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小林あにのブログ一覧

2018年11月10日 イイね!

西尾城址と旧西尾鉄道安藤川橋梁跡

今日は買い物のために隣の西尾市の市街地まで出かけたついでに、ちょこっと西尾市内をミニドライブしてきました。

まず立ち寄ったのは西尾城址。西尾藩6万石のお城の跡ですが、一部再建された建物があります。

鍮石門(ちゅうじゃくもん)。


本丸丑寅櫓。木造で再建されていて、無料で中を見学できます。






しかし、城跡周辺はスマホを持ったたくさんの人たちがあちらこちらと動き回っていて、「ポケモンGO」でもしていたんですかね。お城の写真を撮って、普通に散歩している自分の方が何か浮いてる感じでした(笑)。

次は、西尾市内の郊外にある廃線の橋梁跡に来ました。

旧西尾鉄道安藤川橋梁跡。




旧西尾鉄道は、現在のJR岡崎駅から名鉄西尾駅を経由して吉良吉田駅を結ぶ路線と西尾駅から西尾市内の平坂地区を結ぶ路線を持つ、軌間幅762mmのナローゲージの鉄道でした。

JR岡崎駅から名鉄西尾駅の区間は、昭和18年に戦時下での不要不急路線とされ廃止されてしまいました。


橋台のコンクリートの中からレールがのぞいています。




ナローゲージらしい小さなレールですが、古レールを鉄骨代わりに用いたのでしょう。

橋梁跡から八ッ面山(遠方の丘)を望みます。道路がそのまま廃線跡になります。


平地の廃線跡は開発で消されていってしまうのが常ですが、ここは地域で案内板を設置しているくらいなので、大々的な河川改修でもない限りはこのまま残っていきそうです。
Posted at 2018/11/10 23:25:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2018年09月17日 イイね!

「加悦SL広場」へ行ってきました

9月16日(日)、京都府与謝郡与謝野町にある「加悦SL広場」へ行ってきました。

与謝野町は、TGRラリーチャレンジin丹後半島が開催されている京丹後市の隣町です(実際には与謝野町加悦と京丹後市峰山で15kmから20kmは離れているようですが。)。

朝6時に自宅を出発。ラリーの時は渋滞回避のため北陸道-舞鶴若狭道ルートでしたが、今回は早朝出発ということで、伊勢湾岸道-東名阪道-新名神-京滋バイパス-京都縦貫道という最短時間ルートで行きました。

現地には9時45分頃に到着。開場時間は10時です。



「加悦SL広場」出入口に建つ建物は、廃線となった旧加悦鉄道加悦駅駅舎を模したもの。



ちなみに本来の加悦駅駅舎も与謝野町加悦庁舎敷地内に「加悦鉄道資料館」として現存していて、見学できるそうです(チェックしてなかったので、当日は素通りしてしまった…。)。

