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小林あにのブログ一覧

2025年11月21日 イイね!

【山口県】鹿背隧道と旧桂ヶ谷貯水池堰堤

2025年10月16日木曜日、山口県萩市にある「鹿背(かせ)隧道」と山口市にある「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」を訪れました。

さて、萩市街地の名所・旧跡を巡った後、山口県道32号を南下。悴坂(かせがさか)峠にある「萩往還トンネル」の旧道へと入ってきました。


車を停めて、徒歩で鹿背隧道へと向かいます。途中、山の上へと登っていく階段が分岐しています。


悴坂峠へと登っていく旧街道「萩往還」です。萩往還は、毛利氏の居城がある萩と瀬戸内海の港町である三田尻(現:防府市)を結ぶために慶長9年(1604年)に整備された街道です。同じく萩と防府を結ぶ国道262号が現代の萩往還とも言えます。


萩往還を分岐してすぐにトンネルが現れました。鹿背隧道です。こちらは南側の坑口となります。


鹿背隧道は、萩往還の後継となる仮定県道の改修工事の一環として明治16年(1883年)7月4日に着工。明治17年(1884年)5月25日に竣工したそうで、延長は182mです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは戦前の旧版地形図です。

※ひなたGISより引用。

扁額です。「鹿背隧衜」と彫られています。「道」ではなく「衜」という文字が使われていますが、「道」の異体字のようです。


トンネル坑内へと入っていきます。トンネルの内部は総石積み。総石積みトンネルで今までに訪れたことがあるのは、伊豆半島の天城山隧道(現役)、愛知県の伊世賀美隧道(現役)、三重県の長野隧道(廃止・閉塞)といったところですね。


一応、一般車両通行可の現役トンネルですが、内部照明は無し。車に常備しているLEDライトを点けて進んでいきます。


古い煉瓦トンネルでよく見かける「白華現象」により、壁面が真っ白になっています。


アーチ部分。記録によると、トンネル内部の石の巻立ては、明治17年(1884年)2月25日から5月26日にかけて施工したとあります。


しかし、トンネルの竣工日は5月25日なので、1日分食い違ってます。巻立ての工事日数は90日間と記載されているので(5月25日までなら90日。)、25日を26日と誤植したのかもしれません。

壁面にフックが取り付けられています。電線か電話線でも通していたのでしょうか。


反対側の坑口へと来ました。




北側(萩側)の坑門です。両坑門は、明治17年(1884年)4月14日から5月25日にかけて施工されています。


こちらの扁額は、苔に覆われてしまって全く見ることができません。


もうしばらく萩側へと進んでいくことにします。


斜面に設けられた石造りの排水溝。こういう造形も好みですね(笑)。


切り通しにある石積みの土留め擁壁。先ほどの排水溝は整形された石を用いていましたが、こちらの土留め擁壁は不整形な石をうまく組み合わせて積まれています。


悴坂峠を越える萩往還の萩側の分岐です。ここで引き返すことにします。


トンネル前まで戻ってきました。手前の切り通しは、少しでもトンネル延長を短くするために掘削されたのでしょうね。


トンネル内の排水溝。建設当時から設けられていたのかはわかりませんが、その可能性は高いかと思います。


壁面に何か所もチョーク書きがあります。トンネルの安全性を検査した際の痕跡でしょう。




アーチ部分の石の大きさが不揃いで、列が歪んでいますね。それでも隙間なくきちんと組まれているので、しっかりとすり合わせて積んだのでしょう。一定の規格で石を整形してから積んだ方が良いと思うのですが、明治時代のトンネルでは時折こんな状況を見かけますね。


壁面に段差がありますね。土圧でアーチに歪みが出てきているのでしょうか。




これも近づいて見てみると、きちんと石を削って滑らかに整えてありました。この箇所の前後でアーチの大きさが微妙にずれてしまって、調整したのですかね。


南側の坑口へ戻ってきました。


このまま駐車した車の前を通過して、もうしばらく先へと進んでみます。




萩往還が分岐していきます。ここから萩往還は谷筋を直線的に通って、麓の明木集落へと向かっていきます。




小さな沢を渡る場所まで来ました。


ここにも石積みが残っています。


逆方向から眺めています。写真ではわかりにくいですが、道幅が狭くて軽四でないと通行しづらいです。


前述のとおり、この道は明治17年までに開削されたわけですが、その後は平成4年(1992年)に現在の「萩往還トンネル」を含むバイパスが有料道路として開通するまで、特に改修されることがないままでした。

これは、大正9年(1920年)に悴坂峠を迂回して、阿武川沿いに萩へと向かう現在の国道262号ルートの新道が開通したためで、鹿背隧道ルートはその後放置されてしまったようです。

※ひなたGISより引用。

それでは、次の目的地へと移動します。


次の目的地である山口市の「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」の駐車場へとやって来ました。


駐車場からは徒歩道を歩いて行きます。雨上がりで多少ぬかるんでいましたが、その辺りは気にしないでおきます(笑)。


草地の向こう側に建造物が見えてきました。あれが旧桂ヶ谷貯水池堰堤のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

