらも石畳の跡。


つづら折りを通過。


街道の遺構の一つと言える巨岩が見えてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

巨岩を利用した馬頭観音碑です。


写真では見にくいですが、黄枠内に「馬頭観世音」の文言が彫られています。


馬頭観音碑からさらに歩くこと7~8分。東海自然歩道との合流地点に来ました。


ここから先の旧海老街道仏坂峠道は、東海自然歩道として登山者に利用される現役の道となります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

合流地点に立つ「ふりくさ道」(旧海老街道)の道標。


少し歩くと峠の切り通しが見えてきました。


峠の直下にも、数年以上前の台風か大雨で倒れた倒木群があります。登山者の通行に支障がないよう、登山路部分のみ切断・撤去されています。


仏坂峠に到着しました。峠道の入口から約2時間かかりました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

馬頭観音碑。「二十一番観音」と同じく、海老町四谷の「馬方連中」が建てたものですね。




こちらが「三十三番観音」です。


仏坂峠から東側の峠道はまた廃道となりますが、もう少し進んでいきます。


峠の切り通しを抜けると、峠道は左へと曲がって進みます。


つづら折りを下っていきます。


峠の切り通しを見上げています。あまり距離は歩いていませんが、急坂なので高低差が一気につきます。


峠を見上げた場所の先からは、沢に沿ってだいたい直線的に坂を下っていきます。


そして、仏坂トンネルの神田側坑口の真上で道跡は途絶えてしまいます。トンネル工事の際に削り取られたようです。


愛知県道32号 仏坂トンネルです。


これで道跡が確認できる区間は踏破したので、帰ることにします。


仏坂峠を通過。


釜滝を通過。


さて、仏坂峠へと登ってくる途中に見つけていた、石積み橋台へと寄り道します。


旧海老街道との位置関係はこんな感じ。


どこへつながる道かはわかりませんが、道跡を軽く辿ってみることにします。


路肩に石垣を組んで道幅を確保しているくらいなので、行き止まりの道ではないようです(立派そうでも行き止まり道だったこともありますが…。)。


交差する小さな沢に石積み橋台跡がありました。道跡はまだ奥へと続いているのか…。


しかし、すぐに道跡はわからなくなってしまいました。四方八方から沢筋が集まる地形で、周辺は大量の岩石に覆い尽くされていたからです。




少し周辺を歩き回ってみたところ、炭焼き窯の跡を発見。「もしかしたら、炭を搬出するための道だったのかもしれないな。」とひとまず結論付けました。


この時点で時刻は16時35分。周囲はすっかり薄暗くなっています。今回の目的は仏坂峠道のルートデータ取りなので、これで帰ることにします。

やや小走りで帰路を急いでいたところ、毎回よくやらかす杉の枝で両足をロックされる事故が発生。普段なら、「おっとっと」という感じでよろめくだけとか、片足ケンケンで踏ん張るとかして回避するのですが、この時はいきなり誰かに両足首をつかまれたがごとく完璧にロックが決まってしまい、小走りの勢いそのままに転倒。

とっさに左手が出たことと、幸運にも岩の間の窪地にはまるように落ちたため、頭を打つような大事には至らずにすみました。


ちなみに、勢いよく地面についた左手は、後日、下半分がどす黒く変色しましたが(多分、衝撃で血が死んだのだと思われ…。)、それだけで済みました。

あと、転倒時は地形図を見るためにスマホを手に持って歩いていましたが、そのスマホの画面を頭の右上にあった岩へと直撃させました…。「これで画面は粉々か…(泣)。」とあきらめかけましたが、こちらも保護フィルムに穴が開いただけ。フィルムの貼り替えだけですみました。


すっかり気落ちして、残りの帰路はトボトボとした足取りに…。


そうして出てきたのが、旧海老街道とカンバンタ山道との分岐点。今まで歩いていた道が、カンバンタ山道だったのだとわかりました。こちらの道は、また日を改めて出直しです。


分岐点のすぐ下にある馬頭観音碑に手持ちののど飴を1個お供えして、「何とか無事に済んでありがとうございました。」と頭を下げてきました。

17時10分、ようやく車へと戻ってきました。


今回はデータ取りメインのつもりだったので、あまり細かく見ずに「サクッ」と行くつもりでしたが、現地へ来てしまうとどうしても虫が騒いで、結局いつもの探索と同じようにいろいろとジロジロ見て、写真たくさん撮ることになってしまいました(笑)。

最後に旧海老街道仏坂峠道のルートです。

戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

今回取ったデータで作成したルート図。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2022/06/01 13:05:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧海老街道 | 日記
2022年05月21日 イイね!

