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小林あにのブログ一覧

2024年02月01日 イイね!

【奈良県十津川村】「筏師の道」を東野集落跡まで歩きました

2023年11月18日(土)、奈良県吉野郡十津川村を流れる立合川の右岸に残る木馬道を探索してきましたが、予定よりも早く引き返すこととなったため、合流した「筏師の道」を歩いて東野集落跡まで足を伸ばすことにしました。

立合川右岸の木馬道と「筏師の道」の合流地点。このまま直進方向へと進んでいきます。


合流してすぐの地点で、山側から大量の礫が道筋へと流れ込んでいます。滑って転ばないように踏みしめながら、ゆっくりと通過していきます。




古道に立つ金属製の電柱。場違いな建造物ですが、昔はコールタールに塗られた木製の電柱が立っていたのでしょうね。


古道を歩いていると石畳を見ることはありますが、石段を設けている場所はまず見ることがありません。牛馬が歩くには邪魔そうですし、この道はもっぱら人が歩くことだけを想定していたのかもしれません。


この辺りは滑らかな壁面の岩が本当に多いです。


岩がゴロゴロした枯れ沢。道と沢の間に段差が無いので、多分、元から橋は架かっておらず、沢の中を渡っていく感じのようです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石段の道を登っていきます。


ここも山側から岩が流れ込んでいます。ハイキングコースとして使われている道なので、路上部分の岩は取り除かれています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

急坂のためか、ここにも石段があります。


現れる沢はどれも岩がゴロゴロとした枯れ沢ばかり。標高はさほど高くはありませんが、急峻な地形のせいなのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣道でさらに坂を登っていきます。


道の状態は立合川の木馬道に比べれば全然問題ありませんが、周辺住民のかつての生活路だったと見ると、やはり険しさは否めません。








ここもなかなかにキツイ急坂です。


眼下に廃屋が見えています。どうやら東野集落跡へと着いたようです。


こんな山奥になぜかダム放水の注意看板が立っています。


シダに覆われた斜面の上にも家屋が見えています。見る限り、こちらも廃屋になっているようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

集落跡の中の道を進んでいきます。廃集落なので人がいないのは当然ですが、家屋が管理されているとか耕作されている畑があるなど、他所から誰か通ってきているような様子も全くありません。






集落跡内の様子を眺めつつ、「筏師の道」をどんどん登っていきます。






路傍の石垣の上に墓碑か石碑と思しきものが立っていました。碑文などの内容についてはっきりと読み取ることはできませんでした。


近畿自然歩道の案内標柱。


頭上に立派な石垣が見えています。何か遺構が残っているかもしれません。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石垣の上に来てみるときれいに更地になっていて、残念ながら建物の遺構はありませんでした。


わずかに生活用品の残骸が転がっています。




尾根の稜線が見えてきたので、もうひと踏ん張り急坂を登っていきます。尾根越しに冷たい風が吹き下ろしてきて、歩いていても寒くてたまりません。




尾根に出ました。ここは通称「東野峠」と呼ばれているようですが、昔からある地名ではないような記述もあります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図を見ると、東野集落跡から北側へと向かう道と合流できそうなので、そのまま尾根伝いに北側へと進んでみることにします。




モノレールが合流してきました。森林管理用か送電線管理用かわかりませんが、現在は使用されていないように見受けられます。




東野集落跡から来た道と合流しました。この道を通り、東野集落跡へと戻ることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひたすら一直線に東野集落跡へと下っていきます。ここで急に雨に降られ、冷たい風と相まって凍えそうでした。


東野集落跡へと戻ってきました。車社会の現代で、険しい山道を徒歩でしか来ることのできない山奥の集落では、遅かれ早かれ廃集落となる運命だったでしょう。


「筏師の道」を立合川方面へと戻っていきます。




立合川右岸の木馬道との合流地点まで戻ってきました。帰りはこのまま「筏師の道」を進んでいきます。


やはり気楽に歩ける道ではないですね。




眼下に北山川の流れが見えています。昔は多くの筏が新宮の街を目指して北山川を下っていきました。そして、その筏を操った筏師が新宮の街から地元の山へと帰るために通った道がこの「筏師の道」なのです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

立合川に架かる吊り橋「有蔵橋」に来ました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道169号立合川橋まで登ってきました。時刻は15時20分ですが、日射しはすっかり夕暮れです。


15時25分、駐車場所に到着しました。


今回歩いた「筏師の道」のルート図です。あらためて地形図を見ると、東野集落跡がいかに孤立した場所に存在していたのかよくわかります。新たに開通した国道169号も、集落跡のある山を長いトンネルで通過しているだけですからね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2024/02/01 22:46:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年12月23日 イイね!