堰堤部分がコンクリート造、建物と高欄は煉瓦造ですね。




「堰堤を渡って建物に行ってみるか。」と向かったら、堰堤内は立入禁止となっていました…。


堰堤の下側へと道が続いていたので、降りていって下側からも眺めてみることにします。


堰堤の下(と言ってもやや離れた場所ですが。)に設置されていた説明板。設置場所からして、この堰堤は元々は下流側から見学するようになっていたのかもしれません。ちなみに堰堤から下流側は草ぼうぼうになっていましたが。


見上げた堰堤。


さて、これにて見物終了。車へと戻ることにします。


この草地の谷が、かつては水道用の貯水池だったわけですね。


これで今回予定していた訪問先をすべて巡ったので、帰路につくことにします。時刻は15時50分。最寄りの山陽道 小郡ICから高速道路へ。防府市内の佐波川SAで晩御飯を食べて、そのまま19時20分まで仮眠。

その後は広島まで山陽道を走行していきましたが、「このまま行きと同じ山陽道を通るのもつまらないから、広島から中国道を通っていくか。」と、中国道へと進入。

さらに、「JR芸備線の備後落合駅でも見に行ってみるか。こんな機会でもないと来られないし。」と、JR西日本でトップクラスの赤字路線である芸備線と木次線の分岐駅である備後落合駅へ立ち寄ることを決定。山奥にあって夜の暗闇でまともに見物できるのかもわからないのに(笑)。

中国道 庄原ICで高速道路を下りて、そこから国道183号を走ること約25km。

22時45分、備後落合駅に到着しました。駅舎・駅構内とも真っ暗ですね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「そういえば、途中に明かりが点いていた駅があったなぁ。」ということで、引き返すことにします。

備後落合駅から三次方面への隣駅となる比婆山駅へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駅舎内の様子。この雰囲気、事務室側は目張りされてしまっているようですね。




時刻表。さすが路線維持が危ぶまれるほどの赤字でよく知られたローカル線。やはり本数は少ないですね。


ホームへと出てみます。線路は1本しかありませんが、反対側にもホームがあるので、かつては列車交換駅だったようです。駅舎内の古写真に拠れば、貨物用ホームもあったみたいです。




ホーム側から駅舎を眺めます。


あらためてこの駅名板を見てみると、古い時刻表を再利用したものでした。読み取れる列車名と時刻をもとにネットで検索してみたところ、どうやら昭和33年(1958年)11月以降に設置された岡山駅の時刻表のようです。ある意味、貴重な資料だと思うので、駅名板を更改する時には破棄せず保存してほしいものです。


※38列車 急行霧島 4時48分着、32列車 急行阿蘇 6時42分着、302列車 急行宮島 12時44分着の3列車の運行ダイヤで突合しました。ちなみに昭和33年(1958年)11月ダイヤ改正では東京〜博多間の特急「あさかぜ」が20系客車での運用を開始し、寝台特急のブルートレイン時代が幕を開けました。

※現在の時刻表は発車時刻・行き先表記が普通ですが、この時刻表は到着時刻・始発駅が記載されていました。最初はその事に気付かず、調べるのにだいぶ手こずってしまいました(笑)。

ふたたび高速道路に乗り直そうと国道314号を走行していたら、またしても明かりが点いた駅舎を発見。道後山駅です。今の時刻は23時45分(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらの駅舎も地元の方がいろいろな物を飾っています。


この駅もかつては列車交換駅だったようですね。列車本数が減って、線路を撤去したのでしょうね。




道後山駅の駅舎。やや離れた場所に小さな集落はありましたが、駅周辺は本当に真っ暗でした。


引き続き国道314号を走行し、中国道 東城ICからふたたび高速道路へ。しかし、いよいよ眠気が辛くなってきて、10月17日(金)午前1時、ついに力尽きて大佐SAで仮眠することに。結局、そのまま朝まで寝てました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※おまけ
鹿背隧道の開通について、山口県が行った報告が明治17年(1884年)9月8日付け官報第360号に掲載されていたので、興味がある方はどうぞ。旧字体の漢字や古めかしい言い回し・用語が多いので読むのは少々大変ですが、内容を汲み取ることは十分できますね。

