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小林あにのブログ一覧

2022年01月11日 イイね!

設楽町和市からグミンタ峠への里道跡を探索する(1)

2021年11月27日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町和市からグミンタ峠への里道跡を探索しました。

グミンタ峠は、設楽町和市と北設楽郡東栄町大字振草字小林とを結んでいた里道にある峠です。しかし、現在は平山明神山と大鈴山を結ぶ縦走路の途中にある通過地点として認識されている程度でしょう。

里道が記載されていた戦前の地形図がこちら。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

今回は小林まで踏破することはしないで、短めにグミンタ峠までの区間を探索のターゲットにしました。何せ、和市~グミンタ峠間ですら、現在の地形図には序盤以降の道の記載がありませんからね(笑)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

下調べにこの里道について設楽町誌などで記述を探してみましたが、集落と集落を結んでいただけの里道なので、下記のとおり目立った内容のものはありませんでした。

「設楽町誌・村落誌」の「和市」
昭和3年(1928年)ごろには、田口(設楽町の中心地)から和市の入口(杉ノ窪)まで馬車がやっと通行できる程度の道路が通じていた。しかし、それ以外の道路はすべて徒歩道で、東は堤石峠を越えて平山・神田方面へ、北はグミンタ峠を越えて小林方面へ…。

「振草村誌」(振草村は昭和31年(1956年)まで存在していた村。)
(小林の)中日向(高札場)前より林を通りグミンタ峠を越えて和市へ…。

「愛知県の峠」
小林在住の人の話によると、この峠は「狗田峠」と書いてグミタ峠と言い、平山明神山と天狗の関係からできた名前だとのことでした。

11月27日(土)10時15分、和市にある登山者用駐車場から出発します。


駐車場から舗装林道を歩くこと5分。右側へ徒歩道が分岐していきます。この徒歩道がグミンタ峠へと向かう里道跡のはずですので進入していきます。


林道建設時に削られたのだろう道幅の狭い区間を過ぎると、古道らしいU字型の道形が現れました。


道が二股に分かれますが、右側を進んでいきます。


さて、峠前後の古道探索でありがちなのが、道跡が幾筋も付いていることです。ショートカットできる急坂の徒歩者用、迂回していく比較的勾配が緩やかな牛馬用といったところから、さらに時代ごとに道筋が替わってしまったものが断片的に残っていたりと、混乱をきたすこともよくあります。

この写真の場面も基本は矢印を付けたルートだと思われますが、実は手前に一直線に急坂でショートカットしていく道跡もあります。


程なく2つのルートは合流してしまい、その後しばらくは選択の余地もなく、ただひたすら急坂を登る羽目になりますが(笑)。




右側に沢水を溜めておく貯水槽らしきものが現れました。こういう物件は目標物に最適です。


沢沿いに出てきました。沢の河床は岩盤剥き出しです。


ふと、右側から合流してくる枯れ沢に目をやると石垣があります。「これは橋台か?」。




そして、里道跡はすぐその先で長い石垣と交差します。


里道跡はおそらく直進していくはずです。この石垣は何なのか?先ほどの橋台と思われる石積みに連なっていることから考えると、これも道跡であることは間違いなさそうです。


これだけの規模で造られている道だと、いわゆる荷車道・馬車道に相当するものだと考えられます。


しかし、戦前の地図にはこの辺りに荷車道があるような表記はありませんし、設楽町誌などでも和市周辺で荷車道を新たに開削したような記述は見たことがありません(そもそも昭和3年頃ですら、田口から和市の入口までしか馬車が入れなかったくらい。)。

グミンタ峠への里道跡を探索するという目的からは外れますが、山を下っていく左方向の道跡を辿ってみることにします。


入り込んで程なくして道跡の状態は荒れてきてしまいました。ただ、路肩には擁壁の跡であろう石積みが散発的に残っていて、元々はしっかりとした造りの道であったことを伺わせます。






