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小林あにのブログ一覧

2025年04月13日 イイね!

豊田市梨野町内の古道を少し歩いてきました

2024年8月24日(土)、豊田市梨野町内の古道を下見がてら少し歩いてきました。

さて、もともとこの日は特に予定はなく、「ぶらっと三河の山の中をドライブしてくるか。」と出かけてきました。自宅から額田郡幸田町・岡崎市本宿町と経由して、豊田市阿蔵町までやって来ました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここの国道沿いには、古そうな石碑が立っております。ずっと昔から存在は知っていましたが、いつも素通りしていたので、今回は立ち寄ってみました。


まず一つ目。「丹後国文殊芥」と彫られています。何を表すのかはわかりませんが、「丹後国・文殊」で検索すると「日本三文殊」の一つである「智恩寺」がヒットします。もしかしたらこのお寺へ参拝したことを記念した石碑なのかもしれません。


二つ目は「奉納 四国 西国 秩父 坂東 神社佛閣順拝供羪塔」。いわゆる百八十八番供養塔と呼ばれるものですね。四国88か所、西国33か所、秩父34か所、坂東33か所の合計188か所の霊場を巡礼した記念に立てられる供養塔です。


三つ目は「三峰神社」。これは埼玉県秩父市三峰にある「三峯神社」のことでしょう。石碑の下部には同社の信仰を象徴する「山犬」が彫られています。


石碑を見終えて、「ここまで来たなら、ついでに梨野からの古道を少し探ってみるか。」と思い立ち、豊田市梨野町へと移動。梨野の集落から少し外れた場所から、古道が通っていたと思われる林道へと入り込んでみます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみにこちらは戦前の旧版地形図。現在の国道420号は、梨野から豊田市足助町へ向かって大見川に沿って進んでいますが、梨野から足助方面へはさらに並行するように尾根道が通っていて、これを少し探ってみようという訳です。

※ひなたGISより引用。

林道をしばらく歩いていくと、古道らしい道が分岐しているのを見つけ、そちらへと進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

思っていたよりもきれいに道筋が残っています。




ふたたび林道へと出てきました。おそらく古道はこの林道と交差する形で通っていたはずなので、右側へと分岐していく道筋を探します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道に切り崩された斜面に道筋らしきものが残っていたので、入り込んでいきます。


しばらくすると、ふたたびはっきりした形で掘割道が現れました。周囲の地形に対して道筋が深く掘り込まれていて、かつてはこれだけの労力をかけるだけの利用があったことが想像されます。






ちょっとした峠に出てきました。ここから先は作業道へと改変されていました。


峠からしばらく歩くと、右側へ踏み跡と思しき窪みが分岐していたので、少し辿ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応、道らしき浅い窪みが続いていましたが、やがて消えてしまったため、作業道へと戻りました。


そして、歩いてきた作業道も林道へと合流。


この先はしばらく林道が続くようで、前方では山仕事をしている作業音が聞こえていたこともあり、この交差点で引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道入口の駐車場所まで戻ってきました。


今回はドライブのついでにちょっと立ち寄っただけなので、軽装で靴も普段履きのままでした。この古道を踏査しようとすると10km以上は歩くことになるので、次回はきちんとした格好で、必要なものも持参した上で来る必要があります。

ただ、林道への改変が進んでいるようなので、歩き通すより、地形図に載っていない箇所で古道をつまみ食いする方が面白味があるかもしれませんけどね。
Posted at 2025/04/13 17:13:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年02月15日 イイね!