旧海老街道(ふりくさ道)仏坂峠道を歩く(1)

2022年4月2日土曜日、愛知県新城市四谷にある旧海老街道(ふりくさ道)の峠「仏坂峠」の峠道を歩いてきました。今回の目的は旧街道のルートを地図上に確定させるためのGPSデータを取ることです。

ここ仏坂峠の峠道は、2011年5月21日、2019年3月9日と2回訪れていて、今回で3回目となります。なので、もはや「ルート探索」というよりは「散策」といった感じです。が、踏破するのは年々困難になっています…。

時刻は12時50分。新城市四谷側の峠道入口へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠道入口に立っている説明板にある峠道の概略図。


仏坂峠への峠道が道路から左へと分岐していきます。


路傍に祀られている石仏。新城市四谷側から峠までの間には三十三体の観音菩薩像が祀られており、「仏坂」の由来となっているそうです。ちなみに写真の石仏は八番観音になります。


こちらは「役行者」像。文化3年(1806年)のものだそうです。ちなみに、倒木が像に当たったようで、顔が剥がれ落ちていました…。


破損する前の「役行者」像の写真はこちら(2019年3月9日撮影。)。


今のところはまだきれいに保たれている峠道を、直線的な急坂で登っていきます。


ついに倒木が現れました・・・。2019年3月の時点で確認してますが、この先の道中を暗示させる不穏な光景です…。ここは人が通れるようにカットされていたので、まだ大丈夫でしたが。


ここで峠道は沢を渡って対岸へと渡ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を渡るとつづら折りがあります。




路傍に石碑があります。


こちらは馬頭観音碑。「馬頭観世音菩薩」と彫られています。


「明治七年戌壱月…」とあり、1874年に立てられたものとわかります。そして明治7年は戌年なので「戌」の字も。


馬頭観音碑のすぐ先に木製の道標が立っています。


「左 仏坂峠ふりくさ道」、「右 カンバンタ山道」とあります。


「ふりくさ道」は旧海老街道の別称。現在の北設楽郡東栄町振草へと向かう街道なので、このようにも呼ばれています。「カンバンタ山道」は旧海老街道から分岐して、カンバンタ(地図に載っていないので場所は不明。)、川売を経由して、新城市海老へと向かう間道です。


分岐を通過するとすぐにまた倒木が現れます。ここもくぐり抜けられるように倒木がカットされているので、そのまま進んでいきます。


倒木をくぐり抜け、つづら折りを登っていきます。


難関に到着です。斜面崩落による大量の倒木が絡み合っています。2019年3月にここを訪れた際にはすでにこの状況で、「あれから3年経っているし、もしかしたら峠道の部分くらいはカットされてるかな。」と期待しましたが、どうやらそのまま放置されているようです…。




これだけ大量の倒木を跨いだりくぐったりして進むことは不可能なので、倒木群の上部まで高巻きして迂回していきます。


この辺りで対岸へと進まないといけないので、倒木の隙間を縫って沢まで下りて対岸へと渡ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

渡った先で今度は峠道まで急斜面をよじ登っていきます。


ようやく峠道へと復帰しました。


この先は通行を妨げられるほどの倒木や崩落は無いはずなので(2019年3月以降に何も起きていなければ。)、ようやく一安心です。


石仏群です。


頭上に馬頭をいただいているので馬頭観音ですね。光背には「寛政十二年」と彫られています。西暦1800年になります。


こちらは「十七番観音」。


石仏二体の上にある馬頭観音碑。


まだまだ急坂を登っていきます。


ふと右下の沢へと目をやると石積み橋台が見えました。あんな方向へと行く道は思い当たりませんが、帰りにでも寄ってみましょう。


杉の幹にマジックペンで道案内が書かれていました。木の所有者が書いたのならばいいのですが…。


一旦、沢のガレた河原へと出て、また左側の山の斜面へと入っていきます。




峠道にある名所「釜滝」です。ご覧のとおりの黒い岩肌と形状から「釜」の名前が付けられたのだと思います。


ここから峠道は、「釜滝」の滝口の上を目指してさらに上っていきます。




岩肌に石仏が寝転がっています。多分、上段を通る峠道から滑り落ちてきたのでしょう。


石仏を抱きかかえて、元の場所へと据え直しました。札を見ると「二十二番観音」のようです。台座が傾いていたので、またひっくり返らなように隙間へ石を詰めて平らにしておきます。