尾根の先端辺りまで歩いてきたところで、本来の道幅を取り戻したようです。


しかし、先端を回り込むとすぐに細い道跡へと戻ってしまいました。ご覧のとおりの急傾斜なので、保守されなければこんなものでしょう。


そして沢にぶつかり行き止まりとなりました。本来はこの場所に橋が架かっていたようです。ここも石積み橋台が残っています。




一応、仮設の橋が架けられていますが、さすがに渡る気にはなれません。橋台を確認したい気持ちもあったので、河原へ下りることにします。


なかなか立派な石積み橋台です。やはり作業道などの仮設の道路ではなく、車道(荷車道または馬車道)として造られた道の跡としか考えられません。




対岸側の橋台です。




対岸へと上がりました。非常に興味深い道跡ですが、まず今回はグミンタ峠への里道跡の探索が優先です。


このまま戻っていくのもつまらないので、対岸側の林道を進んで、何とか里道跡へと復帰を試みることにします。


このパターン、何度も何度もひどい目に遭っているのに(あくまで体力的に(笑)。)、今回もまたやらかしてしまいました(笑)。

林道は間もなく終点になってしまいました。徒歩でならもう少し先へと進めましたが、こちらも直に進めなくなってしまいました。


こうなれば割り切って、一直線に里道跡が通っている山側へと移動です。写真は沢が写っていますが、この前に低い尾根も一つ越えています(笑)。


沢を渡ったところに道跡があるのに気が付きました。峠からの帰り道でわかったことですが、実はこれが里道跡でした(笑)。


ただ、自分の想定の中では、里道跡はもっと標高の高い地点を通過していると考えていたので、この時点では違う道跡だと思っていました。

そして、里道跡を外れて、違う踏み跡へと入り込んでしまいます。


正直、獣道だと感じつつ尾根の先端まで登ってきました。




見渡してみた限りではどこにも道跡はありません…。

「こうなったら尾根筋を一直線に登るのみ!串刺しにしていけば、そのうち里道跡に突き当たるはず。」という、廃道探索時によく使う手を用いることに決めました。


ここからは、ただひたすら山登りをする光景をご覧ください(笑)。














全然里道跡と遭遇できないまま平山明神山の麓まで進んできてしまいました。そもそも想定が間違っていて、すでに里道跡と交差してしまっているので出会う訳がありません。

「このまま平山明神山に取り付いても、山が険しいから難儀することは目に見えている。ここはもう里道跡を探すことは止めて、グミンタ峠へ行くことに集中した方がいいんじゃないか?」との考えに至り、尾根を外れて、グミンタ峠へと至る沢筋へ向かうことにしました。






突端に出てきました。


「これなら無難に下りられる。」。ここから斜面を下っていきます。


沢まで下りてきたら、再び里道跡と出会うことができました。ホッと一息です。




ここからは里道跡を辿っていきます。しかし、急坂なのはともかく、道跡がひどく荒れています。大雨時などは川になってしまうのでしょう。








そして困った場面になってしまいました。緩斜面になり谷全体が土砂で埋め尽くされています。これでは里道跡がどこを通っていたのか見当もつきません…。


とにかく峠を目指します。




ようやく尾根の鞍部が見えてきました。これを登り切れば、グミンタ峠にはたどり着くことができます。




なんとか斜面をよじ登り、尾根へと出てきました。


この斜面を登ってきました。


12時15分、グミンタ峠に到着です。駐車場から2時間もかけてしまいました。




駐車場からグミンタ峠までの歩行ルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠から小林側の里道跡を眺めてみます。この先も道跡は残っているようですが、辿っていくのはまたの機会にします。




さて、里道跡の探索の仕切り直しです。峠からは和市側への道跡も残っていました。登山者には関係のない道なので、入り込まないように☓印の表示がされています。


峠からこの道跡を下り、再び里道跡を辿っていきます。

※その2へ続きます。
Posted at 2022/01/12 00:27:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年01月09日 イイね!

【高山市荘川町】軽岡峠の旧旧道と旧軽岡隧道(4)

2021年11月20日土曜日、岐阜県高山市荘川町の軽岡峠に残る国道158号の旧旧道と旧軽岡隧道を探索しました。

この旧旧道は、旧来の郡上・白川街道の峠道を明治36年(1903年)に改修した馬車道に由来し、昭和34年(1959年)に国道158号が新軽岡峠経由にあらためられたことにより、国道としての役目を終えました。

さて、旧旧道と旧軽岡隧道の開通以前の峠道である、旧郡上・白川街道の旧軽岡峠道と推定される徒歩道を歩いてきました。

現在地の地図はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちょうど旧旧道がヘアピンカーブしていく地点。左側の上っていく道が旧軽岡隧道方向になりますが、せっかくなので少しだけ三尾河側へと行ってみます。