【奈良県十津川村】「旧逓信道」を歩く(2)

2023年10月28日土曜日、奈良県吉野郡十津川村上葛川を通る「旧逓信道」を途中まで歩いてきました。

前回(1)では、この場所まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を塞ぐようにカーブで築かれた石垣です。一番下の部分には、沢水を流すためなのか穴が開いています。


沢の上流側にも低い石垣が組まれていて、ちょっとした築堤になっています。


植林地を通り抜けていきます。


二股に育った杉の片面が枯れてしまったものなのでしょうか。


道が崩れて、ガタガタに荒れた斜面になっています。足元に気を付けながら通過します。


また切り通しを越えていきます。


切り通しを抜け、ガレ気味の荒れた場所を歩いていきます。奥には石垣が見えています。


岩の切り取り工に石垣を組み上げて道を通しています。


小さな沢を石垣で埋めてあります。沢の水を石垣の路上に流すようにした「洗い越し」のようです。




目の前の斜面が崩落して、道が完全に寸断されています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

寸断された場所からほんの少し戻り、下側へと迂回していきます。


迂回ルートの岩壁には、明らかに人工的に削られた跡があります。まだ「旧逓信道」が現役の頃(少なくとも里道・生活路として。)に、すでに本来の道筋は崩落により通行できなくなり、この迂回ルートを造り直したのかもしれません。




迂回ルートから上を見上げると石垣が残っています。ただ、本来の「旧逓信道」の道筋はさらに上の黄色の線の部分を通過しているので、何のための石垣なのかはよくわかりません。


迂回ルートを100mも歩かないうちに、滝のような大きな段差がある枯れ沢に遭遇しました。この部分も、「旧逓信道」の本来の道筋は崩落により消滅したようです。


枯れ沢を渡ると、迂回ルートは急斜面を無理やり上り、「旧逓信道」の本来の道筋へと復帰します。






倒木が被さっている場所にロープが掛けられています。


木製桟道が腐って落ちています。ここもロープでバランスを取りつつ、わずかな岩の出っぱりを伝って通過します。




岩の切り通しを通過。


ここも材木を並べた桟道があったようですが、ご覧のとおりボロボロ。張り出した岩の上を歩いて渡ります。一応、登山ルートではあっても、廃道転用のマイナーなルートなので、管理の手はなかなか及ばないようですね。


岩壁に沿った崖道です。きれいな壁面ですが、やっぱり自然にできたものなのでしょうね。


そして谷側を覗き込むと、けっこう縮み上がるような高さなんですよね…。


岩場の崖道が続きます。


荒れた沢を通過します。


まだまだ石垣が現れます。この「旧逓信道」、本当に一体どのくらいの期間と費用を掛けて整備された道なんですかね。きちんとした来歴が知りたいものです。


そして、岩の切り通しを通過。


ここも本来の路面が流失して凹地になっています。大きな破断はないので、一歩一歩注意しながら通過していきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

大きな根っこの塊が道を塞いでいます。ここは山側を通っていきます。


岩壁と石垣の道が、崩れながらもまだまだ奥へと続いています。


どうにも怪しい雰囲気の木製桟道…。念のため、岩壁にもたれ掛かるようにして通過します。


これはいかにも人の手で削った感じがするゴツゴツした壁面。


また道の状態が悪くなってきました。地形図で確認すると、この辺りから尾根まで上るようです。ただ、この現場を見ると、崩れやすい場所を踏み跡のような細道で上っていく感じ。


この日は夜に用事があったため、もともと目的地を定めて踏破することまでは考えていませんでしたが、道の状況や時間的なことを踏まえて、この地点で引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まだまだ気は抜けませんが、元来た道を引き返していきます。


白いキノコの上に誰が乗せたのか唐辛子の瓶が…。意味がわからん…。


往路ではハラハラした道中も、復路では状況がわかっているので、要所要所は注意しつつ、サクサクと歩いていきます。








上葛川の集落まで戻ってきました。ようやく一安心です。


自分の車もちゃんと待っていてくれました(「もしかして無くなっているかも…。」という気持ちは、毎回ちょびっとだけ持っています(笑)。)。


今回の探索ルートの全体図です。青線は未踏の「旧逓信道」、赤線が今回踏査した部分です。往復距離8.6km、4時間45分の行程でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

また出直して、続きを歩くかどうかは未定です。いっそ歩くなら、下北山村浦向側から笠捨山へと向かい歩くか、上葛川の集落からさらに十津川村折立方面へと歩いてみることを考えています。

ただ、「旧逓信道」のことをネット検索しているうちに、今度は十津川村内の旧道「西熊野街道」の記事を見つけてしまったり、先回探索した立合川には、実は対岸側にも木馬道があることを知ってしまったりと、いろいろと興味をそそるネタが出てきて、訪問する優先順位をどうしようかといったところです。

