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小林あにのブログ一覧

2023年09月29日 イイね!

宇連ダムまでドライブに出かけてきました

2023年8月20日日曜日、豊川水系宇連川のダム、宇連ダムまでドライブに出かけてきました。この前日に宇連集落跡から海老峠までの峠道を探索したところですが、その道中、ダム湖内がそこそこ干上がっていたのを見かけ、変わった景色を見せられると思い、母と弟を誘って出かけてきた次第です。

まずやって来たのは宇連ダムの堰堤。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

宇連ダムの銘板。宇連ダムではなく、「宇連堰堤」とあります。昭和33年(1958年)12月1日竣工とあるので、間もなく築65年になります。


こちらの銘板は、豊川用水通水50周年記念に取り付けられたもののようです。「豊川用水の水を飲む時は、水源地の事に思いを巡らそう。」というような意味ですかね。


ダム湖である鳳来湖の様子。この日の貯水率をチェックはしていませんが、湖面はけっこう低くなっているように感じます。


ダム堰堤上の建屋に取り付けられている銘板。


ダム管理事務所の対岸側からの眺めです。


さて、ダム湖の最奥付近となる新城市と設楽町の境界まで移動してきました。この辺りからダム湖内へと下りていくことができます。母と弟は初めてですが、私自身は2019年6月30日に訪れています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この屏風状の巨岩は、この辺り一帯に広がる凝灰岩を突き破って噴き出してきた溶岩が冷え固まってできた安山岩だそうです。宇連ダムのダム湖内には、このような安山岩の岩脈が12本あるそうで、これは第10岩脈になります。




こちらは、第10岩脈のすぐ上流側にある「穴滝」。ご覧のとおり、岩盤に屈曲して穿たれた深い溝へと落ちる滝で、全体像を見るのが容易ではありません。宇連ダムができるまでは、名瀑として知られていたそうですが、現在はダム湖の渇水時でないと見ることができません。




第10岩脈の下流側左岸には、現在の愛知県道424号の旧道に当たる道跡がダム堰堤方面へと残っています。この道跡を歩いていきます。




夏の厳しい陽射しのおかげで、歩いている最中は汗が噴き出して止まりませんでした(笑)。


遺構の一つである暗渠が見えてきました。


私が前回見に来てから3年経っていますが、暗渠の中に土砂の詰まりは無く、きれいに抜けたままになっています。




母は暑さにギブアップして、先に引き返してしまいました。弟と二人、もう少し先へと進んでいきます。


二つ目の暗渠が見えました。


一つ目のものよりも小振りなサイズですが、かろうじて姿を残しています。


この先は道跡が欠落していて先に進めないので、私たちも引き返すことにしました。


満水時には水に浸かってしまう場所なので、こんな時にしか歩いたり眺めたりすることはできませんが、ダムに沈む前の昔の風景をちょっと窺うことができる興味深い場所です。


Posted at 2023/09/29 23:56:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年09月21日 イイね!

宇連集落跡から海老峠への峠道を探索する(2)

2023年8月19日土曜日、北設楽郡設楽町川合の宇連集落跡から海老峠への峠道を探索しました。

前回(1)では、沢の源頭部を巻いていく箇所まで進んできました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

源頭部を通過すると、今度は折り返しが連続する区間を通り抜けていきます。




折り返しを登り切ると短い稜線の上を進んでいきます。




大きく抉れた枯れ沢が現れました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

枯れ沢の向こう側に道筋は見えていますが、けっこう深く抉れているため、一旦倒木に沿って下流側へと下り、足場がある所から対岸へと渡り、道筋へと登り直していきます。


枝が張ったままの倒木が行く手を塞ぎますが、無理せず隙間が広い所を迂回していきます。


またつづら折りを登っていきます。






間伐材がたくさん転がっていて、通り抜けるのに手間取ります。


ようやく海老峠がある尾根が見えてきました。


鞍部に向かって登っていきます。


海老峠に到着です。岩古谷山方面を向いています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

東海自然歩道を宇連山方面へほんの少し歩くと休憩所があります。


ここに倒れてしまった道標があります。宇連集落と川売集落への案内表示もありますが、両方とも後付けされたような「通行不可」のプレートが貼り付けてあります。


せっかく海老峠まで登ってきたので、川売集落側への峠道を行ける所まで進んでみることにします。




細いながらも直線的に続く峠道を下っていったところ、岩盤が剥き出しになっている小さな沢にぶつかりました。道筋との段差は1m弱くらいですが、沢底へ飛び降りて着地できそうな平らな場所がありません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