進み始めて間もない地点ですが、路面の半分が陥没し、倒木や草むらが目立つ状態で、あまり良い雰囲気の廃道ではないようです。


旧軽岡隧道方向へと上っていく道にあった石造暗渠。


ここは、ほぼ路盤が崩落してしまっています。




知人との約束の時間もあるし、ここまで歩いてきた限りではあまり興味を惹かれるものが無かったので、引き返すことにしました。


ヘアピンカーブまで戻るのが面倒だったので、石造暗渠があった場所から上段を通る旧旧道へとよじ登ります。


一応、暗渠の中を撮影。この石造暗渠、吐口付近に土が盛り上がっているので、排水路としては機能していないのかもしれません。


上段側の旧旧道へと上がりました。




三尾河へと向かう旧旧道に比べると路面状態は良いみたいです。


路盤を維持するための石積み擁壁。六厩側よりも険しい地形を通るためか、この先もたびたび石積み擁壁が現れます。


同じ場所で路上から撮った写真。谷側が切り立った急斜面であることがわかります。


右へとカーブしながら登っていきます。


カーブを過ぎてから振り返って撮影した写真。斜面をL字型に削り込んで路盤の基礎を造り、そこへあらためて盛土をして、路肩には土留めとなる石垣を積み上げたのだと思います(素人考えですが。)。


丹念に地形を辿って旧旧道は進んでいきます。


路盤のほとんどが崩落している場所に遭遇しました。山側に迂回する踏み跡が付いていたので、特に危険を感じることもなく越えていきます。




ヘアピンカーブです。ここからは旧軽岡隧道の手前まで続く谷筋に沿って進んでいきます。


路上に雪の重みでしなってしまった木々が生えています。まばらに生えているので、進んでいくことには何の支障もありません。


先ほどよりも酷い崩落箇所に遭遇しました。ここも山側に細い踏み跡が付いていますが、崩落から年数が経っていないのか土砂が露出しており、万一踏み外したら谷底まで滑落してしまうので、慎重に渡っていきます。




幹が結び目のように絡んでいる木。若木の時に誰かがいたずらで結んで、そのまま成長してしまったのでしょうかね。


またまた崩落箇所です。六厩側と比べると崩落箇所が多いですね。ここは道路の山側から崩れてしまっているので、高巻きして迂回します。




細い木を手すり代わりにして、旧旧道へと滑り降ります。




この辺りから旧旧道は枝谷へと入り込んでいきます。


枝谷の対岸を通る旧旧道の下に高い石垣が見えています。いわゆる「明治道」を辿っていると、時々「よくもまあこんな場所にこれだけの高さの石垣を積んだものだなぁ。」という場面に出くわしますね。




枝谷の頂点を振り返って撮影。旧旧道は急カーブで曲がっていきます。ここの路肩にも土留めの石垣がみっしりと積まれています。


4か所目の崩落箇所。ここも山側へと踏み跡を辿り迂回します。まだ草木が生えている場所は目隠しになって恐怖も和らぎますし、時間も経過して多少は斜面が安定していることも期待できます(あくまで期待ですが。)。




この先は目立った崩落箇所も出てこなくなり、安定した道跡を進んでいきます。




路上に生い茂ってきた熊笹と若木に圧迫されながら通過。


ようやく見覚えのある風景が現れました。


旧軽岡隧道の三尾河側坑口です。


引き返した地点からここまで45分程かかりました。


今回の探索で3回目となる軽岡峠の通過(笑)。


六厩側の坑口前へと出ました。


この時点で時刻は13時半。ドライバーやすい氏・F氏との18時からの飲み会に間に合わせるには、17時までには帰宅したいところ。自宅から片道3時間のこの場所ではギリギリの時刻です。

疲れを押して足早に歩くこと六厩側坑口から30分。旧旧道の入口まで来ました。


13時59分、ようやく車まで戻ってきました。


手短に荷物を片付けて、速やかに帰宅開始。18時の集合時刻には無事間に合いました(無理な走りはしていませんよ(笑)。)。

今回の探索の総歩行距離は9.3km以上(地理院地図上での測定値。)、総探索時間は約4時間50分でした。

その1で述べているとおり、すでに多くの訪問者があるおかげで事前情報を把握しやすい物件であり、かつ、晩秋という訪問時期の良さもあって、探索自体はスムーズに行きました。ただ、その場の思い付きで旧街道の峠道の探索を追加したことで、体力の浪費とその後の予定時間を圧迫することにはなりましたけどね(笑)。
Posted at 2022/01/10 00:55:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年01月04日 イイね!

