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小林あにのブログ一覧

2024年09月17日 イイね!

【豊根村】粟世~山内~霧石峠~大立の峠道を探索する(2)

2024年4月28日日曜日、北設楽郡豊根村三沢粟世から山内~霧石峠~大立とつながる峠道を探索してきました。

前回「その1」では山内の集落を通り抜けて、愛知県道426号まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は10時30分過ぎ。まだ時間に余裕があるので、今回の予定の第二段階である山内から霧石峠への探索に向かうことにします。

戦前の地形図にある山内から霧石峠への峠道を赤線で示してみました。

※ひなたGISより引用。

山内~霧石峠間の峠道の見た目での直線的な距離は、粟世~山内間とあまり変わりないように感じます。標高差も粟世~山内間の約180mに対して、山内~霧石峠間が約230mと若干高い程度。

しかし、霧石峠への峠道は、粟世~山内間と比較して地形の険しい場所を細かく屈曲しながら登っていくことが気になります。

さて、霧石峠への昔の峠道が始まるだろうと予想した地点へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

バス停の横から斜面へと取り付いてみると徒歩道が上方へと続いていました。


やがて掘割道となりました。どうやらこの道で正解のようです。




ただ、程なくしてこの上部にある字茶尾の家々に向かう車道の斜面に埋もれてしまいました。


この時点で霧石峠への峠道がわからなくなってしまいました。ひとまず字茶尾から分岐していく林道を歩いて、途絶してしまった峠道を探してみることにします。




結局、この林道では峠道の続きを見つけることはできませんでした。というか、どこまで行っても林道の霧石峠側の法面が高い場所までコンクリートで固められていて、どうしようもなくなり引き返してきたというのが本当のところです。

字茶尾の小さな集落の下まで戻ってきました。


ここで一旦小休止して戦前の地形図を眺めていて、「昔の峠道なら家々の間を通っているかも。」と思い直し、林道から家々へと向かう踏み跡へと分け入り、小さな集落まで登ることにします。

とある家の下にある畑跡へと出たところ、地元の人と遭遇しました。見た目60歳代から70歳代くらいの男性です。よもやこんな場所に人がいるとは思わず、ちょっとびっくりしましたが、「こんにちは。」とあいさつします。

ここからしばらく男性との会話を記します。

男性:俺は身内が休みで帰ってくるから、ここで山菜を取ってたんだけど、アンタはこんな所で何してるの?
私:霧石峠まで行きたくて歩いていました。
男性:それなら、そこの林道(私が先ほど歩いていた林道。)を歩いていけばいい。峠まで続いている。
私:いえ、昔の峠道で行けないものかと道を探していました。林道は斜面が高い所まで固められていて取り付けなかったので、ここまで戻ってきました。
男性:ああ、土砂崩れが酷くて工事したからな。あんなことしてもどうしようもないのになぁ。
私:それで、昔の道なら家の前を通っていないかと思って、ここまで登ってきたんです。
男性:確かにこの上に見えている家の前の道が昔の霧石峠へ行く「赤線」(いわゆる里道のこと。)だった。峠から漆島まで下りていくんだよ。
私:漆島から霧石峠へは以前に登ったので、今度は山内から登れないかと思いまして。
男性:漆島からは登ったのか。あの道はきつくて「十三曲がり」と呼んでいたわ。

こんな会話をした後で、男性から次のように言われます。

男性:俺は猟をするからここら辺の山はよく知ってるし、峠道がどこを通っていたのかも知っているから霧石峠まで行けるけど…。上の家の先にある廃屋の所から道があったんだけど、どうかなぁ…。道跡が薄く残っている場所もあるけど…。

どうにも歯切れが悪い…。同じような内容の話を繰り返し言われます。どうやら昔の峠道で霧石峠へと向かうのは困難なようです…。

それ以外にも雑談をして、以下のような話を聞かせてもらえました。
・昔はこんな所に誰も来なかったけど、今はいろんな奴が入ってくる。アンタのような山登りする奴はいいけど、空き家を狙ってくる奴もいるから困ったもんだよ。
・子どもの頃は毎日40分くらいかけて峠道を歩いて、粟世の小学校(旧三沢小学校)まで通っていたよ。
・この辺りの山は、昔は蒲郡の竹本油脂が持っていたんだよ。今は違う会社の所有になってしまったがね。
・電車に乗る時は日が出る前から出かけて、霧石峠まで登ってから漆島へ下りて、カワカミヤ(川上屋?)の所に出て、大嵐(大嵐駅)から豊橋へ行ったりしたもんだよ。この辺りから電車に乗るなら大嵐が近いからね。

今回歩いてきた粟世から山内の峠道を通学路として毎日歩いていたとか、電車に乗るために標高900mの霧石峠を上り下りして、さらに飯田線大嵐駅まで歩いて電車に乗っていたとか、昔の人のタフネス振りには本当に驚かされます。しかもこの方、今も猟で山の中を歩き回っているわけですし(笑)。