下側へ迂回するか、上側へ迂回するか、しばらくその場で考え込んでいましたが、道筋よりも上側の沢底の方が足場になりそうな岩場の段差があったので、剥き出しの根っ子も手掛かりに使って、沢を渡っていきます。


ようやく難所を越えると、峠道はつづら折りで一気に下り始めます。




急傾斜の植林地に細い道筋が続いています。


落ち葉の下に大量の石が転がる斜面へと出てきました。案の定、埋もれてしまったのか道筋があやふやになってきました。


完全に道筋を見失ってしまいました。これよりも手前で折り返していたのか、今も正しいルートは歩いていて、道が埋もれたり崩れてしまっただけなのか…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひとまず、「道のように見える所」を進んでいくことにします。




岩場にある段差を伝って進んでいきます。真っ当に言えば、もはや道とは言い難い状況ではあります。


鞍部を越えていきます。


ここまで来ると、引き返すための決定的な口実を得るために進んでいるようなものです。


尾根が一気に下り始め、もう明らかに一般に使われる「峠道」が通る場所ではなくなりました。大げさですが、引き返す余力も考えておかないといけないので、ここで諦めました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

実は、道を完全に見失った場所の先にあった岩壁に穴が見えていました。天然物でしょうが、もしかしたら石仏などが祀ってある可能性もあり、海老峠へと戻る際に近づいてみようと試みましたが、どう見ても足場が悪い崖を通るしかなく、こちらも諦めました…。


海老峠まで引き返し、あとは宇連集落跡まで下っていきます。今回はけっこう足にきてしまっていたので、要所要所で気を引き締めながら歩いていきます。






宇連集落跡の手前まで戻ってきたところで、「もう大丈夫だろう。」と沢に下りてひと休憩。沢の流れで顔を洗ったりしました。




気持ちに余裕が戻ってきたので、行きに見かけた滝を間近で見るために川まで下りてみました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上流側にさらに落差のある滝が見えていたので、河原を歩いていってみます。


こちらは一枚前の写真の左側に写っていた滝です。


50mから100mくらい歩くともう一つ滝が現れました。落差は10mから15mくらいでしょうか。


滝のしぶきと滝の上から吹き降ろしてくる風のおかげで、とても涼しくて良い気分でした。


林道宇連線の入口の駐車場所まで戻ってきました。ここで着替えていたら、腰にヤマビルが一匹吸い付いていました。まだ大して血は吸われていませんでしたが、ヤレヤレです…。


あらためて今回の探索ルートの全体図です。新城市の川売集落側からと違い、宇連集落跡からは海老峠まで峠道を辿ることができました。



ここからは余談になりますが、宇連集落側から見ると、日常的につながりが深かったのは、海老峠を越えた先にある新城市海老ではなく、設楽町神田や新城市川合だったようです。

「設楽町誌 村落誌編」には、「宇連集落は他地域との交通が極めて不便であった。神田へ約6km、川合へ約8kmの山道を徒歩で、運搬は人の背に頼っていた。宇連に入る荷を『上げ荷』、宇連から出る荷を『下げ荷』といい、川合には『荷しょいさ』と呼ばれる女性が大勢いて荷の運搬に従事していた。『上げ荷』は味噌・しょう油・米・その他日用品や雑貨がほとんどであり、『下げ荷』は炭がほとんどであった。なかには木挽き板を海老(約8km)まで運ぶこともあった。木材運送のトラックが砂利道で川合へ通行するようになったのは戦後である。」とあります。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

