• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

小林あにのブログ一覧

2024年11月29日 イイね!

中央自動車道「談合坂SA付近の廃道」へ行ってきました。

2024年7月6日土曜日、今回も弟の誘いで山梨県上野原市にある中央自動車道談合坂SA付近の高速道路の廃道を見に行ってきました。

当日は、豊田東ICから東海環状道に乗り、中央自動車道へと乗り継ぐルートで現地へ向かうことにしました。

さて、そのまま大月ICまで行っても良かったのですが、せっかくなので寄り道。一宮御坂ICで下りて、国道20号を走行。途中で山梨県道212号へと入り、笹子峠への旧道を登っていきます。

笹子隧道の甲州市側坑口に到着です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

笹子隧道の開通は1938年(昭和13年)。このトンネルが開通するまでは、笹子峠を自動車で越えることはできませんでした。


1938年という古い時代の開通ではありますが、甲州街道という幹線道路に造られたトンネルと考えると内径が小さいですね。幅3.0m、高さ3.3mしかありません。昔の車両が今よりも小型だったとしても、対面通行できるくらいのサイズで建設しても良かったのではと思います。


ただ、戦前に発行された「本邦道路隧道輯覧」には、有効高4.0m、有効幅員4.6mとあります。トンネルを見るとアーチ部分が二重になっており、後年に補強のためアーチ部の巻き立てを追加施工したのかもしれません。

笹子隧道の扁額。


トンネルの延長は239m。この狭さなので、反対側から車両が来ていないことを確認してからでないとトンネル内へと進入できません。


トンネルの少し手前には、旧甲州街道が県道を横断しています。


少し旧甲州街道へと入り込んでみます。


石仏がありました。


峠へと向かって、幅広な掘割道が続いていました。今回はここで引き返します。


大月市側の坑口へとやって来ました。


こちら側の坑門は西洋風なデザインとなっていて、ピラスター(壁柱)も装飾されています。開通当時も煉瓦調の色彩を施されていたのかは不明です。


大月市側の扁額。


笹子隧道の説明板。




笹子隧道はこれくらいにしまして、本来の目的地である談合坂へと向かいます。

時刻は13時過ぎ。中央自動車道談合坂SA付近の高速道路廃道に到着です。ここは廃道の東側末端部になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応、高速道路らしい雰囲気が残っていますね。しかし、暑い…。


左側が高速道路の廃道、右側が高速道路の現道になります。


階段を下りて、廃道下のガードへと来ました。鬱蒼としていますね…。


「相模湖16」のプレートが付いています。


通行人がいそうな場所ではありませんが、このガードも内部はきれいです。しかも照明が点灯しています。


反対側へと出てきました。周囲に目に留まるようなものは特になかったので、すぐに引き返しました。


最初に駐車した場所から西側へと移動してきました。


跨道橋から廃道を眺めます。先ほどの場所よりも、より強く高速道路の面影が残っていますね。そして、左側を並行する道路は、高速道路の車線をそのまま転用したわけではなく、やや位置をずらして敷設されたことがわかります。


廃道の西側末端部を眺めます。廃道と現道をつなげてみると結構な急カーブになりますね。この急カーブは廃道部分が廃止された理由の一つなのかもしれません。


こちらは道路脇に残された注意看板。「この先急カーブ」とあり、東側の合流地点も急カーブだったことが窺えます。


これくらいにして、現地から引き揚げます。名神高速道路今須トンネルの廃道よりも見どころはありましたが、ワタクシ的には、特別印象に残るという場所でもなかったですかね。

それよりも、中央自動車道が通過しているルートに寄り添うように、旧甲州街道が通っていたとわかったことの方がインパクトがありました(笑)。

こちらは旧甲州街道の恋塚一里塚跡。




場所はこちら。現在の甲州街道である国道20号からは、随分とかけ離れた場所に存在しています。というか、同じ地形図内に国道20号は通っていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは戦前発行の地形図。赤線が旧甲州街道ですが、山の中腹を縫うように通過していたことがわかります。何らかの事情があって桂川沿いを避けたのか、距離短縮のために山の中腹を通過していたのか。どういう理由だったのでしょうかね。