霧石峠を徒歩で越えて大嵐駅まで行っていたのは、おそらくマイカー時代が到来する昭和40年代以前の話でしょうけどね(ちなみに峠の北方4〜5kmに霧石トンネルが開通したのは、ようやく昭和49年(1974年)のこと。)。

残念な事に、徒歩での峠越えが昭和何年頃までの話なのか、尋ね忘れたんですよね…。戦前の地形図に当てはめると、山内から大嵐駅までこんなルートで歩いていたはずです。

※ひなたGISより引用。

あとは、飯田線大嵐駅は旧富山村の玄関駅というイメージが強かったですが、霧石峠を越えて豊根村域からの利用もあったというのは目からウロコでした。

生まれてこの方、車社会が当たり前の私では、長距離の移動手段として「徒歩」もあるということが、頭の中に存在していないんだなと実感しました。

それから、漆島から霧石峠までの峠道が「十三曲がり」と呼ばれていたことは、地誌類で読んだことがなく、やはり地元の人に話を聞くといろんな情報が手に入りますね。

さて、「取りあえず霧石峠へ向かってみます。」と男性とお別れして、言われたとおりに家の前を進んでいってみます。


男性が言っていたとおり、家を通り過ぎてからは道筋が全く見い出せません…。






岩肌剥き出しの沢へと出てきました。さすがにこれを渡ることは困難です。峠道と交差することを期待して、ここから直登していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

どれだけ斜面を直登しても道と思しき平場と交差することはありませんでした。ここはもう割り切って、尾根を通る林道まで一気に登ることにします。


林道へと出てきました。ここからは林道の下側を眺めて峠道の痕跡を探しつつ進みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠道の痕跡を見つけることなく林道の分岐点へと出てきました。ここで霧石峠方面となる赤矢印の方向へと進みます。


この分岐点には無縁碑が立っていました。


この林道は山内~霧石峠間の峠道をなぞるルートのようですが、これといった遺構は見つけられませんでした。


林道豊富線へと出てきました。ここからは舗装林道を霧石峠まで歩いていきます。


場所はこちら。


林道豊富線を歩くこと8分ほど、霧石峠に到着です。結局、山内~霧石峠間の峠道については、ほとんどその痕跡を見い出すことができず、消化不良な感じに終わりました…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ともあれ、これにて今回予定していた探索は終了。ここからどうやって駐車場所へと戻るか、あらためて考えます(山内~霧石峠の峠道が明瞭に残っていれば、そのまま引き返すつもりだった。)。

結論としては、最短で古真立川沿いを通る県道429号へ出ることができる霧石峠~大立間の峠道を通ることにしました。県道まで出ることができれば、距離はあろうとも後は舗装路を歩くのみです。

戦前の地形図内、赤線で記した道となります。

※ひなたGISより引用。

ここから大立へと下っていきます。現在の地形図でもこの斜面を下っていく破線道(徒歩道)が記されていますが、実際には細い踏み跡がかろうじて付いているだけです。




まだそこそこの距離しか歩いていないのに、恐れていた事態が発生しました。道筋の消失です…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢沿いを進むのが困難なため、山側の斜面を登り、植林地内を迂回していきます。

ただ、迂回ルートにした植林地もどこを向いても急傾斜地ばかり…。いざ山を下る段になり、あっちの杉、こっちの杉へと幹にしがみ付きながら慎重に慎重に下りますが、足元の斜面の先がどうなっているのか見えない状況が続きます…。


「最悪、この斜面を引き返すのか…。」とも想像しましたが、何とか無事に沢へと降り立つことができました。ヤレヤレです…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢の中を歩いて進んでいくと、ようやく真っ当な道筋が現れました(それでも所々、ヤバ目な場所もありましたが…。)。






「これで県道に出るまで道筋を辿っていけるかな。」と淡い期待が出てきました。


残念ながら、まだまだ楽には進ませてはくれないようです…。


道筋が消失しているうえに、大量の倒木が折り重なっています。昨今の豪雨・大雨の影響でしょうか。


沢を挟んで、右岸・左岸を右往左往しつつ、倒木を避けたり跨いだりしながら少しづつ前進してきます。


倒木地帯を過ぎたら、次は放置された間伐材が待ち構えています…。


岩陰でちょっと一息。


まだまだ仕打ちが続きます(笑)。


ようやく、多少まともな道になってきました(細いですけどね。)。


そう思えたのも束の間、崩落箇所に遭遇…。「ここまで進ませておいて引き返させるの…?」と嘆きたくなりましたが、かろうじて両足幅の迂回路が付けられていたので(それも大概な場所にでしたが…。)突破できました。


引き続いてガレた枯れ沢を横断。これくらいなら全然マシです(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もはや踏み跡も怪しい中、植林地を進んでいくと眼下に県道429号が見えてきました。これでようやく無事に帰れる算段が付きました。




おまけで、歩いてきた峠道の終端がどうなっているかを確認。よくあるパターンで、県道に削られて終わっていました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