海老峠が利用されていたことがわかる一文もありますが、内容のほとんどは新城市川合との往来の記述になっています。

一方、集落の児童は、昭和22年(1947年)に集落内に神田小学校宇連分校が開校されるまでは、設楽町神田の神田小学校まで、およそ2時間かけて登校していたそうです。山道での遠距離通学だったために、集落児童の出席率は30%以下の状況で、これが分校設立への原動力になったようです。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

それ以外にも、「新聞も配達されず、郵便も三日に一度の集配、情報を得る手段はトランジスタラジオが唯一であった。電灯はなく、石油ランプの生活が地区が消滅するまで続いた。」との記述もあり、現代的な生活に浴することなく集落が消滅してしまったことが窺えます。

林道宇連線が開通した翌年の昭和42年(1967年)、宇連分校は廃校となりました。通学していたのは3名で、兄弟だったそうです。そして、廃校時点での集落の戸数は、わずか4戸となっていました。そして現在、宇連集落があった設楽町大字川合の人口は0人です。
Posted at 2023/09/21 23:47:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年09月18日 イイね!

宇連集落跡から海老峠への峠道を探索する(1)

2023年8月19日土曜日、北設楽郡設楽町川合の宇連集落跡から海老峠への峠道を探索しました。

海老峠は、宇連集落跡と新城市海老を結んでいた山道の途中にあった峠です。現在は、岩古谷山と宇連山の間を通る東海自然歩道の通過ポイントの一つでしかありません。

海老峠については、7月16日日曜日に峠の西側にある新城市の川売集落から峠道の探索を試みましたが、最終的には道筋がはっきりしなくなり、岩壁へと出たところで探索を断念して引き返すこととなりました。今回は、「西側がダメなら東側から。」と宇連集落跡から峠道の探索をしてみようと思い立ったわけです。

愛知県道424号 丸天橋へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本当は、ここから宇連集落跡へと向かう林道へと入り、集落跡付近へ車を停めて峠へと向かうつもりでしたが、ご覧のとおり通行止めとなっていたため、この場所に駐車して向かうことにしました。このすぐ先で土砂が林道に流れ込んでいるのが見えています。


歩き始めると道路を跨ぐ倒木に遭遇。奥に人家が無いためか、もう積極的には道路整備されていないみたいです。


眼下の渓流。水が透き通っていてきれいですね。


小さな滝が見えています。滑り台のような変わった雰囲気の滝です。


小さな橋がありました。銘板は見当たらず、名称はわかりません。


対岸に石垣が見えています。上が平場なので、耕作地の跡かもしれません。


また小さな橋がありました。相当以前から車が通行していないのか、路面が一面苔だらけです。


右側の路肩に転がっていたダッシュボード。以前はここに廃車があったようですが、どうしてこのパーツだけ転がっているんですかね。


目線を先にやると大きな木の下に石碑があるのが見えます。


木の真下にある小さな石碑はよくわかりませんでしたが、こちらは竣功記念碑ですね。碑文を見て、この道が「林道宇連線」という名称であることがわかりました。


裏面は日付と関係者氏名が彫られています。「昭和41年(1966年)7月」が竣工時期を指しているのであれば、それまでは宇連集落跡まで自動車は入ることができなかった可能性が大です。




記念碑の先にはヘアピンカーブがあります。この写真の左側から分岐していく道がありますが、その道の先に旧神田小学校宇連分校があったそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ふたたび苔むした道を歩いていきます。滑って転ばないように気を遣います。


中身がもぬけの殻となった祠と石仏群。ここから先が宇連集落跡となります。


家屋があります。人が住んでいるような気配は感じられませんが、家の周囲はきれいになっており、時々は所有者が訪れているのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路面の舗装がここで途切れました。林道宇連線はこの場所が終点のようです。林道左側は山の斜面に、右側は沢沿いの緩斜面に、それぞれ石垣がある段々地が残っています。


少し歩くと道の右側に苔で覆われた小山があり、その頂上に石碑が立っています。


彫られている文字を読み取ると「御頭天皇」とあります。初めて見る文言です。後日、「設楽町誌 村落誌編」で調べてみたら、「牛頭天王の意である。」とありました。要するに当て字なわけです。牛頭天王は除疫神として崇拝されているようなので、疫病退散の意を込めて祀られたものでしょうか。