入場券は硬券切符(みたいなもの。)。



改札口を出るとこんな風景です。



ここからは、ほぼ車両の写真ばかりです(笑)。

ハ4975形付随客車(ハ-4995)。1893年製造、1928年に加悦鉄道に来て1935年廃車。廃車後、加悦駅構内で倉庫に使われていたものを修理復元。





ハブ3号形付随荷物緩急車(ハブ-3)。1889年製造。1927年に加悦鉄道に来て、1969年廃車。







2号蒸気機関車。1873年製造。1926年に加悦鉄道に来て、1956年廃車。2005年に重要文化財に指定される。





重要文化財に指定されているためか、この車両のみ屋根付きとなっています。



1261号蒸気機関車。1923年製造。1943年に加悦鉄道に来て、1967年休車。





C57形蒸気機関車(C57189)。1946年製造。1973年に当時の加悦町が旧国鉄から展示用として借用したもの。だいぶ朽ちてきてます。









C58形蒸気機関車(C58390)。1946年製造。1975年に当時の加悦町が旧国鉄から展示用として借用したもの。こちらも相当の傷み具合です。









103号蒸気機関車。1915年製造。加悦鉄道での使用はなし。







転車台です。









40900形内燃三等荷物動車(キハユニ51)。1936年製造。1962年に加悦鉄道に来て、1985年鉄道廃止に伴い廃車。1993年に荷物室・郵便室を修理復元。

















DC350形内燃機関車。1956年製造。1967年に加悦鉄道に来て、1985年鉄道廃止に伴い廃車。





ハ10形付随客車(ハ-10)。1925年製造。1925年の加悦鉄道開業時から在籍。1968年廃車。1995年に新造当時に復元。二等・三等合造車です。







三等室内。







二等室内。今で言うとグリーン車に相当するはずですが、地方私鉄の車両ということもあるのでしょうが、背もたれにもクッションがあるくらいの違いしか見受けられません。







ハ20形付随客車(ハ-21)。1893年製造の台車に1935年新造の車体を組み合わせたもの。1972年廃車。2000年修理。







遠州鉄道ト400形無蓋貨車。1923年製造、2000年廃車。加悦鉄道での使用はなし。



KD-4内燃機関車。1956年製造、1976年廃車。加悦鉄道での使用はなし。



ラッセル車キ-165。1938年製造。1981年に当時の加悦町が旧国鉄より展示用として借用したもの。展示用に借用したものが多いけど、今はJR西日本あたりと貸借契約しているのだろうか。



圧縮空気用のものなのか、大きなタンクが車内に鎮座してます。



ダルマストーブ。



運転台周辺。







車内。いろんな物がゴチャゴチャしているのが何かいい感じ。



外観。





4号蒸気機関車。1921年製造。1934年に加悦鉄道に来て、1967年休車となり1969年廃車。









キハ101。1936年製造。珍しい三軸車(駆動台車が1軸、付随台車が2軸。)。









ワブ型有蓋荷物緩急車(ワブ-3)。1916年無蓋貨車として製造。1943年有蓋貨車へ改造。



DB202。1963年製造。



DB201。1953年製造。



キハ08形内燃動車(キハ-083)。1962年、客車を改造し気動車化。1971年に加悦鉄道に来て、1985年の鉄道廃止に伴い廃車。







キハ10形内燃動車(キハ1018)。1956年製造。1980年に加悦鉄道に来て、1985年の鉄道廃止に伴い廃車。







京都市電5号車。2003年に譲り受け。

Posted at 2018/09/17 11:59:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2018年03月14日 イイね!

旧篠ノ井線第二白坂隧道を歩く(2)

今日は、長野県筑北村に残る旧篠ノ井線第二白坂隧道まで行ってきました。

篠ノ井線は、西条駅から明科駅の区間が線路改良に伴うルート変更により、このトンネルを含む旧線区間が昭和63年に廃止となりました。

今回は、廃線跡を辿る遊歩道の終点となっている明科駅側坑口とは反対側の、西条駅側坑口からトンネル内を探索してみました。


内容は(1)からの続きとなります。

奥へと流れるように煉瓦の天井が続いております。


5か所目の大型退避坑です。


奥の壁面にある1960年(昭和35年)7月の表示。この年に大掛かりな改修工事を実施したようですね。


ここの退避坑の照明は白熱灯。


退避坑横にも設置されています。


コンクリートブロック区間の退避坑。もちろんコンクリートブロック積み。


煉瓦を剥がしてコンクリートブロックで巻き立て直さないといけないほど、トンネル内に変状が起きたのでしょうか。壁面に描かれた矢印の上に「42」の数字。巻厚42cmですか。


「T100」のプレート。何を表示してるのかはわかりませんが、数字は減っていっています。


側壁部分が石積みに変わりました。あと、なぜかブルーシートが。


架線を吊り下げるためのパーツでしょうか?