【高山市荘川町】軽岡峠の旧旧道と旧軽岡隧道(3)

2021年11月20日土曜日、岐阜県高山市荘川町の軽岡峠に残る国道158号の旧旧道と旧軽岡隧道を探索しました。

この旧旧道は、旧来の郡上・白川街道の峠道を明治36年(1903年)に改修した馬車道に由来し、昭和34年(1959年)に国道158号が新軽岡峠経由にあらためられたことにより、国道としての役目を終えました。

さて、前回までに旧軽岡隧道の坑口を両側とも見物して、一度は車へと戻ろうとしたわけですが、旧旧道から分岐していく徒歩道の道跡を「ちょっとだけ」探索するつもりで辿り始めました。


旧旧道からしばらくの間は不鮮明な道でしたが、斜面を少し登ってきたら道形がはっきりとしてきました。


ヘアピンカーブです。


道跡の真ん中にそれなりの太さの木が生えていることが、この徒歩道が利用されなくなって相当経っている証です。


2つ目のヘアピンカーブです。




所々、埋もれたり崩れたりして、また道形があやふやになっています。


3つ目のヘアピンカーブです。


そして峠の切り通しへと到着しました。ここまでの道跡が旧郡上・白川街道であるならば、この切り通しが旧の軽岡峠ということになります。


旧郡上・白川街道も高山方面から六厩~軽岡峠~三尾河という経路を通過している点は旧旧道と同じであり、旧軽岡隧道の真上にある軽岡峠の前後には道跡が全く無かったことを考えると、この切り通しを旧軽岡峠だとするのは妥当な答えだと思います。

切り通しの右側に上がって、峠の先を見下ろしています。この先にも道跡が続いているのが見て取れます。


軽岡峠には、かつて江戸時代に建てられた地蔵堂があったそうです。その地蔵堂は軽岡峠→旧軽岡隧道の前→新軽岡峠と街道・国道のルートが変更されるたびに移設を繰り返し、現在は六厩集落を通る国道158号の駐車帯に建っています。

ここが旧軽岡峠ならばお堂の基礎か、せめて地均しした区画が残っていないかと見渡してみましたが、結局わかりませんでした。

さて、峠まで登ってこれたので、今回はこれで探索終了とすれば良かったのですが、峠の先にも道跡が続いているのがどうしても気になります。このまま引き続き辿らずにはいられない…。

探索続行です(笑)。

きつい屈曲のS字カーブ。


さらに右へと回り込んでいきます。


熊笹が道跡へと覆いかぶさるようになってきましたが、まだ跡を追うことはできます。


開けた緩斜面へと出てきました。道探しの場合、こういう地形はかえって厄介です。道跡が不鮮明だとルートが絞れなくなるからです。それでも、勘を働かせつつ進んでいきます。


道跡が直線だと見て取って、熊笹の原っぱをかき分けていきます。


薮が無くなり、また道跡を確認できるようになりました。


浅い堀割り道が右へとカーブしていきます。


U字型の道跡を進んでいきます。


そして、猛烈な熊笹の薮に出くわしました…。道跡が真っ直ぐ進んでいるのが目では見えています。


絡み合う熊笹の薮に頭や手を突っ込んで押し広げて、強引に進んでいきます。


視界の範囲の全てが熊笹の海…。写真ではわかりにくいですが、目では道跡が続いているのが見えています。引き返しても同じ苦労なら、前へ進んでいくしかありません。


道跡から左側の眼下には、旧軽岡隧道の三尾河側坑口から続いている旧旧道が見えています。見えてはいますが、脱出するには高低差がありますし、しかも急斜面…。前進あるのみです…。


まだまだ熊笹の海が続きますが、少し薄れてきたように感じます。


熊笹の海に突入して格闘すること約10分、ようやく笹薮から解放されました(笑)。


落ち葉が敷き詰められた道跡を進んでいきます。




尾根の上から外れて、旧旧道が通る斜面とは反対側である右側の斜面へと下り始めます。


予想以上の急な下り坂で一気に下っていきます。




この辺りからヘアピンカーブが連続していきます。








谷底を流れる沢まで下りてきました。


ここから先は、沢の流れや土砂にかく乱されてしまい、道跡がわからなくなってしまいました。まあ、沢まで下りてきた以上、沢沿いに進んでいくのは間違いないので、進んでいくことにします。




開けた場所へと出てきました。これは旧旧道へ再合流したのかな?