側面には「明治十三年辰六月」とあります。明治13年は西暦1880年なので、143年前のものとなります。


石碑を通り過ぎると橋が架かっていて鳥居があります。鳥居をくぐると宇連集落の氏神である諏訪神社があります。






「振草村誌」によると、宇連の諏訪神社は、「建御名方命を祭神とする。天平時代(729年から749年まで)の勧請と伝えるが真偽不明である。」とあります。また、神殿には元禄9年(1696年)の棟札があり、境内に立つ灯篭には「元禄六年癸酉天九月吉祥日 三州渥美之郡吉田宿加藤兵衛納」と文字が彫られているそうです。

天平時代はともかくとして、少なくとも320年から330年ほど前には、すでに宇連の地に定住していた人たちが居たことがわかります。

ちなみに、灯篭を奉納した加藤兵衛さんは、当時川合(新城市川合)・宇連・海老(新城市海老)を結ぶ山道で商売をしていた魚屋だそうです。こんな山奥なので、しっかり塩漬けして作られた干物などを売り歩いていたんですかね。今回の目的地である海老峠も、何度も越えたことでしょう。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石製の嗽盥(うがいだらい)。


「設楽町誌 村落誌編」によると、寄進したのは佐藤彦蔵さん。国内有数の長寿者として知られた人だそうで、文化7年(1810年)に宇連地区の向貝津に生まれ、大正6年(1917年)に老衰により享年108歳で死去したそうです。長寿を祝っての恩賜金を三回賜ったことがあり、この嗽盥は104歳の時に恩賜金の一部を割いて寄進したそうです。

あらためて境内の写真です。本殿の右側に加藤兵衛さん奉納の灯篭が立っています。


結局、集落跡には入口の家屋と神社以外、林道から見える範囲で目に付くような廃屋などは残っていませんでした。

さて、探索を再開します。神社を後にして道筋を進んでいくと沢を渡ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を渡った後に道筋が消えてしまうことがよくありますが、今回は杉木立が並木のように道筋を示していて、迷うことなく進んでいけます。






集落跡があった緩斜面が終わり、沢沿いを離れて山肌へと取り付きます。この先は何度も何度も折り返しが現れます。








小さな平坦地が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

平坦地の奥には炭焼き窯の跡がありました。


ここからは道幅がさらに狭くなり、小刻みなつづら折りを繰り返しながら登っていきます。








稜線の上へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一息つけたのも束の間、またつづら折りが始まります。






この辺りからは斜面に石が散らばり、道筋もはっきりしなくなってきます。何度も周囲を見渡したり、振り返ったりして確認しつつ、急坂を登っていきます。




石が散らばる区間を通り抜け、炭焼き窯の跡の横を進んでいきます。




沢の源頭部を巻いていきます。


沢を見下ろすと、まさに岩盤製のウォータースライダー。どこまで滑り落ちていくんですかね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その(2)へ続く。
Posted at 2023/09/18 21:29:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年08月08日 イイね!

【奈良県川上村】大鯛木馬道を歩く

2023年7月15日土曜日、奈良県吉野郡川上村中奥に残る「大鯛木馬道」を歩いてきました。この木馬道は1944年(昭和19年)に開通したもので、全長は2kmです。

「大鯛木馬道」を知ったきっかけは、何かの廃道の本で記事を読んだ事だった気がするのですが、どうにも思い出せません。手持ちの廃道関連本には見当たらないんですよね…。

とにかく、せっかくの三連休なので、日ごろ行きづらい場所へ行ってみようかと思い立ち、あらためて「日本の廃道」第79号や訪問者のブログなどをチェックして現地へと向かいました。