ここだけ、なぜか枕木が元のまま残されています。


パイプをトンネルアーチに接着して、ブルーシートをカーテンにしていたようです。


ここに6か所目の大型退避坑があります。


色々な機材が置かれています。一体何をしていたんでしょうね。




天井の煉瓦の並びが歪んでいるような…。


側壁の面にも段差が見られます。


少し進んだ所にもブルーシートが掛けてあります。


ブルーシートの先は枕木が撤去されています。何とも不可解な区画です。


側壁が石積みなので退避坑も石積みになりました。


鳥居隧道や金山隧道の煤は真っ黒でしたが、このトンネルの煤は茶色ですね。使用していた石炭の違いなのでしょうか。


路盤の真ん中に穴が開いています。


排水溝の穴でした。


7か所目の大型退避坑です。


犬釘が落ちてました。


側壁が朱色に変色してます。何か燃やしたりしたのかな?


側壁を補修した跡のようです。少々乱雑な組み方ですね。


8か所目の大型退避坑です。


ここにも穴が。排水溝の穴は2か所だけでした。


石積みの側壁はここで終わり、また煉瓦積みの側壁に戻りました。




9か所目の大型退避坑です。


距離標ですが文字は全く読めません。


電話機がボックスごと転がっていました。




側壁部分の煉瓦が煤でモヤっとぼけた感じに見えます。


10か所目の大型退避坑です。さすがトンネル延長2km、たくさん設置されています。


壁面に「きのこ屑入れ」なる瓶がぶら下がっていました。調べてみたら、明科駅側坑口付近はキノコ栽培に使われていたそうです。


煉瓦側壁中で唯一コンクリートで補修された退避坑。


また「きノこ屑入れ」がありました。きのこの屑とは一体何?


いよいよ明科駅側坑口がはっきりしてきました。


最後はコンクリート覆工に。


最後の退避坑。


ようやく2kmを歩き通しました。写真を撮りながらなので、1時間25分かかりました。


扉が「キン肉マン」に出てくる「ウォーズマン」に見えるなぁ(笑)。


換気窓から外を見上げてみます。


「T1」のプレート。


坑口付近も1960年(昭和35年)の施工。ここは3月の竣工。


歩いてきた方向を振り返ります。


天井、けっこう傷んでいます。


坑口側は3月でトンネル内は7月の竣工。なんで時期に違いが?坑口側の改修後に内部側も損傷が目立ってきたのでしょうか。


さて、ここからはまた真っ暗なトンネル内を2km歩いて車へと戻ります。


ここから出られたとしても、国道の峠を登って帰るよりはトンネル内を引き返して帰ったほうが一直線ですし、登り坂でも緩やかだから楽なので(笑)。SLには厳しかった25‰勾配ですけどね。

帰りは40分ほどで西条駅側坑口まで戻ってきました。


最後に坑口の遠景。右手の斜面は崖崩れがあったのか、上部までしっかりとコンクリートで固められています。


記録によると、西条駅ー明科駅間は開通後からほぼ毎年、長雨や豪雨があるたびに沿線の地滑りに悩まされていたそうです。常に付きまとう危険と増大する保守費用を解消するために、この区間を3か所・計9kmに及ぶトンネルでバイパスするルート変更が行われた訳です。

さて今回で、ついに2kmの廃トンネルをクリアしました(往復したので4km(笑)。)。ここ最近で1.6kmの廃トンネルを2か所歩いた余勢を駆ったところもありますが、トンネル内の暗闇に対する恐怖感が段々と薄れてきたのかもしれません。

それでも、歩き始めの5~10分はドキドキしてますけどね(笑)。これからも何も出ないこと、出会わないことを祈るのみです。

このトンネル、検索時には内部を探索したという記事はほとんどヒットしませんでした(1件くらい。)。廃線後、キノコ栽培に利用され、現在も坑口に扉が設置されたままなので、探索できない物件と見なされていたのかもしれません(自分がそうでした。)。

おかげで予備知識なしでの探索でしたが、やたら補修されているとか不可解なものがあるとか、何気に特異なトンネルだったので、一人歩きでもなかなか楽しむことができました。
Posted at 2018/03/15 01:31:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2018年03月14日 イイね!

