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小林あにのブログ一覧

2021年11月15日 イイね!

【三重県尾鷲市】矢ノ川峠「明治道」を歩く(1)

2021年10月23日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越えるルートのうち、通称「矢ノ川峠明治道」と呼ばれる廃道を歩いてきました。

今回歩いた推定ルート図はこちら。赤線が明治道になります。ちなみに黒線が昭和道になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

赤線の下端にある青線は明治道から分岐して安全索道 小坪駅跡へと至る道跡、緑線は昭和道訪問時に探索を断念した明治道です。

「矢ノ川峠明治道」は、江戸時代に矢ノ川峠を越える道であったデンガラ越え(伝唐越え)が急峻であったことからから新たに開削されたルートで、矢ノ川峠昭和道が1936年(昭和11年)に開通したことで、一応の役目を終えました。

詳細な記録資料がないためなのか(よくあることですが。)、インターネットで検索しても記事ごとに来歴が微妙に違っています。

以下、書き出してみると、

・1880年(明治13年)に新道ルート(明治道)が完成。熊野古道八鬼山越えルートに指定されていた三重縣道「熊野街道」が新道ルートに指定替えされる。

・1886年(明治19年)に着工し、1888年(明治21年)完成。
 この時期に新道ルートが完成したとある記事もあれば、徒歩道レベルであった縣道をこの時期に荷車道へと改修したとする記事もあります(尾鷲市史には、この時期に徒歩道から荷車道へと改修されたと記されています。)。

・自動車の通行ができるように道路が改修され、1920年(大正9年)頃には尾鷲~木本間に乗合自動車が運行されるようになった。
・道路幅を平均3.8mに拡幅して、1921年(大正10年)頃から尾鷲~木本間に自動車定期便が運行開始された。
・自動車の通行ができるように道路が改修され、1922年(大正11年)に尾鷲~木本間に郵便車・乗合自動車・ハイヤーが運行されるようになった。

・尾鷲市側の大橋~小坪間は、改修後も急坂とつづら折りが連続する状況で通行上の支障も大きかったため、乗合自動車の運行会社であった紀伊自動車が代替手段として大橋~小坪間にロープウェイを計画し、1927年(昭和2年)から安全索道商会が建設を始めて同年内に完成。旅客も利用できるロープウェイとしては日本初(注:観光用の短距離のものは、これ以前にも設置例あり。)。尾鷲~木本間は、乗合自動車~ロープウェイ~乗合自動車という交通手段での接続になる。

・1936年(昭和11年)に昭和道が完成。これにより明治道とロープウェイの利用は寂れていき、最終的には1944年(昭和19年)の戦時統合によりロープウェイの運行会社である紀伊自動車が三重交通へと統合されたことで、明治道とロープウェイは廃止された。