ここまで歩いてきた旧郡上・白川街道の旧軽岡峠道の推定ルートです。不正確な記録ですが、ひとまず踏破できたことに満足しています。


戦前の地図には、おおよそ似たルートに徒歩道を表す破線が記されています。実際に歩いたルートは若干ずれていて、ややショートカットしたルートを通ったことになります。

※5万分の1地形図「三日町」:大正1年(1912年)測図・昭和5年(1930年)要部修正測図。

さて、ここまで来てしまうと、「今回は歩くつもりは無い。」と前述していた三尾河側の旧旧道を延々と歩き、さらにまた旧軽岡隧道の上を越えて、六厩側の旧旧道を辿り車へと戻るしかありません。欲望のままに突き進むと、それなりの代償があるものです(笑)。

※その4へと続く。
Posted at 2022/01/04 23:12:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年01月03日 イイね!

【高山市荘川町】軽岡峠の旧旧道と旧軽岡隧道(2)

2021年11月20日土曜日、岐阜県高山市荘川町の軽岡峠に残る国道158号の旧旧道と旧軽岡隧道を探索しました。

この旧旧道は、旧来の郡上・白川街道の峠道を明治36年(1903年)に改修した馬車道に由来し、昭和34年(1959年)に国道158号が新軽岡峠経由にあらためられたことにより、国道としての役目を終えました。

さて、前回は旧軽岡隧道の六厩側坑口までたどり着き、坑口周辺の見物をしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

続いては、トンネルの真上にある軽岡峠を越えて反対側の三尾河側坑口を目指します。


トンネル坑口の真上は、斜面が崩落していてとても登れる状態ではなかったので、左側の斜面を迂回して峠へと到達しました。かつて電柱か電信柱だったと思われる木柱が地面に残されています。


ここへ来て困ったのが、三尾河側坑口へと下りる道が無いこと。踏み跡すらありません…。旧郡上・白川街道はここを通過していたのではと期待して、峠まで登れば何とかなるだろうと思っていたのですが、どうやら違う場所を通過していたようです。

トンネルへと来る途中、トンネルに程近い場所から右側の斜面へと分岐していく徒歩道があったので、そこへ合流できないかと小さな頂を目指して分け入ってみましたが、篠竹の薮が濃くて断念…。




また峠へと戻ってきました。


もうこうなれば仕方ないので、斜面に広がる篠竹の海をかき分けて、三尾河側の坑門へと直下降して向かうことにします。


篠竹の海で格闘すること5分、三尾河側のトンネル坑門の上へと出てきました。




青線ルートで道の無い峠を越えたわけです。


旧軽岡隧道の三尾河側坑門です。


坑門の一部に滑らかに化粧された表面部がわずかに残っています。残っている線刻から想像して、石積みのようなパターンの模様が施されていたのかもしれません。


銘板の取り付け跡。四隅に取り付け用のボルトが突き出しています。銘板自体は、取り外したのか、外れて落ちて壊れたのか、誰かが持ち去ったのか、全くわかりません。




トンネル正面へと下りてきました。坑門の表面はボロボロになっていますが、六厩側坑門に比べれば、現役時の状態を十分保っていると言えます。


アーチ環の部分は、やはり石アーチの模様が線刻されています。


そして、内部はもちろん崩落を起こしています…。


路面はコンクリート舗装されていたようです。


土砂の吹き出し口。湿り気があるのでまだ良かったですが、サラサラな土質です。


奥側には空間がしっかり残っています。立ったまま進んでいけるので、入り込んでみます。




トンネル坑内は、思っていたよりも広い空間が確保されています。車同士のすれ違いは困難だったでしょうが、昔のボンネットトラック・バスなら十分通行できたでしょう。


そして、程なく完全閉塞となります(もっと間近で撮った写真もありましたが、光量が足らずピンボケ…。)。


坑口側を眺めています。坑口付近は天井部と側面の2か所から土砂が噴き出しているのがわかります。






側面からの土砂の噴き出し口。コンクリート部分から木片が飛び出しています。


コンクリートの巻厚は15cmから20cmくらいですかね。昭和30年代から40年代に造られた鉄道用コンクリートトンネルでは、40cmから60cmの巻厚の刻印がされているのをよく見ましたが、それを思うと巻厚が薄いのは否めません。


