2020年7月23日木曜日、浜松市天竜区佐久間町浦川川上~浦川吉沢間の古道を辿ってきました。歩いた地域は現在は浜松市内ですが、2005年(平成17年)6月30日までは磐田郡佐久間町の町域でした。
ここを探索してみることにしたのは、今回も戦前と現在の地形図を比較してのこと。
現在、浦川川上と浦川吉沢の間には「相川」という川沿いに静岡・愛知県道9号が通っています。しかし、戦前の地形図を見ると、相川沿いの県道9号ルートは浦川川上からではなく、JR飯田線東栄駅付近の別所街道が起点となり、南方向へと向かって峠を越え、峠の直下で相川を渡り、そこからは県道9号ルートになります。
一方、浦川川上からの道は相川沿いには進まず、すぐに山の上へと登っていき、その後は尾根伝いに南下。浦川吉沢の手前で県道9号ルートに合流する経路となっていました。
山上を経由する同区間を現在の地形図で見たところ、林道が通っている区間もありますが、道の表記が全くない区間も存在していて、「手つかずの古道が長い距離残っていそうだな。」と思い、「4連休だし、長距離歩いて疲れ切っても問題無いな。」ということで、歩いてみることに決めました。
なお、探索用の資料として、インターネットで公開されている「浜松市道路台帳図」が大いに役立ちました。古道ルートが地図上に「法定外公共物」(ここではいわゆる「里道」のこと。)として表記されていたからです。
さて、今回のルートが載っている戦前の地形図です。赤線は、今回探索した区間になります。

※5万分の1地形図「本郷」。明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入。昭和7年(1932年)発行。
赤線が途中で途切れているのは、結局、浦川吉沢までたどり着けなかったからです。タイムロスが多すぎたのと、最後は古道を見失い、続きの古道をどうしても見つけることができなかったのです。
現在の地形図にも赤線で探索した区間を書き込んでみました。南北方向に長いので、2枚に分かれています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
赤線の末端に青線が熊手状に書き込んでありますが、古道を探して最後に彷徨った場所です。ピンク線は道路台帳図での里道の経路。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
見通しが効かない中、似たような地形を1か所づつ確認していたため、時間だけ浪費した挙句、タイムオーバーになってしまいました。
家に帰ってから地形図を見返してみると、さらに西側の尾根を通る徒歩道を辿ってみるのが正解だった気がします(道路台帳図のデータしか持っていかなかったのが失敗でした。)。
さて、ここが今回のスタート地点です。長野・愛知・静岡県道1号と静岡・愛知県道9号の交差点です。まずは道路案内標識の向こう側に見える山へと取り付きます。
ここで右側の路地へと入ります。
道なりに進むと山際を通る小径にぶつかります。右へと曲がり、この道を進んでいきます。
獣害防止用の柵です。針金で留めてあったので、ほどいてから柵を開いて通り抜けます。もちろん閉めるのを忘れずに。
集落を外れるとすぐに古道の趣が出てきました。
まずはつづら折りの道を登って高度を稼ぎます。
傍らに「竪堀」の案内板。この山には山城があったようです。山の上部に向かって浅くU字型の堀が刻まれています。
山城跡の中腹を巡るように進んでいきます。
尾根が細くなっている所へ出てきました。ここにも「竪堀」の案内板があるので、防御のために尾根を掘り込んだものかもしれません。
ここに「鶴ヶ城跡」の案内板が立っていました。
インターネットで検索すると、この山城は武田軍と徳川軍の攻防の渦中に置かれた今川方に付く地元の国人領主が、1565年(永禄8年)頃に築城。1568年(永禄11年)に徳川方に付く近隣の国人領主達に攻撃され落城したそうです。各所に案内板が設置されているので、山城好きな人にはそれなりに知られた城跡なのでしょう。
山城は私も興味がありますが、今回は古道探索なのでこのまま通過。先へと進んでいきます。
築堤がありました。少し低くなっている尾根に盛り土をして、平坦に通行できるようにしたものですね。岡崎市内の古道「千万町街道」でもよく見かけました。
林道へと合流しました。
合流地点に立つ木の根元に林道の開通記念碑が横たわっていました。
「竣工 昭和貮年四月」(昭和2年・1927年)、「林道延長千三十六間」(約1.88km)とあります。昭和2年の「林道」とは古いですね。木材の搬出だけでなく、この古道の代替道路としての意図もあったのでしょうか。
ここに出てきた時、初めは林道を進もうと思っていましたが、念のため道路台帳図を確認してみると林道とは少し違うルートを取っています。
この写真の右側、白い木の辺り。
見上げてみると確かに古道が見えています。
何とかよじ登ります。林道建設の際に大きく削り取られたわけですね。
しばし堀割り道を登っていきます。
林道の上へと出てきました。道が多少抉られていますが、何とか歩いていけます。
林道へと合流しました。
道路台帳図で見ると、古道は一旦林道を横断した後、しばらく先で林道に並行するルートを取るようです。
林道から左手へと逸れていくお誂え向きな道があります。
実はこの道、今回探索している古道とは全然関係のない道でした…。ただ、私好みの良い道だったので、また別稿で紹介いたします(笑)。
約2時間後、間違いに気づき、古道と林道の交差地点まで戻ってきました。
林道の左側に古道がないかと眺めながら進んでいたところ、違和感ありありの堀割りがあります。
睨んだとおりに古道がありましたが、すぐに林道で途切れてしまいました。
高巻きして先へと進んでいったところ、ふたたび古道が現れました。どうも林道が通っている辺りを蛇行して古道があったようです。
また林道で途切れてしまいました。
しっかりした踏み跡があったので迂回。
また古道に出ます。岩がゴロゴロ転がっています。
ヘアピンカーブを曲がり、こちらへと向かってくる林道に出ました。ここはまっすぐ進みます。
土留め擁壁の脇をよじ登っていきます。
古道もヘアピンカーブで登っていきます。
高圧線の鉄塔の横へと出てきました。
そのまま通り過ぎると、またまた林道へと合流です。
しばらく林道を歩いていくと、林道が左へとカーブしていく地点で正面に堀割り道が現れました。さっそく、こちらへと入り込んでいきます。
入り込んだのはいいものの、この堀割り道の坂、あまりに急坂過ぎます…。「よいしょ、よいしょ。」と一歩づつ階段を登るようにしか進めません。
斜面側へと出てきましたが、依然、急坂が続きます。尾根道でもう少し緩やかな道を期待していたのですが、完全に裏切られました(笑)。
急に道の角度が変わり、よじ登ってみるとまた林道へと出ました。
どうやら林道はここが終点のようです。この先へは築堤を通り抜ける古道だけが奥へと続いています。
ふたたび急坂が始まります。今のところ、ほとんどの区間が上り調子で結構きつい道です…。
小さい切通しを抜けたところに石碑が立っていました。
「高王観音経千部供養」とあります。
高王観音経は、千回唱えると罪が消えるという功徳があるそうで、それにちなむ石碑でしょう。なぜこの山中に建てたのかはわかりませんが。
両脇には「安政三丙辰年 十二月吉祥」と彫られています。安政三丙辰年は西暦1856年なので、164年前に建てられたことになります。
ふたたび歩き始めます。
※(2)へと続きます。