という感じです。まあ、来歴の大筋自体には極端な相違点はないので、こんな流れで把握しておけばよいかと思います。

前置きが長くなりましたが、本題に入りたいと思います。

当日の朝9時15分、国道42号葛篭谷橋付近の駐車帯へ車を停めました。


ここからは、しばらく国道42号を熊野市方面へと歩き、左へと分岐していく明治道を目指します。

その前に、ここに残っている旧葛篭谷橋を軽くチェック。「葛篭」は「つづら」と読みます。昔話で出てくる「つづら箱」ですね。


親柱に刻まれていた年号によると、1928年(昭和3年)完成のようです。


歩道のない国道の路肩を歩いていきます。


数分ほどで現国道(かつての昭和道)と林道(かつての明治道)との分岐点へとやって来ました。


ちょうど分岐点に立っている距離標。国道42号は静岡県浜松市が起点なので、「浜松市から217km」とあります。


林道を進んでいくと矢ノ川に架かる矢ノ川大橋が現れます。先ほどから明治道の説明の中で出てくる地名のうち、「大橋」はこの橋に由来するものと思われます。




橋のすぐ上流側の河原に旧橋の残骸が散らばっていたので、対岸の橋のたもとを見てみると旧橋の親柱が残っていました。


達筆なので確信はありませんが、昭和6年(1931年)1月竣工のようです。


橋台跡から河原を眺めると、かつて旧橋だったコンクリートの塊が散らばっています。流れを支障するのに、どうして撤去しなかったのかはわかりません。


矢ノ川大橋を渡り、舗装路をどんどんと上り進めていきます。

「尾鷲ひのきプレカット協同組合」の建物を見下ろしています。林道は協同組合の敷地の右側外周に沿って通っています。


かつて、この協同組合の敷地にロープウェイ「安全索道」の大橋駅がありました。

まだまだ林道を上っていきます。このカーブの山側には2か所、大規模に治山工事を行った現場があります。かつて大きく土砂崩れを起こしたのでしょう。


この先で林道は左へとヘアピンカーブを曲がり、さらに進んでいくとようやく右側の路肩に明治道への入口を見つけました。


ちょうど治山工事をした斜面の頂上付近になります。


入口から覗き込んでみると、なかなかの急坂ですね。




斜面をよじ上っていくと、ようやく本来の明治道の姿を見ることができました。写真中央部を弧を描くように通っています。


ここに標石があったので、近くでよく見てみます。


水準点の標石ですね。「水準點」と刻まれています。


何という名称なのか、国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」で検索してみましたが、該当する水準点は表示されませんでした。当然ですが、現在は把握されていない(利用されていない)水準点ということですね。

ここで気になっていたことを確認しにいきます。「明治道への入口はどうしてあのような場所にあるのか?」ということを。

水準点のある場所から道を下っていきます。


100mも歩かないうちに道を塞ぐようにロープが掛けてありました。この先で道跡は抉れてしまっています。


多分そうだろうなと思っていましたが、ここまで歩いてきた林道に削り取られてしまったようです。だから、あの場所から無理やりアプローチするようにしたのでしょう。

水準点がある場所まで戻ってきました。


ようやく今回の本題である矢ノ川峠明治道を歩き始めることにします。


路面の真ん中に三角形に整形された間知石が列を作っています。何でこんな場所にあるのですかね?本来は路肩にあるべきものなんですが…。


さっそく路面が削れていますが、歩く分には十分の幅が残っています。




苔だらけで、いかにも湿気の多そうな植生です。


羊歯の群落です。こういう場所はたいていはかつての崩落地と相場が決まっています。


見上げるとU字型の斜面の上まで羊歯が密生しています。こんな光景は見た記憶がありませんね。道跡は崩落に巻き込まれずによく残ったものです。


この場所から谷の対岸を通る国道42号の千仭橋を眺めています。2週間前は、あの橋のたもとから矢ノ川峠昭和道を歩いたわけです。


木々が無くて日当たりも良いので、この先に薮が出現しないか気になります。


幸い、すぐに植林地へ入ったので薮は現れませんでした。


路肩の石垣に使われている石が大きいです。自分が今までに行った場所では、もう少し小振りの石を使っている道が多い気がします。


石畳が現れました。これは想定外です。一応自動車も通行していた道なので、古い街道くらいにしかない石畳が残っているとは全然思っていませんでした。




左へと屈曲するヘアピンカーブが現れました。


この道をかつては6~8人乗りの乗合自動車が通行していたそうですが、このヘアピンカーブは一発で曲がれないでしょう(笑)。


山岳道路らしい雰囲気が出てきました。


沢を渡っていきます。沢の部分は石がゴロゴロしていて昔の様子はわかりません。全然深くはないので、先ほどのような石畳にして「洗い越し」にしてあったのかもしれません。


残っている道幅を見ると、やはり荷車道に毛が生えた程度にしか見えません。よくこんな幅の道で乗合自動車を運行していたものです。




先ほど見上げていた羊歯の密生する急斜面の上に来ました。もう少し抉れていたら通行不能です。


路肩の石積み擁壁。使われている石は多少整形されていますが、基本、野面積みですね。


道の両側に石が並んでいます。これは珍しい気がします。


谷側は当然石垣を積まないと路盤が維持できませんが、山側にあえて石を並べてある(埋め込んである。)のはどういう意図なのでしょうか。排水溝のようなものが造られていたのでしょうか。

ヘアピン後、明治道は尾鷲市街地の方角へと進んでいるので、谷の対岸を通る国道42号が接近してきています。


どうやら2か所目のヘアピンが現れたようです。


ここはヘアピン部分の路面が崩落しているので、ヘアピンの直前にロープを渡して、上段を通る道へと斜面を上るように誘導してあります。


ここも道跡の両側に石が並べてあります。山側の路肩を斜面に密着させていないのは、どういった理由があるのでしょうかね?