【岡崎市】千万町坂の旧道探索と寸五郎坂の探索

2024年8月3日土曜日、岡崎市の千万町坂の旧道探索と寸五郎坂の探索をしてきました。

やって来たのは、岡崎市千万町町にある愛知県道333号の駐車帯。ここから千万町坂・寸五郎坂と巡っていく予定です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは旧千万町小学校。現在は廃校となり「千万町楽校」と名付けられ、地域再生の拠点施設として利用されています。


県道333号と334号の交差点へ来ました。ここで右折し、県道334号へと進んでいきます。


路肩に10%の勾配標識が現れました。この先から始まる「千万町坂」は、愛知県下にある激しい急勾配の坂の一つとして、自転車乗りの方々に愛用されるコースとなっているようです。時々、自転車乗りの方が峠付近の路肩でへばっていたり、寝転がっているのを見かけます(笑)。


峠付近は深い切り通しとなっています。これだけ深い切り通しだと車道開通以前の旧道がありそうですが、見つけることはできませんでした。


さて、切り通しを通過したところで県道334号を外れて、右側の路肩へと入り込んでいきます。この地点を旧道が通過していたという確信は全然無いのですが、取りあえず突っ込んでみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何となく道筋らしいものが見えているので、辿っていってみることにします。




砂防ダムが現れました。よく書いていることですが、砂防ダムは土砂の堆積により周囲の地形をかく乱してしまうので、廃道探索的には困ってしまいます。


砂防ダムの下流側を眺めると、道筋らしきものが見当たらなくなってしまいました…。まあ、本当にこの沢筋を千万町坂の旧道が通過していたのかは不明なのですが。


砂防ダムの表面には型枠の板の跡がくっきりと残っていて、設置時期は古そうです。銘板を見ると昭和43年(1968年)設置でした。


険しい沢筋が続くだけで、道筋らしきものの痕跡はありません。


炭焼き窯らしき窪みが残っていました。


また砂防ダムが現れました。


砂防ダムを越えると道筋が現れました。ただ、千万町坂の旧道だという確証は得られません。


またも砂防ダムに遭遇します。


砂防ダムから左側へと道筋が付いていたので、そちら側へと進んでいきます。


結局、千万町坂の旧道を見つけることができないまま、県道334号へと再合流しました。ここは素直にあきらめて、このまま寸五郎坂へと進むことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

千万町坂で最も急勾配であることを示す16%の勾配標識。


寸五郎坂の入口へとやって来ました。ここで右折します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

舗装されていますね。路肩に「聖子花姫大神奥宮水神」と書かれた案内板が立っています。この先に神社でもあるのでしょうか。


舗装路ですがとんでもない急坂です。なまじ路面が滑らかなので、足を水平に置ける取っ掛かりが無く、歩いて進むにはかえって辛い状況です(笑)。


車道の終点に来ました。ここから先は徒歩道となるようですが、地道ではなくコンクリート舗装されています。


徒歩道になっても急坂が続きます。




橋が現れました。橋の下には石積みの橋台がありますが、現在架かっている橋に比べて幅広なので、かつてはもう少し立派な橋が架かっていたのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋を渡った先からは地道になります。


この橋を渡るとすぐに右側へと登っていく階段があります。この階段を登ると寸五郎坂の入口に立っていた案内板の神社へ行けるようです。この橋まで舗装されていたのは、神社への参拝客の利便を図るためなのでしょう。

この沢筋にも砂防ダムがありました。右側の斜面へと取り付いて、砂防ダムを越えていきます。


砂防ダムを越えると、寸五郎坂はすぐにつづら折りとなっていました。




道筋の前方がシダ類で覆われています。以前に斜面が崩れたことがあるのでしょう。


寸五郎坂はここで沢筋を離れ、折り返して斜面を登っていきます。






ここは幅広の道筋がきれいに残っています。


また折り返して進みます。


峠までもう少しです。


寸五郎坂の峠に到着しました。峠の名前は不明です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠にある「宮崎音頭」の碑。裏面に彫られた碑文によると、昭和10年(1935年)に立てられたようです。宮崎は現在の岡崎市宮崎町になります。