県道を少し逆戻りして、大立不動滝を写真に撮ります。


この後も気になる場所へ寄り道しましたが、目立った成果は無かったので省略。

県道429号と426号の交差点まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここで偶然、立ち話をした男性が軽四でやって来て鉢合わせ。

男性:峠道はわかったかい?
私:いやぁ、全然わからなかったので、上を通る林道まで直接登りました。
男性:霧石峠へは行けたのかい?
私:ええ。峠まで行って、そこから大立へと下りてきました。
男性:そうか。粟世まで気を付けていけよ。

「えっ、粟世まで送ってくれる展開じゃないの?(笑)」と思いつつ、もうひと踏ん張りと黙々歩いていきました。

17時25分、やっと駐車場所へと戻ってくることができました。


それでは、今回の探索ルート図と比較用の戦前の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※ひなたGISより引用。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※ひなたGISより引用。

登山用アプリによると、移動距離は15.2km、所要時間は9時間12分と、今までの探索の中では最長の距離・時間となりました。もっとも、大立から粟世までの「帰り道」は県道を歩いただけなので、実質はもっと少ないわけですけどね。

これでひとまず、霧石峠とその周辺の峠道にかかる探索は一区切りといったところです。豊根村内で探索できそうな道はまだまだありそうですが、また違う場所へ目を移したい気分といったところですかね。
Posted at 2024/09/17 23:44:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年09月16日 イイね!

【豊根村】粟世~山内~霧石峠~大立の峠道を探索する(1)

2024年4月28日日曜日、北設楽郡豊根村三沢粟世から山内~霧石峠~大立とつながる峠道を探索してきました。

スタート地点となる豊根村三沢粟世へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点での予定としては、まず粟世から山内へと至る峠道を探索し、時間に余裕があるようだったら、さらに山内から霧石峠へと至る峠道を探索してみます。

こちらは戦前の地形図。赤線が粟世と山内を結ぶ峠道となります。

※「ひなたGIS」より引用。

豊根村誌によると、伊那街道上津具宿(設楽町津具)から分岐し、霧石峠を越えて豊根村富山の河合(旧富山村のかつての中心地。佐久間ダムに水没。)とを結んだ「津具・粟世・河合道」と呼ばれる街道の一部にあたります。

それでは探索に向かいます。駐車場所から旧三沢小学校の前まで愛知県道74号を歩き、ここから路地へと入り込みます。


集落内の川を渡ります(河川名は不明。)。橋の名称は「粟世橋」。


正直、今回探索する峠道が粟世のどこから分岐しているのか明確にわからず、取りあえず、川に橋が架かっていたこの道を選んだだけでした。

この程度の橋だと銘板無しでも当たり前なのですが、それがわざわざ取り付けてあるということは、「もしかしたら相応の由来を持つ道かも。ここで正解だったのかな?」と勝手に想像してます(笑)。


廃屋の横から山の中と入り込んでいきます。


作業道よりはやや狭い感じの道が奥へと続いています。


もはや山仕事には利用されていない道なのか、荒れ放題となっています。




車が通れるような砂利道との離合もありましたが、気にせずにそのまま同じ沢筋を詰めていったところ、行き止まりとなってしまいました。

周囲を見渡しても斜面を登るような道筋は見い出せず、仕方がないのでこのまま直登していきます。


斜面の上部を通る車道へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所から分岐していく豊根村道梨畑山内線へと進みます。おそらく山内へと向かう昔の峠道を由来とする村道でしょう。


普通の車でも走行できそうなフラットダートの村道を歩いていきます。




草地になっている場所から、斜め左側へと下っていく細道へと入り込みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

想像していたよりもきれいな道筋が一直線に下っていっています。


左側はこの沢筋の源頭地になっているようで、湿地帯になっています。




このまま沢筋を進んでいくものかと思っていたら、いきなり沢筋を離れて、急斜面の只中を進んでいきます。






道筋が無くなってしまいました。ここで流れの無い沢を渡り対岸へと折り返して進みます。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

緩いヘアピンカーブを曲がっていきます。


ヘアピンカーブを曲がった先で、樫谷下(かしやげ)へと向かう峠道が右側へ分岐していきます。


戦前の地形図では、この地点の分岐になります。

※5万分の1地形図「根羽」:明治41年(1908年)測図・昭和8年(1933年)要部修正測図。

分岐を通り過ぎるとすぐ折り返しがあります。


砂防ダムの上へと出てきました。斜面が軽く崩れているので、通過に気を遣います。


ボロボロになった小橋を避け、小さな沢を跨いで越えていきます。




この辺りから先は、砂防ダムの建設工事によるものか道幅が拡がっています。ただし、所々薮になっていたり、路面も悪くなっています。




道を下っていくうちに、頭上に並行して平場が続いていることに気が付きました。少し戻って、平場へと登ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