旧篠ノ井線第二白坂隧道を歩く(1)

今日は計画消化の有給休暇でお休みだったので、長野県筑北村に残る旧篠ノ井線第二白坂隧道まで行ってきました。

JR篠ノ井線の西条駅から明科駅の区間は、昭和63年(1988年)に線路の曲線・勾配緩和による運行上の隘路の解消や、保守管理上の防災向上などを目的として、長大トンネルを連ねるルートへと変更されました。これにより、今回訪れた第一・第二白坂隧道を含む旧線区間が昭和63年(1988年)に廃止となりました。

廃線区間のうち、明科駅から第二白坂隧道までは再整備されて、廃線跡を辿る遊歩道として開放されています。ちなみに、遊歩道の終点となる第二白坂隧道の明科駅側坑口には扉が付けられ、中は伺い知れない状態になっていました。

てっきり反対側の西条駅側坑口も同様に封鎖されているものかと思っていましたが、たまたま廃トンネルのことをネット検索していたところ、反対側である西条駅側坑口から中に入って探索した人がいることを知りました。それならばと思い立ち、急遽行ってみた次第です。

最寄りとなる廃線跡にやって来ました。


さっそく、廃線跡へと足を踏み入れます。




トンネルが見えてきました。


最初に現れたのは、第一白坂隧道の西条駅側坑門です。煉瓦積みの坑門がきれいに残されていますね。




短いトンネルです。中はほとんどコンクリートで覆工されています。


明科駅側の坑門です。こちらもきれいに残されています。


第二白坂隧道はこの先になります。


勾配標と思われますが、塗料が剥げてしまって表示内容はわかりません。


おそらくは、「L」(レベル=水平)と「18.2」(1,000m進むと18.2mの高低差がつく勾配。)と表示されていたと思われます。

第二白坂隧道手前の橋梁です。橋台は煉瓦積みになっています。




帰りはここで長靴を洗えそうです(笑)。

さて、こちらが第二白坂隧道。西条駅側坑門になります。




トンネル延長は2,084m(または2,094.1m)。日本鉄道請負業史明治編によると1900年(明治33年)に導坑貫通とありますが、竣工時期の記載はありません。本トンネルを含む西条駅ー松本駅の区間は1902年(明治35年)6月に開通しました。

坑門はコンクリートで延伸工事されています。1960年(昭和35年)施工のようです。


トンネルに入る前に旧坑門を見ておきましょう。






坑門の裏側には排水路が造られています。敷き詰めてあった煉瓦がバラバラです。


それでは、トンネル内へと入っていきましょうか。


最初から路盤には水たまりが伸びています。


機器用のボックスでしょうか。


早くも天井がコンクリート覆工になっています。


常磐線旧金山隧道ほどではありませんが、黄土色の泥沼が続いています。所々深いです。




距離標がありました。塩尻駅から36.5kmということでしょう。


泥の量が減ってきました。


退避坑上の照明。


見事な白華現象です(笑)。何か所も現れてきます。それだけ劣化が進んでいるということですね。


壁面補修の跡。




白い世界が続きます。ライトの光が白華現象でてきた結晶に反射するとキラキラして綺麗ですよ。


水の色が淡い青色。きれいですが、変な成分を含んでいそうで何か怖いです(笑)。


1か所目の大型退避坑です。このトンネルの大型退避坑は煉瓦造りのものがまったく無く、全てコンクリート製に改築されてしまったようです。


照明のスイッチ?


たくさんの煉瓦の筋に吸い込まれていきそうです。


これは何なんでしょう?丙号距離標というものでしょうか?




お休み中のコウモリさん達を起こしてしまいました(笑)。


コンクリートブロックになっている区間も白華現象が出ています。


2か所目の大型退避坑です。


間仕切りの奥に機器用ボックスが鎮座していました。


コウモリさん達、乱舞しています。


36km地点まで来ました。


まだ明科駅側坑口の光は見えません。


退避時の方向を表示しているのでしょうか?