〇隧道開鑿(山口縣報告)
山口縣阿武郡萩ヨリ美禰郡大田ヲ經テ吉敷郡上郷ニ達スル路線中 明木村字鹿背ヶ阪ノ隧道 本年五月竣工セルヲ以テ 去ル七月十七日開通式ヲ行ヘリ 抑く鹿背ヶ阪ハ萩舊城市ノ南里ニ在リ縣下北部ヨリ南部ニ達スルノ咽喉ニシテ崎嶇險嶢物貨運輸ノ便ヲ遮斷ス 既ニ前後ノ道路改修ヲ竣ルモ此ノ險阪ヲ平夷ナラシメサレハ九仭一簀ノ歎ヲ免レス 茲ニ於テ隧道開鑿ヲ企圖シ昨年七月業ヲ創メ本年五月功ヲ竣ヘタリ 隧道ハ長六百尺高拾三尺幅拾四尺其ノ工事ノ景況ヲ略述センニ岩質ノ軟硬一ナラス掘鑿一晝夜多キハ七尺少キハ六寸ニ過キス然リト雖全体ノ巖質堅硬ナルヲ以テ兩口合セテ拾六間五分ヲ除クノ外更ニ巻石等ノ工事ヲ用ヒス坑中多少ノ出水アルモ巖石ヲ破碎スル「ダイナマイト」「ゼラチン」ヲ併用シ發火ハ電氣器械ヲ以テシタレハ工事上敢テ支障ナシ 右「ダイナマイト」「ゼラチン」兩火藥ノ効力ヲ實驗シ優劣ヲ比較スルニ「ゼラチン」ノ「ダイナマイト」ニ優ル凡五割ノ利アルヲ知ル 坑路ノ方向ハ東南ノ間ヨリ西北ノ間ニ出テ眞直ニシテ地盤無勾配ナルカ故ニ日光能ク徹射シ洞内明ニシテ更ニ點燈ヲ要セス 洞門ノ兩口ハ斫石ヲ以テ甃ミ南門ノ頂上大理石ノ額ヲ嵌レ鹿背隧道ノ四大字ヲ彫ル 工業日ヲ閲スルニ三百廿七日工ヲ役スル壹萬八千百貮拾貮人六分金ヲ費ス 壹萬三千四百七拾壹圓七拾貮餞ニシテ其ノ金圓タル地方費及地民協議費有志醵金國庫補助金等ヲ以テスト雖全路線ノ改修費ト合算スルカ故ニ獨此ノ隧道ノ工費ノ細目ヲ分チ難シ 舊藩主毛利元徳モ亦壹千金ヲ寄送シケレハ之ヲ洞門甃石ノ工費ニ充テタリ
※「大蔵省印刷局 [編]『官報』1884年09月08日,日本マイクロ写真 ,明治17年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2943565 (参照 2025-11-21)」より。
Posted at 2025/11/21 00:16:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年09月17日 イイね!

【新城市】槇原川沿いの伐木作業軌道跡を探索する(2)

2025年8月21日木曜日、新城市内を流れる槇原川沿いにかつて存在していたという伐木作業軌道の跡を探索してきました。

またちょっと長くなりますけど、ここで伐木作業軌道が槇原川の流域に設置された経緯について記していきましょうかね。説明上、本題(軌道の設置)までの前置きも長くなりますがすみません。

まずは「愛知の林業史」からの引用です。この槇原川の流域から宇連ダムに至る山林は「鳳来寺裏山」と呼ばれ、江戸時代までは近隣にある鳳来寺山(標高695m)全域を境内とし、徳川幕府の庇護を受ける名刹「鳳来寺」の寺領でした。

ところが、この寺領の山林は、明治4年(1871年)正月5日付太政官布告の「社寺領上知令」(社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上知被仰出土地ハ府県藩ニ管轄セシムルノ件)によって、明治新政府に没収されてしまいます。鳳来寺が没収された山林の面積は、1590ヘクタール(15.9平方km)に及んだそうです。

その後、没収された山林は官林(国有林)から御料林(皇室所有の山林)へと所属が変遷していきますが、「鳳来寺裏山」の御料林は開発順位の低い扱いだったようで、明治30年(1897年)になっても施業(植林、間伐、伐採等の行為)の対象とならなかったようです(愛知県内では、段戸山の御料林が積極的に開発された。)。

そこで明治末から大正にかけて、ようやく維新後の混乱から体制を立て直してきた鳳来寺が、旧寺領である御料林の払い下げ運動を開始。大正8年(1919年)に1551ヘクタールを66万7千130円の12年賦延納で払い下げを受けることが実現します。

ちなみに、66万7千130円が現在の価値だと何円くらいになるのか? 換算に用いる指標によって大幅に変わりますが、3億5千万円から17億円くらいになるようです。

なお、払い下げ代金は、払い下げを受けた山林の立ち木を売却して充当することになり、入札・売却手続きについては条件を付けつつ愛知県へ委任します。

入札の結果、東加茂郡足助町(現豊田市足助町)の加藤周太郎(加周)が111万円で最高札でしたが、予定価格(ここでは入札の最低価格)150万円に及ばず「不調」となりました。しかし、交渉の結果、そのまま加藤氏へ115万円で売却が決定しました。

「加周」(加藤周太郎家は代々木材商・製材業を営んでいて、「加周商店」とか「加周組」とか呼ばれていたようです。)は、買受けた山林から伐採した木材の運搬のために「トロッコ軌道」8kmを設置したそうです。ここでようやく今回の「本題」が出てくるわけです。