この寸五郎坂、かつては峠の西側にある木下(きくだし)の集落の子供たちが、宮崎にある学校へと通うための通学路として利用されていたそうです。

山の子供たちが通学路に使っていたという峠道は、往々にして険しい道のりであることが多いですが、この道もまたご多分に漏れない道ですね(笑)。

通学路として使われている訳ですから、木下と宮崎の間の日常の交流にも当然利用されていたわけで、このような石碑が峠に立てられていても何ら不思議はありません。

大きなヤマザクラの木。


峠方向を振り返っています。私は右側の道から歩いてきましたが、左側の道を通っても再び寸五郎坂へと合流することができます。


山の中にこのような石積みが残っていると炭焼き窯の跡かと思ってしまいますが、これはどうも違うような感じがします。


ふたたび舗装路になった寸五郎坂を進んでいきます。峠から木下側は、宮崎側と違って緩やかな坂となっています。




県道333号へと出てきました。あとは県道を歩いて車へと戻っていくだけです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路肩に祠がありました。


石仏を眺めます。


路肩にヤギの群れがいました。多分、「草刈り」用に放牧されているのでしょう。


また石仏が立っていました。この県道も何度も何度もドライブで通っていますが、路肩にこれだけ石仏が立っていたとは気が付きませんでした。








木下の集落にある秋葉山常夜灯と火の見櫓。


ラリージャパン開催時にはレッドブルのゲートが立てられていたコーナー。2024年開催時はSSルートが変更されたため、設置されなかったようです。


またまた石仏を見つけました。これも今まで全然気が付きませんでした。




県道から右斜めに細い道が分岐しています。旧版地形図によると、どうやらこの道は川沿いを通る県道の旧道に当たる道のようです。ショートカットにもなるので、確認してみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠へ向かい直線的に道筋が続いています。




峠まで出ることができました。きちんと切り通しも設けられています。




緩やかに登ってきましたが、峠から進行方向を見下ろすとけっこうな高さがあります。


一気に県道近くまで下ってきました。この先で県道へと飛び下り、車へと戻りました。


今回探索したルートの全体図です。


今回、千万町坂の旧道についての探索は失敗でした。どうやら、私が道を外れた場所よりもさらに進んだ場所から旧道は分岐していたようです。

寸五郎坂は随分以前から存在は知っていましたが、他の訪問者のブログなどで道の概要を知っていたので、なかなか訪れることはしませんでした。今回ようやく訪れて、知っていた情報を追試したといったところですね。
Posted at 2025/02/15 23:57:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2024年11月29日 イイね!

中央自動車道「談合坂SA付近の廃道」へ行ってきました。

2024年7月6日土曜日、弟の誘いで山梨県上野原市にある中央自動車道談合坂SA付近の高速道路の廃道を見に行ってきました。

当日は、豊田東ICから東海環状道に乗り、中央自動車道へと乗り継ぐルートで現地へ向かうことにしました。

さて、そのまま大月ICまで行っても良かったのですが、せっかくなので寄り道。一宮御坂ICで下りて、国道20号を走行。途中で山梨県道212号へと入り、笹子峠への旧道を登っていきます。

笹子隧道の甲州市側坑口に到着です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

笹子隧道の開通は1938年(昭和13年)。このトンネルが開通するまでは、笹子峠を自動車で越えることはできませんでした。


1938年という古い時代の開通ではありますが、甲州街道という幹線道路に造られたトンネルと考えると内径が小さいですね。幅3.0m、高さ3.3mしかありません。昔の車両が今よりも小型だったとしても、対面通行できるくらいのサイズで建設しても良かったのではと思います。


ただ、戦前に発行された「本邦道路隧道輯覧」には、有効高4.0m、有効幅員4.6mとあります。トンネルを見るとアーチ部分が二重になっており、後年に補強のためアーチ部の巻き立てを追加施工したのかもしれません。

笹子隧道の扁額。


トンネルの延長は239m。この狭さなので、反対側から車両が来ていないことを確認してからでないとトンネル内へと進入できません。


トンネルの少し手前には、旧甲州街道が県道を横断しています。


少し旧甲州街道へと入り込んでみます。


石仏がありました。


峠へと向かって、幅広な掘割道が続いていました。今回はここで引き返します。


大月市側の坑口へとやって来ました。


こちら側の坑門は西洋風なデザインとなっていて、ピラスター(壁柱)も装飾されています。開通当時も煉瓦調の色彩を施されていたのかは不明です。


大月市側の扁額。


笹子隧道の説明板。




笹子隧道はこれくらいにしまして、本来の目的地である談合坂へと向かいます。

時刻は13時過ぎ。中央自動車道談合坂SA付近の高速道路廃道に到着です。ここは廃道の東側末端部になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応、高速道路らしい雰囲気が残っていますね。しかし、暑い…。