やはり、道のような平場が続いています。




凹地へと出てしまい、この場所で平場は途切れてしまいました。


凹地の中を眺めてみると、木材が突っ立っています。おそらく、かつてはこの場所に桟道が架かっていたのでしょう。


平場の幅の狭さや斜面の険しい場所を通過している点からみて、この平場は峠道の旧道ではなさそうです(そもそも、もっと低い沢沿いを進めるため。)。おそらくは、木材搬出のための木馬道の跡ではないかと思われます。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さらに下っていくと、斜面の上部に石垣が続いていました。やはり木馬道の跡である可能性が高そうです。


この分岐で左側へ進めば、先ほどの石垣の先へと行けそうでしたが、今回の本題ではないので、山内の集落へとそのまま下っていきます。


山内の集落へと出てきました。駐車場所を出発してから峠越えをして、2時間余りの行程でした。


そのまま集落内を進み、古真立川の橋を渡って県道426号へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は10時30分過ぎ。まだ十分時間があるので、このまま次の予定である山内~霧石峠の峠道を探索することにします。

※その2へ続く。
Posted at 2024/09/16 15:08:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年08月31日 イイね!

【豊根村】間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました(2)

2024年4月20日土曜日、北設楽郡豊根村大字古真立の間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました。

前回(1)では、高圧線の鉄塔下まで進んできました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずは鉄塔により改変された斜面に付いている細い踏み跡を進んでいきます。


鉄塔から先は進行方向を西へと変えて、しばらくは等高線に沿うような形で山腹を移動していきます。






落石です。転がっている石が白いので、割と最近の落石かもしれません。一応、斜面の上部を注意しながら通過します。


前方に浅い掘割道が現れました。ここからは尾根を通っていくようです。


分岐する道がありましたが、覗いてみたところどうやら作業道のようなので、このまま道なりに進みます。


浅い掘割道が続きます。


また分岐が現れました。戦前の地形図に沿うように進むために右折していきます(写真は逆方向から撮っています。)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは深い掘割道で一気に下り始めます。


この深い掘割道を歩き始めて、「もしかして作業道なのか?」と疑いましたが、戦前の地形図にある峠道とルートが似通っていること、自動車が通るには幅が狭く勾配が急なこと、路肩に生えている木々がそれなりに太いことなどから、牛馬が通りやすい新しい峠道として戦前期までには掘削された掘割道だろうと判断しました。










深い切り通しを通り抜けます。向こう側に山の斜面が見えているので、小田の集落は間もなくのようです。


小さな沢に出てきたところで折り返します。


ようやく小田の集落に到着です。路肩に立つ細い櫓に半鐘が吊るされています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋を渡ります。


橋の名前は「小田川橋」。「こだがわ」と呼びます。


橋を渡ると愛知県道74号(旧別所街道)に合流します。渡った先には馬頭観音などの石碑群がありました。


さて、帰りは先ほど通ってきた掘割道ではなく、旧道に当たるであろう徒歩道を探してみることにします。

掘割道から徒歩道らしきものが分岐していたのは確認しているので、当たりを付けて進入してみます(もっと入りやすい場所がありましたが、人家の前だったので止めました。)。


場所はこちら。


動物を捕獲するための檻が置かれています。その後方に道らしきものは無かったので、斜面を直登してみることにします。


登っていったところ、古道に遭遇しました。登ってきている方向からして、人家の前から分岐していた道のようです。辿っていくことにします。


しっかりとした掘割道が続いています。しかし、坂がキツイです(笑)。


集落を見下ろす古そうな墓地の脇に大木が生えていて、その根元に祠がありました。お供え物などは見当たらず、今も祀られているのかはわかりません。


段々と道筋が怪しくなってきましたが、雰囲気は残っているので、そのとおりに辿っていきます。




鹿の角が落ちていました。めったには見かけませんけど、角だけでなく頭蓋骨などの白骨を見ることもあります。


往路で通った深い掘割道へと出てきました。想定通りの場所だったので、今歩いてきた道が峠道の旧道で間違いなさそうです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もう1か所、旧道と思われる道跡を辿ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小田の集落から上がってきた古道と比べると、道筋はすっかり痩せてしまっています。


折り返して尾根道となります。


進んでいくと深い掘割道が始まる地点へと出てきました。そのまま直線的に間袋方面へと繋がっているので、この部分の道跡も旧道と言えそうです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この後は元来た道をひたすら戻るだけです。こちらは間袋側の沢渡り箇所にあった小さな滝。


間袋の集落の小さな社の上まで戻りました。ここからは、どのように集落へ道が繋がっていたのかを確認します。


倒木が酷いですが、直線的に集落へと向かっているようです。


倒木をくぐり抜けながら進むと、間袋の集落の手前へと出てきました。本来はこのまま集落へ向かって道が続いていたのでしょうが、今は草むらになってしまっているので、階段で道路へと下りました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからはおまけです。時間にまだ余裕があったので、間袋と小谷下を結んでいた里道跡をちょっと探索してみます。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