まあ、一番の問題は、自宅から片道4~5時間かかる場所ばかりであることなんですけどね。

最後に、ネットで調べることができた「旧逓信道」の情報について記しておきます。ちなみにネットで閲覧できる地誌の類で、この道を「逓信道」として記述しているものはありませんでした。

今回「旧逓信道」と呼んでいる道については、「笠捨越」という呼び名が一般的なようです。「奈良県吉野郡史料」の内、下北山村の道路の項目によると、「(前略)大字浦向より笠捨峠を経て十津川村上葛川に通ずる里道(後略)」とあります。

次に「下北山村史」です。

1924年(大正13年)の吉野郡役所あて僻地小学校の調査報告書に次のように述べられています。「(前略)隣村十津川村に通ずる山道、『笠捨越』の如きは、これまた数里の間人家絶えて無き険坂にして、或いは道と云わんよりは、僅かに人跡を印すと云うが当れるとなす所あり、怪物、野獣、強盗、追剥等につきては、前述伯母峰(東熊野街道の峠)よりも甚だしきものあり、堂々たる男子にして大抵のものは道連れを雇いて越すを例とせり(後略)」。

険しい山道というだけでなく、危険極まりない場所で、男性でも一人で歩けないほどだ(わざわざ「道連れ」を雇うほど。)と言っています。まあ、脚色もあるような気がしないではありませんが…。

「十津川への道」という項目にも「笠捨越」が記載されています。「浦向の奥地から奥地谷をのぼり、十津川橋を渡り笠捨峠を登り詰め、一寸向こう側へ下りて白谷辻を右すれば白谷奥へ、左すれば笠捨山の北の方から葛川上流に下り、田戸・小原・折立・平谷方面に通じている。約十五キロの間家一軒無い淋しい山道で、よく熊が出た。椎茸作りに来る人などよく通り、幕末頃北山中を震え上がらせた天誅組が越えてきたのもこの道であった。」。人家の無い寂しい山道であるという点は、僻地小学校の調査報告書と同様です。

それから「十津川への道」には、「同じく熊野川水系に属しながらも、大峰山から南に連なる奥駆道の稜線は北山と十津川を隔てる大きな障壁だった。主な道路はみな南北に通じ、両者を結ぶ道らしい道もなく、したがって交流も少なかった。」ともあります。

最後に「郵便局」の項目。これは「笠捨越」とは直接関係ありませんが、浦向郵便局は1882年(明治15年)に開局したこと、「当時の郵便は不動峠(浦向の南東側にある峠。)を郵便夫の肩に背負われて運んでいた。」とあります。

この記述から、十津川村上葛川から「旧逓信道」である「笠捨越」を通り、下北山村の郵便局と郵便物のやり取りをしていたというのであれば、それは浦向郵便局だったはずです。

逓送ルートとして不動峠を通行していたということですが、新宮(和歌山県新宮市)の郵便局と直接郵便物のやり取りをするようになってからのことでしょう。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「約十五キロの間家一軒無い淋しい山道」であることと、「両者(十津川村と下北山村)を結ぶ道らしい道もなく、したがって交流も少なかった。」(=両村間の郵便物の往来も少ない。)という理由により、岩壁を切り取り、石垣を築き上げて造られた「逓信道」は早々にその役目を解かれてしまったのでしょう。
Posted at 2023/12/23 21:43:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年12月16日 イイね!

【奈良県十津川村】「旧逓信道」を歩く(1)

2023年10月28日土曜日、奈良県吉野郡十津川村上葛川を通る「旧逓信道」を途中まで歩いてきました。

この「旧逓信道」は、「立合川木馬道」の情報をネット検索していた時にヒットした、近隣の笠捨山(標高:1,352.7m)への山行記録などに記載されていたものです。道中の風景写真を見て、「なかなか面白そうな道だな。」と思い、今回訪れたわけです。

ネット検索で得た伝聞での情報によると、この「旧逓信道」は明治時代に十津川村の郵便局と東隣の下北山村の郵便局の間の郵便物や小包の輸送(「逓送」なんて言いますね。)に利用されていた道だそうです。当時は「郵便逓送人」と呼ばれる人がいましたから、その人達が郵便物や小包を担いで運んだのでしょう。

ただ、「旧逓信道」が通る山の奥深さや険しさによるものか、利用された期間は短かったようで、早々に新宮(和歌山県新宮市)の郵便局から十津川村の郵便局と下北山村の郵便局へとそれぞれ逓送便が往来するように変更されたそうです。

現在は山行記録にあるように、上葛川から笠捨山などへの登山道として利用されているようです(ただし、サブルート的な利用度のようですが。)。

当日の朝8時過ぎ、「旧逓信道」の入口となる十津川村上葛川の集落の近くへとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場所から坂を上り、上葛川集落へと向かう道の交差点まで来ました。ここは集落の西側になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この交差点に巡回バスのバス停とポストがありました。