左側が高速道路の廃道、右側が高速道路の現道になります。


階段を下りて、廃道下のガードへと来ました。鬱蒼としていますね…。


「相模湖16」のプレートが付いています。


通行人がいそうな場所ではありませんが、このガードも内部はきれいです。しかも照明が点灯しています。


反対側へと出てきました。周囲に目に留まるようなものは特になかったので、すぐに引き返しました。


最初に駐車した場所から西側へと移動してきました。


跨道橋から廃道を眺めます。先ほどの場所よりも、より強く高速道路の面影が残っていますね。そして、左側を並行する道路は、高速道路の車線をそのまま転用したわけではなく、やや位置をずらして敷設されたことがわかります。


廃道の西側末端部を眺めます。廃道と現道をつなげてみると結構な急カーブになりますね。この急カーブは廃道部分が廃止された理由の一つなのかもしれません。


こちらは道路脇に残された注意看板。「この先急カーブ」とあり、東側の合流地点も急カーブだったことが窺えます。


これくらいにして、現地から引き揚げます。名神高速道路今須トンネルの廃道よりも見どころはありましたが、ワタクシ的には、特別印象に残るという場所でもなかったですかね。

それよりも、中央自動車道が通過しているルートに寄り添うように、旧甲州街道が通っていたとわかったことの方がインパクトがありました(笑)。

こちらは旧甲州街道の恋塚一里塚跡。




場所はこちら。現在の甲州街道である国道20号からは、随分とかけ離れた場所に存在しています。というか、同じ地形図内に国道20号は通っていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは戦前発行の地形図。赤線が旧甲州街道ですが、山の中腹を縫うように通過していたことがわかります。何らかの事情があって桂川沿いを避けたのか、距離短縮のために山の中腹を通過していたのか。どういう理由だったのでしょうかね。

※25,000分の1地形図「上野原」:昭和4年(1929年)測図。

最後の寄り道は、大月市にある「日本三奇橋」の一つ「猿橋」。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋は「刎橋」(はねばし)と呼ばれる形式で架けられています。橋台部となる岩に穴をあけて木材を重ねるように差し込み、上の木材をよりせり出させることで、橋脚を建てることが困難な深い渓谷でも架橋することができる技術です。




現在の橋は1984年(昭和59年)に鉄骨造りで架け替えられたものですが、ネット検索すると木造時代の猿橋の写真を閲覧することができます。

こちらは、猿橋の下流側に架かる八ツ沢発電所第一号水路橋と国道20号新猿橋。


上流側に架かる旧国道の新猿橋。1934年(昭和9年)の架橋です。新猿橋が架橋されるまでは、猿橋が国道の橋としても利用され続けていたわけです。


八ツ沢発電所第一号水路橋。この水路橋は、大正期に建設された大規模な水力発電施設である八ツ沢発電所の施設群の一つとして、重要文化財に指定されています。






さらにこの場所には、旧中央本線の廃トンネルも残っています。どうやったら接近できるのか確認はしていませんが。


帰りは大月から国道139号を通り、本栖湖からは国道300号に入って身延へと出て、中部横断道・東名高速道路を通って帰宅しました。

晩御飯はお決まりの牧ノ原SAで(笑)。
Posted at 2024/11/29 00:00:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2024年11月26日 イイね!