「二十二番観音」の手前にある「二十一番観音」。「二十一番観音」は二体ありますが、こちらは新しい方。光背には「大正十三年(1924年)七月」の年号、台座には「二十一番 海老町四谷 馬方連中 建之」とあります。


大正13年の頃には、ここ旧海老街道の隆盛も陰りが出始めていたはずです。大正10年(1921年)に旧別所街道(現国道151号)与良木峠に旧本郷隧道が開通したことにより、信州と三河を結ぶ主力の物流経路が旧別所街道へと移行したからです。

海老町四谷は仏坂峠の西側の地区であり、旧別所街道とはまったく縁がありません。当然、四谷の「馬方連中」が請け負う仕事は減ったことでしょう。石仏を建立したのは道中の安全祈願はあるでしょうが、旧海老街道の復興を祈願したものでもあるでしょう。

さて、「二十二番観音」の先へと進んでいきます。


峠道の右下に先ほど眺めていた「釜滝」がふたたび見えてきました。


ここに二基の石碑が立っています。


南無阿弥陀仏碑と馬頭観音碑です。


南無阿弥陀仏碑の右側面に彫られている年号は「享保三年三月吉日」。西暦で1718年。この仏坂峠の峠道にある石仏・石碑の中では一番古いものだそうです。


馬頭観音碑の下部。「古宿村 大林村 中」、「今泉半右衛門 〇〇〇右衛門」、「三界萬霊等」と彫られています。


古宿村・大林村は現在の新城市四谷にあった村。「村中」とあるので二つの村が「村一同」で建立したものでしょう。名前が記されている二人は各々の村の庄屋だったのでしょうか。「三界萬霊等」と彫られているのは、あらゆる世界(三界)の無縁の霊(萬霊等)を漏れなく供養するという意味のようです。

この二つの石碑の先が、この峠道の中で最大の難所といえる場所です。崖を横目に睨む道幅の狭い場所なので、牛馬が荷物を背負ったまま「釜滝」へと転落することもままあったようです。






「釜滝」の滝口の上に聳える二本の巨木。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

その2に続きます。
Posted at 2022/05/21 22:40:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧海老街道 | 日記
2022年03月27日 イイね!

旧海老街道 花丸峠道 設楽町神田側を探索する

2022年1月23日日曜日、愛知県北設楽郡東栄町振草と設楽町神田の間にある旧海老街道(振草道・ふりくさ道)の花丸峠の峠道のうち、設楽町神田側の峠道を探索してきました。

ここ花丸峠の峠道は、峠の北側である東栄町振草側については2020年5月30日に踏査済みなので、今回は南側である設楽町神田側を探索してみることにしたわけです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道473号の路肩に車を駐車し、東栄町月と設楽町神田の間に残る里道跡を歩いて、まずは無名の峠までやって来ました。


この場所から、愛知県道424号に指定されている徒歩道は、花丸峠へと向かって一直線に登っていくように地形図に描かれています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

いろんな方々がレポートしているので、答え自体は知っているのですが(笑)、やはり自分の目で見ないといけませんからね。

県道があるはずの斜面を見上げています。いくつものレポートのとおり、道らしきものは何も見当たりませんね…。


しかし、道は無くともこの斜面を登っていかないと花丸峠へはたどり着けません。正面に見えている斜面へと取り付いて尾根まで登り、そこから尾根筋をさらに登っていきます。




息を切らせつつ旧海老街道へと出てきました。


やはりと言うか、自分の目で確かめても地形図にあるような徒歩道は存在しませんでした。このようなケースはまま存在しますが、国の機関が発行している地図でも完璧に当てにできるわけではないということです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、ここから直接旧海老街道の峠道を下って探索を始めてもいいのですが、あくまでも今回の探索の起点は花丸峠なので、きちんと峠まで登ることにします。