車の轍が付いています。軽トラサイズに見えます。


片栗粉を塗り付けたかのように白いです。




ようやく反対側の光が見えてきました。これでちょっと安心できます。


坑口から2‰の下り坂(1,000m進むと2m下る勾配。)であったのが、この辺りから25‰の下り坂に変わります。このトンネルの内部は一直線ですが、勾配が変わる場所まで来たことで反対側が見通せるようになったわけです。

バラストが厚く敷かれています。いつの施工なのでしょうか?


3か所目の大型退避坑です。


何か所目かのコンクリート覆工。本当に補修箇所が多いです。


4か所目の大型退避坑です。ここは唯一、明科駅方面へ向かって右側に設置されていました。


奥にボックスが取り付けてあります。


「信号高圧ケーブル接続函」とあります。蓋は開きませんでした。錆のためか施錠されているのか…。


これまた唯一の蛍光灯。


「トンネル照明器具」とありますから、専用品ということでしょうか。


この退避坑の真反対には煉瓦製の退避坑が。


長くなりますので、(2)へ続きます。
Posted at 2018/03/15 01:30:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2018年02月16日 イイね!

北恵那鉄道跡を歩く(木曽川橋梁~第四山之田川橋梁)

今日は午後から中津川市内に残る北恵那鉄道の廃線跡を歩いてきました。

まずは木曽川橋梁を見るため、木曽川沿いの道路に車を停めて、河原へと下ります。

河原への途中に北恵那鉄道の用地杭がありました。


木曽川橋梁。大正13年(1924年)供用開始だそうです。




トラス橋は明治19年(1886年)イギリス製で他の鉄道から転用されたものらしいです。雰囲気は明治19年竣工の東海道本線旧揖斐川橋梁に似ています。

次は、車で上地橋梁へと移動します。


深い谷に架かっているので、高度感がけっこうあります。








側面に銘板が付いていたので望遠で撮ってみました。ピンボケでしたが、「汽車製造株式会社」、「大正十二年」(1923年)という内容が読み取れます。


さて、ここからが廃線跡の本番です。




架線柱か電信柱の跡ですね。


築堤部分にコンクリート製のアーチ型暗渠がありました。


付近に碍子や枕木が残っていました。まあ、枕木はたくさん残したままになってますけど。




辿るのにうんざりするような状況が続いてます(笑)。




第一山之田川橋梁に着きました。


まあまあ高さがありますね。


犬釘。


橋梁全景。




枕木もボロボロに朽ちています。




次の橋梁へと向かいます。この廃線跡はけっこうぬかるみが多いです。




第二山之田川橋梁です。








本当にうんざりしてきます(笑)。真冬でこれなので、夏は歩き通すのは無理かもしれません。




第三山之田川橋梁です。




側面に再塗装時に記された名称などが残っています。施工年月は昭和41年(1966年)10月。私が生まれる3年前です。


橋梁全景。








茨の刺に捕まりながら次の橋梁へと向かいます。


ようやく今回の終点、第四山之田川橋梁です。




犬釘と長靴。


橋梁の全景です。ここまで来ると橋梁と川面がずいぶん近くなっています。




橋梁の真下に立つと余裕で手が届きます。




再塗装施工時の記録。




この時点で16時15分頃。日が暮れてしまうので引き返すことにします。


薮の中を歩くのが嫌になったので、しばらく山の田川の河原を歩いて戻っていたところ、川の真ん中に橋脚の土台を見つけました。


すぐ横の川岸には高く積まれた石垣。多分、橋台と橋につながる道路の擁壁でしょう。


しかし、高石垣の反対岸にある線路跡付近には道路らしきものはないんですよね。何のための橋だったのか見当つきません。

途中、行きに立ち寄った暗渠を覗いてみました。細かい間隔で付いている型枠の跡が時代を感じさせます。




すぐ近くにあった石橋。


何とか日が暮れる前に車まで戻ってこれました。
Posted at 2018/02/17 00:51:55 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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