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小林あにのブログ一覧

2022年08月23日 イイね!

長野県大鹿村桶谷の「北条坂」を探索しました(4)

2022年7月23日土曜日、長野県下伊那郡大鹿村桶谷に残る廃道「北条坂」へと行ってきました。ここ「北条坂」は2020年9月と10月の2回探索に訪れていて、私レベルでは全線踏破は無理と判断した廃道です。

さて、前回(3)で「北条坂」のルートのデータが取れたことでメインの目的は達成しました。ここからは、サブの目的である「北条峠」から下伊那郡松川町生田の「上峠」へとさらに続いていく廃道の踏査距離を少しでも伸ばしていきます。

それでは「北条峠」を出発します。


最初のうちは十分な幅員が残る道跡が続いています。




しかし、ものの数分も歩かないうちに怪しい場所が現れ始めます。それでもまだまだ余裕はあります。


1回目の探索時に引き返した場所に来ました。1回目は一応偵察だったので、あまり奥までは入り込みませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この浅い切り通しの先から、いよいよ廃道が牙をむき始めます…。


道跡が流失した場所が現れました。でもまだ落ち着いて通過すれば大丈夫です。




振り返っての眺めです。




ここも道跡が無くなり、斜面と面一になっています。しっかりした踏み跡が付いていますが、木の横で谷側に体を傾けるのを嫌って、木の山側を通過します。




ふたたびしっかりと幅が残る道跡が現れました。こういう場所で気分をリラックスさせます。




2回目の探索時に一番の難所だった場所に来ました。その時は、枯れ沢の真ん中で滑り落ちそうになり、四つん這いで必死に道跡まで戻る羽目になりました。そして、あらためて対岸へと渡るのに15分も時間をかけてしまいました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道跡が完全に流失して岩盤が剥き出しになっています。その岩盤に踏み跡のように付いているわずかな段差を伝って対岸へと渡っていきます。


一番底となる場所を通過していったん立ち止まり、眼下を見下ろしています。


丸印の場所から見下ろしています。


対岸へと渡り、振り返っての眺めです。




次から次へと休む間もなく難所が現れます。それでも、先ほどの一番の難所に比べれば緊張の度合いはあんまり高くありません。








2回目の探索時に引き返した場所まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

その時は、枯れ沢の先にあるこの斜面を越えようと何度かアプローチをしてみましたが、どうしても足場が崩れて進めず、気持ちが折れてしまい引き返してしまいました。


今回は斜面に付いている踏み跡を素直に辿ることにしました。土砂が脆くてゆっくり歩いていると踏み跡が崩れてくるので、バランスを崩さない程度に素早く歩いて通過していきます。


ようやく難所を越えた所ですぐに次の難所が現れました。今回通過できた中では最大の難所です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

うっすらと踏み跡が付いてはいますが、どうにも信用できません。この場所で立ち止まり、進むべきか引き返すべきか、しばらく考え込んでいました。

ようやく進む方向で気持ちが固まり、踏み跡よりもやや高い所に左足で新たな足場を作りながら渡っていきました。結局、渡るために5分を費やしました。


振り返っての眺めです。こちらの写真の方がこの場所の様子が多少わかりやすいです。もしも踏み跡が崩れたら、下へと5mくらい投げ出されて、そこから急斜面を滑落というような場所でした。


正直、「もう二度と通りたくない…。」と思いました(笑)。


そして、何事もなかったかのように道跡が復活しました。「もう最後までこのまま道跡が続いてないかなぁ。」と思いましたが、絶対にそんなことはあり得ないこともわかっていました…。


そして、今回の探索の終着点となる場所にやって来ました…。




道跡が切れ落ちている場所から「あれが道跡なんだな。」と眺めていました。


ただ、まだこの時点では引き返すことになるとは思っていませんでした。下巻きして迂回できるルートがあるかもしれないと思っていたからです。

少し戻った場所に沢底へと下っていく踏み跡を見つけていました。これを下ってみることにします。


踏み跡の先が崩落しているのが見えてきました。


「こんなん絶対無理だろう…。」。呆然としました。上側の岩盤が下側の岩盤に覆いかぶさるような形で段々になっていて、足場になりそうな場所が見当たりません…。


実はこのブログを書くにあたり、「大鹿村 北条坂」でネット検索してみました。最後に何か付け加えられるような新しい情報が上がっていないか確認するためです。

そうしたら、検索結果の中に今までに読んだことがない、比較的最近にこの廃道を縦走した方のブログがありました。山登りの経験が豊富な方で、「きわどい部分もあるが楽しい峠道だった。」というような感想を残されていました。