※25,000分の1地形図「上野原」:昭和4年(1929年)測図。

最後の寄り道は、大月市にある「日本三奇橋」の一つ「猿橋」。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋は「刎橋」(はねばし)と呼ばれる形式で架けられています。橋台部となる岩に穴をあけて木材を重ねるように差し込み、上の木材をよりせり出させることで、橋脚を建てることが困難な深い渓谷でも架橋することができる技術です。




現在の橋は1984年(昭和59年)に鉄骨造りで架け替えられたものですが、ネット検索すると木造時代の猿橋の写真を閲覧することができます。

こちらは、猿橋の下流側に架かる八ツ沢発電所第一号水路橋と国道20号新猿橋。


上流側に架かる旧国道の新猿橋。1934年(昭和9年)の架橋です。新猿橋が架橋されるまでは、猿橋が国道の橋としても利用され続けていたわけです。


八ツ沢発電所第一号水路橋。この水路橋は、大正期に建設された大規模な水力発電施設である八ツ沢発電所の施設群の一つとして、重要文化財に指定されています。






さらにこの場所には、旧中央本線の廃トンネルも残っています。どうやったら接近できるのか確認はしていませんが。


帰りは大月から国道139号を通り、本栖湖からは国道300号に入って身延へと出て、中部横断道・東名高速道路を通って帰宅しました。

晩御飯はお決まりの牧ノ原SAで(笑)。
Posted at 2024/11/29 00:00:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2024年11月26日 イイね!

名神高速道路「今須トンネル廃道」と関ケ原鍾乳洞

2024年6月30日日曜日、弟の誘いで岐阜県不破郡関ケ原町にある名神高速道路の廃道を見に行ってきました。

この廃道は、現在の名神高速道路今須トンネルの旧道に当たります。途中に半径280mの急カーブが存在するために、1964年(昭和39年)の開通以降、交通事故の多発地帯となっていました。1978年(昭和53年)、新たに現在の今須トンネルを経由するルートが完成したことにより廃止されました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

弟によると、今回この場所を訪れることにしたのは、YouTubeでこの廃道を紹介した動画を見て、行ってみたくなったからだそうです。

現地へとやって来ました。あいにくの雨模様ですが、散策する分には問題ないでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、現在の地形図には残存しているガードが表記されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

