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小林あにのブログ一覧

2021年10月09日 イイね!

【和歌山県紀の川市】旧池田隧道へ行ってきました

2021年9月25日土曜日、和歌山県紀の川市にある旧池田隧道へ行ってきました。

当日は朝5時半頃に自宅を出発。国道23号知立バイパス→伊勢湾岸道→東名阪道→名阪国道→西名阪道→京奈和道と乗り継いで紀の川ICから県道62号池田トンネル方面へと向かいます。

池田トンネルを通過し、旧池田隧道からはやや離れた林道へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧池田隧道を訪れるのは2回目。前回は2009年2月に来ているので、12年7か月ぶりになります。前回来た際は、旧池田隧道へと続く林道の出入口近くの駐車帯が使えたので、今回もそこへ停めるつもりで来たところ、不法投棄防止のためにガードレールで封鎖されてしまっていました。

そのため、何度も池田トンネル付近を往復して駐車場所を探しましたが見当たらず、県道から入り込んだこの場所へ駐車しました。

話がそれましたが、今回ここを訪れた理由は、トンネルの写真をデジカメで撮り直したかったため。前回訪問時は当時持っていたガラケーで撮影したため、今となっては不鮮明な画像データしか手元にないからです。

あとはもちろんトンネルの現状をこの目で確認したかったということです。

車を停めた場所からすぐにトンネルには向かわず、すぐ近くの林道の峠へと寄り道。下界の写真を撮っておきます(笑)。写っている街は、おそらく旧岩出町の市街地でしょう。


ここで悪い癖を出し、素直に道路でトンネル最寄りの林道へと向かわず、道ならぬ山の尾根伝いで雑木林の中を縦断。

1時間ほど無駄にして、旧池田隧道へと続く林道へと出てきました。この先は道なりなので、どんどん上っていきます。


林道の突き当りにトンネルが見えてきました。




旧池田隧道です。紀の川市神取側の坑門になります。


旧池田隧道は、明治19年(1886年)に竣工しました。当時、現在の紀の川市と大阪方面との往来に利用されていた大坂街道の急峻な峠道の通行を改善にするために建設されました。

なお、竣工年については、トンネルに用いられている技法や、トンネル建設に関与した人物の顕彰碑の造立年などから、明治33年(1900年)以降ではないかと疑義を呈する意見もあります。

坑門には、笠石(坑門の一番上部の帯状の突起部分。)と帯石(笠石の下段に設けられている帯状の突起部分。)が施されています。


笠石部分には、煉瓦を斜めにして並べる「雁木」が施されています。


アーチ環は、一番内側が一段凹んで積まれており、このパターンは旧池田隧道以外では見たことがありません。


坑門壁面の煉瓦は、「フランス積み」(同じ段の中に煉瓦の小口面と長手面を交互に並べて積み上げていく技法。)で積まれています。


坑門左側は、元々覆っていた土が流出してしまい、大きく隙間が空いてしまっています。


それではトンネル内部へと入っていきます。

入っていきなり変な光景が現れます。トンネル内部の一部だけ煉瓦の巻き立てがありません。


トンネルの坑口付近だけ煉瓦巻き立てをして、中央部は素掘りのままというのはよくあることですが、旧池田隧道については、素掘りのままなのはこの数mだけで他は全て煉瓦で巻き立てられており、どうしてこの部分だけ素掘りのままにしておかれたのかは謎です。

巻き立て部分を観察すると、基本は二重巻きのようです。岩盤とのすき間が大きい部分は三重巻きになっています。




東海道本線のきちんと煉瓦が整列したアーチを見慣れている目からすると、煉瓦の並びが微妙にうねっているのがどうも気になります。ただ、これもトンネルの「味」というものです。




謎の継ぎ目。東海道本線のような建設時期の古い路線だと、開通時は単線で後年複線化した際に、煉瓦アーチ同士を噛み合わせて接合してあるのをよく見かけますが、道路トンネルにそんなことは当然無いわけで、どうしてこんな継ぎ目があるんでしょうね。


これについては「煉瓦の調達の遅れで一気に巻き立てができず、このような継ぎ目ができたのでは?」という意見があります。妥当な意見だと思います。

この部分では、先ほどの継ぎ目とは違い、明確にアーチの境目ができています。これはあらかじめ段取りでここまでを巻き立てし、また間を置いて次の巻き立てを始めた名残りかもしれません。