上葛川の集落の中を歩いていきます。家はけっこうありますが、居住しているような気配はあまり感じられません。


集落内にもポストがありました。私は団地住まいなのですが、その団地内には一つもポストがありません。なのに、この小さな集落には二つもポストがあるとは…。


集落の東はずれまで来ました。入口の交差点にバス停があったので、集落内にはバスは入ってこないものだと思っていたら、こんな場所にバス停がありました。


集落を振り返ります。斜面に立つ門型の遺構は索道の跡でしょうか。


ここからは林道を歩いていきます。


林道の折り返し地点まで来ました。「旧逓信道」はこの場所から始まるようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入口には、近隣の山である笠捨山や地蔵岳への案内板や石碑が立っています。




それでは「旧逓信道」へと踏み込んでいきます。序盤から最近歩いた「立合川木馬道」を彷彿とさせる岩の切り取り工や石垣が目を惹きます。




さっそく岩を開削した切通しが現れました。単なる登山道なら、わざわざ岩を削り取って道を通すような労力は掛けないでしょうから、やはりそれなりには重要な道だったことが窺えます。


岩壁を切り取った狭い道が続きます。谷側に木が生えているので、あまり気にはなりませんが、眺めの良い絶壁だったら通行するのに躊躇しそうです(笑)。




そして、どこからともなくこの道にゴムホースが合流してきました。多分、上葛川集落へ水を引くためのものでしょう。施設管理用として「旧逓信道」を利用しているためか、道が崩れた場所には橋が架けられたりもしています。






頭上の岩がせり出していて、「片洞門」のようになっています。


「旧逓信道」と表示された案内板。設置者の「新宮山彦ぐるーぷ」さんは、周辺の山々の登山道整備や山小屋管理を担ってみえるようです。


「上葛川飲料用水道」の立て看板。どうやら、ゴムホースは集落の簡易水道の送水管だったようです。


路面が崩れた場所に渡し板が架けてありますが、外れてしまっています。ここは左側へと迂回していきます。


沢に鉄板の橋が架かっています。そして、さらに左方向へも橋が分岐しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋の上流側に滝がありました。そして、滝の上へとゴムパイプが渡してあります。どうやら、ここが簡易水道の水源地のようです。滝の水量から見て、他にも水源地はありそうですけどね。


荒々しく削られた岩壁の前を通っていきます。


ここも道幅が狭くなっています。木々のおかげで、不安感はあまり感じませんが。


深く削り込んだ岩の切り通しです。岩を伝うように巨木も生えていて、なかなか見応えがある場所です。


ここははっきりと石垣が見えています。今のところ、ここまではけっこう苔むした石垣の方が多いように感じます。


木製桟道が取り付けてありますが、木材が腐食気味…。踏み抜かないようになるべく山側に身を寄せて通過します。


岩を道幅分だけくり抜いて、逆コの字型に造られた「片洞門」。これだけしっかりと形が残っているのは心躍りますね(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「片洞門」を抜けると渡し板が架けてありましたが、ここも腐って傷んでいます。左側へと岩伝いに迂回していきます。


そして、ガッチリと組み上げられた石垣。全面が苔で覆われてしまっているのは私的には残念ですが、それでも立派な遺構の一つです。


先ほどの「片洞門」を振り返って。


苔むした石垣の上へと上がり、岩壁の横の細道を進んでいきます。




ここは石垣が崩れてしまって、岩盤が剥き出しになっています。取り付けられているロープをバランス取りに使い、渡っていきます。


この道は、木材を運搬する「立合川木馬道」に比べると、道幅が狭い場面が多いです。「人が荷を担いで歩ける程度の道幅があれば十分。」という判断なのでしょう。




凸凹な岩の地盤を平らに埋めるように石垣が積み上げられています。


切通しを通過していきます。


少し傾斜が緩やかな地形ですが、路肩にはしっかりと石組みがされています。


岩を切り取った区間も繰り返し何度も現れます。


ガレ場となった沢を横断していきます。道が完全に埋まってしまうと、不安定な石の斜面を歩くことになるので厄介です。


岩を豪快に削り出して道が造られています。


ここも手前側は石垣が崩れて路面が無くなっているので、岩壁に掛けられたロープを頼りに路面へとよじ登ります。


谷側を見下ろすと垂直の崖になっています。そんなに怖くはないですが、気を抜くことはできません。


路面が欠落したところに材木が並べられていますが、これは上に乗りたくないですね…。左側の足元に少しせり出した岩を足場にして渡っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その(2)へ続く。
Posted at 2023/12/16 17:55:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年10月17日 イイね!