名神高速道路「今須トンネル廃道」と関ケ原鍾乳洞

2024年6月30日日曜日、弟の誘いで岐阜県不破郡関ケ原町にある名神高速道路の廃道を見に行ってきました。

この廃道は、現在の名神高速道路今須トンネルの旧道に当たります。途中に半径280mの急カーブが存在するために、1964年(昭和39年)の開通以降、交通事故の多発地帯となっていました。1978年(昭和53年)、新たに現在の今須トンネルを経由するルートが完成したことにより廃止されました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

弟によると、今回この場所を訪れることにしたのは、YouTubeでこの廃道を紹介した動画を見て、行ってみたくなったからだそうです。

現地へとやって来ました。あいにくの雨模様ですが、散策する分には問題ないでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、現在の地形図には残存しているガードが表記されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

盛り土部分は取り払われて、コンクリート構造物が露出した状態となっています。


車1台が通過できる程度の幅ですね。


「彦根117」のプレートが残されています。


反対側の出入口には木が茂っているので、現状、車での通行には難ありです。


こちら側にも「彦根117」のプレートが残っています。


車では反対側へと出られない状態ですが、ガードの内部は利用されているかのように、まずまずきれいな状態を保っています。


この場所から徒歩でかつての高速道路のルートをだどってみます。


坂を下った所で右折するとコンクリート擁壁があります。これも高速道路の構造物の名残りなのでしょうか。


ふたたび直進ルートへと戻り、先へと進んでいくと橋を渡ります。舗装路の左側の砂利道がある高台が、かつての高速道路になります。


これといった遺構が見当たらないまま歩を進めていくと、廃鉄道車両を見つけました。


車掌車と貨車の合造タイプですね。形式はわかりませんけど。




名神高速道路との合流地点まで来ました。結局、「彦根117」ガード以外、はっきり遺構だとわかるものは確認できませんでした。


合流地点にある現道のガードは「彦根114」。ということは、廃道区間にあった「114」から「116」のガードは撤去されたということなのでしょう。


これにて廃道区間の散策は終了。車へと戻ります。


「まだ時間も早いし、どうするかね。」ということで、同じ関ケ原町内にある「関ケ原鍾乳洞」へ行ってみることにしました。

こちらは鍾乳洞への道路の路肩に立つ「立哨台」。実は鍾乳洞がある敷地、戦前までは陸軍の火薬庫がありました。




こちらは周辺の戦前の地形図ですが、火薬庫の記載はありません。軍事施設なので、載っているはずがありませんけどね。

※25,000分の1地形図「關原」:大正9年(1920年)測図。

こちらは第5火薬庫。


表に説明板が立っています。


見学できるので中へと入ってみます。雨天のため、庫内はかすかに靄っています。


庫内に設置されている各種説明板。








火薬が保管されていた庫内を覗きます。火薬があっただけのはずですが、戦前の軍事施設だと思って見てしまうと、何とも言えない気分になります…。


外側を振り返って見ています。人が出入りした区画の壁面は白く滑らかに塗られていますが、当時のままなのか補修されたものなのか。


さて、それでは本題の鍾乳洞へと潜ります。子供の時以来ですかね。もうはっきりとは覚えていません。昔はテレビCMもやってました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここは、洞内がとにかく狭い・低いです。あとは、人工的に掘削した区間が長いみたいですね。




洞内の様子です。










外へと戻ってきました。店舗が昭和チック丸出しで、ある意味和みます(笑)。


店内で地元の方々が作っている蕎麦をいただきました。


この後は、関ケ原町からいなべ市へと抜けて伊勢湾岸道で一旦帰宅。あらためて弟と二人で行きつけの焼肉屋へ出かけて、晩御飯を食べました。


Posted at 2024/11/26 21:08:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2024年02月01日 イイね!

【奈良県十津川村】「筏師の道」を東野集落跡まで歩きました

2023年11月18日(土)、奈良県吉野郡十津川村を流れる立合川の右岸に残る木馬道を探索してきましたが、予定よりも早く引き返すこととなったため、合流した「筏師の道」を歩いて東野集落跡まで足を伸ばすことにしました。