トンネル内部を歩いているうちに、寝ていたコウモリたちを起こしてしまいました。私を威嚇しているのか、何度も目の前を飛んでいきます。


反対側、紀の川市重行側の坑口です。この辺りのトンネル形状は、鉄道でよく見られる馬蹄型に似ています。


重行側の坑門です。南側で日当たりが良いためか、木々や雑草に囲まれています。


トンネル前にある土留めの石垣。道の曲がりに合わせて造られています。


こちら側の坑門には扁額が取り付けられています。


一部は剥落していますが、扁額には「池田隧道」とあります。鏝絵の要領で造られたものだと思われます。


この扁額は、通行人から見やすいようにしたのか、文字面を傾けて取り付けられています。このように角度を付けて取り付けられた扁額も、このトンネルでしか見たことがありません。


こちらの坑門も、笠石部分に「雁木」が施されています。ただし、帯石は設けられていません。


そして、坑門壁面の煉瓦は「イギリス積み」(小口面の段と長手面の段を交互に積み上げていく技法。)です。


アーチの最下部は、アーチ面よりも出っ張っています。


トンネル内の路面は石が敷かれていたようです。石が剥き出しのままだったのか、石の上に土や砂をかぶせて固めていたのか。見たところ、整形された石材ではないので、石の上に土や砂を敷いてつき固めてあったのではないかと思われます。


神取側の坑口へと近づいてもまだコウモリが乱舞しています。仕方がないので、刺激しないようにしばらく静かに突っ立って、トンネル中央部のねぐらに戻ってもらいます。


素掘り部分へ戻ってきました。


煉瓦アーチを見ると、坑口側に向かっては基本が一重で、隙間に合わせて煉瓦を詰め込んだり、二重にしたりしているようです




坑口側の煉瓦を見ていたら、変な部分を見つけました。赤枠で囲ってある部分、坑口側へに向かって煉瓦の列が1列増えています。アーチの巻き立てが不正確で隙間ができたために、1列挿入したのでしょう。


以上、旧池田隧道でした。


一地域の利用に供するために造られた小規模なトンネルながら、多様な技法が用いられていて、なかなか興味深い煉瓦トンネルです。ただ、今のところは地元自治体などが文化財や近代土木遺産としと保護・活用しようとする様子は現地では見られず(もちろん把握はされているし、ネットで情報提供もされている。)、このまま朽ちるに任せる状態です。

まあ、私としては、管理のためにフェンスで閉鎖されて、外観のみを指を咥えて眺める羽目になるよりもずっといいんですけどね(実際、三重県南部の旧熊野街道の煉瓦トンネル群の内、廃物件となっていた三浦・相賀・尾鷲の各トンネルは、次々にフェンスで閉鎖されてしまいました。安全のためには仕方のない事ですが…。)。

煉瓦トンネルなどの見方について、特に知識が増えたわけではないですが、いろいろな場所で現物を見たり、他の方々の情報を見聞きすることで、見方はだんだんと変わってきたと思います。

1回目の時は、煉瓦の継ぎ目などには全然気付いていなかったわけで、その時と比べれば、様子を細かく見るようにはなりました。

さて、これで写真もしっかりしたものが撮れたので、旧池田隧道にはまた当面来なくなりますね(和歌山県は自宅からはちょっと遠いイメージがあるし。)。トンネル内部に変状は無いようですし、まだまだ現状を維持してくれるでしょう。
Posted at 2021/10/09 23:23:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年10月02日 イイね!

阿曽隧道と湖北隧道へ行ってきました

2021年9月23日木曜日、福井県敦賀市阿曽の阿曽隧道と滋賀県長浜市西浅井町の湖北隧道へ行ってきました。阿曽隧道は旧国道8号の廃トンネル、湖北隧道は長期間通行止め状態となっているトンネルで、国道303号岩熊トンネルの旧道に位置します。

まずは阿曽隧道へと向かうため、4時15分頃に自宅を出発。

阿曽隧道はある意味接近困難な廃トンネルです。容易に接近できるかどうかは、ひとえに間近を通る国道8号の交通量に掛かっています。そのため、日の出から間もない時間帯に到着できるよう早朝に出発しました。

まだ日の出前、名神高速羽島PAでトイレ休憩。自宅からまだ1時間ほど走行したところですが、ちょっと眠気が来ていたので軽くウトウトしていました。


米原JCTから北陸道へ。敦賀ICで下りて、国道8号を福井市方面へと走行します。

さて、阿曽隧道のある敦賀湾の岬「黒崎」の南側、最寄りとなる国道8号の駐車帯に6時半頃やって来たのですが、ここで問題が発生。スペースが狭い駐車帯にワゴン車が2台すでに駐車しており、停まれる余地がありません。