【設楽町】キビウと椹尾の間の峠道を探索しました(2)

2023年9月2日土曜日、北設楽郡設楽町松戸のキビウと椹尾(さわらお)の間の峠道を探索してきました。

前回(1)では、峠を通過して、背の高い倒木を乗り越えるところまで来ました。


倒木を越えると堀割り道が始まりました。




堀割り道のまま折り返していきます。


堀割り道がこれだけ続くのは、あまり見たことがないですね。


小刻みにつづら折りを繰り返して下っていきます。




つづら折りが終わると、過去に斜面が崩落した場所なのか峠道そのものが無くなり、所々に組まれている石垣の上を伝って歩いていきます。




椹尾側の沢へと出てきました。傍らに「田口小学校部分林」の標柱が立っています。


「部分林とは何ぞや?」と思い、ネットで検索してみたところ、「国有林野に契約によって国以外の者が造林し、その収益を国と造林者が分けあう林地。設定区部分林・旧慣部分林・学校部分林・各種記念部分林・その他部分林の五種がある。」とありました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは、沢に沿って峠道を下っていきます。






坂を下って行くと、結構広い平場がありました。何か建物が建っていたのか、耕作地だったのか…。


椹尾川へと出てきました。川を渡った対岸が椹尾になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

緩傾斜地が広がっていますが、全面植林されていて、これといった遺構は残っていないようです。


椹尾を通る林道へと出てきました。この林道はかつての森林鉄道の跡だそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひとまず下流方向へと向かうと、林道の交差点がありました。分岐していく方の林道には「松尾線」の標識が立っていましたが、私が歩いてきた方向の林道には標識が見当たりませんでした。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

歩いてきた林道を引き返していきます。

林道から緩傾斜地を見下ろしていますが、やっぱりこれといった遺構を見つけることができません。


林道の山側には石垣が残っています。


林道をさらに進んでいくと廃屋がありました。


廃屋の軒下に中部森林管理局の標柱が立っています。国有林の管理に関わる建屋だったのかもしれません。ちなみに、廃屋の左側には大量のビール瓶が転がっていました(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧宮内省帝室林野局の標石。赤い部分に「宮」の字が刻まれています。この周辺がかつて御料林であった証ですね。森林鉄道段戸山線の田峰鰻沢線を探索した時にもよく見かけました。


杉林とシダが生い茂る緑の世界です。


防火用水の跡でしょうか。


ここで椹尾の緩傾斜地は終わりとなるので引き返します。


かつて椹尾の地にあった秋田木材製材所の痕跡を見に行きます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

痕跡と言っても、かつて使用されていた機器類の土台であるコンクリートの塊が、シダの群落の中に点在しているだけです。








ネットで検索すると大正時代の製材所の写真を見ることができます。


製材所跡をもうしばらく歩いてみましたが、コンクリートの土台以外の遺構は無さそうでした。マムシらしき蛇も見たので、あまり長居はせずに林道へと脱出します。


最初に到着した緩傾斜地の植林地の中も、あらためて歩き回ってみましたが、本当に何も残っていません。まあ、かつての椹尾集落の状況が具体的にわかる資料は無いので、土場だったのか田畑だったのかなど確認のしようがありませんね。


「山火事注意」の看板から山側へ斜面を登ると墓碑がありました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

墓碑に彫られている日付を確認すると、右側から弘化四年十二月十二日(1848年)、文政八酉〇月十九日(1825年)、寛政二戌十一月十一日(1790年)とありました。弘化四年の墓碑については「設楽町誌」に記述があり、小椋文左衛門さんという段戸山周辺や松戸村周辺で活動していた木地師の墓だそうです。

ここで、段戸山周辺の木地師集落及び椹尾集落についての余談を。記述する内容は基本的には「設楽町誌」及び「設楽町誌 村落誌編」に拠ります。

ウィキペディアからの抜粋ですが、「木地師」とは、「轆轤(ろくろ、轆轤鉋)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。」とあります。

また、「幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。」ともあります。

まず、段戸山周辺で木地師によって開墾されたといわれる場所には、椹後(さわらご)、松戸のキビウ、田峯の古田・平野、三都橋の落目、豊邦(桑平)の一部があるそうです。

段戸山は御林(江戸幕府直轄の山林)であったため、木地師の特権が行使できず活動が制限されていたようですが、前述のように段戸山の周辺地域では開墾された集落の存在により、木地師としての活動があったことが確認できます。

「田峯日光寺過去帳」によると、承応元年(1652年)から安永四年(1775年)の123年間に38人(男21人、女17人)の木地師が記帳されているそうです。過去帳にある38人の居住場所は、大滝7人、「古田3人」、出来山3人、「椹吾2人」、金床2人、「キビウ4人」、バラゴ1人、「落目4人」、野平12人です。