さて、やって来たのは川上村中奥にある「中奥地区簡易水道浄配水場」前の広場。正しくは林道大鯛線の終点転回場なんだと思います。


場所はこちら。浄配水場へたどり着くには、川上村白川渡で国道169号から奈良県道258号中奥白川渡線へ入り、中奥川沿いにところどころ行き違い困難区間がある狭い県道を中奥集落まで進みます。中奥集落からは林道大鯛線(一応舗装路。実態は苔で舗装されていたり(笑)、舗装がボロボロになっている状態。)の急坂を登っていきます。林道へ入ってからは、途中何度か停まっては落石を路上から取り除いて進みました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

準備ができたところで、浄配水場の前から折り返していく林道を登っていきます。


2~3分ほど歩くと、斜面に取り付けられた階段が現れます。大鯛木馬道へ行くにはこの階段を登ります。まあ、階段というよりも梯子と言ったほうが正しい気がします。しかも、一部踏み板が腐食しているので要注意です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

階段を登ると大鯛木馬道です。が、目の前には細い踏み跡があるだけです…。おそらく、駐車場所から登ってきた林道が造られた際に削られてしまったのでしょう。


細い踏み跡なのは取りあえず大丈夫なのですが、ここでいきなりマムシとにらめっこになってしまいました…。まだ子どものようですが、マムシですからね…。いつまでたっても全然動いてくれる気配がなかったので、仕方なく高巻きして前方へと移動しました。

マムシがいた場所を越えると、まともな道になりました。


岩盤を切り取って造られた道が続いています。




岩盤剥き出しの沢が現れました。まだほんの序盤なのですが、私にとってはいきなりの難所です。道から沢へと下りることはできますが、岩盤全体がぬめっているように見えます。もしも滑ったら、すぐ真下は高い段差になっているので万事休すです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢へ下りて、下流を眺めています。ここから真横に進むと、ヌルヌルの岩盤の上を歩くことになるので精神衛生上よろしくない。そこで、足場になる苔や落ち葉が積もっている場所を選んで上流側へ迂回し、対岸へと取り付きました。


対岸から振り返っての眺めです。道の路肩に石垣が積まれています。路肩を補強するための擁壁ですね。


結局、このようなルートで沢を渡りました。




せっかく難所を越えましたが、ふたたび狭い道幅に戻ってしまいました。


2つ目の沢が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢底からの眺め。踏み跡をなぞって沢から脱出します。


この沢は、1つ目の沢に比べると特に悩むこともなく通過できました。対岸を振り返ると、石垣がわずかに残っています。


渡ったルートはこちら。


ここも石垣がしっかり残っています。こんな場所で石垣が崩れていたら、進めなくなってしまいます。


崖上の切り取り工の道を進みます。


わずかな間だけ植林地を通過します。


3つ目の沢です。この沢には石積み橋台が残っています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸を振り返っての眺め。向こう側にも石積み橋台が残っています。


この沢は山側を通過していきます。




ふたたび植林地です。灌木帯の中を進んでいきます。


4つ目の沢です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今のところは、現れる沢の難易度がだんだんと低くなり助かります。




ふたたび崖上へと出てきました。眼下には大鯛滝が見えてきたので、目的地まではあとわずかのようです。


その前にこの場所にある横穴へちょっと寄り道です。


中はすぐに行き止まり。下手に身を乗り出すと、下へ向かって広がっている部分へ落ちてしまうので、注意します。


そして、ようやく目的地である大鯛木馬道の素掘り隧道に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

隧道の手前の路面が切れ落ちています。この道、木馬道そのものを訪れる人や、さらにここから白鬚岳へと登山する人も通るので、安全確保のため(通過時にバランスを保つためのものかと。)トラロープが設置されています。


下流側の坑口は、谷側が大きくえぐれています。掘削しているうちにこのような形になったのだと思います。


4つ目の沢を渡ってからずっと急な登り坂ですが、隧道の中もそのまま急坂が続いています。


内壁は荒々しく削られたままの状態です。


上流側の坑口へと出てきました。隧道の先も絶壁の上を通っています。


「木馬道」の名残りと考えられている木材。


「木馬道」(きんばみち、きんまみち、きうまみち。)は、伐り出した木材を「木馬」と呼ばれる「そり」に積んで搬出するために造られた道です。「木馬道」には、摩擦を減らすために「盤木」と呼ばれる丸太などが敷かれていて、「木馬」はその「盤木」の上に乗せられ、人力で曳いていました。