周辺で折り返しつつ駐車帯の前を2回ほど往復しましたが、どうやら動く気配がありません。これはおそらく釣りをしに来た人の車でしょう。そうなると代わりの駐車スペースを探すことになります。阿曽隧道へのアプローチ距離が伸びてしまいますが仕方ありません。

もう2~3回、敦賀市挙野と杉津の間を往復して駐車できるスペースを探し、結局、阿曽集落内の国道8号の路肩に駐車することにしました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

時刻はすでに7時15分過ぎ。祝日とはいえ、普段通りに仕事をしている方も多いわけで、国道8号の交通量も段々と増えてきています。


阿曽集落内の道路を通り、国道8号へと出てきました。ここから正面奥に見えているロックシェッドの中まで歩き、阿曽隧道へと続く旧道(廃道)へと取り付きます。


この海岸沿いの区間が歩行者にとって何より問題なのは歩道がないこと。もっと言えば、路側帯すら満足に確保されていません。そして、ここは幹線である国道8号。大型トラックやトレーラーがビュンビュン走ってきます…。

できる限り道路の端を歩き、ロックシェッド内へと入ってきました。写真はたまたま車列が途切れたタイミングで撮りました。


この先でロックシェッドは黒崎トンネルへと向かい左カーブ。黒崎トンネルの直前は歩行者が歩くスペースも無くなりますが、ここまで行かないと旧道へ取り付けません。

トンネル直前で一旦ロックシェッドの隙間に隠れ、車列が途切れるのを見計らって海側に向かい国道をダッシュで横断。そのままロックシェッドの隙間から路外へと転がり出ます。

まずは無事に阿曽隧道前の旧道に着きました。いやぁ、緑あふれる濃い草むら、立派な廃道です…。そして右側は断崖。まあ、背の高い草むらでないのは幸いですし、国道8号の路肩を歩くことを思えば楽勝です(笑)。


草むらを踏み均してトンネル前へとやって来ました。阿曽隧道です。訪れたのは6年4か月ぶりになります。当時は蔦で覆われていました。


戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「今庄」:明治25年(1892年)及び明治42年(1909年)測図の縮図・昭和7年(1932年)第2回修正測図の縮図。

ここ阿曽隧道は、明治9年(1876年)ないしは10年(1877年)の竣工。明治19年(1886年)頃に石積みの坑門をもつ現在の形状になったようです。


大正4年(1915年)発行の「敦賀郡誌」には、「阿曽隧道は滋賀縣時代に亘りて竣る、現今の隧道は(明治)二十年の敦賀道開鑿の時猶修鑿したる者なり。」との一文があります。

トンネル内部はご覧のとおり坑口付近だけが石積みで巻き立てられ、中央部は素掘りのままとなっています。ただ、相変わらず目立った崩落はなく、安定した岩盤なのでしょう。




反対側(敦賀市挙野側)の坑口です。こちらはトンネル上部の斜面から土砂が流入しており、わずかに口を開くのみです。ただ、人が立ったまま出入りできるだけの空間はあります。


トンネルの先に続く廃道です。こちら側は南側で日が当たるためか、もっと酷い草むらに覆われています。訪問1回目と2回目の時は、こちら側から進入してきました。




少し離れた場所からトンネル坑門を振り返ります。草むらでほとんど見えませんね…。


当然ですが、挙野側の坑門も阿曽側の坑門と同じデザインです。




坑口に土砂が積もっているため、アーチ上部の要石も間近で見ることができます。


坑門の石積みは、下半分は割りと大きさの揃った石材で積まれていますが、上半分は大きさや形がバラバラです。


デザイン的にこのようにしたのか、加工の手間を惜しんだのか、そもそも石材の規格を整えて積み上げるという工法がまだ一般的ではなかったのか。どうなんでしょうね?