駐車場所からすぐ南側にある沢を渡り、小さな切り通しを越えていきます。




里道跡は古真立川沿いのちょっとした崖地を通っていきます。まだまだ道幅があるので、このまま進んでみます。




崩落地に出てきました。すでに一つ探索を終えて多少疲れが出ていることもあり、リスクのある場所へと踏み込む気分ではありませんでしたが、もう少しだけ頑張ってみます。




木が生えている場所で一旦立ち止まって先を眺めてみましたが、前方はまだまだ崩落地が続いているようです。斜面の傾斜も更にきつくなっていたので、今回はこの場で引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、車に乗り込んで少し移動。愛知県道429号と間袋の集落をつなぐ橋「間袋橋」へとやって来ました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋のたもとには、青面金剛像と名号碑が立っています。石碑本体や笠石の意匠がそっくりなので、同一の石工が製作したと思われます。


両方の石碑とも左側面には「〇貞享五戌辰〇十月吉日」と彫られています(〇部分はそれぞれ違う文字。)。


貞享5年は西暦1688年に当たりますので、これらの石碑は336年前のものということになりますね。

ただし、ウィキペディアで調べると「貞享」は貞享5年9月30日に「元禄」へと改元されていますので、実は貞享5年10月は存在しないのです。「石碑に年月を彫っておいたら年号が変わってしまったけど、彫り直しもお金がかかるし、そのままでいいや。」ということなのでしょう。

右側面には、「三州賀茂郡足助庄 大立村 間袋村」とあります。


ちなみに「足助」は、この地を遠く離れた現在の豊田市足助町周辺を指します。しかし、「賀茂郡足助庄」(「庄」は「荘園」のこと。)がどの範囲まで拡がりをもつ荘園だったのかはネット検索ではわかりませんでした。

あらためて、この碑文になぜ「賀茂郡足助庄」と表記したのか不勉強でわかりません。確かに昔々は、現在の豊根村の範囲は「賀茂郡(加茂郡)」の所属でした。しかし、16世紀には現在の北設楽郡の元となる「設楽郡」へ郡替えされているそうです。そして、荘園制はこの石碑を立てた頃にはすでに消滅しています。

なので、この石碑には本来「三州設楽郡 大立村 間袋村」と彫るべきところ、なぜか旧来の所属を名乗っているわけです。これは、現代の私たちが、「三州」だの「信州」だのと昔の地名を使ったりしているのと同じようなものなんですかね。

それではおまけの2つ目、この石碑の横から始まる間袋と大立を結んでいた里道跡を辿ってみます。


戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

道筋はしっかり残っていますが、廃道ゆえに放置された倒木が散見されます。




5分ほどでかつての橋跡に着きました。何橋と呼ばれていたかはわかりませんが、現在の間袋橋の先代に当たります。なかなか立派な石積み橋台です。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

間袋橋の駐車場所まで戻ってきました。これで今回の探索は終了です。


今回探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

比較用で戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

小さな集落同士を結ぶ峠道なので、豊根村誌やネット検索でもこれといった歴史・地理に関する記事は見当たらず、深い掘割道の建設理由や時期なども含めて峠道のこと自体は何もわかりませんでした。

ひとまずは「峠道」という実物を辿ることはできたので、その内、何か資料が見つかるといいですね。
Posted at 2024/08/31 15:20:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年08月29日 イイね!

【豊根村】間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました(1)

2024年4月20日土曜日、北設楽郡豊根村大字古真立の間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました。

こちらは戦前の地形図。赤線が今回探索を試みた峠道です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

さて、この峠道を探索してみようとしたきっかけです。以前に豊根村と旧富山村の村境にある「辞職峠」こと霧石峠の探索をしたわけですが、次は豊根村の中心地である下黒川と霧石峠を結ぶ道をどこか探索してみようかと思い立ち、手始めに間袋と小田を結ぶ峠道を選んだわけです。

あとは地形図を見て、この峠道の間袋側に「社坂」という名前が付されていたことも興味を引きました。

今回は間袋側から探索を始めることとしました。ここは愛知県道429号から間袋の集落へと出入りする道路の終点です。


場所はこちら。ちなみに、かつての峠道は現在の地形図には記されていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道路の終点から間袋の集落を眺めています。


間袋の集落について少々記します。豊根村誌によると江戸時代である延宝6年(1678年)の検地の記録では、すでに間袋村として存在していたそうです。峠を挟んだ小田とは、間袋が「本郷」、小田が「枝郷」の関係だったみたいです。

明治9年(1876年)に間袋村は近隣の大立村、小谷下村と合併し、その際に各村から1文字づつを取って「古真立村」となりました(旧村名と違う字を当てている部分もありますが。)。これが現在の豊根村大字古真立につながります。