その方はここをどうやって越えていったのだろうか…。登山経験に関して「ど素人」の私には、現地で越えていけるようなルートはまったく見い出せませんでした…。


今回の探索の最終到達地点の地形図です。結局、2回目の訪問時に引き返した場所から100mほどしか先へ進めませんでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これ以上進めなければ引き返すのみです。「もう二度と通りたくない…。」と思った場所を気持ちを奮い立たせて越えていきます(大げさですけどね…。)。




無事に「北条峠」まで戻ってこられました。これでようやく安心できます。


「北条峠」からさらに45分程かけて車へと戻ってきました。




今回も「お前のレベルじゃこの廃道は無理だ。」と突き付けられてしまいました。でも、私としてはそれでいいんです。

ラリーで知り合った日本アルプスも登る方に「もうロープとか持っていった方がいいよ。」とか言われたことがありましたが、私はロープを自在に扱えるような登山経験を積んで、さらなる危険地帯を越えてまで廃道探索しようとは全然思っていません。

言い訳がましいですが、楽しい趣味の範囲で十分なんですよ。今回のように多少無茶な所も行きますが、それでも「長靴」履いて歩いていける範囲ですから。そもそも高い場所が苦手という致命的な欠点がありますし(笑)。

そういうことで、この廃道を「北条峠」側から進む目は完全に潰えました。あとは松川町生田側から行くしかないですが、生田側からの道跡も状態は大概ひどいようなので、どうしたものでしょうかね。これでまたしばらくは塩漬けです…。

あらためて、今回の「北条坂」探索のルート図です。本来のルートの半分も進めませんでした…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


さてここからは、長野県の飯田市立中央図書館で閲覧した「大鹿村誌」からの引き写しになりますが、私が探索した「北条坂」が開削されるまでの、大鹿村と伊那谷側とを結んでいた道の歴史を振り返っていきます。

当然、大鹿村への出入口は、秋葉街道の分杭峠など他にもいくつかの峠がありますが、今回は「北条坂」へとつながる部分だけに絞っています。

読解力の無さや文章を端折ったところからくる正確さを欠いた部分があります。それから地形図に書き込んだ各街道については憶測で描いているので、その点はご容赦ください。

まず、古来からの道は、大西山を越える道だそうです。中道街道とも呼ばれ、大鹿村の中心地である大河原から大西山を登り、中道峠(現:唐松峠)を越えて、豊丘村の河野や神稲へと通じていたそうです。大西山までは、現在も登山道として利用されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

江戸時代に入り、文政11年(1828年)に満水(洪水のことか?)があり、小渋川に架かる高橋(場所不明)が流失し、往来に支障をきたしたそうです。

※ここで高橋が架かる小渋川沿いの街道がどのような道・ルートであるかの記述はありませんが、中道街道とは別の街道であるかと思われます。当時は、今の県道22号松除橋以西で小渋川沿いを通る街道は無かったようで、どこの峠を越えていたのでしょうか?

そこで大河原村(現:大鹿村)では、柄山(現:松川町生田)へ通じる道を中道峠から作れば容易であるとして、文政13年(1830年)に至って村内評議の上、同道の開削を決定。天保2年(1831年)春頃に中道峠から尾根伝いに徒歩道の「柄山新道」が完成しました。

中道峠から柄山まで「尾根伝いの道」で開通したとの記述により、全くの憶測で描いた「柄山新道」の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、ネット検索すると、憶測のルート上である大西山から白沢山を縦走した登山記録がヒットします。内容を読むと登山経験が豊富な人でないと縦走は困難なようです。

そこを踏まえると、本当にこのルートで良いのか疑問符が付くところですが、後年に開通した別ルートの街道により「柄山新道」は30年程度しか利用されなかったと考えられることや、利用が途絶えてからも160年近く経過しているので、徒歩道だった街道の痕跡はもはや残っていない可能性が高いでしょう。

中道街道から柄山新道へと物流の道は代替わりしていきますが、高い尾根を険しい徒歩道で長距離移動することに変わりはなく、ふたたび違う街道を開削することを模索し始めます。