自分が見てきた中では、春日野隧道の側壁や旧北陸本線 小刀根隧道の側壁がやはり使用している石材の規格に統一感が全然ありませんでした(そもそも四角形ですらない。)。そして、春日野隧道は明治19年(1886年)、小刀根隧道は明治14年(1881年)と年代も同時期です。

アーチの形状も釣鐘型や放物線型などと言われる独特のもので、これは福井~敦賀間に造られた国道8号の前身「敦賀道」にあと二つ現存する隧道、金ヶ崎隧道と春日野隧道も同様の形状です。


金ヶ崎隧道


春日野隧道


フラッシュを使わないで撮影した写真です。実際のトンネル内はこんな明るさです。延長が50m余りなので、懐中電灯無しでも問題はありません。


阿曽側坑口へ戻ってきました。




アーチ環と岩盤の間は、石材などできちんと隙間を埋められています。


黒崎トンネルから続くロックシェッドを眺めています。草むらには私が踏み均した跡が付いています。またあの中を歩いて帰らないといけないと思うと、なんか憂鬱です…。


これで阿曽隧道とお別れです。


阿曽集落の出入口まで戻ってきました。これでようやく安心できます。


阿曽集落の海岸から阿曽隧道がある「黒崎」を眺めます。この地形では、明治時代であってもトンネルを掘るしか方法はなかったのでしょうね。


次は近所にある(約10km)金ヶ崎隧道へ寄り道しようと、敦賀市街地の北端にある金ヶ崎城址駐車場へ来ましたが、トンネルへと続く旧道が立入禁止の表示。

せっかくなので、周辺を少し散策してみることにします。

敦賀港駅ランプ小屋。


金崎宮。




敦賀市街地の眺め。


敦賀赤レンガ倉庫。






敦賀港駅舎(実際に存在した駅舎を復元したものではないそうです。)。


それでは最後に湖北隧道へと向かいます。

国道303号岩熊トンネルの西側付近から分岐する道を歩いていきます。


この道は、国道303号岩熊トンネルの旧道にあたる道ですが、古い標識などの遺構は特に見当たらず、いたって平凡な舗装1.5車線道です。


随分上まで登ってきました。


突き当りにトンネルが見えてきました。


湖北隧道です。竣工は昭和9年(1934年)。コンクリート造りの坑門を持つトンネルです。長い期間通行止めとなっていますが、この様子では完全に封鎖するつもりは当面ないようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

内部も当然コンクリート巻き立て。のっぺりしていて、味も素っ気もありません。


扁額には「風光随一」の文字。


琵琶湖側へと来ました。


今まで見てきたとおり、何の変哲もないコンクリート造トンネルですが、実はデザインに大きな特徴があります


「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選」(土木学会発行)によると、「(ポータル(坑門)の)せり出し部が上に行くほど外側に出て、かつ、角が丸くなっており、ドイツ表現主義を強く感じさせる(トンネルとしてはおそらく国内唯一。))」などの理由により「Aランク」(国指定重要文化財相当)と評価されています。


私は美術に関する知識が無いので、どれほどすごいものであるのかは全然理解できないのですが…。

扁額「湖北隧道」。


トンネルの正面に広がる琵琶湖。


それでは車に戻ることにします。


30分ほどで国道303号岩熊トンネル近くの駐車場所へと戻ってきました。


さて、今回のメインは接近困難な阿曽隧道でしたが、だいぶ以前から再訪する気はありました。しかし、なにぶん接近が容易ではないことがネックとなり、何度も何度も目の前を通過していました。

今回は、最寄りの駐車帯が使えない時も、違う場所を見つけて必ずトンネルへ行くと決めていました。それくらいの気持ちでないと、なかなか行く気になれない場所でしたからね。

これでようやく目的を達したので、おそらく4回目の再訪をすることはないでしょう。
Posted at 2021/10/03 00:48:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年09月26日 イイね!

松本城見物と新坂巻トンネル旧道区間の廃道歩き

2021年9月19日日曜日、姉の誘いで母・私の3人で長野県松本市の松本城へ出かけてきました。姉が松本城へ行く気になったきっかけは、「ブラタモリ」で松本城を取り上げていたからだそうです(笑)。

5時20分頃に自宅を出発。当日は晴天の予報でしたが、東海環状道から中央道へ入っても、雨が降りそうな暗い色の雲が立ち込めています。


中津川IC付近からようやく晴れ間が見え始め、恵那山トンネル手前の神坂PAではすっかり快晴に。恵那山もよく見えています。


8時50分、松本城に到着です。天守の後ろには北アルプスの山々がきれいに見えています。


城内へと入場します。


真っ青な晴天に黒い天守がきれいに映えています。




天守へは、各グループや家族単位で警備員さんの指示を受けて、一組づつ間隔を置いての入場でした。

とは言っても、城内を移動するのにそんなに急かされたわけでもなく、割とマイペースに見物することができました。




見どころの一つである月見櫓は工事中で櫓内への立ち入りは禁止。外観も白い幕で覆われてしまっていました。


天守の外へと出てきました。


松本市のマスコットキャラ「アルプちゃん」と松本城天守。


松本城の内堀に沿って天守を眺めながら、車へと戻ります。






北アルプスを眺めると、手前の山脈の隙間から槍ヶ岳がひょっこりと頭をのぞかせていました。


さて、松本城見物が終わり、どこか寄り道をするかという話になりましたが、特に行きたい場所もないとのことで、ひとまず国道158号で高山方面へと向かうことにします。

山に入る前に昼御飯を食べようということになり、たまたま赤信号で停止した交差点の脇にあったレストランへ。

メニューを見るとボリュームのあるものばかり。あんまりお腹が減っていなかったので、メニューの写真を見て「これならいいだろう。」と思って注文したオムライスがこれもなかなかの大盛り(笑)。