また羊歯が現れました。


まだまだ両側の路肩に石が並べられています。この辺りの山側は、やはり排水溝っぽい感じです。


また石畳が現れました。


ここは石造の暗渠で沢を越えているようです。




苔がわんさかと生えて、緑のお化けになっています。


暗渠の中を覗いてみます。一応、今も機能はしているようです。




大きな落石が道跡を半分塞いでいます。


※その2へと続きます。
Posted at 2021/11/15 12:56:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2021年11月06日 イイね!

「矢ノ川峠昭和道」を歩きました(4)

2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。

その3からのつづきですが、ここからは「矢ノ川峠昭和道」を外れるので、おまけの内容となります。

「安全索道 小坪駅跡」へ向かうため、矢ノ川隧道の先にある交差点から右側へと延びていく八十谷林道へと入ります。


「安全索道」とは、明治期に開削された矢ノ川峠の車道のうち、道路状況が最もひどかった尾鷲側の大橋~小坪間の輸送状況を改善するため、1927年(昭和2年)に完成した「日本初の旅客用ロープウェイ」です。もちろん貨物も輸送していました。

ロープウェイの利点は、どんなに険しい地形であっても空中を直線的に輸送できること。絶対的な輸送量は限られますが、なかなか好調でゴンドラを増備して年間4,000人を輸送したそうです。矢ノ川峠昭和道の開通により衰退し、最終的には運営会社の戦時統合により廃止されたようです。

この交差点にはだいぶ傷んだ道標が立っています。八十谷林道はここからは熊野灘の海岸沿いにある三木里へとつながる林道です。


この林道についても、ブログなどを探して様子をチェックしてみましたが、通行困難な状態になっているようです。

この林道の矢ノ川隧道から安全索道小坪駅跡までの区間は、明治時代に開削された矢ノ川峠への道(通称「矢ノ川峠明治道」と呼ばれる道。)を改修したものと言われています。


本編とは全然関係しませんが、この林道で外国人とすれ違いました。ちょっとした驚きでした。世界遺産の熊野古道からは全然外れているし…。一体何のためにどこから来て、どこへ行くつもりなのだろうか?しかもこの深い山の中、近所を散歩するような軽装にリックサックしょって…。

さて、小坪駅跡が具体的にどこにあるのかわからないまま歩き出したのですが(元々行く予定はしていなかったので。)、何がしかの案内があるだろうと高をくくっていました。

しかし、15分歩いてもそれらしい案内が林道には掲示されていません。

はるか眼下に尾鷲の市街地が見えています。


よくわからないまま歩いてきましたが、尾鷲の市街地の眺めを遮るようにそびえる山並みが見えてきました。これはさすがに行き過ぎです。


実は途中で「小坪」と書かれた札が木にぶら下がっているのを見かけていました。その他には何もなかったので、気に留めずに通過しましたが、一旦そこまで戻ることにします。

「小坪」の札が掛かっている場所まで戻ってきました。




周囲の谷側を見渡してみたら、「明治道入口」・「矢ノ川安全索道駅舎跡へ」の木札を見つけました。もう少し目立つ場所へぶら下げてくださいよ…。


少し斜面を下りると石垣がありました。しかし、特に何も案内はありません。もっと下へと行ってみることにします。


どんどんと下っていくと平場がありました。しかし、小坪駅跡を示すような案内板が見つけられません。

平場からは左右に道が伸びていました。「これは明治道なのか?」と思いつつ、右側に伸びる道は矢ノ川峠とは反対方向であり、今まで歩いてきた林道にも合流してくる道はなかったので、関係ない道かもしれないと辿るのは止めました。