内容は一部重複しますが、続いては「長篠村誌」からの引用。「加周」は、大正8年10月から準備し、大正9年(1920年)から伐採を開始。大正10年(1921年)には製炭(木炭の製造)も開始しました。この立木伐採事業が終了したのは昭和4年(1929年)。12月24日に事務所を引き揚げて完了となりました。

「加周」は、この事業のために、約2里(約8km)の「トロ線」(トロッコ軌道)を設けて、製材工場を2か所建設したとあります。

余談ですが、この伐採・製材・製炭事業には最盛期で1600人が従事していたそうです。そのため、「加周」は現地に私立の小学校や青年訓練所を設置し、青年団も組織。食堂を開いたり、請願して警察官に駐在してもらったりもして、もともと人家がなかった槇原地区に、ちょっとした街が出来上がっていたようです。

「加周」による立木伐採事業に平行して、大正11年(1922年)より、伐採跡地に対して愛知県が95か年の地上権を設定(総面積1021ヘクタール)。ここに県の基本財産形成と模範造林事業地としての使命を帯びた「鳳来寺県有林」の経営を開始し、これが現在まで続いています。

これまた余談ですが、「加周」が買受けした立木伐採事業は、本来「15か年」を掛けて実施する契約内容でしたが、実際には昭和4年で終わり、10年間で事業を引き揚げてしまいました。これは大正13年(1924年)6月16日に発生し、6日間に渡り延焼した「鳳来寺裏山大火」により、伐採対象地域に大きな被害を受けてしまったためのようです。

大火の鎮火作業に際しては、「加周」・県有林の従業員、地元消防団員に加え、豊橋の陸軍歩兵第十八聯隊・豊橋工兵隊まで出動したそうです。

さて、探索の話を再開します。本谷橋から分岐していく破線道へと入ります。


岩を切り取って軽車両が通れるくらいの道幅にしてあります。「愛知縣林業報告」に添付の地図によると、今歩いている道が通っている区域は県有林ではないようです。しかし、これも林道本谷線の支線として整備された可能性はありますね。


岩壁の切り取り工が続きます。


砂防ダムがある沢に遭遇しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣がありますね。かつては橋が架かっていたようです。


道が林の中を直線的に突き抜けていきます。




今度は先ほどの沢よりも深く抉れた沢が出てきました。越えていけるのか?




問題なさそうです。黄色線のように進んでいきます。


来た方向を振り返って眺めます。橋台の石垣は崩れ去ってしまったのでしょうか。


太い倒木ですね。


岩場が現れましたが、その手前で道は途切れています。


少し引き返して、道の下側へと下ります。道の路肩部分には石垣の擁壁が築かれています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

途切れた道の先には岩盤を深く掘り下げた切り通し。こういう物件は興味を惹きますね。「伐木作業軌道」か木馬道を通すために削ったものなのか、林道へ改築する際に削り直したものなのか。真相は不明です。








こういう絡んだ倒木はめんどくさいです。


また一直線の道が現れました。


土砂で半ば埋まってしまった沢を越えていきます。


どんな山奥でも見かける炭焼き窯の跡。


また小さな沢を渡っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここも路盤が無くなってますね。この程度ならそのまま普通に進めますから問題ありません。


ぬた場ですね。


ついに本当に道が途切れてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図を見ると、破線道はこの場所を渡って対岸へと進んでいるように見えますが、橋台など橋が架かっていたような痕跡は見られません。


川の中を歩いて渡り、対岸を通る林道へと出てきました。時刻はすでに15時半を回っています。ここで引き返すことにします。


交差点へと出てきました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみにこの交差点は、「新設林道」と「在来軌道」の接点と思われる地点。今回は時間切れと体の疲れで、「在来軌道」方面の探索はパスします。


山の上へと向けて一直線に空間が続いています。一体何でしょうかね。高圧線は通っていないので、索道かインクラインの跡のような気がしますが。


川側にも空間が開いています。


林道は真っ直ぐ続いていますが、右側の木々の中に道跡と思しきものがあるのに気が付きました。この辺りから右方向へと逸れていくので、跡を追ってみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

明瞭なものではありませんが、道跡が林の中にずっと伸びていきます。






川べりへ出たところで途切れてしまいましたが、先を眺めると道跡の続きらしきものが見えています。


この削り込み方は道跡で間違いないようです。ただ、幅が狭いですし、「新設林道」のルートとは若干違うので、もしかすると、この区間は改築されずに残った「伐木作業軌道」そのものの跡かもしれません。


また途切れてしまいました。河原まで下りて先へと進みます。


道跡が復活しました。


石積みの築堤が現れました。




川で途切れてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸を眺めています。空間が開いている場所へと橋が架かっていたと思われます。


ここも川の中を歩いて渡ります。


林道本谷線へと再合流しました。往路では赤色線の所から出てきました。帰りはこのまま林道を進んでいきます。


この後は特に目立ったものを見つけることはなく、三河槇原駅へと戻ってきました。


今回の探索のルート図です。探索時間は3時間40分、移動距離は9.2kmでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ネットで簡単な下調べを始めた時は情報が少ないなと思っていましたが、ネットや図書館で調べ直してみて、国立国会図書館デジタルコレクション、「愛知の林業史」、「長篠村誌」などで、槇原川の流域に「伐木作業軌道」が設置された背景という、今まで知らなかった事柄を知ることができたのは興味深かったですね。

今回探索した道跡そのものは、もはや90年以上前の「伐木作業軌道」跡なのか、改築後の「新設林道」跡なのか、全然関係ない道跡なのか、明確に区別を付けようもありませんでしたが、いろんな興味ある遺構を見つけることができましたし、満足いく探索でした。
Posted at 2025/09/17 00:08:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年09月12日 イイね!