小皿1杯分だけ姉に手伝ってもらい、何とか完食いたしました。

新島々駅付近から国道158号は梓川沿いの渓谷へと入っていきます。本当は奈川渡ダムから境峠を越えて木祖村へと出て、そこから国道19号で中津川へ出ていこうかと考えていたら、境峠が通行止めとの表示。

もう一つ県境を越えることができるルートである野麦峠も同じく通行止め。仕方がないので、高山市まで向かうことにします。

「それならば。」とここで1か所、廃道へ立ち寄ることにします。

立ち寄ったのは坂巻温泉。


バス停の先にある新坂巻トンネルの旧道区間が廃道化しているので、母と姉には休憩していてもらい、ひとっ走り様子を見に行くことにします。

バス停のある国道の橋から見下ろすと、古いコンクリート橋が架かっています。旧国道の橋で、下坂巻橋という名称のようですが銘板が残っておらず、はっきりしません。


橋の上にはたくさんのゴムパイプが転がっています。


旧橋から国道の橋を眺めます。


廃道区間へと入り込みます。




50mあまり歩いたところで路肩が崩壊しています。山側を通れば問題は無いので、先へと進んでいきます。




崩落箇所の先から草むらが濃くなってきますが、薄く残っている踏み跡を頼りにザクザクと踏み均しながら歩いていきます。


2つ目の橋が現れました。


こちらは銘板が残っていて「かみさかまきばし」(上坂巻橋)とあります。


「昭和参拾貮年参月竣工」とあります。昭和32年(1957年)ということで、比較的新しい橋です。それ以前はどのような形状の橋が架かっていたのでしょうかね。


橋のすぐ上流側、荒々しい岩肌が姿を見せています。


反対側の橋のたもとには落石してきたのであろう巨岩が横たわっています。この岩が橋の上に落石していたら、上坂巻橋は半壊して渡れなくなっていたでしょう。


また深い草むらになります。ここも路肩がえぐれたように崩落しているので、足元に注意を払いながら進みます。


両側の路肩に標識が残っていました。右側の速度標識は木にもたれかけてあります。


そして廃道はこのすぐ先で完全に崩落していたため、引き返しました。


あらためて標識の写真を撮っておきます。




上坂巻橋へ戻ってきました。


こちら側の親柱の銘版には「犀川」とあります。


「どうして『梓川』ではないんだ?」と思い、帰宅してから調べたら、「『梓川』とは『犀川』上流域を示す別称。河川法上は上高地を水源にする流路は『犀川』と定められている。」ということでした。今まで、松本平で奈良井川と合流するまでが「梓川」で、その先が「犀川」だと思っていたので、勉強になりました。

坂巻温泉まで戻ってきました。


この後は、安房峠道路を通らずに旧国道の安房峠を越えようと思いましたが、こちらも通行止め。代わりに平湯温泉から旧国道を登り、平湯峠へと来ました。




この先は乗鞍スカイライン。現在は通年のマイカー規制のため、自家用車での通行はできなくなってしまっていますが、自転車での通行は可能なため、何台もの自転車が行き交っていました。


この後は、高山市内からせせらぎ街道を通り、郡上八幡へ。ここから東海北陸道に乗り、家路へと就きました。
Posted at 2021/09/26 20:16:38 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年02月22日 イイね!