盛り土部分は取り払われて、コンクリート構造物が露出した状態となっています。


車1台が通過できる程度の幅ですね。


「彦根117」のプレートが残されています。


反対側の出入口には木が茂っているので、現状、車での通行には難ありです。


こちら側にも「彦根117」のプレートが残っています。


車では反対側へと出られない状態ですが、ガードの内部は利用されているかのように、まずまずきれいな状態を保っています。


この場所から徒歩でかつての高速道路のルートをだどってみます。


坂を下った所で右折するとコンクリート擁壁があります。これも高速道路の構造物の名残りなのでしょうか。


ふたたび直進ルートへと戻り、先へと進んでいくと橋を渡ります。舗装路の左側の砂利道がある高台が、かつての高速道路になります。


これといった遺構が見当たらないまま歩を進めていくと、廃鉄道車両を見つけました。


車掌車と貨車の合造タイプですね。形式はわかりませんけど。




名神高速道路との合流地点まで来ました。結局、「彦根117」ガード以外、はっきり遺構だとわかるものは確認できませんでした。


合流地点にある現道のガードは「彦根114」。ということは、廃道区間にあった「114」から「116」のガードは撤去されたということなのでしょう。


これにて廃道区間の散策は終了。車へと戻ります。


「まだ時間も早いし、どうするかね。」ということで、同じ関ケ原町内にある「関ケ原鍾乳洞」へ行ってみることにしました。

こちらは鍾乳洞への道路の路肩に立つ「立哨台」。実は鍾乳洞がある敷地、戦前までは陸軍の火薬庫がありました。




こちらは周辺の戦前の地形図ですが、火薬庫の記載はありません。軍事施設なので、載っているはずがありませんけどね。

※25,000分の1地形図「關原」:大正9年(1920年)測図。

こちらは第5火薬庫。


表に説明板が立っています。


見学できるので中へと入ってみます。雨天のため、庫内はかすかに靄っています。


庫内に設置されている各種説明板。








火薬が保管されていた庫内を覗きます。火薬があっただけのはずですが、戦前の軍事施設だと思って見てしまうと、何とも言えない気分になります…。


外側を振り返って見ています。人が出入りした区画の壁面は白く滑らかに塗られていますが、当時のままなのか補修されたものなのか。


さて、それでは本題の鍾乳洞へと潜ります。子供の時以来ですかね。もうはっきりとは覚えていません。昔はテレビCMもやってました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここは、洞内がとにかく狭い・低いです。あとは、人工的に掘削した区間が長いみたいですね。




洞内の様子です。










外へと戻ってきました。店舗が昭和チック丸出しで、ある意味和みます(笑)。


店内で地元の方々が作っている蕎麦をいただきました。


この後は、関ケ原町からいなべ市へと抜けて伊勢湾岸道で一旦帰宅。あらためて弟と二人で行きつけの焼肉屋へ出かけて、晩御飯を食べました。


Posted at 2024/11/26 21:08:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2024年02月01日 イイね!

【奈良県十津川村】「筏師の道」を東野集落跡まで歩きました

2023年11月18日(土)、奈良県吉野郡十津川村を流れる立合川の右岸に残る木馬道を探索してきましたが、予定よりも早く引き返すこととなったため、合流した「筏師の道」を歩いて東野集落跡まで足を伸ばすことにしました。

立合川右岸の木馬道と「筏師の道」の合流地点。このまま直進方向へと進んでいきます。


合流してすぐの地点で、山側から大量の礫が道筋へと流れ込んでいます。滑って転ばないように踏みしめながら、ゆっくりと通過していきます。




古道に立つ金属製の電柱。場違いな建造物ですが、昔はコールタールに塗られた木製の電柱が立っていたのでしょうね。


古道を歩いていると石畳を見ることはありますが、石段を設けている場所はまず見ることがありません。牛馬が歩くには邪魔そうですし、この道はもっぱら人が歩くことだけを想定していたのかもしれません。


この辺りは滑らかな壁面の岩が本当に多いです。


岩がゴロゴロした枯れ沢。道と沢の間に段差が無いので、多分、元から橋は架かっておらず、沢の中を渡っていく感じのようです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石段の道を登っていきます。


ここも山側から岩が流れ込んでいます。ハイキングコースとして使われている道なので、路上部分の岩は取り除かれています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

急坂のためか、ここにも石段があります。


現れる沢はどれも岩がゴロゴロとした枯れ沢ばかり。標高はさほど高くはありませんが、急峻な地形のせいなのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣道でさらに坂を登っていきます。


道の状態は立合川の木馬道に比べれば全然問題ありませんが、周辺住民のかつての生活路だったと見ると、やはり険しさは否めません。








ここもなかなかにキツイ急坂です。


眼下に廃屋が見えています。どうやら東野集落跡へと着いたようです。


こんな山奥になぜかダム放水の注意看板が立っています。


シダに覆われた斜面の上にも家屋が見えています。見る限り、こちらも廃屋になっているようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

集落跡の中の道を進んでいきます。廃集落なので人がいないのは当然ですが、家屋が管理されているとか耕作されている畑があるなど、他所から誰か通ってきているような様子も全くありません。






集落跡内の様子を眺めつつ、「筏師の道」をどんどん登っていきます。






路傍の石垣の上に墓碑か石碑と思しきものが立っていました。碑文などの内容についてはっきりと読み取ることはできませんでした。


近畿自然歩道の案内標柱。


頭上に立派な石垣が見えています。何か遺構が残っているかもしれません。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣の上に来てみるときれいに更地になっていて、残念ながら建物の遺構はありませんでした。


わずかに生活用品の残骸が転がっています。




尾根の稜線が見えてきたので、もうひと踏ん張り急坂を登っていきます。尾根越しに冷たい風が吹き下ろしてきて、歩いていても寒くてたまりません。




尾根に出ました。ここは通称「東野峠」と呼ばれているようですが、昔からある地名ではないような記述もあります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図を見ると、東野集落跡から北側へと向かう道と合流できそうなので、そのまま尾根伝いに北側へと進んでみることにします。