【新城市】槇原川沿いの伐木作業軌道跡を探索する(1)

2025年8月21日木曜日、新城市内を流れる槇原川沿いにかつて存在していたという伐木作業軌道の跡を探索してきました。

探索内容を書く前に前置きを少々。

さて、ここ1年ほど廃道や廃線の探索をすっかりしなくなっていました。段々とネタ探しをネットなどですることをしなくなっていましたし、山歩きに出かけようという気分自体が乏しくなっていました。

ようやく最近「また探索へ出かけようかな。」という気持ちが戻ってきて、「ひとまずは近場で適当なところを探してみようか。」と地形図で愛知県内の山地を眺めていました。

そんな中で、新城市の槇原川の流域が比較的なだらかで幅広な地形であり、かつ破線道の表記が川沿いにあり、「木馬道の跡とか残っているかも。」とひとまず探索地の候補としました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

いつものように探索の下調べとして、槇原川流域の山行記録などがないかネットで検索してみたのですが、ここでヤル気が上がる(笑)記事がヒット。内容は、「飯田線三河槇原の奥にあった『作業軌道』の地図をやっとみつけました。」というものでした。「軌道」ということは、レールが敷かれた輸送手段を用いていたということです。

地図が掲載されていた資料名とリンク先も付記されていたのでさっそく閲覧。

「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されている昭和6年(1931年)発行の「愛知縣林業報告 第弐拾八號」中、昭和4年(1929年)の事業内容として「第二模範縣有林」の項目に、「當縣有林中槇原本谷ニ屬スル所謂本谷県有林内ノ現在ノ造林保護手入及將来ノ利用開發ヲ計ランガ為メ槇原林道終点ヨリ本谷渓流沿ヒ23林班内ニ至ル在來の『伐木作業軌道』二、〇二〇米(2,020m)ヲ幅員二米(2m)ノ車道ニ改築ス」とあり、ルートが記された地図が添付されていました。

地図は手書きのものでしたが、現行の地形図に落としてみるとこのようなルートになると思われます。添付地図の凡例によると赤線区間は「新設林道」、青線区間は「在来軌道」と表示されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「槇原林道終点より2.02km」という文章の内容から推測すると、「新設林道」区間が「伐木作業軌道」を改築した区間だと考えられますが、「改築」なのに「新設林道」? 矛盾を感じる記述ですが、林道としては「新設」だからということなのでしょう。

何にしても、「伐木作業軌道」は昭和4年(1929年)の時点で幅員2mの「車道」へと改築されたとみて間違いなさそうです。なので、今回は約96年前に車道へと改築された「伐木作業軌道」跡を探索するということになりますかね。

さて、今回の出発地となるJR飯田線の三河槇原駅へとやって来ました。ここから槇原川へと向かいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは旧望月街道にある槇原トンネル。旧望月街道は、宇連川の右岸に明治10年(1877年)から明治19年(1886年)にかけて開削された街道です。街道名は、巨額の私費を投じて街道の開削に尽力した地元の豪商「望月喜平治」に由来します。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

槇原トンネルの全景。左岸側を通る別所街道(現国道151号)がメインルートとして継続的に改良されたため、宇連川の右岸側を通る旧望月街道は、現在も軽四が通るのがやっとの箇所が多いそうです(なので、私は旧望月街道を走行したことがありません。)。








槇原トンネルから宇連川とJR飯田線を見下ろしています。


槇原川沿いを通る林道本谷線へとつながる路地へと来ました。どこまで進むことができるのか。おもしろいものが見つかるのか。楽しみですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今のところは、ごくありふれた砂利道の林道が続いています。


山側にコンクリート構造物が現れました。これは、かつてこの場所に存在した採石場の搬出施設だそうです。ダンプの荷台を構造物へ入れて、上から砕石を流し込んで積み込みしていたみたいです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

昭和33年(1958年)発行の「長篠村誌」によると、東京や奈良方面へ鉄道用のバラストを出荷していたそうで、昭和30年度(1955年度)は21,115トン出荷したそうです。

林道を外れて、槇原川の河原へと下りてきました。ここまで槇原川の左岸側を歩いてきましたが、探索対象である「伐木作業軌道」や後継の車道林道は右岸側を通っていたので、右岸側へと取り付くためです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本当は最初から右岸側の林道を歩いて行きたかったのですが、水源地があるという理由で右岸側林道の入口ゲートは強固に封鎖されていたため(たいていは、登山目的などの歩行者が通行できるように隙間が設けてある。)、左岸側の林道から迂回していったわけです。