それでは探索を開始します。戦前の地形図があるとはいえ、5万分の1では詳細な位置取りがわかるわけでもないので、まずは駐車場所から沢沿いに進んでいってみます。

斜面の上に小さな社が見えます。おそらくこれが「社坂」の由来となった社だと思われます。


しばらく沢沿いを進んでみましたが、やがて道筋らしきものが消えてしまったので、ひとまず斜面を登って峠道を探してみることにします。




社の背後まで斜面を登ったところで道筋を発見。辿ってみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

稜線を登っていくルートになりましたが、その稜線には蛇行した堀割道が付けられています。蛇行させることで距離を引き延ばし、その分、直登するよりも勾配を緩くする手法だと思われ、各地の峠の古道でよく見かけます。






この辺りから稜線を外れ、等高線に沿うようにして緩やかに斜面を登っていきます。崩れてしまってちょっと危ない個所もあります。




斜面の下方から作業用モノレールが合流してきました。モノレールはこの先でほどなく終点となりました。


厄介な崩落箇所に遭遇。写真だとあまり感じませんが、崩落部分が谷底まで到達しています。高い場所が嫌いな私は、横断を決意するまでにしばらく時間が掛かってしまいました…。


横断後に振り返っての眺め。ほんの数mの距離を横断できずに引き返す羽目になったことは何度もありますからね。


峠道が消えてしまいました。沢の対岸へ向かった様子も見られないので、もうしばらく頑張って斜面を進むことにします。


杉に巻き付いた太い蔦(蔦でいいのかな?)。


奥へと進むほど斜面が荒れていて、少し進むだけでも安全なルートを考えたり、足場を作ったりと、なかなか時間を要してしまいます。


ようやく沢へと出てきました。対岸に峠道の続きがあり、この場所で沢を渡って折り返していたようです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸へと渡って登り始めると、またすぐに折り返しがあります。


ここからは急坂で一気に登っていくようですね。




道らしく見えますが、地面のあまりの荒れ方と急坂に段々と「このルートでいいのかな?」と疑念が湧いてきます。




見上げるような地形になったところで、つづら折りの道が見えてきました。その場へ行くまでは道である確証はないのですが(道のように見えて実は自然地形だったというのもまたよくある事なので。)、期待させる要素は十分です。


これは間違いなく峠道ですね。一安心です。


つづら折りの坂を登り詰めていきます。








「ここが峠なのかな?」という場所へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上へと上がるとまだ先へと登り坂が続いていました…。


どうやら幅のある尾根地形を進んでいるようです。




ふと、視界の右側に石碑が立っていることに気が付きました。


「名号碑か何かか!」と喜び勇んで接近したところ、「講和記念林」と彫られていました。昭和27年(1952年)の日付も彫られているので、おそらくサンフランシスコ平和条約締結を記念して植樹された植林地を示す石碑でしょう。


ちなみに私が住む安城市内には「講和記念」と親柱に刻まれた橋が存在します。

石碑の裏面は記念林の所在地と面積が記されていました。


「名号碑じゃなかったか…。」と少々ガッカリしつつ、先へと進んでいきます。




折り返しが現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

頭上には高圧線の鉄塔が立っていました。


※その2へ続く。
Posted at 2024/08/29 18:13:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年05月26日 イイね!

【豊根村】富山漆島から始まる霧石峠への峠道を探索しました(踏破)

2024年3月10日日曜日、北設楽郡豊根村富山漆島から始まる霧石峠の峠道を探索してきました。この峠道については、2月18日に峠道の入口と入口付近の峠道を下見。3月2日に下見を踏まえて峠までの探索を試みましたが、下見時に引き返した小崩落地を越えられず撤退しています。

豊根村富山漆島の駐車場所へとやって来ました。この場所に駐車するのは3回目ということになります(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場所から歩くこと1時間。前々回、前回と引き返した小崩落地へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上にも下にも迂回できなかったこの小崩落地。今回は万古集落の探索時に道修繕で使用した草刈り用の鍬を持参。「斜面を掘っては足踏みして地固め。」という作業を地道に繰り返して道を造作。50分ほどかかりましたが、安心して通過できる道ができ上りました(笑)。




3回目にしてようやく小崩落地の先へと進むことができました。ただし、この先はもう安心して進んでいけるという保証は全く無いんですよね…。


と言いつつも、まずは順調に進むことができています。




ガレ場が現れました。でも、踏み跡もありますし、この程度の傾斜なら問題はないでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ガレ場の先にちゃんと道筋が続いているのが見えていることも安心材料です。


利用されなくなってから長い年月が経っているので、道筋が残っていても細く歩きにくい箇所が次々と現れます。


ふたたびガレ場が現れました。


先ほどのガレ場よりも傾斜はややキツいですが、ここも踏み跡が付いていて何とか進めそうです。




ガレ場を見上げると、相当上部まで石で埋め尽くされています。


ガレ場に対岸に来ましたが、道筋が瘦せていて取り付くのが面倒そうです。


谷側(右側)はけっこう落ち込んだ地形になっています。


ここも軽く崩れていますね。でも奥に道筋が続いてはいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

で、足元は路面が崩落しています…。「ここで終了か?」とも思いましたが、よく見れば岩には足場になる段差があり、太くて手すり代わりになる根っ子も露出していたので、ゆっくり慎重に下りて通過することができました。