モノレールが合流してきました。森林管理用か送電線管理用かわかりませんが、現在は使用されていないように見受けられます。




東野集落跡から来た道と合流しました。この道を通り、東野集落跡へと戻ることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひたすら一直線に東野集落跡へと下っていきます。ここで急に雨に降られ、冷たい風と相まって凍えそうでした。


東野集落跡へと戻ってきました。車社会の現代で、険しい山道を徒歩でしか来ることのできない山奥の集落では、遅かれ早かれ廃集落となる運命だったでしょう。


「筏師の道」を立合川方面へと戻っていきます。




立合川右岸の木馬道との合流地点まで戻ってきました。帰りはこのまま「筏師の道」を進んでいきます。


やはり気楽に歩ける道ではないですね。




眼下に北山川の流れが見えています。昔は多くの筏が新宮の街を目指して北山川を下っていきました。そして、その筏を操った筏師が新宮の街から地元の山へと帰るために通った道がこの「筏師の道」なのです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

立合川に架かる吊り橋「有蔵橋」に来ました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道169号立合川橋まで登ってきました。時刻は15時20分ですが、日射しはすっかり夕暮れです。


15時25分、駐車場所に到着しました。


今回歩いた「筏師の道」のルート図です。あらためて地形図を見ると、東野集落跡がいかに孤立した場所に存在していたのかよくわかります。新たに開通した国道169号も、集落跡のある山を長いトンネルで通過しているだけですからね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2024/02/01 22:46:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年12月23日 イイね!

【奈良県十津川村】「旧逓信道」を歩く(2)

2023年10月28日土曜日、奈良県吉野郡十津川村上葛川を通る「旧逓信道」を途中まで歩いてきました。

前回(1)では、この場所まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を塞ぐようにカーブで築かれた石垣です。一番下の部分には、沢水を流すためなのか穴が開いています。


沢の上流側にも低い石垣が組まれていて、ちょっとした築堤になっています。


植林地を通り抜けていきます。


二股に育った杉の片面が枯れてしまったものなのでしょうか。


道が崩れて、ガタガタに荒れた斜面になっています。足元に気を付けながら通過します。


また切り通しを越えていきます。


切り通しを抜け、ガレ気味の荒れた場所を歩いていきます。奥には石垣が見えています。


岩の切り取り工に石垣を組み上げて道を通しています。


小さな沢を石垣で埋めてあります。沢の水を石垣の路上に流すようにした「洗い越し」のようです。




目の前の斜面が崩落して、道が完全に寸断されています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

寸断された場所からほんの少し戻り、下側へと迂回していきます。


迂回ルートの岩壁には、明らかに人工的に削られた跡があります。まだ「旧逓信道」が現役の頃(少なくとも里道・生活路として。)に、すでに本来の道筋は崩落により通行できなくなり、この迂回ルートを造り直したのかもしれません。




迂回ルートから上を見上げると石垣が残っています。ただ、本来の「旧逓信道」の道筋はさらに上の黄色の線の部分を通過しているので、何のための石垣なのかはよくわかりません。


迂回ルートを100mも歩かないうちに、滝のような大きな段差がある枯れ沢に遭遇しました。この部分も、「旧逓信道」の本来の道筋は崩落により消滅したようです。


枯れ沢を渡ると、迂回ルートは急斜面を無理やり上り、「旧逓信道」の本来の道筋へと復帰します。






倒木が被さっている場所にロープが掛けられています。


木製桟道が腐って落ちています。ここもロープでバランスを取りつつ、わずかな岩の出っぱりを伝って通過します。




岩の切り通しを通過。


ここも材木を並べた桟道があったようですが、ご覧のとおりボロボロ。張り出した岩の上を歩いて渡ります。一応、登山ルートではあっても、廃道転用のマイナーなルートなので、管理の手はなかなか及ばないようですね。