「ナメ沢」と言うんですかね。川床が滑らかになった岩に覆われています。ただ、川床の一面に茶色の苔が生えていて非常に滑りやすく、歩くのになかなか難儀しました。




今回の探索の本当のスタート地点と目していた、破線道が分岐する場所にようやく到着しました。ここから林道を外れて、木々の間へと突っ込んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道から外れてすぐに川へとぶつかり、道跡が途絶えました。


側面へと下りて確認すると石積みの橋台が残っていました。


対岸を見ますが、木々が生い茂り、対となる橋台などを見い出すことはできません。


川の中をザブザブと歩いて渡って対岸に取り付き、木々の中へと入り込んでいくと、低い築堤が続いていました。地形図の破線道のとおりに道跡は残っていそうです。


二股に分岐しているように見える場所へ出ましたが、周囲を確認してみると左側が道跡のようなので、そちらへと進みます。


間違いなかったようです。植林地の只中を一直線に道跡が伸びていきます。




見づらいですが、谷側の路肩に苔むした高い石垣があります。




山側にも背の低い土留めの石垣があります。これらの石垣は、2m幅の車道へ改築された際の遺構のような気がします。


眼下を流れる槇原川までは10m~15mくらいの高低差でしょうか。


ここも一直線の道跡を遠くまで見通すことができます。


路肩に低い石組みが残っています。


そして長い左カーブが続いていきます。


カーブが終わるとふたたび川へと出てきました。橋の跡ですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらの橋跡は、先ほどの橋跡と比べて、しっかりとした形で石積み橋台が残っています。


そして川の中を眺めると、コンクリート造の橋脚が1基残っています。ここまで石垣くらいしか目立った遺構がなかったので、思わず「おっ!」と声が出ます(笑)。


この橋脚、間違いなく昭和4年の車道改築時に新造されたものでしょう。現代のコンクリート建造物と比べると粗い表面の造りです。


橋脚の上流側には、三角形の水切りがきちんと付けられています。




対岸の橋台。木や草、苔に覆われて、写真では視認しづらいです。




対岸の橋台の背後へと回ります。橋台に続く築堤も石垣で覆われています。


橋台へ続く築堤の上に登ってみます。


程なくして、ふたたび林道本谷線へと合流しました。ここからしばらくは本谷線を歩いて行きます。


川の中に直線上に盛り上がった岩脈。この付近は凝灰岩に安山岩が貫入した地質が各所に残っていますが(宇連ダムのダム湖に大規模なものが存在する。)、これもその一つなのかもしれません。


本谷橋までやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「新設林道」はこのまま本谷橋を渡っていきますが、現役の林道をこのまま進むのも面白味が無いので、本谷橋から槇原川の上流方向右岸側に続く破線道を辿ってみることにします。
Posted at 2025/09/12 01:00:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年06月24日 イイね!

【山形県鶴岡市】出羽三山神社へ行ってきました

2025年5月9日金曜日、山形県鶴岡市にある出羽三山神社へ行ってきました。

今年のゴールデンウィークは、姉弟3人で国道292号「草津志賀高原ルート」にある「雪の回廊」を見に行ってきたわけですが、まだゴールデンウィークに出かけようという話が出ていなかった時、私は一人で遠出でもしようかと思っていました。

それで、まずは「東北方面へ行こうかな。」と考えたわけです。で、寺社でも見に行こうかなと山形県山形市の立石寺とか検討していたのですが、「久しぶりに国道7号で日本海沿いを走ってみたいな。」とも思いました。

「それなら鶴岡市まで国道7号を行って、羽黒山とか月山へ行ってみようかな。」となり、ネットで検索して羽黒山にある出羽三山神社へ行くことを決めました。

しかし、姉弟3人でゴールデンウィークに出かけることが決まり、この予定は一旦お流れになりました。

ですが、「やっぱり一人でも遠出したいな。」という気持ちが消えず、たまたま勤務の都合で5月9日・10日・11日が三連休になっていたこともあり、出かけることに決めたわけです。

さて、自宅を5月9日0時45分頃に出発。東海環状道・中央道・長野道・上信越道・北陸道・日本海東北道と乗り継ぎ、朝日まほろばICからは国道7号を走行していきます。

自宅から走ること10時間弱、ようやく山形県に入りました。新潟・山形県境を越えた場所にある道の駅「あつみ しゃりん」にて小休止。海岸線には岩礁が広がっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この後は、あつみ温泉ICから鶴岡西ICまでは日本海東北道を走行(この時点で予定よりも時間がかかっていて、海沿いの国道7号をそのまま進むのは断念。)。