国道473号四辻峠~岡崎市夏山町の古道を探索

2021年2月13日土曜日、国道473号四辻峠と岡崎市夏山町を結ぶ古道の探索をしてきました。

今回探索したのは、この戦前の地形図中の緑線のルートの一部になります。


※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行

国道473号四辻峠にやって来ました。先日、「千万町街道」を歩いた時に駐車した場所とまったく同じ場所になります。



「四辻峠」と呼んでいますが、実際には地図にも現地にも「四辻峠」の表示はなく、愛知県内の街道や峠を踏査した本に紹介されているのみです。

場所は地形図中の星印になります。ここから古道を探索しつつ、南方向にある夏山町の集落を目指していきます。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図を見てみると、当時の道は現在の国道ルートではなく、駐車場所から国道を横断して、向かいにある林道の方向へ行っていたようなので、その通りに進んでいきます。



5分ほど歩くと広場がありますが、右側に続く道を進んでいきます。



先ほどの広場までは車が出入りしている感じがありますが、その先は廃道然となってきます。



水田跡のようです。



廃道らしくなってきましたが、古道よりは幅が広く、林道の廃道といった風情の道跡が続きます。







道が分岐しています。右側の道は高圧線鉄塔の巡視路になっているようです。



依然、馬車道・荷車道サイズの廃道が続いています。



この辺りになると、直下に国道が接近してきています。



やがて、廃道は国道に削られてしまいました。



折り返して、一旦、国道へと出ていきます。



現在地は、青線の下端になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そのまま100~200mほど国道を歩き、次はこの交差点で写真中央の電柱が立っている場所へと入り込んでいきます。



ここに続きとなる古道が残っています。今まで歩いてきた廃道よりも狭い道跡です。



50mほどで他の道跡と交差し、古道の行方はわからなくなりました。ひとまずは正面を下っていく道跡を追ってみます。



この付近はいろいろな幅の道跡が残っていて、どの道跡が正しいのか皆目見当がつきません。林業用に造られた作業道なのでしょう。



植林地の中に違う種類の巨木(これはそれほどでもありませんが。)が残っていると、ここが古道で正解なのかなとも思えてもきます。



歩いてきた道跡も、また違う道跡と合流してしまいました。どうも「はずれ」のようです。



先へと進む方向へ歩いていったら、国道から分岐していた細い舗装路へと出てきました。





現在地は、青線の下端になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、どうしたものか。しばらく周囲を眺めてみますが、古道の続きと思われる道跡を見い出すことができません。ここは迂回することにして、そのまま舗装路を下っていくことにします。

20分ほど歩いて、愛知県道333号へと出てきました。



現在地は、青線の下端になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

少し歩くと夏山町の集落が見えてきました。この県道333号、ドライブで数えきれないほど走っている道なので、まあ今さらではありますが(笑)。



集落を通り過ぎた所にある分岐点まで歩いてきました。方向としては北を向いています。左側の道が今回探索しようとしている古道になります。



現在地は、青線の下端になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

折り返して、夏山町の集落へと戻っていきます。

集落の中を流れる川にぶつかる地点です。本来はここに橋が架かっていたのでしょうが、今は道跡が残っているだけでした。



ここで左へと曲がり、川沿いを進んでいきます。





ふたたび舗装路へと出てきました。



ここでトラ猫と遭遇(笑)。やたらと人懐こく、わざわざ鳴きながら寄ってきて、しばらくまとわりついておりました。



さて、猫と遊ぶのはほどほどにして、舗装路を直進していきます。



やがて谷へと入り込んでいきます。「600m先通行止」とあるので、その辺りから古道が始まることを期待して坂を登っていきます。



周囲を観察しつつ、コンクリート舗装された急坂を登り続けます。



やがて、林道から右へと折り返して分岐していく道跡を見つけました。写真は振り返ってから撮っています。



現在地は、赤線の上端になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

作業道の廃道にも見えなくはないですが、ひとまず突っ込んでいきます。





古道らしくなってきました。坂、キツイですけどね(笑)。



先ほど別れた林道が戻ってきて、飲み込まれてしまいました…。



ほどなく切り通しが現れました。



切り通しを通り抜けて坂を下るも、自分が想定していた方向とは違う方向へと林道が向かっていたので、林道から外れることにします。





外れた場所は浅い堀割りになっていて、その先に道跡もあったのですが…。



すぐに間伐された幹や枝に埋め尽くされた植林地になって、道跡がわからなくなってしまいました…。



もう仕方がないので、ひたすら植林地や雑木林をトラバース。



最初の方で国道から分岐していた細い舗装路へと何とか転がり出ました。



ここからは舗装路を登っていきます。当然、周囲を観察しながらです。

左側の斜面に切り崩された古道を発見。よじ登ります。



行きに坂を下っていった道跡ではなく、こちらが本命の古道だったようです。







そして、また舗装路に削り取られてしまいました。



この後は国道へ合流。しかし、狭い国道を歩いて帰るのも危ないので(そこそこ車は通る。時にはダンプも。)、廃道に入り直して車まで戻っていきました。

今回歩いた行程はこちら。歩いた距離は6~7kmといったところでした。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