岩壁に沿った崖道です。きれいな壁面ですが、やっぱり自然にできたものなのでしょうね。


そして谷側を覗き込むと、けっこう縮み上がるような高さなんですよね…。


岩場の崖道が続きます。


荒れた沢を通過します。


まだまだ石垣が現れます。この「旧逓信道」、本当に一体どのくらいの期間と費用を掛けて整備された道なんですかね。きちんとした来歴が知りたいものです。


そして、岩の切り通しを通過。


ここも本来の路面が流失して凹地になっています。大きな破断はないので、一歩一歩注意しながら通過していきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

大きな根っこの塊が道を塞いでいます。ここは山側を通っていきます。


岩壁と石垣の道が、崩れながらもまだまだ奥へと続いています。


どうにも怪しい雰囲気の木製桟道…。念のため、岩壁にもたれ掛かるようにして通過します。


これはいかにも人の手で削った感じがするゴツゴツした壁面。


また道の状態が悪くなってきました。地形図で確認すると、この辺りから尾根まで上るようです。ただ、この現場を見ると、崩れやすい場所を踏み跡のような細道で上っていく感じ。


この日は夜に用事があったため、もともと目的地を定めて踏破することまでは考えていませんでしたが、道の状況や時間的なことを踏まえて、この地点で引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まだまだ気は抜けませんが、元来た道を引き返していきます。


白いキノコの上に誰が乗せたのか唐辛子の瓶が…。意味がわからん…。


往路ではハラハラした道中も、復路では状況がわかっているので、要所要所は注意しつつ、サクサクと歩いていきます。








上葛川の集落まで戻ってきました。ようやく一安心です。


自分の車もちゃんと待っていてくれました(「もしかして無くなっているかも…。」という気持ちは、毎回ちょびっとだけ持っています(笑)。)。


今回の探索ルートの全体図です。青線は未踏の「旧逓信道」、赤線が今回踏査した部分です。往復距離8.6km、4時間45分の行程でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

また出直して、続きを歩くかどうかは未定です。いっそ歩くなら、下北山村浦向側から笠捨山へと向かい歩くか、上葛川の集落からさらに十津川村折立方面へと歩いてみることを考えています。

ただ、「旧逓信道」のことをネット検索しているうちに、今度は十津川村内の旧道「西熊野街道」の記事を見つけてしまったり、先回探索した立合川には、実は対岸側にも木馬道があることを知ってしまったりと、いろいろと興味をそそるネタが出てきて、訪問する優先順位をどうしようかといったところです。

まあ、一番の問題は、自宅から片道4~5時間かかる場所ばかりであることなんですけどね。

最後に、ネットで調べることができた「旧逓信道」の情報について記しておきます。ちなみにネットで閲覧できる地誌の類で、この道を「逓信道」として記述しているものはありませんでした。

今回「旧逓信道」と呼んでいる道については、「笠捨越」という呼び名が一般的なようです。「奈良県吉野郡史料」の内、下北山村の道路の項目によると、「(前略)大字浦向より笠捨峠を経て十津川村上葛川に通ずる里道(後略)」とあります。

次に「下北山村史」です。

1924年(大正13年)の吉野郡役所あて僻地小学校の調査報告書に次のように述べられています。「(前略)隣村十津川村に通ずる山道、『笠捨越』の如きは、これまた数里の間人家絶えて無き険坂にして、或いは道と云わんよりは、僅かに人跡を印すと云うが当れるとなす所あり、怪物、野獣、強盗、追剥等につきては、前述伯母峰(東熊野街道の峠)よりも甚だしきものあり、堂々たる男子にして大抵のものは道連れを雇いて越すを例とせり(後略)」。

険しい山道というだけでなく、危険極まりない場所で、男性でも一人で歩けないほどだ(わざわざ「道連れ」を雇うほど。)と言っています。まあ、脚色もあるような気がしないではありませんが…。

「十津川への道」という項目にも「笠捨越」が記載されています。「浦向の奥地から奥地谷をのぼり、十津川橋を渡り笠捨峠を登り詰め、一寸向こう側へ下りて白谷辻を右すれば白谷奥へ、左すれば笠捨山の北の方から葛川上流に下り、田戸・小原・折立・平谷方面に通じている。約十五キロの間家一軒無い淋しい山道で、よく熊が出た。椎茸作りに来る人などよく通り、幕末頃北山中を震え上がらせた天誅組が越えてきたのもこの道であった。」。人家の無い寂しい山道であるという点は、僻地小学校の調査報告書と同様です。