鶴岡西ICから鶴岡市街地を経由し、羽黒山の麓にある出羽三山神社の鳥居前へとやって来ました。


実は、出羽三山神社がある羽黒山の山頂へは自動車道もあるのですが、標高414mとそれほど高い山ではないので、せっかくなら麓から参道を歩いて訪れたいなと思ったわけです。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、「出羽三山」は月山・羽黒山・湯殿山の総称で、月山が「過去」、羽黒山が「現在」、湯殿山が「未来」を象徴しているそうです。

また、「出羽三山神社」もこれら三山にある神社の総称で、「月山神社・出羽神社・湯殿山神社」が正式だそうです。

鳥居に続いて随神門をくぐっていきます。


参道は、随神門からいきなり上り坂が始まるわけではなく、一旦は坂を下っていきます。この出羽三山神社の参道の石段は、全部で2446段あるそうです。


坂を下っていくと、いくつかの社殿がまとまって建っています。風雪の影響のためか、古めかしく見えます。




川を挟んだ対岸にも社殿があります。背後の滝は「須賀の滝」と呼ばれ、1654年(承応3年)にこの場所まで引水して造られた人工の滝だそうです。


続いては「爺杉」。樹齢は推定1000年以上とあります。






この神社で見ておきたかった建築物である、国宝「羽黒山五重塔」が見えてきました。本来、五重塔は寺院建築物であり、江戸時代までの神仏習合の名残りと言えます。


この五重塔は約600年前の室町時代に再建されたもので、東北地方では最古の五重塔だそうです。


五重塔が立つこの地にはかつて寺院があり、周囲には多くの伽藍があったそうですが、明治時代の神仏分離令により取り壊されてしまったそうです。

そのような状況の中、この五重塔は取り壊しのために多くの費用と時間がかかると見込まれたため、幸いにも破壊を免れたらしいです。

そういった経緯のため、この五重塔はかつての寺院の遺構としてではなく、現在は出羽三山神社の末社の一つとして取り扱われています。

五重塔を後にして、さらに参道を進んでいきます。


さて、出羽三山神社の参道には「一の坂」、「二の坂」、「三の坂」と呼ばれる急坂があるのですが、これから「一の坂」を登っていきます。




一直線に登ってますね(笑)。


女夫杉。




「一の坂」を振り返って見下ろしています。


しばらくは緩やかな坂の石畳の道を進んでいましたが、正面にまた急坂が見えてきました…。


「二の坂」が始まりました。「一の坂」よりも長そうです…。




この急坂で、さすがに真っ直ぐ登っていくのが辛くなってきて、ジグザクに登っていきます。


「二の坂」を見下ろしています。帰り道も大変そうです…。


「二の坂」の途中にある茶屋。


「二の坂」が終わり、また緩やかになった参道を進んでいきます。


最後の「三の坂」が始まりました。






「ハチ注意!」の看板。幸い、遭遇することはありませんでした。


まだまだ急坂の石段が続きます。




お約束のクマ注意の看板も。こちらも出会うことはありませんでした(笑)。


坂が緩くなったので、「『三の坂』もようやく終わったか。」とホッとしながら歩いていきます。


ところが、急坂の石段がふたたび現れました。「『四の坂』なんてあったっけ?」と思いましたが、どうやら「三の坂」がまだ終わっていなかっただけのようです…。


「これを登り切れば…。」と最後の踏ん張り所です。




急坂区間が終わり、振り返っています。


どうやら「三の坂」区間は終わったようです。


ようやく山頂の境内の鳥居に着きました。随神門から約1時間の行程でした。


鳥居の横にある社殿。


凝った龍の装飾に覆われています。


三神合祭殿。文政元年(1818年)の再建。出羽三山神社の本殿に当たる社殿で、月山・湯殿山・羽黒山の三神が合祀されている「合祭殿造り」と呼ばれる独特の社殿だそうです。国の重要文化財に指定されています。


社殿には、左から「湯殿山神社」・「月山神社」・「出羽神社」の扁額が掲げられています。三神がこの社殿に合祀されている理由は、月山神社は月山の山頂、湯殿山神社は渓谷にあり、冬季に祭事を行うのが困難な立地であるためだそうです。


鐘楼。元和4年(1618年)に最上氏の寄進により再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。


健治の大鐘。健治元年(1275年)の銘があり、東北地方で最大、銘があるもので最古のものだそうです。こちらも国の重要文化財に指定されています。


手水舎。


出羽三山歴史博物館。ちゃんと見学してきました。


境内を一巡りしてから三神合祭殿でお参りします。


これにて車へと戻ることにします。


「二の坂」の茶屋からの眺め。庄内平野が遠望できます。


麓の鳥居へと戻ってきました。


門前のお店で何か軽く食べようかと思いましたが、入ったお店になぜか店員さんが見当たらず、そのまま車へと戻りました。

これで今回の目的は達したので帰宅します。が、寄り道できる場所へは寄り道していきます。

帰り道は鶴岡市街地から日本海を眺めながら国道7号を走行。17時過ぎ、新潟県村上市府屋にある旧国道7号へとやって来ました。


場所はこちら。現在、この付近の国道7号は海岸沿いを通過していますが、この旧道が開通するまでは山の中を峠越えしていたそうです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の旧版地形図はこちらになります。