通過してから振り返って撮った写真です。たまたま通過できましたが、こういう場面はもう出てきてほしくないですね…。


見上げるような急坂を登っていきます。


木々の隙間から山々を眺めます。


唐突ですが、前々回で霧石峠の別名が「辞職峠」ということを記しています。

富山村へ赴任する役人や教員などは、別所街道(奥三河の主要街道)が通る隣村の豊根村から徒歩で向かったと思われますが、豊根村の中心地から富山村へ向かうには、最短ルートでも小田峠、小田~間袋の間の峠、霧石峠と3つの峠を越える必要があります。

最後、村境となる霧石峠を登り、それでもなお奥深い山々が連なるこの景色を見れば、霧石峠で辞職を申し出たくなるのも仕方がないのかなと感じました。

さて、道筋がはっきりしない斜面へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

正面方向に道の跡らしき薄い踏み跡が付いています。


一方、折り返す方向にも、細いながらも前方よりは明瞭な道筋が付いています。ここはひとまず折り返し方向へと進むことにします。


少し歩くと道筋がはっきりしてきました。こちらの方向で正解だったようです。


地面に落ちていた碍子。電柱とか見当たらないですけどね。


岩場の中を通り抜けて道筋を進んでいきます。




厄介な場所が現れました。細い踏み跡は残っていますが、踏み外すと危険な斜面です。しかも地面が硬くて、切り拡げたくても持参の鍬では歯が立ちません。


この場所を帰路で通る時のことも考えて、長靴で地面を何度も蹴っ飛ばして足場を作っておきました。


道筋は斜面を巻いていくように進んでいきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、この場所に苔むした木造の電信柱が1本残っていました。昔はこの峠道が豊根村と富山村を行き来する唯一のルートだったので、この峠道に沿って電話線などが通っていたとしても当然の事だったと思います。


斜面に小さな水の流れが亀裂のように付いている場所をいくつか越えていきます。このような場所もけっこう越えるのが厄介でした。


標高が高く日陰のために地面が凍っていたからです。これまた持参の鍬が役に立たず、ここでも長靴の踵で地面をキックして足場を確保しながら、一歩づつ慎重に進むしかありませんでした。


谷底を流れていた沢にだいぶ近づいてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸に石垣で囲まれた区画が見えます。お堂が建っていたのか、避難小屋でもあったのか。


正面方向が行き止まりとなったため、沢を渡って対岸へと移動します。




先ほど見ていた石垣の区画の上の斜面を登っていきます。


斜めに残る細い道筋と霜柱に埋め尽くされた硬い斜面に泣かされながら進みます。


ガレ場が現れました。今までで一番傾斜がキツいガレ場です。


石が散らばる硬い斜面。非常に厄介です…。ここも長靴で地面を蹴り飛ばして足場を築きながら、少しずつ前進していきます。


10分かけて、ようやくガレ場を通過。


またガレ場が現れましたが、この程度なら大丈夫ですね。


石がゴロゴロする斜面。杉の枝も覆いかぶさり、石と杉の枝の両方に足を取られます。ヨタヨタしながらも、転ばないようにゆっくりと歩いていきます。




深く抉れたガレ場に出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ガレ場を横断してみましたが、その先には道筋を見い出すことができませんでした。真上を林道が通っているので、林道からの土砂で埋もれてしまったのかもしれません。


峠道の探索はここで断念。急斜面を直登して、林道へと脱出しました。


廃道と化した林道を歩くこと15分。霧石峠に到着しました。周囲は鬱蒼とした植林地で展望は無く、ここまで苦労した割には特に感慨はありませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は14時50分。日暮れとなる17時30分頃までには車へと帰着する必要があります。しかし、あの状態の峠道を戻ることはもうしたくありません。

この時点で迂回路案は2つ。1つは林道豊富線を北へと進んで霧石トンネルまで行き、そこから県道を漆島まで戻る。もう1つは林道豊富線を南へ進み、途中から東へと方向を変えてニセ日本ケ塚山へと至り、そこから登山道で漆島へと戻る方法です。

検討した結果、距離を考えてニセ日本ケ塚山経由で戻ることにしました。地形図では、ニセ日本ケ塚山へと向かう途中で道路の表記は消えてしまいますが、なだらかな尾根が道路の末端とニセ日本ケ塚山の間をつないでいるので、行けると判断しました。

霧石峠から40分ほど歩いてきました。奥にニセ日本ケ塚山が見えています。「まだあそこまで歩くのか…。」と少し気持ちが萎えました(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

細尾根もありましたが、歩くには十分な幅があり助かりました。


ニセ日本ケ塚山への取り付き。しがみつくように登る斜面でしたが、新しいロープも張られており、地形図に無くとも一応登山ルートにはなっていたみたいです。


16時10分、やっとニセ日本ケ塚山に到着です。しかし、残雪があるのは誤算でしたね。無事に降りられるのか…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