すでに文政13年(1830年)3月、大河原村が中道峠から柄山へ通じる道路開削の交渉を長峰(現:松川町生田)・柄山とした時に、柄山総代が「北条の道の内、と沢(砥沢)辺(辺り)にて手入れいたし候えば、近道出来候間…。」と話を持ち出しています。ここで初めて北条を通る街道の話が出てきます。

前述のとおり「柄山新道」がまず開削されたので、「北条からの近道」が具現化するのは33年後の文久3年(1863年)。砥沢付近から曲折して白沢山を登り、白諏神社(白沢山にある神社)下を通り、峠(現:松川町生田)・柄山・長峰方面へ通じる新道として開削されました。

この地図の新道ルートもあくまで憶測です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山の上を通る距離は短くなってきましたが、白沢山という急峻な山を上り下りする必要がある点では不便な道でした。

明治時代に入り、大鹿村と生田村(現:松川町生田)が協議して、生田村中山耕地「ませのたを」から大鹿村字北条まで新道を開削することになり、明治12年(1879年)秋に開通しました。この道路は大鹿側は北条から「北条坂」と呼ばれた曲折した道路で北条峠へと上り、白沢山の中腹を通過し、村境の鵜飼沢で天竜川河畔から福与・中山(両地とも現:松川町生田)を経て上峠へと上ってきた生田村側の道路と直結していました。開通後は大鹿村の主要な物資移出入路になりました。

左半分は推定ルートになりますが、明治12年開通の新道の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここでようやく私が探索した「北条坂」の道が現れました。「大鹿村誌」を読むまでは、もっと古い由来のある道だと思っていました。そして、現在の状態からは想像できませんが、開通から60年近く、大鹿村と村外とを結ぶ主要路線の役割を担っていたのです。

明治29年(1896年)、分杭峠から鹿塩(現:大鹿村)を経て落合(現:大鹿村)に至り、そこから桶谷、北条を通り生田村境に至る道路を「大鹿線」とし、改修工事が始められました。

「大鹿線」の桶谷の砥沢から生田村境の鵜飼沢までの間にある「北条坂」の改修はことのほか困難で、多額の工事費が必要でしたが、村費負担だけでは間に合わず、県費補助の申請をして改修工事が進められました。

「大鹿線」はその後、大正8年(1919年)に郡道(路線名はおそらく飯田大鹿線)、大正12年(1923)に県道粟沢時又線となりました。

県道へと認定されましたが、相変わらず生田村の上峠から大鹿村の桶谷までは悪路で、幅員も6尺(1.8m)~9尺(2.7m)であり、中でも北條坂の曲折が交通上の障害となり、荷馬車が通行することができませんでした。

それでも飯田方面との主要な物資移出入路であることに変わりありませんでした。大正末期には、飯田の商人が自転車で北条坂を通って大鹿村で商用を行って一泊し、帰りは自転車を押して北条坂を登り、飯田へと帰っていったという記述もあります。

そして「北条坂」の隘路を解消すべく、ようやく昭和7年(1932年)新たに「岩洞自動車道」の開削に着手しました。現在の長野県道22号にあたります。この道路は昭和11年(1936年)12月に完成しましたが、落石や道路の崩壊が続き、安全な自動車道になるまでなお数年を要したそうです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本当にざっくりですが、大鹿村と村外を結ぶ街道・道路にはこんな変遷の歴史があったわけです。「大鹿村誌」は交通の項目に多くのページを割いています。地形的に閉鎖されていた大鹿村としては、伊那谷を流れる天竜川の河畔(舟運がある。)や街である飯田(現:飯田市)、赤穂(現:駒ヶ根市)とを結ぶ峠道はまさに生命線であり、村誌の記事としても重要度の高い項目だったのでしょう。


最後のおまけ。「大鹿村誌」に掲載されている工事記録の関係記事の中に「大正三年(1914年)砥沢橋より生田村境に至る間、春季修繕を金十七円にて北条猪之吉に渡したり。」という記述がありました。

これを読んだ時、「『北条 猪之吉』さん、なんか見覚えのある名前だな。」と思いました。「北条峠」にある道祖神の石碑を奉納した方でした。

※2020年9月20日撮影


※2020年9月20日撮影


※2020年9月20日撮影
Posted at 2022/08/23 23:28:53 | コメント(1) | トラックバック(0) | 大鹿村 北条坂 | 日記
2022年08月21日 イイね!