※5万分の1地形図「温海」:大正2年(1913年)測図・昭和9年(1934年)修正測図。

岬隧道。


トンネルの扁額。


坑門には「一級国道7号線」の銘板がはめ込まれています。


トンネル内部。


「延長三〇米 幅員六米」とあります。


岬隧道の真下には、羽越本線旧線のトンネルがあります。


羽越本線旧線の橋梁。コンクリート造の放物線アーチ橋です。この付近は大正13年(1924年)に開通しており、煉瓦造からコンクリート造へと移行した時期に当たりますね。


岬隧道から北側を望みます。


間の内隧道。こちらのトンネルは通行止めとなっています。


トンネルの扁額。


このトンネルにも「一級国道7号線」の銘板がはめられています。


トンネル内部。


こちらは「延長一三九米 巾員五米」となっています。


旧国道のトンネルの左側には、羽越本線旧線のトンネルもあります。


こちらのトンネルはコンクリートブロック造。場所打ちコンクリートではアーチ部分の打設が技術的にまだ難しかった時代によくあったタイプのトンネルですね。


この後は国道7号で同じく村上市内の道の駅「朝日みどりの里」まで移動。隣接するコンビニで購入した晩御飯を食べてから、そのまま22時頃まで仮眠してました。
Posted at 2025/06/24 00:25:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年04月13日 イイね!

豊田市梨野町内の古道を少し歩いてきました

2024年8月24日(土)、豊田市梨野町内の古道を下見がてら少し歩いてきました。

さて、もともとこの日は特に予定はなく、「ぶらっと三河の山の中をドライブしてくるか。」と出かけてきました。自宅から額田郡幸田町・岡崎市本宿町と経由して、豊田市阿蔵町までやって来ました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここの国道沿いには、古そうな石碑が立っております。ずっと昔から存在は知っていましたが、いつも素通りしていたので、今回は立ち寄ってみました。


まず一つ目。「丹後国文殊芥」と彫られています。何を表すのかはわかりませんが、「丹後国・文殊」で検索すると「日本三文殊」の一つである「智恩寺」がヒットします。もしかしたらこのお寺へ参拝したことを記念した石碑なのかもしれません。


二つ目は「奉納 四国 西国 秩父 坂東 神社佛閣順拝供羪塔」。いわゆる百八十八番供養塔と呼ばれるものですね。四国88か所、西国33か所、秩父34か所、坂東33か所の合計188か所の霊場を巡礼した記念に立てられる供養塔です。


三つ目は「三峰神社」。これは埼玉県秩父市三峰にある「三峯神社」のことでしょう。石碑の下部には同社の信仰を象徴する「山犬」が彫られています。


石碑を見終えて、「ここまで来たなら、ついでに梨野からの古道を少し探ってみるか。」と思い立ち、豊田市梨野町へと移動。梨野の集落から少し外れた場所から、古道が通っていたと思われる林道へと入り込んでみます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみにこちらは戦前の旧版地形図。現在の国道420号は、梨野から豊田市足助町へ向かって大見川に沿って進んでいますが、梨野から足助方面へはさらに並行するように尾根道が通っていて、これを少し探ってみようという訳です。

※ひなたGISより引用。

林道をしばらく歩いていくと、古道らしい道が分岐しているのを見つけ、そちらへと進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

思っていたよりもきれいに道筋が残っています。




ふたたび林道へと出てきました。おそらく古道はこの林道と交差する形で通っていたはずなので、右側へと分岐していく道筋を探します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道に切り崩された斜面に道筋らしきものが残っていたので、入り込んでいきます。


しばらくすると、ふたたびはっきりした形で掘割道が現れました。周囲の地形に対して道筋が深く掘り込まれていて、かつてはこれだけの労力をかけるだけの利用があったことが想像されます。






ちょっとした峠に出てきました。ここから先は作業道へと改変されていました。


峠からしばらく歩くと、右側へ踏み跡と思しき窪みが分岐していたので、少し辿ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応、道らしき浅い窪みが続いていましたが、やがて消えてしまったため、作業道へと戻りました。


そして、歩いてきた作業道も林道へと合流。


この先はしばらく林道が続くようで、前方では山仕事をしている作業音が聞こえていたこともあり、この交差点で引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道入口の駐車場所まで戻ってきました。


今回はドライブのついでにちょっと立ち寄っただけなので、軽装で靴も普段履きのままでした。この古道を踏査しようとすると10km以上は歩くことになるので、次回はきちんとした格好で、必要なものも持参した上で来る必要があります。

ただ、林道への改変が進んでいるようなので、歩き通すより、地形図に載っていない箇所で古道をつまみ食いする方が面白味があるかもしれませんけどね。
Posted at 2025/04/13 17:13:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「旧倉吉線廃線跡と倉吉白壁土蔵群を訪れました http://cvw.jp/b/1796277/48784301/
何シテル?   11/24 21:37
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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