頂上で危惧したとおり、尾根道部分はアイスバーン状態…。平らな部分はまだいいんですが、この登山道の坂区間は急峻過ぎて、木々にしがみつきながら必死に下っていくしかありませんでした…(もちろん写真を撮る余裕など無し。)。


1時間20分かけて無事に登山口へ到着。なんとか日暮れ前に麓にたどり着きました。


登山口からもう少しだけ歩き、ようやく車に戻ることができました。


今回の探索のルート図です。探索距離9.8km、行動時間7時間30分と、久しぶりにハードワークな探索行になりました…。でも、距離的には復路となる部分が4分の3占めていますけどね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、ここからは霧石峠に関する地誌類の記述などを記しておきます。まずは「豊根村誌」です。

霧石峠を通る道については、「津具・粟世・河合道」として紹介しています。この道は、「伊那街道の上津具宿(現:北設楽郡設楽町津具)から分岐し、見出ー柿ノ沢宇連ー坂宇場(現:豊根村坂宇場)を経て宝地峠に登り、粟世(現:豊根村三沢粟世)で下街道(遠州街道または金指道。後世の別所街道の旧道。)と交差して、山内ー霧石峠を経由して漆島に達する道である。」とあります。

霧石峠については、「特に険阻で、『辞職峠』と呼ばれたほどである。霧石峠から郡役所(北設楽郡役所。設楽町田口にあった。)までは35km近くあった。」とあり、ここで「辞職峠」の別名が出てきます。

また、郵便輸送について、「豊根村では明治9年(1876年)4月に現在の豊根郵便局の前身にあたる中久名村郵便取扱所が大字下黒川字下中に県内百二十番目の曲として開局された。(中略)郵便局の開設により本村と本郷(現:北設楽郡東栄町)・市原(現:豊根村富山市原)の間に、郵便脚夫による一日一往復の郵便物の逓送便が設けられた。」とあり、おそらくこの逓送便の脚夫は霧石峠を往来していたでしょう。

続いては、「失われた祭」という富山村教育委員会が平成3年(1991年)2月に発行した本です。

「(前略)明治以降の状況はかなり明確に知られているが、道路は人と人の背による交通運輸のみで、霧石峠越えの豊根方面を第一にして、東又越えの新野(現:長野県下伊那郡阿南町新野)方面を第二とした。その他、佐太地区から坂部を経て天龍川沿いに満島(現:下伊那郡天龍村)に出るもの、川(天竜川)を渡って水窪(現:浜松市天竜区水窪町)方面と交通するものがあった。行商のほとんどは豊根方面から入り、新野方面からは米が人の背で入れられたが、こうした道路利用は鉄道開通後激減した。」

旧富山村の最寄り駅となる三信鉄道(現:JR飯田線)大嵐駅が開業したのが昭和11年(1936年)12月。それまで旧富山村が他村と交流するためには、人しか歩けないような峠道を往来するしかなく、その中の一つとして霧石峠越えの道があったわけです。

ここで本題から少し外れますが、鉄道が通っていたのは天竜川対岸のため、どうしても橋を渡る必要がありました。この橋が人一人通れるだけというものだったそうで、やはり人の背で運べる以上の輸送手段は利用できず、鉄道開通がただちに旧富山村の交通事情の全面的な解決に役立ったという訳ではなかったようです。

その他には、旧富山村の主要な集落の一つであった河内地区(佐久間ダムの完成により水没。)の概況の文章に、「この河内集落への主な出入口は三箇所。一つは漆島側からのもので、集落の北側にあり、道路としては最も古いものであった。豊根村・東栄町などの郡内、さらには新城・豊橋などの三河国へと繋がる道であり、河内郷を拓いた多田氏が曽川から入って来たのもここであったろう。ところが、この道は、辞職峠といわれた難所な山道であったことと、経済に直結する市場などにも遠かったことから、近世以降行政の連絡路としては重要であったが、一般的には利用されることが少なかった。」とあります。

霧石峠越えの道は歴史的に古く、北設楽郡内や隣町村をつなぐ行政上の連絡路としては重要だったようです。しかし、一般的な利用は前述のように行商が往来するくらいで、近世以降は天竜川の水運や鉄道が主だったのかもしれません。

そして、昭和31年(1956年)に佐久間ダムが完成。このダムの完成により旧富山村は主要集落の水没という大きな損害を受けたわけですが、それと引き換えに村外と直接往来できる自動車道が天竜川沿いに開通したと思われます(豊根村のホームページには湖岸道路(現在の県道1号)の完成は昭和45年(1970年)とある。)。

それから、霧石峠にもようやく昭和49年(1974年)に峠の北方4~5kmの場所に霧石トンネルが完成。これで豊根村と旧富山村は直接自動車で往来できるようになったわけです。

それを考えると、単純に50年前には霧石峠を歩いて往来する必要は無くなり(たぶんもっと以前から途絶えてはいたでしょうが。)、その後はただただ荒廃して現在の峠道の姿になったのでしょうね。

※ひなたGIS引用


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2024/05/26 12:11:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記

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