過去帳に記載があった木地師の子孫は、天明年間(1781年~88年)以降は存在が消えてしまっているそうです。一番の理由は、天明二年(1782年)から始まった大飢饉が、食糧生産者ではない木地師の生活をまともに襲い、いくつかの木地師集落が消滅したためといわれています(居住者が亡くなったか、他所へ転出していったと思われる。)。

続いて本題の椹尾集落ですが、こちらは木地師の亦兵衛さんによって開かれた土地だそうです。亦兵衛さんとその一派も、どこか見知らぬ土地から木工品の材料を求めて椹尾の地へと分け入って、この地を切り開いていったのでしょう。

椹尾の土地は開拓されたことを受けてか、元禄2年(1689年)に検地を受け、12石9斗5合の石高が定められます。集落の本村は、キビウ集落と同じく松戸村(現:設楽町松戸)となります。

旧版地形図で見ると、椹尾の周辺はほとんどが旧段嶺村(現:設楽町)に属していますが、椹尾の集落(旧版地形図では「澤尾」。)付近だけは突出した形で旧松戸村が合併した旧田口町(現:設楽町)の町域となっています。これは椹尾集落の本村が旧松戸村であった名残りと考えられますね。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

椹尾集落は、本村である松戸村から離れていることと、自然条件に恵まれていないこともあって、日照りなどによる飢饉で離村がしばしば行われたそうです。

その証拠の一つとして、寛政3年(1791年)に清右衛門さんという人によって集落が再開発されていたことが石碑から確認できるそうです(石碑の場所は未確認。)。よって、残っている墓碑は、再開発以降の時代のものだとわかります。

また、キビウ集落の余談でも書きましたが、天保8年(1837年)8月の大風雨が原因で、穀類の収穫が皆無となり、また馬での賃稼ぎもできなかったことで集落の2戸が「潰れ」、椹尾とキビウを合わせて4戸が病死または転出を余儀なくされています。

キビウ集落と違い、江戸時代の戸数の記録は残っていないようですが、明治4年(1871年)の戸数は、わずか1戸のみとなってしまいました。

しかし、明治以降になると様相は一変。今度は豊富な原木を目当てにした「炭焼き師」が入山し始め、最盛期には30世帯以上が椹尾集落で生活していたそうです。

椹尾集落で生産された木工品や炭製品は、今回私が歩いてきた峠を越えてキビウ、呼間を経由し海老方面へと出荷されていましたが(ここでも新城市海老が出てくる。)、道路事情の改善に伴い、森林鉄道の開通前後の頃には田口経由で出荷されるようになったそうです(おそらく椹尾川沿いの道が、運搬に使えるようになったのでしょう。)。

そして、森林鉄道段戸山線の田口椹尾線が昭和9年(1934年)に開通し、段戸山御料林の森林開発が本格化。御料林の造林事業の推進によって、伐採された原木を利用する「秋田木材製材所」が設立されます。

ちなみに、「設楽町誌」では、「秋田木材 所在地:田峯字裏谷 稼働期間:大正初期から昭和10年頃 工員数:200名 動力源:水力」とあります。秋田木材製材所があった場所は、旧段嶺村(現:設楽町田峯)になるため、同じ製材所で間違いないと思われます。

ただし、すでに大正時代から稼働は開始しており、その後、森林鉄道が椹尾まで開通して1~2年の内に稼働停止していることになります。秋田木材製材所が稼働停止した理由は記述されていませんが、森林鉄道が開通したことで原木のまま大量に搬出できるようになり、現地で運搬しやすいように加工する必要が無くなったのかもしれません。

椹尾集落から上流側にあった製材所周辺には人家が集まり、また営林署の事務所も開設されたことで営林署関係者も住み込み、最盛期には集落内に雑貨店が一軒できるほどの賑わいをみせたそうです(お店一軒で賑わいというのも何ですが、それほど山奥なのです。)。

その後の経緯についての記述はありませんが、製材所の稼働停止、森林鉄道の廃止、営林署事務所の閉鎖、林業の不振などで椹尾集落は過疎化・消滅へと向かっていったのでしょう。

最後に「さわらお」という地名についての疑問。旧版地形図では集落があった場所は「澤尾」(さわらお)と記しています。現在の地名も、集落跡付近は設楽町大字松戸字沢尾となっています。

しかし、川の名前は椹尾川、川が流れる谷の名前は椹尾谷。江戸時代はひらがなで「さわらおう」でしたが、明治15年の愛知県への地名調査の報告では、松戸村の「さわらおう」は「椹尾」(サワラヲ)と報告されています。隣接する段嶺村側には、類似する地名の報告はありませんでした。