ほんの2分ほど歩くと花丸峠に到着です。


場所はこちら。地形図が示す花丸峠と実際の花丸峠の位置も若干違いますね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

あろうことか、峠の石碑が台座から地面へと転がり落ちています。


この石碑は名号碑(みょうごうひ)と呼ばれるもので、「南無阿弥陀仏」と彫られています。石碑の側面には「元禄十三…」と年号があり、西暦で言うと1700年にこの峠に立てられたものとわかります。


寝転がっている石碑を軽く動かしてみたら、私でも持ち上げられそうだったので、「よいしょっと。」と腰を入れて持ち上げ、台座の上へと据え直しました。


この石碑は名号碑ですが、道標も兼ねています。「右ハ(は)月道」、「左ハ(は)粟代道」と刻まれています。行き先の下には、この石碑の施主名が彫られているようです。


刻まれている地名についてですが、「月」は東栄町大字月、「粟代」は東栄町大字振草の字ですが、現在は上粟代と下粟代があります。「月」は花丸峠から東方で田口(設楽町田口)と本郷(東栄町本郷)を結ぶ里道沿い、「粟代」は花丸峠から北方で旧海老街道沿いにあります。

峠の切り通しにもう一つ立っている石碑。「祖方良意禅男位」と刻まれています。


右側面には「明治三十年…」もしくは「三十一年…」、左側面には「富山縣富山市稲荷町」、「本名 玆原佐七事 ○○○○ 豊崎佐七 ○○四十一歳」とあります。以前にも書きましたが、どうしてこの奥三河の峠に立つ石碑にはるか遠い「富山市」の「佐七さん」の名が彫られているのか?佐七さんがこの峠道で亡くなり建てられたのか?佐七さんは旅行者だったのか?行商人だったのか?花丸峠を越えてどこへ向かおうとしていたのか?いろいろ謎は尽きないですねぇ。

花丸峠の全景です。左側の石垣に囲まれた区画には、かつて茶屋があったと言われています。


花丸峠では、旧海老街道と北設楽郡内の大きな街である本郷と田口を結ぶ里道(街道名が付されていたかは不明。)が交差していました。峠に茶屋があったとしても当然でしょう。


峠の観察はこれくらいにして、本題である設楽町神田側の峠道の探索へと向かいます。


無名の峠から県道424号の想定路沿いに登ってきた場所です。


岩場を越えていきます。


峠道が崩れてしまっています。多少歩きにくかったですが通過できました。


廃道には付きものの倒木。跨いで越えていきます。


岩場を削り込んだのか、道幅がしっかりと保たれています。


うっとうしい枯れ木(枯れ草)。押しのけて進めますが、邪魔なことには変わりありませんからね。


大岩の露頭の前を通過。


うっかりすると直進してしまいそうになりますが(倒木や薮が当たり前で、前方が塞がれていてもあまり気にしなくなってくるので(笑)。)、ここで左へとヘアピンカーブを下っていきます。


しばらく進むと今度は右へのヘアピンカーブがあります(実はこの写真を撮った時点では気付いていません。)。


ヘアピンカーブの周辺が枯れた薮に覆われていたので、その場に来るまで峠道の行き先がわかりませんでした。


また削り込まれた岩壁沿いを進んでいきます。


倒木と薮が絡んでいます。面倒くさいですが、薮を払いつつ倒木を一本一本跨いでいきます。


岩石が大量に転がる枯れ沢を横断していきます。


場所はこちら。峠からここまでの間でも、地形図の破線道(徒歩道)とGPSアプリで記録した歩行ルート(赤線)にずれがありますね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を渡る部分の谷側の路肩には、土留めのための石垣が積まれています。


枯れ沢の上部を見上げています。この岩石が一気に崩落してきたらたまったもんじゃないですね。


真下には県道424号が見えています。この付近も一応車道改修された区間ですが、一般的な乗用車は入ってこないほうがいいでしょう。


杉木立の中の峠道を辿っていきます。




すぐ真下に県道が迫ってきました。


ついに峠道が県道に削り取られてしまいました。これ以上進むことができません。5~10mくらいの崖になっているので、県道へと下りることもできません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