この「木馬」による搬出は、かつてはごく一般的な搬出方法だったそうですが、下り坂の「木馬道」で重量物である「木馬」を人力で曳いたり止めたりするわけですから、大変危険な作業であったそうです。

せっかくなので、もう少し先へと歩いていってみます。


大鯛滝の上まで登ってきています。


滝口を過ぎると、今までの崖上の道から穏やかな渓谷に沿う道へと景色が一変します。






褶曲活動でねじ曲がった岩盤。


5つ目の沢が出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を越えるためには、一旦沢底へと下りて、流れの中を下流方向へ歩き、そこから道へと登り直す必要がありました。越えることはできそうでしたが、沢の中に段差があり、そこで服を濡らすことになりそうだったので、今回はこの沢で引き返すことにしました。


素掘り隧道へと戻っていきます。




滝口から下を覗いてみますが、滝壺までは見えません。


崖上の下り坂を慎重に下っていきます。




素掘り隧道まで戻ってきました。


この景色を直接見たくて、ここまで来たんですよね。


写真だと本当にわかりづらいですが、隧道内も急坂であることが多少は感じられると思います。






こんな崖上の狭くて急な坂で木材を積んだ「木馬」を引いて下っていたなんて、恐ろしい話です。

隧道内の写真を撮っていると、坂の下で待っている人がいるのに気が付きました。「これはいけないな。」と、道を譲るために下まで下りていきました(ただし急坂なので慎重に。)。


近くまで下りていくと、いかにも登山者だという風体の方が待って見えました。

登山者:「もう(木馬道の)終点まで往復されたのですか?」
私:「いえ、すぐ上の沢で引き返しました。この坂をゆっくりでしか下りられないような素人ですから。」
登山者:「(笑)。まさかほかの人が来ているとは思いませんでしたよ。それじゃあ、気をつけていってください。」
私:「ありがとうございます。お気をつけて。」

確かに、こんな場所で他人と遭遇するのは珍しい事。動物と遭遇する確率の方がよっぽど高いでしょう。

とにかく目的は果たしたので、まずは無事に車まで戻ることに専念します。

立ち話をした場所から20分ほどで階段まで戻ってきました。ここも、踏み外さないように慎重に下りていきます。


無事に車まで戻ってきました。後ろの車は先ほどすれ違った方の車でしょう。


ここで上着にヤマビルが1匹くっついていることに気がつき、指で弾き飛ばしました。


今回の探索ルート図です。距離としては往復2kmほどと、最近では短い部類の探索となりましたが、内容が濃くて満足でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

引き返した先にもまだまだ木馬道は続いていますが、過去の訪問者のレポートを読む限りでは、この先はあまり「成果」の残る雰囲気ではないようです。

ただ、木馬道沿いの渓谷は紅葉が綺麗らしいので、晩秋に紅葉狩りへ再訪するのは良いかもしれませんね。
Posted at 2023/08/08 23:52:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年08月06日 イイね!

【新城市】愛知県道435号 須山入口から「峰の峠」までを往復しました

2023年7月8日土曜日。この日は廃道探索には出かけず、三河の山の中を縫ってドライブしていました。

岡崎市額田地区から愛知県道37号を走行し、田原坂を登って新城市作手へと出ます。そこから県道436号・県道435号を通って、寒狭川沿いの新城市愛郷へと出て、少しだけ国道257号を走り、島原橋を渡ってふたたび県道435号へ。

インプレッサだとギリギリの幅の狭い上り坂を登って、新城市中島山中の東にある小さな峠に来ました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

以前、この県道をドライブした時に、峠の切り通しの上に石仏があるのを見かけ、その内にまた見に来ようと思っていました。

県道の上の斜面に上がると、車道改修される以前の古道が残っていました。


古道を進んでいくと石仏がありました。通りすがりに県道から見上げた時は一体しかなかったように見えましたが、全部で2体の石仏と2基の石碑でした。


左から馬頭観音、役行者像で、右端のものは文字が彫られているのみで、何の石碑であるかは不明です。役行者像には年号が彫られていて、「天保五年九月吉日」とあります。天保5年は1835年になります。石碑には「關〇林」の3文字が彫られていて(〇は上が「令」で下が「周」に見える。)、側面に大正六年(1917年)とありました。