土砂の上から坑口方向の眺め。土砂の高さがわかると思います。


坑口へと戻ってきました。


トンネルの真前は開けていますが、その先には薮が広がっています。


三尾河側の坑門はこれくらいにして、旧旧道をもう少しだけ進んでみます。


まずは熊笹の薮を突っ切ります。


ほんの数メートルで薮は終わり、かつての道跡が開けています。


トンネルを振り返ってみます。昔々訪れた福島市の栗子隧道を少し思い起こさせる風景です。


小さな谷に築堤を築いて直線に道路を通しています。最初に馬車道を造った時は、おそらく右側(上流側)へと迂回していたでしょう。




この築堤の先で、路盤が大きく崩落していました。




右側へ避けていけば問題なく進めましたが、旧旧道はまだまだ先へと続いており、今回はそこまで辿るつもりはなかったので、ここで引き返すことにしました。

トンネル前まで戻ってきました。


またトンネル真上の軽岡峠に向けて、篠竹の海をかき分けて登らないといけません。少々うんざりですが、登らないと帰れませんからね(笑)。




篠竹に逆らって急斜面を登るのが面倒くさいこと面倒くさいこと。


峠に出ました。


ここからは矢印方向へと踏み込み、六厩側坑口の前へと斜面を下っていきます。




六厩側坑口の前へと出ました。ヤレヤレです(笑)。


この時点で時刻は11時半。今は高山市荘川町にいるわけですが、この後は17時までには帰宅して、岡崎市内で18時から予定しているドライバーやすい氏と共通の知人F氏との久しぶりの飲み会に間に合わせないといけません。

さっそく旧旧道を車へと引き返していきます。


が、「やっぱり、気になるこの道も『ちょっとだけ』探索してから帰るかなぁ。」と足を止めて斜面を眺めます。


場所はこちら。


こんな感じに徒歩道が斜面に残っています。先ほど上り下りした軽岡峠の前後には道跡が何も残っていないので、この道が旧郡上・白川街道の軽岡峠(旧軽岡峠と呼ぶべきか。)の峠道である可能性大です。


「ちょっとだけ。」のつもりで徒歩道を辿り始めましたが、結局、「ちょっとだけ。」では終わりませんでした(笑)。




※その3へと続く。
Posted at 2022/01/03 07:25:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年12月31日 イイね!

【高山市荘川町】軽岡峠の旧旧道と旧軽岡隧道(1)

2021年11月20日土曜日、岐阜県高山市荘川町の軽岡峠に残る国道158号の旧旧道と旧軽岡隧道を探索しました。

この旧旧道は、旧来の郡上・白川街道の峠道を明治36年(1903年)に改修した馬車道に由来し、昭和34年(1959年)に国道158号が新軽岡峠経由にあらためられたことにより、国道としての役目を終えました。

この峠と廃トンネルについては、インターネット上でそれなりの数の訪問記録がヒットします。いろいろな記事を読んでみて、今回は比較的接近が容易そうな高山市荘川町六厩側からアタックすることにしました。

峠までのルート図はこちら。現在の国土地理院発行の地形図には旧旧道も廃トンネルもきちんと記されているので(なぜ廃トンネルも記されているのかは不明ですが(笑)。)、目安になります。


戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「三日町」:大正1年(1912年)測図・昭和5年(1930年)要部修正測図。

当日は朝6時に自宅を出発。3時間かけて高山市荘川町六厩の旧旧道だった林道が分岐していく地点の近くへとやって来ました。


ここが六厩側の旧旧道入口。矢印を付けた未舗装路が旧旧道です。


まずは快適な林道散策といった風情でのスタートです。


東海北陸道の軽岡トンネルの坑口付近を通過していきます。


現在、軽岡峠は東海北陸道・国道158号ともトンネルで通過しているわけですが、名称は両方とも「軽岡トンネル」となっています。

熊笹に囲まれた道を進んでいきます。最近訪れる廃道は熊笹が多いですねぇ(笑)。


ヘアピンカーブが現れました。


この地点です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

続いて2つ目のヘアピンカーブ。


この地点です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一つ目のヘアピンカーブを見下ろしています。


緩やかな斜面でなぜヘアピンカーブを2つも設けているのかなと思いつつ歩いていましたが、こうやって見下ろしてみると、けっこう高低差があるのがわかります。それでも、今なら直線的に盛土をして通してしまいそうですけどね。