前半部では古道に相当すると思われる道跡を辿ることができましたが、後半、国道から分岐した後から夏山町の集落までを結ぶ古道が全くわかりませんでした。

正直言うと、新旧地形図を保存したタブレットを持たずに手ぶらで訪れていたので、当てずっぽうな探索になってしまいました(本当はこの日はドライブするだけのつもりだったので。)。

帰宅してから復習。古道の推定ルートは緑色の破線だったので、それがわかっていれば、帰り道の赤線ルートを歩いている時にもっとしつこく探したかもしれません(笑)。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

実際、推定ルートの谷筋を見上げてはいましたが、どうにも道跡が見いだせなかったので、リスクを取れませんでした(要らぬ登り降りをして、余計な疲労をしたくないということね。)。

ちょっとモヤモヤ感は残りましたが、ここはこれにてひとまず結了ですね。
Posted at 2021/02/23 06:33:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年02月07日 イイね!

愛知県道33号 大多賀峠の古道を歩く

2021年2月6日土曜日、愛知県道33号の大多賀峠に残る古道を歩いてきました。

とは言うものの、今回は明確に目的地を決めて出かけたわけではなく、「このまま家でゴロゴロするよりはドライブでもしてくるかな。」といった感じで、昼頃に自宅を出発。

豊田市足助まで走ってきて、「取りあえず段戸湖(北設楽郡設楽町田峯字段戸)まで行ってみるかな。」と県道33号を登ってきました。

段戸湖付近の周辺図です。ちなみに段戸湖には立ち寄っていません(笑)。横目で見たら岸辺から5mくらいは凍っていました。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずやって来たのはこちら。時刻はすでに13時50分です。



場所はここです。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図にある道(赤線で印した道)を歩いていって、尾根から下り始める地点を確認してみます。


※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行

この写真を撮った場所の標高は990mほど。真下を流れる寒狭川の深い谷のおかげで遠方まで視界が開け、南アルプスまで望めます。



林道は北側の斜面を通るので、所々、積雪が残っています。



林道と東海自然歩道が交差する地点まで来ました。徒歩道(現在は東海自然歩道。)はここから寒狭川の谷へと下っていきます。



少しだけ降りていってみましたが、見える範囲ではずっと階段が造り付けられているためかいまいち味気が無く、どうにも古道の趣がありません。



県道33号の前身にあたる古道かと思っていましたが、東海自然歩道に指定されたので、手入れされてしまったのでしょうね。また気が向いたら寒狭川の谷底から登ってみますかね。

歩いたルートはこんな感じ。往復約2kmでした。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、次は県道33号と県道365号の交差点付近へ来ました。



現在地はここ。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

県道33号と県道365号の交差点です。直進方向が設楽町田口へと向かう県道33号、右折方向が設楽町三都橋へと向かう県道365号です。



ここでは、県道365号の旧道に当たる道が残っているのか探します。戦前の地形図に赤線で印した区間を歩いてみます。


※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行

県道365号です。こんな山奥ですが、入口に電光掲示板が設置されています。そのほかにもいろいろな注意標識などが奥に向かって設置されています。



最大幅2.2mの標識です。「ここから11.8km」となっているところがミソですね(笑)。いや、ホントに狭いんですよね、この県道。



つづいて県道標識とまた最大幅2.2mの標識(笑)。「この先長大車 幅員狭し」の文言も添えられています。



最後の最大幅2.2mの標識。ここまでしつこく標識が設置してあるのは、過去に進入した長大車があったのでしょうね。



峠に来ました。トラックだとここが転回できる最後の場所ですね。ここからいよいよ最大幅2.2mかつ急坂の本領となります。



もう結論を言ってしまうと、この先に旧道に当たるような道はありませんでした。やはり昔からの道を自動車通行用に改修したみたいです。そもそも地形が急峻過ぎて、他のルートが見い出せませんね。













設楽町三都橋まで続く弁天谷まで降りてきました。大曲橋とあります。ヘアピンカーブにある橋なのでそういう名前にしたのかな?