明治15年の報告が誤っているのか、報告以降に地名表記を改めたのか、よくわかりません。ネットで検索すると、昭和34年(1959年)発行の地形図を載せている記事があり、そこには旧来の集落が「澤尾」、製材所付近の集落が「椹尾」と分けて表記されています。

さらに、森林鉄道段戸山線の田口椹尾線では、「椹尾」を「さわらご」と読むとありました。「設楽町誌」内でも原典によって表記のブレがあるようで、前述のように「椹後」や「椹吾」といった表記もあります。「さわらお」も「さわらご」も当地の呼び名としては間違いではないことを伺わせますし、地名の書き文字にいろいろな「当て字」を使っていた面もあるのかもしれません。

それでは話を戻します。

墓石の下側には狭い段々地が並んでいます。おそらくこの場所に住居があったのでしょう。


墓石から上流側の隣地には広い平地が残っています。平地の山側には土留めのためと思われる石垣が巡らしてある箇所もあり、ここがかつての営林署の事務所だったのではないかと考えられます。


墓石のあった場所から真っ直ぐ椹尾川へと向かっていきます。


道らしい雰囲気があったので歩いてみましたが、川にぶつかってそのまま終わってしまいました。これが本来の峠道の跡かと思いましたが違ったようです。


これで椹尾での探索を終了し、峠を越えて戻ることにします。


峠を越えて庄ノ津川へと出たところで、すぐにキビウ集落へは向かわず、上流側に続く徒歩道を歩いてみることにしました。






この徒歩道も段戸山へと入り込んでいく道ですが、目的もなくダラダラと入り込んでいっても無駄なので、倒木に塞がれている場所で引き返しました。


キビウ集落への入口まで戻ってきました。


呼間川には、こんなにたくさん小さな滝があるとは知りませんでした。ネットで調べてみると、沢登りを楽しんでいる方々もいるようです。


町道大滝菅平線の脇にあった砂防ダム。


おそらく田んぼの跡。今も水が流れ込んでいるので、多分そうかなと思います。


田んぼ跡の上にある、住居跡と思われる平場に残る小さな庭園跡とその流水路と思しきもの。




車に戻ってきました。今回は6時間45分、歩行距離10.5kmの探索となりました。呼間川大滝からスタートしたことと、椹尾で歩き回ったことで距離が伸びてしまいましたね。


今回の探索ルート図です。青線は復路で寄り道した時のルートです。


探索する時は、現地でどれだけ「拾い物」ができるかが大事になります。よく写真に撮っている石仏・石碑は年代を確認するのに良い資料となりますが、今回は墓碑がその対象となりました。

今回、事前にネットで下調べした中で、「椹尾は明治時代以降の集落。」という情報を得ていたので、江戸時代の墓碑が残っていることに混乱しましたが、「墓があるということは江戸時代にも人が住んでいた時期があったが、何かあって明治時代まで無人になったのだろう。」という大まかな推測はできました。その後に「設楽町誌 村落誌編」を図書館で読んで、「飢饉による離村があった。」という記述を見つけ、推測の裏付けができたわけです。

私のように地元史誌を読むくらいで、あまり深堀りしない人間には、探索しても大体はわからないことだらけで終わってしまいますが(万古集落跡は地元村誌に記述があまりなくて、まさにそんな感じでした。)、たまにはこんなふうに裏付けまで取れることもあるので、そこもおもしろいところですね(今回もわからないまま残った事柄もありましたけどね)。
Posted at 2023/10/17 23:46:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年10月15日 イイね!

【設楽町】キビウと椹尾の間の峠道を探索しました(1)

2023年9月2日土曜日、北設楽郡設楽町松戸のキビウと椹尾(さわらお)の間の峠道を探索してきました。

まずは、今回探索してみようと思った理由について記します。

椹尾にはかつて段戸山の御料林からの木材を搬出するための「森林鉄道段戸山線」の田口椹尾線(こちらは「さわらご」と読むようです。)が通っていました。1934年(昭和9年)に開通し、1961年度(昭和36年度)中に撤去されたようです。

私が普段見ている戦前発行の旧版地形図は、まだ椹尾に森林鉄道が開通する以前のものなので、当然、図中に森林鉄道の記載はありません。ただ、その森林鉄道が通っていた椹尾川沿いには、道の記載も全くありませんでした(地形図に記載されるような道が無かっただけで、椹尾川沿いにも古くから道はあったようです。)。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

椹尾からの道は、集落の南側にある峠へ行く道のみ。峠からは、東側に向かい松戸集落を経て田口の街へと行く道と、峠の南側へキビウ集落を経由して田内で伊那街道へつながる道がありました。これらが地形図上では椹尾が外界とつながりを持つための道でした。