立合川右岸の木馬道と「筏師の道」の合流地点。このまま直進方向へと進んでいきます。


合流してすぐの地点で、山側から大量の礫が道筋へと流れ込んでいます。滑って転ばないように踏みしめながら、ゆっくりと通過していきます。




古道に立つ金属製の電柱。場違いな建造物ですが、昔はコールタールに塗られた木製の電柱が立っていたのでしょうね。


古道を歩いていると石畳を見ることはありますが、石段を設けている場所はまず見ることがありません。牛馬が歩くには邪魔そうですし、この道はもっぱら人が歩くことだけを想定していたのかもしれません。


この辺りは滑らかな壁面の岩が本当に多いです。


岩がゴロゴロした枯れ沢。道と沢の間に段差が無いので、多分、元から橋は架かっておらず、沢の中を渡っていく感じのようです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石段の道を登っていきます。


ここも山側から岩が流れ込んでいます。ハイキングコースとして使われている道なので、路上部分の岩は取り除かれています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

急坂のためか、ここにも石段があります。


現れる沢はどれも岩がゴロゴロとした枯れ沢ばかり。標高はさほど高くはありませんが、急峻な地形のせいなのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣道でさらに坂を登っていきます。


道の状態は立合川の木馬道に比べれば全然問題ありませんが、周辺住民のかつての生活路だったと見ると、やはり険しさは否めません。








ここもなかなかにキツイ急坂です。


眼下に廃屋が見えています。どうやら東野集落跡へと着いたようです。


こんな山奥になぜかダム放水の注意看板が立っています。


シダに覆われた斜面の上にも家屋が見えています。見る限り、こちらも廃屋になっているようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

集落跡の中の道を進んでいきます。廃集落なので人がいないのは当然ですが、家屋が管理されているとか耕作されている畑があるなど、他所から誰か通ってきているような様子も全くありません。






集落跡内の様子を眺めつつ、「筏師の道」をどんどん登っていきます。






路傍の石垣の上に墓碑か石碑と思しきものが立っていました。碑文などの内容についてはっきりと読み取ることはできませんでした。


近畿自然歩道の案内標柱。


頭上に立派な石垣が見えています。何か遺構が残っているかもしれません。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣の上に来てみるときれいに更地になっていて、残念ながら建物の遺構はありませんでした。


わずかに生活用品の残骸が転がっています。




尾根の稜線が見えてきたので、もうひと踏ん張り急坂を登っていきます。尾根越しに冷たい風が吹き下ろしてきて、歩いていても寒くてたまりません。




尾根に出ました。ここは通称「東野峠」と呼ばれているようですが、昔からある地名ではないような記述もあります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図を見ると、東野集落跡から北側へと向かう道と合流できそうなので、そのまま尾根伝いに北側へと進んでみることにします。




モノレールが合流してきました。森林管理用か送電線管理用かわかりませんが、現在は使用されていないように見受けられます。




東野集落跡から来た道と合流しました。この道を通り、東野集落跡へと戻ることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひたすら一直線に東野集落跡へと下っていきます。ここで急に雨に降られ、冷たい風と相まって凍えそうでした。


東野集落跡へと戻ってきました。車社会の現代で、険しい山道を徒歩でしか来ることのできない山奥の集落では、遅かれ早かれ廃集落となる運命だったでしょう。


「筏師の道」を立合川方面へと戻っていきます。




立合川右岸の木馬道との合流地点まで戻ってきました。帰りはこのまま「筏師の道」を進んでいきます。


やはり気楽に歩ける道ではないですね。




眼下に北山川の流れが見えています。昔は多くの筏が新宮の街を目指して北山川を下っていきました。そして、その筏を操った筏師が新宮の街から地元の山へと帰るために通った道がこの「筏師の道」なのです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

立合川に架かる吊り橋「有蔵橋」に来ました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道169号立合川橋まで登ってきました。時刻は15時20分ですが、日射しはすっかり夕暮れです。


15時25分、駐車場所に到着しました。


今回歩いた「筏師の道」のルート図です。あらためて地形図を見ると、東野集落跡がいかに孤立した場所に存在していたのかよくわかります。新たに開通した国道169号も、集落跡のある山を長いトンネルで通過しているだけですからね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2024/02/01 22:46:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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何シテル?   06/12 23:30
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