仕方ないので、県道へと下りられる場所まで引き返すことにします。

結局、岩石がゴロゴロ転がる枯れ沢まで戻ってきました。ここから県道へと下ります。


峠道が削り取られた場所まで戻ってきました。


すぐ先で峠道が復活していたので、峠道まで登り直して、行き止まりの箇所まで戻ってみます。


あらためて峠道を辿っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この先は酷い倒木があったり、崩落箇所があったりと、今までよりもさらに荒れた状況となっています。




崩落箇所の上部にある土留め擁壁を伝って先へと進んでいきます。


もはや峠道を辿っているのかどうかもあいまいになっていますが、とにかく進める場所を選んで歩いていきます。


細いながらも峠道が復活してきました。


低い堀割りを越えて進んでいきます。




細尾根の土手道です。


土手道を渡った先にある山桜。


山桜の下、折り重なる岩の隙間に石仏がありました。歩いてきたルートは旧海老街道で間違いないようで一安心です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この石仏は頭に馬頭を乗せているので、馬頭観音で間違いないですね。光背には、「寛政十二申年」、「閏四月吉日」と刻まれています。寛政12年4月は西暦1800年5月に当たるようで、約222年前の石仏ということになります。


石仏を過ぎると尾根道は終わり、折り返して下り始めます。


ふたたび荒れ始めた峠道を下っていきます。






ようやく国道473号へと出てきました。戸口橋のたもとになります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠道を振り返っての風景です。


ついでに戸口橋の周りに街道跡や旧橋跡が無いか探してみましたが、それらしい痕跡は発見できませんでした。

これでおおよそ確定できた設楽町神田側の旧海老街道花丸峠道のルート図です。


さて、ここ旧海老街道の最盛期は明治・大正期で、多い時は一日に二百頭近くの荷馬が往来していたそうです。しかしながら、それだけの交通量がある物流上の重要な街道でありながら、実際に踏破した峠道の道幅は狭く、峠付近は地形も急峻です。

利用が盛んだった頃は、峠道の維持ももっとしっかりと成されていたのでしょうが、それでも「荷物を背負った馬同士が鉢合わせた時には、どうやってすれ違っていたのだろうか?」などと単純な疑問を抱いてしまいます。

道が狭い上に、花丸峠・仏坂峠と険しい峠が2つもある旧海老街道が利用されていたのは、信州・奥三河から新城・豊橋方面への短絡路であったことと、現在の国道151号である旧別所街道の与良木峠という隘路の存在がありました。

しかし、与良木峠の直下に大正10年(1921年)、本郷隧道(トンネル)が開通したことで峠の隘路が解消。これを契機に、旧海老街道を通行していた荷馬は、もともと県道として車道規格の整備が進んでいた別所街道経由へと一気に流れていき、旧海老街道は重要な街道としての地位を失いました。それも当然だったかと納得させられる峠道でした。

それから、地形図に記載されている旧海老街道と思われた破線道(徒歩道)のうち、設楽町神田寄りの後半区間はまったく関係ないものでした。

岩石がゴロゴロしている枯れ沢付近で地形図上の破線道(徒歩道)と離れていったわけですが、ほかの徒歩道があるのかと思い、枯れ沢を少し登っていって周囲を見渡してみましたが、とても徒歩道があるような地形ではありませんでした。

さて、国道へと出てきた時点で時刻は16時半過ぎ。夕闇が迫る中、小雨もパラついています。予定では県道424号で登り直してもう一度里道跡を経由し、車へと戻るつもりでしたが(その方が川沿いに迂回している国道473号を通るよりも距離が短くて済む。)、さすがに薄暗がりの中、照明も無く里道跡を歩いていくのは危険なので、大人しく国道を歩いて戻りました。


車に戻ったのは17時15分。ご覧のとおりすっかり暗くなってしまいました。


日曜日なので次の日はもちろん仕事。少しでも早く帰宅したいところでしたが、疲れてしまって途中で30分くらい寝てしまい、帰宅したのは20時過ぎでした。
Posted at 2022/03/27 22:05:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧海老街道 | 日記

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