※実は、この道の先に安全索道小坪駅跡があると後日知った…。

平場の真下にも道があります。「あれは明治道で間違いないだろう。」と判断。しかし、今日はそこまで踏み込むつもりはなかったので、またの機会にします。


ひとまず、左側へと延びる道を追ってみることにします。


平場の下を通っていた矢ノ川峠明治道との合流地点。歩いてきた方角へと振り返って撮っています。写真だとわかりづらいですが、上下二又に道が分かれています。


で、この合流地点から先、巨岩がゴロゴロしている斜面に見えますが、明らかに「道」があるんですよね…。「これは確認するしかないよなぁ…。」ということで進むことにします。


大きな岩が転がってはいますが、道跡で間違いないです。おそらくこの道は明治道でしょう。


道跡が完全に崩落していますが、その先にはまた道跡が見えています。行けないことはなさそうなので、崩落箇所を渡っていきます。


渡った先には完全に道跡が残っていました。


しかし、またすぐに路盤が崩落しています。


道跡の先端から前方を眺めると、土留めの石垣の残骸があります。そして、その先にはまた道跡が見えています。なかなかいやらしい残り方です…。


また崩落箇所を渡り、次の道跡へと上がりました。




路肩には土留めの石垣がしっかりと残っています。


そしてまたすぐに道跡が無くなりました。崩落した土砂に道跡が埋没してしまっています。その先を眺めると崩れの無い苔生した石垣が見えています。


この先へ進むには、土砂崩れを起こした不安定な斜面を高巻きするか、一旦土砂崩れの下側まで下りて、もう一度道跡まで登り直すしかありません。

そこまでしてこの先の道跡に取り付いても、多分また路盤が崩落していて同じことの繰り返しになる確率が高いでしょう。そして、何とか辿り続けても、じきに矢ノ川隧道付近で八十谷林道に吸収され消滅してしまうはずです。

翌日は弟と奈良県南部の山中にある国道309号行者還トンネルまでドライブする約束をしているので、これ以上無理はしたくありません。ここで引き返すことに決めました。

引き返すと決めた途端、この崩落した斜面を何か所も渡って戻る気力も失せました(笑)。


自分の経験則では、険しい地形であっても、足を引っ掛けることができるだけの足場と木が生えてさえいれば(これ特に重要。)、上り下りすることはできます。幸い、上には八十谷林道があるわけで、この急斜面を上っていくことに決めました(言うほど険しいわけでもないので。)。


明治道の道跡と八十谷林道にそんなに高度差があるわけでもないので、割とあっけなく林道まで上ってきました。


矢ノ川隧道まで戻ってきました。ここからは昭和道をひたすら下っていくだけです。


車を停めた国道42号千仭橋の駐車帯まで戻ってきました。帰りも多少写真を撮りながらでしたが、道中は早足で歩いていたので、1時間ちょっとしかかかりませんでした。


最後のおまけで、駐車帯の尾鷲側にあるミニ廃道も覗いておきます。


典型的な廃道になっていますね。


橋が残っていました。


梅木谷橋とあります。親柱の形状は紅葉橋と同じですね。




全く利用されていないので、路面は荒れ放題です。


あっけなく国道へと合流しました。


現在の梅木谷橋から千仭橋方向の眺め。「矢ノ川峠」の案内標識が目立ちます。


私が車に戻ってきた時に、ちょうど入れ違いで昭和道へと入っていく人がありました。手頃なハイキングコースとして利用している方もいるのでしょう。

今まで国道42号は何度となく通過していながら、入り込むことがなかった旧国道「矢ノ川峠昭和道」をようやく歩き通しました。本来は矢ノ川峠を越えて、熊野市側の国道合流地点までが昭和期に再改修された道なわけですが、まあそこまではいいかなと。

とにもかくにも、高性能の重機など期待できない戦前期に、この険しい地形にそびえる岩盤・岩壁を開削して1.5車線幅の道路を造り上げたのは、なかなか驚嘆に値すると感じました。

次は、少し歩いたことで興味が増した「矢ノ川峠明治道」の踏破を予定しています(今回歩いた区間はもう行きません(笑)。大橋~小坪の区間です。)。それと安全索道小坪駅跡の見物ですかね。
Posted at 2021/11/06 22:25:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2021年11月05日 イイね!