それから「十津川への道」には、「同じく熊野川水系に属しながらも、大峰山から南に連なる奥駆道の稜線は北山と十津川を隔てる大きな障壁だった。主な道路はみな南北に通じ、両者を結ぶ道らしい道もなく、したがって交流も少なかった。」ともあります。

最後に「郵便局」の項目。これは「笠捨越」とは直接関係ありませんが、浦向郵便局は1882年(明治15年)に開局したこと、「当時の郵便は不動峠(浦向の南東側にある峠。)を郵便夫の肩に背負われて運んでいた。」とあります。

この記述から、十津川村上葛川から「旧逓信道」である「笠捨越」を通り、下北山村の郵便局と郵便物のやり取りをしていたというのであれば、それは浦向郵便局だったはずです。

逓送ルートとして不動峠を通行していたということですが、新宮(和歌山県新宮市)の郵便局と直接郵便物のやり取りをするようになってからのことでしょう。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「約十五キロの間家一軒無い淋しい山道」であることと、「両者(十津川村と下北山村)を結ぶ道らしい道もなく、したがって交流も少なかった。」(=両村間の郵便物の往来も少ない。)という理由により、岩壁を切り取り、石垣を築き上げて造られた「逓信道」は早々にその役目を解かれてしまったのでしょう。
Posted at 2023/12/23 21:43:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年12月16日 イイね!

【奈良県十津川村】「旧逓信道」を歩く(1)

2023年10月28日土曜日、奈良県吉野郡十津川村上葛川を通る「旧逓信道」を途中まで歩いてきました。

この「旧逓信道」は、「立合川木馬道」の情報をネット検索していた時にヒットした、近隣の笠捨山(標高:1,352.7m)への山行記録などに記載されていたものです。道中の風景写真を見て、「なかなか面白そうな道だな。」と思い、今回訪れたわけです。

ネット検索で得た伝聞での情報によると、この「旧逓信道」は明治時代に十津川村の郵便局と東隣の下北山村の郵便局の間の郵便物や小包の輸送(「逓送」なんて言いますね。)に利用されていた道だそうです。当時は「郵便逓送人」と呼ばれる人がいましたから、その人達が郵便物や小包を担いで運んだのでしょう。

ただ、「旧逓信道」が通る山の奥深さや険しさによるものか、利用された期間は短かったようで、早々に新宮(和歌山県新宮市)の郵便局から十津川村の郵便局と下北山村の郵便局へとそれぞれ逓送便が往来するように変更されたそうです。

現在は山行記録にあるように、上葛川から笠捨山などへの登山道として利用されているようです(ただし、サブルート的な利用度のようですが。)。

当日の朝8時過ぎ、「旧逓信道」の入口となる十津川村上葛川の集落の近くへとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場所から坂を上り、上葛川集落へと向かう道の交差点まで来ました。ここは集落の西側になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この交差点に巡回バスのバス停とポストがありました。


上葛川の集落の中を歩いていきます。家はけっこうありますが、居住しているような気配はあまり感じられません。


集落内にもポストがありました。私は団地住まいなのですが、その団地内には一つもポストがありません。なのに、この小さな集落には二つもポストがあるとは…。


集落の東はずれまで来ました。入口の交差点にバス停があったので、集落内にはバスは入ってこないものだと思っていたら、こんな場所にバス停がありました。


集落を振り返ります。斜面に立つ門型の遺構は索道の跡でしょうか。


ここからは林道を歩いていきます。


林道の折り返し地点まで来ました。「旧逓信道」はこの場所から始まるようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入口には、近隣の山である笠捨山や地蔵岳への案内板や石碑が立っています。




それでは「旧逓信道」へと踏み込んでいきます。序盤から最近歩いた「立合川木馬道」を彷彿とさせる岩の切り取り工や石垣が目を惹きます。




さっそく岩を開削した切通しが現れました。単なる登山道なら、わざわざ岩を削り取って道を通すような労力は掛けないでしょうから、やはりそれなりには重要な道だったことが窺えます。


