2022年1月8日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町八橋地内に残る旧伊那街道「知生坂」の峠道を探索してきました。ちなみに「知生」は「ちしょう」と読みます。
まずは前置きから記していきたいと思います。
さて、この付近では愛知県道10号が「伊那街道」の通称で呼ばれることがありますが、この県道10号は設楽町八橋の谷合橋から設楽町津具字簀ノ子の境橋まで、旧来の伊那街道とは違ったルートを取っています。
これは、伊那街道の車道改修(馬車が通行できるようにするもの。)の際に勾配のきつい「知生坂」を避けて、付近を流れる境川の渓谷に沿って新たに道路が開削されたからです。いつ頃改修されたかについてははっきりとした資料は無いようで、「明治10年代から20年代にかけて。」とか「明治の中頃。」のようなあいまいな記述しか見当たりません。
「知生坂」付近の現在の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらは戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。
明治時代以前の伊那街道がわざわざ「知生坂」を越えていたのは、一つには境川沿いの渓谷が険しく、街道の建設とその後の維持が困難だったためと考えられます。同じポイントで昔の街道は山の上の峠道を通っていて、現代の道路は勾配の緩い川沿いや海沿いを急斜面や崖を掘削して通過しているのはよくあることです。
あとは、交通手段の違いもあるでしょう。明治時代以前はもっぱら徒歩・牛馬といったところであり、通行時に地形から受ける制約は馬車や荷車(さらには自動車。)に比べればずっと少ないものです。その上、移動速度は遅いわけで、それならば勾配を嫌っていたずらに迂回した街道で余計な時間がかかるよりも、急坂であっても短絡的なルートを選択するのもありなわけです。
ここ「知生坂」に関しては、遅くとも明治中頃には境川沿いの新街道へと交通が移行し、峠を越える旧街道は寂れていったようです。
それでは探索時の内容について入っていきます。
やって来たのは設楽町八橋の谷合橋から知生地区へと向かう細道へと数百m入り込んだ場所。時刻は13時です。
車を駐車した場所から谷合橋側へとやや移動し、旧伊那街道が分岐する場所へと来ました。
この場所から探索を始めることにしたのは、事前にインターネットで探索した方がいないか調べてみたところ、「知生坂」を歩いた方の記事が1件だけヒットし、その方が峠からこの場所へ出てきたことが特定できたからです。
それでは街道跡を辿っていくことにします。
歩き始めて5分ほど。石積み橋台が現れました。
大人でないと一抱えできないような大きさの石を積み上げています。
歩いてきた方向を振り返っています。「知生坂」では一番目立つ遺構でしょう。
石積み橋台の先へと進んでいきます。
谷の中に突き出している小高い尾根へと登っていきます。
川沿いへと出てきました。街道跡の下の斜面が崩落しているため、道幅が狭くなっています。注意しながら通過していきます。
街道跡が折り返していきます。
折り返しを登ったところで行き止まりになってしまいました。下調べの時点でわかっていましたが、完全に埋め立てられていますね。
この行き止まり地点の右側に石仏があります。設楽町誌村落誌によると「庚申塔」とのことです。石仏はおそらく青面金剛、石台に彫られているのは三猿だそうです。
埋め立て地の斜面を登っていきます。
埋め立て地を横切り、ひとまず奥に見えている道路へと向かいます
道跡らしきものをなぞりつつ道路へと出てきました。写真に書き込んであるとおり、正面方向の道が旧伊那街道になりますので、そちらへと進みます。
坂道を登っていくと大きな家屋があります。見たところすでに誰も住んでいないようです。
設楽町誌村落誌によると「知生のはずれ、遠山宅横に茶店があり、知生峠を往来する人の憩いの場で、五平餅などを商いしていたようである。」とあります。この大きな家屋に掛かる表札には「遠山」とあり、おそらく設楽町誌に記述されている遠山宅そのものでしょう。
あと、この知生地区については、「伊那街道で搬送馬の往来が盛んだったころは、馬宿をする家も多かったらしいが…、明治の中ごろに現在の県道ができ、馬車が通るようになるまでは賑わったそうである。」と記述されています。
インターネットでヒットした「知生坂」の記事は10年くらい前のものでしたが、添付の写真には遠山家以外に何軒も住宅が写っていました。しかし、今はこの遠山家以外、住宅は見当たりません。
さて、旧伊那街道は遠山家の家屋を囲むように進んでいきます。
古道の中にはどう見ても人様の家の敷地にしか見えない場所を通っている場合もあるので、念のためひと声かけるのが肝要ですね。
遠山家の裏山を登っていきます。
崖崩れで街道跡が途絶えてしまいました。
大木の下をショートカットして、一段上の街道跡へと移動します。
街道跡が荒れてきましたね…。
またしても途切れて行き止まりです。
どうやら、進行方向に対して右側の折り返し部分が、ことごとく崖崩れに巻き込まれてしまったようです。
さらに伐採地になって、その後にきちんと再植林されなかったのか、周囲が荒れ放題になってきました。街道跡は目で追えますが、忠実に通過するのがとても厳しい状態です…。
何とか荒れ地を通過し、地形図で軽車道表記されている道との交差地点に出ました。見たところ、廃道化した林道のようです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
廃林道との交差地点を直進していきますが、周辺が緩斜面となって明瞭な道跡を見い出すのが難しくなってきました。
地表にわずかに残る連続したU字型の窪みを探して、林の中を進んでいきます。
何か違和感を感じる木。切り株?でも断面が見えてなくて、樹皮が頭頂部を包むように被っています。枝葉もない。何でこうなってるの?
街道跡を進んでいくと、またしても崖崩れで途切れて行き止まりに。
地形図にきちんと表記されているほどの大きな崩落地のようです。
崖の端を歩いて迂回して、街道跡の続きへと出ます。
深く掘り込まれた切り通しが連続して現れます。
再び林道との交差地点に出ました。旧伊那街道はここで左折します。
場所はこちら。この林道付近が「知生坂」の一番高い地点になります。なので、この付近のどこかが「知生峠」と呼ばれていたのでしょう。
ここからしばらくは林道を進むことになります。林道の左右を見渡しながら歩きましたが、旧伊那街道の痕跡はわかりませんでした。おそらく林道建設時に破壊されてしまったのでしょう。
※その2へ続きます。