「矢ノ川峠昭和道」を歩きました(3)

2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。

その2からのつづきとなります。

傳唐大橋を渡り、次のトンネルである矢ノ川4号トンネルへと向かいます。




この路肩にあるガードレール、板の部分の形状は現在のガードレールと違いを感じませんが、支柱の形状が丸形ではなく長方形になっています。


また路面が荒れてきました。地山の岩が剥き出しになっています。おそらく昔は路面に砂利を敷き詰めてあったのでしょうが、長い間に洗われてしまったようです。




傳唐大橋から歩くこと3~4分。矢ノ川4号トンネルが見えてきました。


トンネルの延長は16m。トンネルを掘ったというよりも、「岩盤に穴を穿ちました。」感が強い景色です。


このトンネルも内部に落石などは見られません。




反対側の坑口です。


周囲の山々はそんなに標高が高いわけではありませんが、険しさはどんどん増してきています。


矢ノ川4号トンネルから5分ほど歩くと橋が現れました。親柱も欄干もありません。


そんなに長い橋ではなかったので、元から無かったのかと思って見てみたら、ひしゃげた鉄筋が露出していました。どうやら親柱や欄干は破壊されたようです。


橋から上流を眺めます。川のはるか上部まで岩に埋め尽くされています。欄干などは土石流などで流されたのかもしれません。


対岸の橋のたもとの右側で親柱がひっくり返っていました。


左側の親柱は健在です。


親柱には橋名がありました。「蔭谷一橋」と刻まれていますが、「一」の文字は小振りであり、実際には「蔭谷橋」ではないかと思います。


ひっくり返っていた親柱には「や乃〇〇」とあります。○○の部分はどういう文字かわかりませんが、川の名前である矢ノ川のことだと思われます。


ちなみに、川の「矢ノ川」も「やのこ」と読むものとずっと思っていましたが、親柱に少なくとも4文字は刻まれているのを見て、あらためて何と読むのかちょっと気になりました。

いろいろ検索してみたら、川の名前としてはどうも「やのがわ」と読むようです。国道311号に架かる橋の読み方が「しんやのがわばし(新矢ノ川橋)」というのがあり、一応それが根拠です。

ちなみに、蔭谷橋が架かっている川は、現在は蔭谷川と呼ばれるようです。

蔭谷橋を後にします。


矢ノ川峠昭和道を歩くにあたり、まずは矢ノ川4号トンネルまで向かい、時間に余裕があればさらに目的地である矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)まで進む予定をしていました。

ここから矢ノ川隧道まではまだ2km以上ありますが、この時点で時刻は10時10分と想定していたよりも順調に進んできているので、最後まで歩き通すことにします。

ここまでけっこう登ってきていますが、谷の奥側を曲がりくねりながら進んでいるので、一向に視界が開けてきません。


路肩に巨岩が転がっています。苔が付いているので、相当以前に落石したものでしょう。


曲線の築堤で沢を通過していきます。


水はほとんど流れていませんが、これは滑滝ですね。


3km地点通過です。入り口から1時間半になります。


曲線を描く石積み擁壁というのが、自分としては絵になるんですよね。


矢ノ川峠道は道沿いの色々な場所に小さな滝がたくさんあります。


ここは路上に沢の水が流れる「洗い越し」になっています。暗渠が土砂で埋まってあふれ出ただけかもしれませんが。


今まで中腹を歩いてきた山の頂上がようやく見えるようになってきました。


沢を小さな橋で渡っていきます。


荒々しい路面が続きます。


紀勢本線が全通する昭和34年(1959年)まで、終端駅であった尾鷲駅と紀伊木本駅(現熊野市駅)の間をこんな峠道を走ってバスが連絡していました。


この峠道では珍しい苔生していない石垣。「谷積み」された石積み擁壁です。




4km地点です。入り口から1時間50分になります。


沢を暗渠で越えます。


ここのガードレールは、蔭谷橋で見たものよりも錆が少なくてきれいです。


この辺りでは、頻繁にスマホを取り出しては現在位置を確認しながら歩いていました。


ようやく目的地が現れました。


矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)です。入り口から2時間ちょっとで到着しました。


トンネル延長はこの峠道の最長である107m。この道路の象徴としてピラスター(壁柱)、笠石、帯石と装飾が施され、アーチ部分もわざわざ石積みとなっています。




扁額です。


扁額に刻まれている揮毫者名は、「三重縣知事 富田愛次郎」。富田知事は、昭和10年(1935年)1月から昭和11年(1936年)12月まで三重県知事を務めています。


「三重縣知事」の右側に四文字刻まれています。上2文字は「丙子」と読み取れます。調べてみるとこれは干支の一つで、昭和11年が丙子(ひのえね)になります。下2文字は明瞭ではありませんが、上2文字が年を表していることと、書体の雰囲気から「初夏」ではないかと思われます。昭和11年初夏に「矢ノ川隧道」という書を認めたということでしょう。

それではトンネル内部へと入っていきます。写真はフラッシュを焚いて撮っているので明るいですが、延長107mあるトンネルなので実際は真っ暗です。


坑門がしっかりとした造りなので、内部も全面コンクリート覆工されているのかと思いきや、一部は素掘り丸出しのままでした。


全長から見れば、コンクリート覆工されている部分の方が長いです。


よく見てみると、このトンネルのコンクリート覆工は相当傷んでいます。コンクリートが剥落して、地山が見えている部分もあります。


反対側へと来ました。側壁部分のコンクリートの傷み方が尋常じゃないです。屋外で直接風雨にさらされる場所でもないのに、どうしたらこんなにボロボロになるのでしょう。


トンネル坑口の先にある擁壁もまるで大きな爪で引っかかれたように無数の傷が付いています。こんなものは見たことがありません。


反対側の坑門です。トンネルの周辺はコンクリートと石積みの擁壁でかなり上部までぐるりと取り囲まれています。トンネルの坑口を設けるために山を抉りぬいたのでしょう。




コンクリート擁壁の損傷部分。何らかの理由で土木機械で破壊しようとしたのか、上からの落石や土砂崩れによるものなのか、それとも長年の風雨による浸食なのか。摩訶不思議です。


扁額です。こちらも「三重縣知事 富田愛次郎」とあります。


トンネルを出てすぐの所に入口から5kmの表示が立っています。


ここで右側から道が合流してきます。合流してくる道の名前は八十谷林道。通称「矢ノ川峠明治道」のルートの一部を踏襲しているらしいです。矢ノ川峠道(旧国道)は左折して矢ノ川峠を目指していきます。


矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)まで踏破したことで、今回の目的は達成しました。


しかしながら時刻はまだ11時10分。「せっかくここまで来たし、時間もまだ余裕があるから、『安全索道 小坪駅跡』を見に行こう。」と思い立ち、八十谷林道を歩いて向かうことにしました。

※その4へつづく。
Posted at 2021/11/05 23:32:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2021年10月31日 イイね!

「矢ノ川峠昭和道」を歩きました(2)

2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。

今回歩いた区間の地図を作ったので載せておきます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

赤線が今回歩いた「矢ノ川峠昭和道」のルート。青線は矢ノ川隧道から矢ノ川峠までの国道42号矢ノ川峠旧道のルート。矢ノ川峠から先は着色しませんでしたが(面倒くさくなった(笑)。)、峠からさらに続く灰色の実線が旧国道になります。

現在の国道42号矢ノ川峠ルートと比較すると、旧国道ルートが相当大回りして峠越えをしていたことがよくわかります。

それでは、その1からの続きになります。

南谷大橋を渡り、南谷の右岸側の斜面へと道は進んでいきます。


南谷大橋を渡ってすぐの所にある小橋の山側には小さな滝があります。




道が通る場所が日陰側に変わり、岩が苔生しているのが目立ちます。今のところは道の状態も穏やかになり、黙々と歩き進んでいきます。




路肩に立つコンクリート柱と取り付けられた金網。


廃道を歩いていて、路肩にコンクリート柱だけが何本も立ち並んでいるのは見たことがありますが、金網が取り付けられてあるのはこの道で初めて見ました。今で言うガードレールに相当するものなのでしょうかね。

ようやく入口から1km地点まで来ました。ここまで30分かかりました。


眼下に国道42号千仭橋が見えています。ということは、旧道は南谷を渡るために1kmも迂回しているわけです。


このような深さの谷でも明治時代にすでに橋を架けている場所もあるので(近隣だと旧熊野街道船木橋。)、技術的に架橋できなかったわけではないでしょう。ただ、現在の国道は千仭橋の先から長大トンネルで峠を通り抜ける前提でルート選定しているのに対し、昭和道は矢ノ川峠まで登って峠を越える前提なので、現国道の地点で橋を架けることは想定されなかったのかもしれません。

さて、1km地点から歩くこと3分、ついに一つ目のトンネルが見えてきました。


矢ノ川1号トンネルです。トンネル延長は22m。




岩に金具で取り付けられた碍子が残っています。


素掘りトンネルですが、トンネル内に落盤した石が転がったままになっているようなことはありません。一般車両は通行止めとはいえ、林業関係者や電力会社などの車は出入りしているでしょうからね。




反対側の坑口です。


この辺りはところどころコンクリート舗装がされています。




深い切り通しです。トンネルを掘るには「土被り」となる部分が薄かったのでしょう。


真下に国道42号のロックシェッドが見えています。このロックシェッドはそのまま矢ノ川トンネル(延長:2076m)につながっています。


広場へと出てきました。


路面が荒れています。表土が流されて無くなり、地山が剥き出しになったような感じです。


ここの沢に設置されている砂防ダムは新しそうです。


プレートを眺めてみると「令和元年度」とありました。


これも近年の集中豪雨多発の影響によるものなのでしょう。広場を造った土砂も、この沢からあふれ出たものなのかもしれません。

沢を渡り、先へと進んでいきます。




2つ目のトンネルが現れました。


矢ノ川2号トンネルです。延長は20m。


このトンネルはコンクリート覆工されています。開通当時からではなく、後年の補修によるものだと考えられています。




トンネルと外との境目の路面に石が並べられていました。洗掘対策ですかね。


反対側の坑口です。


トンネルを出てしばらく歩いたところに入口から2kmの案内板が立っていました。車を出発してからここまで約1時間です。


路肩にコンクリート製の枡があります。これは水槽なのか何なのか…?


こんな山の中に防火水槽は考えにくいですし、車道として造られたこの道に牛馬用の水飲み場があるともねぇ…。ただ、戦後に入っても牛馬に荷車引かせているなんて普通にあったわけですし、あながち無いとも言えないのかも。

3つ目のトンネルが見えてきました。


矢ノ川3号トンネルです。延長は35m。天然なのか掘削したのか、とても深い切り通し状の地形の奥にトンネルは穿たれています。


坑口直前で撮った写真。坑口からせり出している天井の岩盤が重圧感を与えてきます。


このトンネルも内部はきれいに保たれています。




素掘りのトンネルながら天井を高くしてあるのは、トラックの通行を見越したものなんでしょうね。


反対側の坑口です。




トンネルから歩くこと程なくで橋が現れます。傳唐大橋です。


読み仮名は「でんがらおおはし」です。


親柱を見るとこの橋の架橋は昭和37年(1962年)7月。他に残っている橋は、この道の開通と同時期の年号が刻まれていますから、橋が流されるような出来事があったのかもしれません。


この橋が架かっている川は矢ノ川。矢ノ川峠の名前の由来となった川です。


江戸時代は、この矢ノ川をさらに上流へと詰めていって矢ノ川峠を越える「伝唐越え」と呼ばれるルートがあったようです。この橋の名前は「伝唐越え」から取られたわけです。

江戸時代に尾鷲と木本(現在の熊野市)を結んでいた道は、矢ノ川峠伝唐越えのほかには、八鬼山越え、曽根次郎・太郎坂、逢神坂峠、大吹峠などいくつもの峠を越えながら海岸沿いを辿る熊野古道伊勢路ルートがありました。

どちらのルートも歩き通すだけでも困難・苦労を極めたようで、尾鷲と木本を結ぶ航路も利用されていたようです。

さて、残るトンネルはあと2つ。その3へと続きます。
Posted at 2021/10/31 17:30:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2021年10月28日 イイね!

「矢ノ川峠昭和道」を歩きました(1)

2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。

この道は、矢ノ川峠を越えて尾鷲と木本(現在の熊野市)を結んでいた明治時代に開削された県道(縣道熊野街道→府縣道津木本線。当時はまだ国道に指定されていなかった。)のうち、特に道路状況が悪かった尾鷲側の大橋から小坪の区間の改修を目指して新たなルートで建設されたもので、昭和9年(1934年)9月に着工し、昭和11年(1936年)9月に完成しました。

この道の完成により、尾鷲と大橋は小型乗合自動車、大橋と小坪は索道(ロープウェイ)、小坪と木本は小型乗合自動車というように交通手段を乗り継いで峠を越えていたものが、全区間を通してバスが運行されるようになりました。

その後、この区間を含む矢ノ川峠を越える旧道は、昭和43年(1968年)に矢ノ川(延長:2076m)・弓山(延長:137m)・大又(延長:1626m)の3トンネルで通過する現在の国道42号矢ノ川峠越えルートが完成するまで利用されました。

ここは国道42号千仭橋のたもとにある駐車帯。ここに車を停めて、「矢ノ川峠昭和道」へと向かいます。


こちらが国道42号千仭橋。深い渓谷である「南谷」を跨ぐために架けられた上路トラス橋です。


こちらがかつての矢ノ川峠越えの国道42号、通称「矢ノ川峠昭和道」の入口になります。現在は、路面の洗掘や崩落のため、一般車両は通行止めとなっています。


旧道へと入って程ない場所に立っている水準点を示すプレート。水準点は、大まかに言うと標高を測量するために全国の主要道路沿いに設置されている標識です。


昭和道に入って一つ目の橋、「懐古橋」です。


「かいこはし」とあります。


こちらの親柱には漢字で「懐古橋」と刻まれています。


懐古橋の全景。振り返って撮ったものです。


国道42号千仭橋。この橋を架けることで、深い渓谷を避けて南谷の上流側へと大きく迂回していたルートを短縮しました。


南谷の上流側を眺めています。この道は建設時に犠牲者を出す程の難工事でしたが、ご覧のとおり悪路の林道といった様相で、戦後の自動車交通の発達に耐えうる道路ではなかったことがよくわかります。


石積みの擁壁。根を張ることができなかった木が、石垣の表面に幾筋も太い根を這わせています。


二つ目の橋に来ました。「紅葉橋」です。


この橋の親柱は、先ほどの懐古橋の親柱と比べると単純な長方形で質素なものです。


側面には竣工年が刻まれています。摩滅していて読み取りにくいですが、「昭和拾年」とあるようです。


桟道区間を進みます。この場所は、盛土をしたり岩壁を削るなどして道路を造ることができなかったのでしょう。路肩部分は現代のガードレールに置き換えられています。


三つ目の橋に来ました。「瀧見橋」です。


左側の親柱はひらがなで「たきみはし」。


右側の親柱は漢字で「瀧見橋」とあります。


橋名のとおりで、橋の上流側には段々になっている小滝、橋の真下にも滝がありますが、うまく写真を撮れませんでした。

以前に一度この道を訪れていますが、その際はこの橋で猿と遭遇したため引き返しており(他所を訪れてからのついでに寄り道したので、無理をしなかった。)、この先へと進むのは初めてになります。

左側の路肩に大きな石碑が立っているのが見えてきました。


「矢ノ川峠開鑿記念碑」です。その文言のとおり、矢ノ川峠昭和道が完成したことを記念して、昭和15年(1940年)3月に建立されました。




記念碑が立てられている辺りの区間も桟道となっており、難工事であったことを偲ばせます。




四つ目の橋に来ました。「南谷大橋」です。ここでようやく南谷の対岸へと渡ります。


南谷大橋の親柱。半分埋もれてしまい、「南谷大」までしか見えていません。


橋を渡り、対岸の山腹をさらに進んでいきます。「矢ノ川峠昭和道」はここからがハイライトとなっていきます。




※その2へと続きます。
Posted at 2021/10/28 04:27:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記

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