現在地はここ。交差点から約1.7km歩いてきました。時刻は15時。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

谷底で日が当たらないので、路面コンディションは最悪ですね…。それでも歩いている間に下っていく車が1台と登ってきた車が2台いましたけどね。



路肩の各所にツララがぶら下がっていました。



路面に転がっていたツララ。なかなか太く育っています(笑)。



交差点まで戻ってきました。ただいまの時刻は15時30分。この交差点で標高910mありますが、気温は8℃だったので、歩いてさえいれば全然寒くありません。



ようやく表題の県道33号大多賀峠へとやって来ました。時刻は15時50分。随分日も長くなったものです。



愛知県の峠を紹介する本に、この峠に古道が残っていると書かれていたことを思い出して立ち寄りました。

戦前の地形図はこちら。青枠部分は今の県道ルートと違いはなさそうなので、峠からすぐの赤枠部分の探索になりそうです。


※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行

坂の頂上付近で北側へと入り込みます。



入ってすぐの場所に十字路があります。この写真は右折して大多賀集落へと下っていく道になります。



この写真は左折方向。これが古道時代の大多賀峠でしょう。



すぐ先で県道33号に削り取られています。



直進方向の道は、すぐ先でさらに二股に分かれています。峠でこんなに道が分岐しているとは予想していませんでした。



それではまず右折して下っていく道を辿ります。



何か違和感あり過ぎる道ですね…。直線なのはいいとしても、急坂過ぎる。



徒歩道ならもう少し狭くて、うねうねと蛇行した道になりそうですし、馬車道・荷車道ならこんな急坂では通行困難にもほどがあるレベル…。



いまいち来歴が絞れない道ですね。本当に峠の古道なのか?

小石が多くて歩きにくい道です。今も水が流れているので、大雨時には路面を洗うほど雨水が流れるのかもしれません。



坂の下まで来たところで、左側から合流してくる古道を発見。これは間違いなく大多賀峠の古道の一つでしょう。登り返す時はこの道で行くことにします。



正面の薮の中に石が立っています。明らかに人間が置いたものでしょう。



二つある基壇のうちの一つに石碑が立っていました。



近寄って読んでみると「馬頭観世音」と彫られています。右列は「明治三拾六年〇月吉日」、左列は名前が彫られていて「池野永次郎」と思われます。



明治36年は1903年になります。今までに見てきた馬頭観音では新しい部類になりますね(私が見た中で一番新しいのは大正年間のもの。)。右側にも石仏か石碑が立っていたのでしょうけど、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。

馬頭観音碑のすぐ下で薮を突破、蔵の横へと出てきました。





この坂道をさらに下っていけば大多賀集落へと出ていくことができます。戦前の地形図だと、ここから右へと進むことになりますが、今回はここで引き返しました。



峠を見上げた方向での写真。なかなか立派な蔵ですが、さらに右手に建っている民家には人が住んでいるような気配はありませんでした。



分岐点まで登り返してきました。



なかなかしっかりと道が残っています。



歩き始めてほどなく、また分岐点がありました。真っ直ぐに続いていく道もありましたが、ここはS字に折り返して登っていく道へと進みます。



尾根の上に浅い堀割り道がゆるく蛇行しながら続いています。





他の道と合流しました。



左斜め気味の直進方向へ続く大多賀峠への峠道。



右側の道は斜面に沿ってゆるく下っていく道です。



少し跡を追ってみたところ、先ほどのS字の折り返しで分かれた道と合流していました。尾根の坂道を迂回する道として使われていたようです。

峠へ向かう直線路を登っていきます。この坂道は道幅があって、ちょっと格のある街道を思わせます。



大多賀峠へ来た時に見た二股へ出てきました。せっかくなので、左側の道も辿ってみることにします。



尾根にでも登っていくのかと思いきや、この道も下っていきます。



なんと斜面の手前で折り返していきます。



結局、尾根の坂道の上にある分岐点へと出てきてしまいました。







どうやらこの道も、直線路の急坂を避けるための迂回路だったようです。このような迂回路があるということは、荷を積んだ牛馬がよく往来していた道だったのでしょう。

足助から中馬街道(飯田街道)を通って急峻な伊勢神峠を越えるよりは、同じく長い坂がずっと続くも、急峻な峠がない県道33号ルートを通る旅人や中馬も多かったのかもしれません。

もう一度、直線の坂道を登っていきます。



大多賀峠へと戻ってきました。



大多賀峠で歩いたルートはこちら。最初に下った道が茶色線、登り返してきた道が赤色線、迂回路が青色線になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠から蔵の前の道路までの標高差は60mほどですが、その中でもいろいろなルートを取って、少しでも峠を越えやすく工夫しているのがわかりますね。

今回は小ネタ的なものでしたが、しっかり歩けましたし(週末くらいは体を動かさないと、余計に体の動きが渋くなる…。)、それなりに楽しむことができました。
Posted at 2021/02/07 13:33:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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