こちらは名号碑(南無阿弥陀仏碑)です。彫られている書体は、「只持海老道」で見たものと似ています。ネットでこの独特な書体について調べてみると、江戸時代後期の浄土宗の僧侶「徳本上人」にまつわる名号碑に用いられているようです。ただ、「只持海老道」やこの場にある名号碑が「徳本上人」に関わりのある碑であるかはわかりません。


ひとしきり石仏群を見物した後、ドライブを再開しましたが、ふと「もう少し歩き回るかなぁ。」と思い立ち、須山集落入口の交差点にある旧道へ車を駐車。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もう一度峠へと徒歩で登っていきます。






石造の暗渠かなと覗いてみましたが、天板はコンクリート製のようです。


峠まで戻ってきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠下のヘアピンカーブを下っていきます。




山中集落まで来ました。


正面の三角コーンが立っている細い道を進んでいくと、先週「只持海老道」の探索に利用した「林道桃の久保線」へとつながります。新城ラリーの初期にはこの小さな交差点もリエゾン区間の一部で、細道から鋭角に左折して走行していました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山中集落内も県道435号は狭い道のままです。


さて、ここで引き返しても良かったのですが、ここ山中集落から以前に古道探索で訪れた「峰の峠」まではそんなに遠くはないはずなので、もう少し足を伸ばしてみることにします。


ここが「峰の峠」へと向かう道になるようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひとまずは、地形図に表記されている道のとおりに進みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

谷筋へと入り込むと、かつての棚田の跡が峠へと向かって何段にも残されています。




簡易水道の施設のようです。ここから先は徒歩道へと変わります。


まだまだ谷の奥へと向かって棚田の跡が続いています。思わず「すごいな。」と独り言が出てしまいます。




こちらは簡易水道の取水施設のようです。


棚田へ向かうためのあぜ道と思われる道跡を進んでいきます。これだけの土地の造成と石垣の積み上げ。何年がかりで仕上げたものなのでしょうか。




峠へと近づくにつれて谷筋は緩斜面へと変わってきました。まるで湿地帯のような水源地ですが、この辺りにも田んぼの区画と思われる石列や低い石積みが見られます。




ようやく「峰の峠」の盛土道に着きました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは、山中集落へと向かう古道をあらためて辿っていきます。




先ほど歩いてきた湿地帯。


古道は、谷底よりもやや上部の斜面を縫うように進んでいきます。




棚田跡をより高い目線から見下ろします。


多くの倒木で古道が荒らされてしまっています。




若木の中を突っ切っていきます。


砂防ダムにより古道が寸断されてしまったので、ダムの上流側へと迂回して対岸へと進みます。


棚田跡がある谷底とけっこう標高差が出てきました。




整然と区画された棚田跡が並んでいます。田んぼだった頃は、こんな鬱蒼とした感じではない爽やかな景色だったでしょうね。


古道部分の倒木が切り取られています。現地の当事者ではない私が言うことではないですが、こんなふうに倒木が処置されていると大変助かります。


山中集落から入り込んだ時に見えていた砂防ダムです。


分岐路に出てきました。往路では左側の道へと進みました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山中集落へと戻ってきました。


さらに峠を越えて、車へと戻っていきます。


山中集落から歩くこと約30分。車へと戻ってきました。




今回歩いたルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

家を出た時には「今日はドライブするだけ。」のつもりだったのですが、結局山の中へと入り込んでしまいました(笑)。

今回は散歩をしたようなものでしたが、山中集落から「峰の峠」へと続く石垣の棚田跡はなかなか圧巻の景色でした。「田畑に使える土地は無駄なく使う。」という徹底した考え方が垣間見えますね。
Posted at 2023/08/06 22:34:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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