岩壁を切り取った狭い道が続きます。谷側に木が生えているので、あまり気にはなりませんが、眺めの良い絶壁だったら通行するのに躊躇しそうです(笑)。




そして、どこからともなくこの道にゴムホースが合流してきました。多分、上葛川集落へ水を引くためのものでしょう。施設管理用として「旧逓信道」を利用しているためか、道が崩れた場所には橋が架けられたりもしています。






頭上の岩がせり出していて、「片洞門」のようになっています。


「旧逓信道」と表示された案内板。設置者の「新宮山彦ぐるーぷ」さんは、周辺の山々の登山道整備や山小屋管理を担ってみえるようです。


「上葛川飲料用水道」の立て看板。どうやら、ゴムホースは集落の簡易水道の送水管だったようです。


路面が崩れた場所に渡し板が架けてありますが、外れてしまっています。ここは左側へと迂回していきます。


沢に鉄板の橋が架かっています。そして、さらに左方向へも橋が分岐しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋の上流側に滝がありました。そして、滝の上へとゴムパイプが渡してあります。どうやら、ここが簡易水道の水源地のようです。滝の水量から見て、他にも水源地はありそうですけどね。


荒々しく削られた岩壁の前を通っていきます。


ここも道幅が狭くなっています。木々のおかげで、不安感はあまり感じませんが。


深く削り込んだ岩の切り通しです。岩を伝うように巨木も生えていて、なかなか見応えがある場所です。


ここははっきりと石垣が見えています。今のところ、ここまではけっこう苔むした石垣の方が多いように感じます。


木製桟道が取り付けてありますが、木材が腐食気味…。踏み抜かないようになるべく山側に身を寄せて通過します。


岩を道幅分だけくり抜いて、逆コの字型に造られた「片洞門」。これだけしっかりと形が残っているのは心躍りますね(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「片洞門」を抜けると渡し板が架けてありましたが、ここも腐って傷んでいます。左側へと岩伝いに迂回していきます。


そして、ガッチリと組み上げられた石垣。全面が苔で覆われてしまっているのは私的には残念ですが、それでも立派な遺構の一つです。


先ほどの「片洞門」を振り返って。


苔むした石垣の上へと上がり、岩壁の横の細道を進んでいきます。




ここは石垣が崩れてしまって、岩盤が剥き出しになっています。取り付けられているロープをバランス取りに使い、渡っていきます。


この道は、木材を運搬する「立合川木馬道」に比べると、道幅が狭い場面が多いです。「人が荷を担いで歩ける程度の道幅があれば十分。」という判断なのでしょう。




凸凹な岩の地盤を平らに埋めるように石垣が積み上げられています。


切通しを通過していきます。


少し傾斜が緩やかな地形ですが、路肩にはしっかりと石組みがされています。


岩を切り取った区間も繰り返し何度も現れます。


ガレ場となった沢を横断していきます。道が完全に埋まってしまうと、不安定な石の斜面を歩くことになるので厄介です。


岩を豪快に削り出して道が造られています。


ここも手前側は石垣が崩れて路面が無くなっているので、岩壁に掛けられたロープを頼りに路面へとよじ登ります。


谷側を見下ろすと垂直の崖になっています。そんなに怖くはないですが、気を抜くことはできません。


路面が欠落したところに材木が並べられていますが、これは上に乗りたくないですね…。左側の足元に少しせり出した岩を足場にして渡っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その(2)へ続く。
Posted at 2023/12/16 17:55:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「【奈良県天理市】石上神宮へ行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48702292/
何シテル?   10/09 22:33
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/10 >>

   1234
5678 91011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(1) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/09/25 14:32:27
万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(2) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/09/04 14:47:53

愛車一覧

スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
所有4台目(4代目)となるインプレッサ。 ガチガチのマニアというわけではないですが、4 ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成16年夏に購入。 自身3台目のインプレッサとなります。 購入理由は、2台目インプレ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成9年夏購入。 インプレッサ2台目。 行きつけの車屋さんへタイヤ交換の依頼をしに行っ ...
スバル インプレッサWRX スバル インプレッサWRX
平成7年夏購入。 インプレッサ1台目。 購入動機は、WRCのビデオを見たのが一番。 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation