2021年7月11日日曜日、静岡市菊川市と掛川市にあるJR東海道本線の煉瓦アーチを6か所巡ってきました。
いずれも行ったことのある場所ですが、気楽に煉瓦アーチを見つつ、たまには炎天下を散歩しようか(一応こちらがメインです(笑)。)と出かけた次第です。愛知県内の東海道本線にも煉瓦アーチはありますが、車を横付けできる場所となるとなかなか無いので、ドライブも兼ねてちょっと遠出しました。
まずは菊川市倉沢へとやって来ました。
茶畑の先に東海道本線の大きな築堤が見えています。
1か所目、倉沢川橋梁です。竣工は明治21年(1888年)10月。この辺り(静岡~浜松間)の東海道本線が開通したのが明治22年(1889年)4月なので、その当時からの構造物となりますね。
場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この橋梁はアーチ頂点までの高さがけっこうあります。流れている川は小川なので、洪水を想定してもこんなに高さを確保する必要はないかと思いますが、どういう理由だったのでしょうか。少しでも築堤用の土砂を節約するためとかね。
アーチに使われている煉瓦は、赤煉瓦と焼過煉瓦の2種類。焼過煉瓦を使用している幅の方が広いので、最初に焼過煉瓦側が開通して、後に赤煉瓦側を腹付け増線して複線化したと考えられます。
反対側へと出てきました。
今までに見落とした構造物がないか確認するため、ここから菊川沿いに築堤を追って歩いていきます。
築堤が終わる場所まで歩いてみましたが、これという構造物は見当たらなかったので、倉沢川橋梁まで戻ってきました。
焼過煉瓦と赤煉瓦の継ぎ目部分です。きちんと噛み合わせてあります。
鉄道の煉瓦アーチの中には単線開業時に将来複線へ変更することを見越して、噛み合わせのために片面だけ煉瓦の凹凸(下駄歯)を残したものもあります。この辺りの東海道本線が開通した時に、煉瓦アーチにそのような処置を施していたのかは不明です。
2か所目に来ました。沢水加川橋梁です。沢水加は「さばか」と読みます。竣工は明治21年(1888年)10月。
場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この橋梁も煉瓦の色が明確に2色に分かれています。
3か所目は、橋詰川橋梁。竣工は明治21年(1888年)5月。
場所はこちらになります。
「橋詰川」とありますが、見た目はいわゆる「ガード」です。川に蓋をして道路として利用しているタイプですね。
こちらも焼過煉瓦と赤煉瓦の2色構成。ただ、焼過煉瓦側にもけっこう赤煉瓦が混ざっているのが今までの2つの橋梁との違いです。
東海道本線の煉瓦アーチを見ていると、明治20年代のものは煉瓦の焼成技術のレベルなのか品質管理が徹底されていないのか、例えば焼過煉瓦の中であっても色合いが非常に変化に富んでいます。それが工業製品らしからぬ何とも良い味を出していて、私はけっこう好きですね。
これが明治30年代から40年代になると一気に規格や色合いが画一化されてきます。これが正しい方向ですが、ちょっと味気なくもあります。
反対側です。
この橋梁はアーチの側面部分は、焼過煉瓦と赤煉瓦を面一にして擦り合わせていますが、アーチ上部は煉瓦同士を噛み合わせてあります。
壁面にペイントされた点検年月。
開通時から130年以上現役を保っていられるのも、適切に管理・保守が成されているからですね。
4か所目、鳥居川橋梁です。竣工は明治21年(1888年)12月。
場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここも焼過煉瓦と赤煉瓦の2色構成。違う点は、赤煉瓦側の下部に焼過煉瓦が使用されている点です。
色の境目はきれいに噛み合わせされています。
反対側からの眺め。鳥居川橋梁は北側の坑門がコンクリートで全面を補強されてしまっています。
鳥居川橋梁のさらなる特徴としては、赤煉瓦の下部に使用されている焼過煉瓦のみ、サイズがそのほかの面に使用されている煉瓦のサイズと違うこと。
右側の明治21年竣工部分の煉瓦は石材1個に対して4段積みですが、左側の新しい方(この橋梁がある菊川~掛川間が複線化したのは明治38年(1905年)。)は5段積みになっています。
アーチ上面部分の赤煉瓦は、明治21年竣工時に使用していた煉瓦サイズに合わせて作られています。今までに見てきた橋梁も焼過煉瓦と赤煉瓦のサイズに相違がないので、同じようにわざわざ作られたはずです。
さて、鳥居川橋梁から線路沿いに東へと歩き、5か所目の屋ノ谷橋梁へとやって来ました。
場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この橋梁の竣工年月は不明ですが、東海道本線開通時には存在していなかったと考えられます(明治25年(1892年)12月刊行の「鉄道線路各種建造物明細録 第一編」に掲載されていないため。)。
元々は陶管暗渠だったものを何らかの理由により拡幅工事したのでしょう。内部は全て赤煉瓦で構成されています。
点検年月のペイント。
反対側です。
最後となる6か所目、滝脇川橋梁です。竣工は明治21年(1888年)4月。明細録には「瀧ノ脇川橋梁」と記されています。
場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
橋梁の内部は、手前側の増線部分、奥側の開通当初からの設置部分ともに焼過煉瓦が使用されています。
この橋梁の一番の特徴は、新旧アーチの接合部分に石材で下駄歯が設けられていることです。
煉瓦は小さいし軽いので、ひとまず面一に建設しておいても、後日、噛み合わせのために容易に抜き取りもできるでしょうが、重量があり嵩もある石材はそういう訳にもいかないので、あらかじめそのように施工しておいたと考える方が妥当だと思います。
そういう意味では、現状、東海道本線の煉瓦アーチで下駄歯を設けておいた確実な例の一つだと言えるでしょう。
明治21年竣工部分の煉瓦は、焦げ茶色であっても色々な風合いのものがあります。
点検年月のペイント。「キ4m」とあるのは亀裂の長さを表しているのでしょうか。
ここもご覧のとおり、道路の下には川が流れています。
反対側です。
アーチの側壁部分の煉瓦には艶があります。自然とそういう焼き上がりになったものなのか、釉薬を使っているのかどうなんでしょうね。
滝脇川橋梁の銘板と連絡先の表示シール。以前に訪れた時はシールだけでした。しかも「竜」脇川橋梁とあります。なぜだろうと思っていましたが、誤植だったわけですね。
これで、この日に回るつもりだった煉瓦アーチの訪問はすべて終了。以前に訪れた時と特に変わった様子もなく、まだ当分は煉瓦アーチのままで現役を続けてくれそうです。