谷に沿って山の中腹部を緩やかに登っていきます。


小さな谷を迂回するようにヘアピンカーブを描いていきます。ここも今なら橋を真っ直ぐに架けてしまうでしょう。


晩秋に訪れたのは正解でした。ここまでひどい薮もなく、いたって快適な散策です。


山側に岩肌が露出しています。馬車道建設時に削り込んだものでしょう。峠までの道筋で、岩肌が露出しているような場所はここだけでした。




このカーブの谷側の路肩には、低い石垣が残っています。路肩を支える擁壁ですね。


ススキに覆われた広い場所へと出てきました。ちょっとした迷子ポイントの一つです。


もともと旧旧道(写真には「旧道」と記入してしまいました(笑)。)が真っ直ぐに通っていましたが、橋が無くなってしまい、現在の林道は右側から迂回しています。


旧旧道の橋跡を見下ろしています。


こんな構図となっています。


沢へと下りて、下から橋台を眺めてみます。




橋台の石垣は、よくよく見てみると石を積み上げただけの「空積み」ではなくて、隙間をコンクリートで埋めてあります。元からなのか後補なのかはわかりませんが。


3つ目のヘアピンカーブが現れました。


このカーブの上段に峠へと向かう道が通っています。


3つ目のヘアピンカーブの全景。




4つ目のヘアピンカーブ。




5つ目のヘアピンカーブ。




5つ目のヘアピンカーブには、さらに上段を通過していく道を支える石積み擁壁があります。この石垣はなかなかの高さがあります。


4つ目のヘアピンカーブを見下ろしています。ここは狭い場所に連続のヘアピンカーブを設けて、一気に高度を稼いでいます(と言ってもそれほどではありませんが。)。


6つ目のヘアピンカーブです。




連続ヘアピン区間の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

徒歩なら一気によじ登って行けそうな高低差ですが、馬車道としてはできる限り坂を緩やかにする必要があるので、このような造りになったのでしょう。

連続ヘアピン区間を通過すると薮がひどくなってきました。これが真夏だったらもっとひどいことになっていたでしょうね。


山側の路肩にある土留めの擁壁。


枡形の謎の構造物。多分、集水桝だと思いますが。


また広い場所が現れました。車の行き違いのために広くしたのでしょうか。




朝日に映える落ち葉のじゅうたん。この辺りの木々はしなって生えており、真冬の雪深さを感じさせます。




尾根の稜線が見えてきました。トンネルまでもう間近な雰囲気を漂わせます。


コンクリートの構造物が見えました。旧軽岡隧道です。旧旧道の入口からここまで約2.5km、時間は1時間でした。


旧軽岡隧道の竣工年は不明です。周囲の地形から、馬車道改修時の明治36年にはすでにトンネルが存在していたとする意見もあります。


現存しているのはコンクリート造りなので、少なくとも昭和に入ってから自動車通行用に改修を受けているはずです。

この六厩側の特徴は、圧壊してしまい坑口付近の構造物だけが橋のように残っていること。


そして、コンクリート内に木材が埋め込まれていることです。


昔のコンクリートトンネルは「無筋」も当たり前ですが、このトンネルはアーチ部の補強のために木材を埋め込んだのではないかと言われています。

かつてのトンネル内部の壁面を覗いてみます。古いコンクリートトンネルらしく、細い型枠の跡がたくさん付いています。


黄色の枠の部分には、坑門部に刻まれた石アーチを模した模様が残っています。


さて、黄色の枠内にある「闇」の部分を覗いてみます。


体をねじ込んでもこれが限界ですね。あまり斜面に力を掛けると土砂がさらさらと崩れてきますし…。


数年以上前にこの場所を訪れた方々の中には、まだ大きかったこの隙間から内部へと進入した人もいます。トンネルはこの先で完全に閉塞していますが、そこまでのわずかな空間は現役時のトンネルの原型を留めています。

トンネルの上部へと回り込んでみます。


表土が大きく凹んでいます。その分、トンネル内部へと土砂が流入しているのでしょう。




六厩側の坑口はこれくらいにして、次はトンネル上部の軽岡峠の鞍部を越えて、反対側となる荘川町三尾河側の坑口へと移動します。




※その2へと続きます。
Posted at 2021/12/31 03:22:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「旧倉吉線廃線跡と倉吉白壁土蔵群を訪れました http://cvw.jp/b/1796277/48784301/
何シテル?   11/24 21:37
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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