森林鉄道開通後、キビウと椹尾の間にある峠道は徐々に使われなくなってしまい、現在の地形図には峠道の記載は全くありません。そこで、今も峠道の痕跡が残っているのか確かめてみたくなり、探索することにしたわけです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

やって来たのは、設楽町の呼間川大滝の近く。本当はキビウ集落辺りまで車で入り込みたかったのですが、細道のようで心配だったため、ここに駐車していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく出発しますが、せっかくなので呼間川大滝へちょっと立ち寄ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

呼間川大滝から先は、町道大滝菅平線を進んでいきます。


ちょっとした平場に石垣が続いています。耕作地の跡ですかね。


山の中らしい電線への注意看板ですね。


町道の前身道と思われる道跡へと入っていきます。


呼間川に出てきました。橋の跡のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

川を渡り、呼間川の左岸に沿って古道を進んでいきます。




ふたたび橋の跡に出てきました。ここから呼間川の右岸へと戻ります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸に耕作地の跡が見えています。もうすぐキビウ集落があるはずです。


橋の跡がありました。石積みの橋台・橋脚が残っています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

キビウ集落の家屋が見えてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

キビウ橋を渡り、右折します。




キビウ集落のバス停。


空き家のようですが、手入れはされているみたいです。


ここでキビウ集落についての余談を。内容は「設楽町誌 村落誌編」に拠ります。

キビウ集落についての古い記録は、『寛文5年(1665年)に「きびう、なしくぞ山、山ノ神」が検地され、天正18年(1590年)の検地(いわゆる太閤検地ですね。)で43石だった松戸村の石高へ6石4斗4升2合が加増された。』というもの。それまで「きびう」には人が住まず、田畑が無かったのかは不明です。

戸数の変遷は、正徳3年(1713年)は2戸、明和8年(1771年)は4戸になりますが、弘化4年(1847年)には1戸になってしまい、明治4年(1871年)に2戸となります。明治以降の記述はありません。

一時、戸数が1戸となってしまった原因は、天保8年(1837年)8月14日の大風雨(台風のことか。)。これが原因となり、「さわらおう」(椹尾)では諸穀類は収穫皆無となり、また馬による賃稼ぎもできなくなり、当時あった2戸が「潰れ」、「きびう」と「さわらおう」合わせて4戸が病死または他所へ退転してしまったそうです。

「キビウ」は、地名表記がカタカナ表記ですが、明治15年(1882年)の愛知県による地名調査(明治政府からの指示による。)に対して、当時の北設楽郡役所は松戸村『「紀尾宇」(キヒウ)』と漢字表記・読み仮名を報告しています。実際にキビウ集落の住民が漢字表記を使用していたのかは不明ですが、戦前の旧版地形図ではふたたび「キビウ」と表記されています。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

それでは、キビウ集落から先へと進んでいきます。ここからは、庄ノ津川の左岸へと進んでいきます。


キビウ集落への橋の横に、旧橋の名残りと思われるものがありました。どこからか持ってきたレールを橋桁に再利用していたようです。


増水時に川の水で洗われてしまうのか、道跡はあいまいです。


落差5mくらいの滝にぶつかりました。これでは進めないので、川を渡って対岸の林道へと移動します。


椹尾への峠道の分岐点と思われる場所へ来ました。ここでふたたび川を渡り、いよいよ峠道へと進入していきます。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

細い沢筋を跨いでいきます。


そして、すぐに折り返し。


この後も折り返しを繰り返しながら、斜面を登っていきます。






堀割り道を進みます。


薮に遭遇。薮が濃くて、そのまま峠道を進むのは厳しかったので、左側の路外へと出て道跡を追っていきます。




この辺りは、輪切りにされた間伐材があちらこちらに転がっていて足場が悪く、進んでいくのになかなか難儀しました。




また薮が現れました。ここはそのまま突入です。




峠のある尾根の下を通る林道へと出てきました。しばらく峠道の続きを探して歩くことになります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道の路肩には峠道の続きが見当たらず、仕方ないので、峠と思われる鞍部が見えている場所から薮の中へと突っ込んでいきます。




峠道の続きを発見しました。やはり、林道により削り取られていました。


峠に来ました。周囲を確認してみましたが、この峠には石仏・石碑の類は無いようです。椹尾への道は左へと曲がっていきますが、松戸へ向かう道を少し歩いてみることにします。


緩やかな地形の山の頂上を進んでいくとすぐに下り坂になったので、それ以上進むのは止めて引き返しました。


峠へと戻り、椹尾への道へと進んでいきます。


椹尾側も道は残っているようです。


と思ったら、峠道が背の高い大木に塞がれてしまっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

斜面の傾斜がきついので迂回するのは止めて、そのまま慎重に倒木の上を歩いて進んでいきます。




ふたたび堀割り道が現れました。


※その2へ続く。
Posted at 2023/10/15 14:30:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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