長野県大鹿村桶谷の「北条坂」を探索しました(3)

2022年7月23日土曜日、長野県下伊那郡大鹿村桶谷に残る廃道「北条坂」へと行ってきました。ここ「北条坂」は2020年9月と10月の2回探索に訪れていて、私レベルでは全線踏破は無理と判断した廃道です。

今回は、登山用アプリを使用して「北条坂」の正確なルートを把握することをメインの目的とし、サブの目的としては、「無理」と言いながらも「北条峠」から先の廃道の踏査区間を少しでも伸ばすことです。

当日9時半過ぎ。「北条坂」への取り付き場所へとやって来ました。以前訪れた時には空き地だった場所に仮設の工事事務所が立っていましたが、今日は休業なのか無人のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回も目印となる「秋葉山大権現・金毘羅大権現」の石碑の脇から峠道へと取り付いていきます。


過去2回はすぐに山の斜面へと向かっていましたが、今回はできる限り「北条坂」のルートをトレースしたいので、まずは横を流れる「砥沢」に沿って、架橋していたと思われる場所を目指して上っていきます。

架橋地点と思われる場所に来ました。周辺の植生が濃いので対岸の状況は確認できませんが、橋台の付属物と思われる石造物もあるので、間違いはないでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

架橋地点から折り返して、小渋川の方向へと斜面を進んでいきます。この辺りの斜面は上部からの崩落により落石や土砂をかぶっているため、「北条坂」の道がどの場所を通っていたのか全くわかりません。ひとまず真っ直ぐ進んでいきます。


100mほど歩くと道跡が見えてきました。


道跡に小屋が立っています。その傍らには石碑もあります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小屋の正面に回って様子を見ると、いくつかの木製の祠が置かれていました。ただし、中身は全てもぬけの殻。付近にあった桶谷集落が無くなった際に回収したのかもしれません。

また、小屋の傍らに立つ石碑のうち、笠石が乗っているものが1335年に起きた中先代の乱で知られる「北条 時行」の墓だそうです。

架橋地点から歩いてきて1か所目のヘアピンカーブです。


かろうじて残っている道跡を真っ直ぐ進んでいきます。


斜面に刻まれた「雨裂」に遭遇しました。道跡が抉られています。ここは上側へと迂回をして反対側へと進みます。


架橋地点から2か所目のヘアピンカーブです。周りは杉木立に囲まれ、道跡は不鮮明です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山側に石積みの擁壁が設けられています。


ふたたび雨裂を越えて、谷側に点々と石積み擁壁が残る道跡を辿っていきます。


また崩落斜面を横切っていきます。


道跡の上に大きな落石が転がっています。


ようやくはっきりとした道跡になってきました。


路肩には石を乱積みした擁壁。


架橋地点から3か所目のヘアピンカーブ。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何度も横断している崩落斜面の上部になります。道跡は残っていますが、土砂が積もり、路面が谷側へと斜めになっています。


下で遭遇していた雨裂が随分と深くなっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

仕方がないので、上部の渡れる場所へと迂回します。




架橋地点から4か所目のヘアピンカーブに来ました。ちょうどカーブの地点に枯れ沢が重なっているため、道跡は崩壊しています。




小さな落石が転がる道跡を進んでいきます。


そしてまた雨裂です。ここは一旦下へと下りてから反対側へと渡ります。


この雨裂、大雨のたびにどんどん周りの斜面を削り取ってしまうんでしょうね。


「砥沢」沿いの斜面を離れ、ややなだらかになった場所を進んでいきます。


初めて来た時はこの辺りで道跡を見失ってしまい、上段を通る道跡へと直登していましたが、今回は見逃すことなく道跡を辿って進みます。




枯れ沢を渡っていきます。


倒木が折り重なっています。くぐったり跨いだりして通過していきます。


架橋地点から5が所目のヘアピンカーブになります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

幅は狭いながらも、道跡がしっかりと残っています。


先ほど渡った枯れ沢の上部を進んでいきます。


初めて来た時に道跡を見失った場所から、この枯れ沢を渡る辺りまでは、今回初めて歩き通したことになります。初めて来た時は、上側からこの枯れ沢辺りまで下ってきて引き返しています。その際にこの道跡については「(取り付き場所が違う)『北条坂』の新道かもしれない。もしくは関連ない木馬道か。」というような事を書きましたが、今回で「北条坂」そのものであることがわかりました。

遠くまで見通しの利く長い直線路を歩いていきます。


先ほどとは違う雨裂に遭遇しました。規模はさらに深いものです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

雨裂の先に6か所目のヘアピンカーブがあるはずですが、さすがにこの深さは渡れないので、さらに上段を通る道跡へと迂回します。


小石が散らばる道跡。歩きにくいことこの上ないですね。


杉にビニールテープが巻かれています。鹿などの食害を防ぐためのものでしょうか。


炭焼き窯の跡。


杉の植林地から落葉樹の林へと植生が変わってきました。


アカマツが並木のように揃っています。


架橋地点から7か所目のヘアピンカーブです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ヘアピンカーブの先で、一直線に北条峠を目指す旧道と緩やかに登っていく新道が分岐します。


北条峠まででは最後となる、架橋地点から8か所目のヘアピンカーブ。




「北条坂」の峠、「北条峠」に到着です。


この場所で旧道と新道が合流します。


登山用アプリで取得したGPSの軌跡から書き起こした駐車場所から北条峠までの「北条坂」のルート図です。


こちらは戦前の地形図。当たり前と言えば当たり前ですが、ヘアピンカーブの数やルートはおおむね合っていますね。

※5万分の1地形図「大河原」:明治43年(1910年)測図・昭和5年(1930年)修正測図。昭和7年(1932年)発行。

一方、こちらは2020年9月20日に初めて訪れた際の歩行ルートを帰宅後に想像で描いたルート図。全然違いますね(笑)。地形図を持参してチェックしながら歩いたわけではないので、こんなものなんでしょう。


さて、峠にある石碑・石仏群を見に行きます。


様子に変わりはないようで何よりです。


ここからは、山の中腹を縫って上峠方面へと進む道跡を行ける所まで辿っていきます。
Posted at 2022/08/21 20:57:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大鹿村 北条坂 | 日記
2020年10月31日 イイね!

長野県大鹿村桶谷の「北条坂」を探索しました(2)

2020年10月31日土曜日、長野県下伊那郡大鹿村桶谷に残る廃道「北条坂」を探索してきました。 9月20日に「北条坂」と「北条峠」の少し先まで探索しましたが、今回はさらにその先を探索しました。

戦前の地形図はこちら。赤色の枠の中が「北条坂」になります。

※5万分の1地形図「大河原」。明治43年(1910年)測図・昭和5年(1930年)修正測図。昭和7年(1932年)発行。

今回探索したおおよそのルートです。赤い線が9月20日に探索した部分、青い線が今回探索した部分です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

出発地点は前回と同じ場所。前回車を停めた小渋川沿いの施設の広場は、工事車両や資材が置かれていたので、路肩に駐車します。


小渋川の対岸の山を眺めています。徐々に色づき始めています。


さっそく北条坂を登っていきます。


とは言え、今回は峠から先の道跡を探索するのがメインなので、少しでも斜面を直登してショートカットし、時間短縮を図ります。


ここから上へは直登は厳しいので、しばらく道跡を歩ていきます。




土石流で大きく抉れた沢に出ました。対岸にも道跡が続いています。


ここは沢沿いに直登して、真上を通る道跡まで移動します。


真上を通る道跡に出ました。右方向へと進みます。


絡み合った木が生えている所から左方向へ、ふたたび直登を始めます。


先ほどの土石流が流れた沢のさらに上部を沢に沿って直登していきます。


この斜面で一番上段を通る道跡まで登ってきました。本来は写真右側に下段を通る道跡とをつなぐヘアピンカーブがあったはずです。


ここからは、そのまま道跡を歩いていけば峠へと出られます。


この石積みは、おそらく炭焼き窯の跡でしょう。山中に残る廃道の路上や路肩でしばしば見かけます。平場を確保しやすいためなのでしょう(もう人も通らないし。)。


峠のある尾根が見えてきました。


峠への最後のヘアピンカーブです。


北条峠に到着です。駐車場所から約40分かかりましたが、前回は1時間余かかっているので、20分ほど短縮できました。


峠の石碑・石仏群も健在です(1か月しか経っていませんからね(笑)。)。


それでは峠から先の区間へと進みます。


前回引き返した小さい切通しを通過します。


まだ道跡はしっかり残っています。


道跡が抉れている場所に来ました。踏み跡(人が付けたものなのか、獣道なのかわかりませんが。)があるので、辿って渡ります。


ふたたび道幅がしっかりとある道跡が続きます。






これは難所ですね…。道跡はすっかり洗い流されて、尾根から続いているような岩盤が露出した沢(「スラブ」と言うんですかね。)になってしまっています。




ここにも沢を横断する踏み跡が付いていたので、それを頼りに進んでみることにします。まずは慎重に沢底まで降りて、対岸の道跡へと続いている踏み跡の状態を確認します。

この時、岩盤に積もっていた小さな土の塊の上に立っていましたが、そこそこの時間立ち止まっていて荷重が掛かったためか土が崩れ出して、下へと滑り落ちそうになりました(すぐ下、1~1.5mくらいの所に段差があったので、滑り落ちても心配はなかったかもしれませんが、もしそこで止まらないと数十mは落ちてしまうことに…。)。

ビックリして、四つん這いになって必死に道跡へ登り直しました。道跡に戻ってからも、しばらく体の震えが止まりませんでした。

数分経って震えが治まったところで、ふたたび沢底を眺めます。迂回路になりそうな場所は無いので、先へと進むためにはここで渡るしかありません。

頭の中で何度もシミュレーションして、行けそうだと思えたところで腹をくくり、沢底へと再び降りていきます。足場を確認しつつも、あまり一か所に留まらないように注意して横断。

何とか無事に沢を渡り終えました。こんな思いは随分と久しぶりです…。結局、渡るのに15分もかけてしまいました。


ちなみに、帰り道の時は沢底へと下る時に滑らないよう注意をしただけで、その後はスタスタと渡ってしまいました(笑)。状況がわかってしまえばそんなに心配することもありませんでしたが、やはり危険が予想される未知の場所へ踏み込むのは本当に不安になります。

沢を渡った先は幅のある道跡になり、ホッとします。


路上にワイヤーが絡めて置かれていました。どんな目的でここまで持ち込まれたのでしょうか。


また道跡が無くなった崩落地や沢を渡りますが、先ほどの沢よりは難度低めです。バランスを取りながら、踏み跡を外さないように進みます。




上部まで土石で埋まっている沢を渡ります。


沢を渡った先にははっきりした道跡が無く、急斜面に細い踏み跡だけが続いているのが見えています。


踏み跡の下の方にもう少し木々が生えていたら進んでいったかもしれませんが、この状態では滑落した時にどうしようもなくなってしまいます。

踏み跡よりも少し高い位置を木々につかまりながら進めないか試してみましたが、ここも斜面の土が崩れやすくて、靴で踏み均して足場を作ることも容易ではなく、危ないので止めました。

すでに何か所も危険な場所(自分レベルで。)を通過していて疲れたこともあり、これ以上無理して進む必要はないと判断して、今回の探索を終了することにしました。要はうんざりして心が折れたわけです(笑)。

道幅があって日の当たる場所まで戻り小休止。この道跡、眺めは良いのですが、微妙に木々が視界を塞いでいるので、写真に撮ると木々しか写らないのが残念です。


北条峠まで戻ってきました。これで一安心です。


帰り道は、直登した場所を滑りながら下っていったので、登りよりもさらに早く、峠から車まで約30分で戻ってこられました。


最後に北条坂の出入口に立つ「秋葉山大権現」・「金毘羅大権現」の石碑を。


北条坂は、峠から先の道が荒れているという情報は知っていたので、途中で引き返すことになるだろうことは予想していました。実際に歩いてみて、自分のレベルで踏破するのは手に余るようです。

ということで、北条坂はこれで一区切りですかね。気が向けば、反対側から行ける所まで攻めてみるのもありですが。自宅から遠方なので、いつになるかはわかりませんけどね。
Posted at 2020/11/01 00:13:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大鹿村 北条坂 | 日記
2020年09月21日 イイね!

長野県大鹿村桶谷の「北条坂」を探索しました(1)

2020年9月20日日曜日、長野県下伊那郡大鹿村桶谷に残る廃道「北条坂」を探索してきました。

このネタを見つけたのは「山さ行がねか」の読者掲示板。サイト主は「そこはすでに探索済みだが、記事化する予定なし。」というようなコメントをしていたので、「それなら自分の足で見に行くか。」と出かけた次第です。

戦前の地形図はこちら。赤色の枠の中が「北条坂」になります。

※5万分の1地形図「大河原」。明治43年(1910年)測図・昭和5年(1930年)修正測図。昭和7年(1932年)発行。

今回の目的は、「北条坂」へはどの地点から取り付けるのか、道の状態はどんな感じなのかを偵察するためなのと、GVBインプレッサで遠出ドライブすることです。弟も同行してきました。

廃道へ行く前に、道中にある小渋ダムへ立ち寄りました。


ダム見学時の姿勢に注意を促す看板。私はこの看板の絵よりももっと腰が引けた状態で見てますね(笑)。


ダム堰堤の高さは105mあります。


ダム湖の様子。梅雨時の大雨から時間が経っているためか、水量はやや減ってますね。


たくさんの踊り場が設けられている管理用通路。絶対歩きたくないですね。


ダム堤体近くの崖に打ち込まれている鉄骨。一部に床板が残っていることから、何らかの通路だったのは間違いないでしょう。


ダム見学はこれくらいにして、ダム湖の上流へと向かいます。

廃道の入口近くへとやって来ました。車を停める場所がなかったらどうしようかと思っていましたが、幸い、ダム関連施設と思われる建屋の前にスペースがあり、助かりました。


弟へ車で留守番しているか尋ねたら、「様子見に行く位だったら行くわ。」ということで、一緒に行くことになりました。

小さな橋を渡った先の正面の山の斜面に「北条坂」があるはずです。


弟が車を停めた場所から道を挟んだ斜面を見て、「上にあるの、古い道じゃないのか?」と言ってきました。

落石防護ネットの向こうに確かに道跡があります。登ってみることにします。


道跡がほんの少しだけ残っていました。


あらためて小さな橋を渡って、まずは沢に沿って入り込んでいきます。

石碑が立っていました。「秋葉山大権現」と「金毘羅大権現」と彫られています。


防火の神様と海運の神様ですね。防火はわかりますけど、この山深い場所で海運の神様を祀るのはなぜですかね?

※追記:金比羅大権現は「海=水に縁がある」ということで、こちらも防火にかかわる神様(あわせて農事の神様としても。)として秋葉山大権現と一緒に祀られているそうで、秋葉街道沿いや伊那谷によく見られるようです。

ちょっとした平場になっている中を進みます。


ここの右側にはたくさんの墓石が並んでいます(写真の右端にチラリと見えています。)。一部を見てみましたが、家名や「南無阿弥陀仏」などではなく、戒名らしきものが彫られていました。かつて、この辺りにあった桶谷集落の方々の墓地でしょうか。

平場が途切れる辺りから斜面へと登り始めます。この時点では、明確な道跡を見て取ることができません。


しばらく周囲を見上げていたら、所々に石垣が見えているので、そこまで登っていきます。


道跡のようです。


右側へと進んでいきます。道跡が消失している所もありましたが、そのまま越えていきます。


ようやく道跡がはっきりしてきました。




ヘアピンカーブです。「北条坂」は地形図にあるとおり、つづら折りの道でこの斜面を尾根まで登っていたので、この先も何か所か現れるはずです。


倒木があったり、埋もれて道幅が狭くなったりしていますが、先ほどまでのことを思えば快調です。




けっこう登ってきています。なかなかの急斜面。


道跡が深く抉れている場所に遭遇しました。多分、土石流があったのでしょう。上へと迂回します。


上の斜面を眺めると、縦に抉れた窪地の両脇に白い土砂や石が筋状に散乱しています。


今まで歩いてきた道跡よりも上段にある道跡まで登って来ました。対岸にも道跡があるので、対岸のどこかにヘアピンカーブがあるはずです。


土石流を被ったようですが、かろうじて石積み擁壁が残っています。


ふたたび道跡を進んでいきます。




この辺りで弟が「上に道跡みたいなもんがあるから、そっちへ行ってみるわ。」と言うので、「俺は道跡どおりに歩くのも大事だで、このまま行くわ。」ということで、一旦別れて、私はそのまま歩いてきた道跡を進んでいきます。

間もなく、道跡がわからなくなってしまいました。


上を歩く弟に「その道は右手に向かって上り坂か?」と大声で尋ねたら、そのような返事が聞こえたので、私も弟が歩いている道跡まで登っていきます。


弟と合流して、道跡を進んでいきます。思った以上に忠実に道跡を辿るのが困難です。




また道跡がやせ細ってきました。


ショートカットしている弟を追いかけます。


やや幅のある道跡と交差する地点に出てきました。


今まで歩いてきた道と違い、幅のあるはっきりとした道跡です。「北条坂」に関係がある道なのか確かめたかったので、弟に話をして一旦この道跡を右側へと下って様子を見に行きます。


先ほど、道跡が消えかかっていた凹地へと戻ってきました。この道は、そのまま凹地を越えて、反対側の斜面へと下っていっています。


「北条坂」とは関係が無い道のようだと判断して、引き返すことにします。

交差地点まで戻ってきました。何気に見ると、左上へと登っていく道跡があります。これが「北条坂」の続きのようです。


左側へと登っていった弟に声を掛けて呼び戻し、左上へと登っていく道跡を辿っていきます。


しかし、この道跡も消失してしまいました。真上を見上げると、凹地を横切る道跡が見えています。


またしても斜面を直登です。


先ほど見上げていた道跡に出ました。


この道を登っていきます。


尾根が近づいてきたのと、樹相が杉林から落葉樹林に変わったためか、明るい雰囲気になってきました。




ヘアピンカーブ。ここが峠までの道跡での最後のヘアピンカーブでした。


小さな堀割りを越えます。


この地点で、歩いている道が尾根とは逆方向へ曲がっていってしまうようだったので、尾根側へ斜面を登るとそこにも道跡がありました。分岐を見落としたようです。


尾根の上、北条坂の峠「北条峠」に到着しました。左側から登ってきました。けっこう時間を掛けてしまったと思っていましたが、麓の石碑から1時間ほどでした。


峠には、石碑や石仏が立っていました。弟が寄りかかっていた枯れ枝を片付けています。ちょっと付き合うだけだったはずの弟も、ここまで登ってきてしまいました(笑)。


ちなみに、弟の背後は絶壁です(笑)。


一番明瞭に読み取れる「道祖神」の石碑。


左側面に年号と施主が彫られていました。年号は、「大正三年(1914年) 一月吉日」とあります。


施主は「北条 猪之吉」さんのようです。


「北条坂」の麓にかつて存在した桶谷集落の住人は、すべて「北条」姓であったそうです。そして、その由来は鎌倉幕府の執権であった北条家からのものという伝承があります。

あらためて、峠の石碑・石仏群の全体像です。


「北条坂」はこの峠から右側の道へと針路を取り、山の中腹を縫って進むことになります。この先は、道跡の状態がもっと酷いそうで、今回はもう少しだけ奥へと進んで様子見をしてみます。


「今のところは問題ないな。」と思いつつ進んでいきます。


見た目よりも危うい場所ですが、落ち着いて踏み跡を辿れば問題はありません。


ちょっとした切通し。どんどん歩いていってしまっても収拾がつかないので、今回はここで打ち切ることにします。


切通しの先を眺めます。全体に傾斜のきつい地形。この先の不穏な状況を予感させます…。


切通しから峠側の道跡を眺めます。谷側は急激に落ち込んでいっています。


落ち込んでいく凹地を見下ろします。うまく撮れていないので、写真を見るだけではU字型の古道が写っているように見えますが、実際はとんでもない奈落です。


峠まで戻ってきました。


峠から先の道跡は、晩秋か初冬の雪が降る前までにでも訪れることができればと考えていますが、おそらく私では、峠からそんなに奥深くまで入り込むことはできないでしょうね。

最後に、途中で交差してきた幅のある道跡ですが、上り方向は結局峠まで続いていました。麓側の起点がわかりませんが、私たちが麓から途中まで辿ってきた「北条坂」を「旧道」とすれば、勾配や道幅を改良して峠まで荷車を通せるようにした「新道」であるのかもしれません。昭和7年発行の地形図では全く形跡がありませんが、その方がしっくりくるかなと。でなければ木馬道の跡なのか。

大鹿村の村誌とか読めれば、多少はわかるのかもしれませんけどね。

今回探索して歩いた推定ルート図です。星マークが駐車場所。赤い線が今回歩いたと思われるルートになります(GPSロガーを持っていないので適当です。あまり当てにしないでください。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2020/09/21 10:42:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大鹿村 北条坂 | 日記

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