2022年3月20日日曜日、姉に誘われて母と3人で京都市伏見区にある伏見稲荷大社へと行ってきました。
楼門。
外拝殿。
本殿。
本殿の左側を通って奥へと進んでいくと、よく知られている「千本鳥居」が始まります。
参拝客が多いとはいえ、境内を歩いているうちはあまり混みあっている感じはありませんでしたが、狭い通路となる千本鳥居はどうしても密集した行列になってしまいます。
千本鳥居はひとまず奥社の前で終わります。ここで引き返す人も多くいますが、私たちはさらに奥へと続く鳥居群をくぐり、先へと進んでいきます。
奥社から先はすっかり参拝客が減ってしまいました。
他の参拝路と合流して、山の上へと進んでいきます。
見晴らしの良い場所へと出てきました。ここまでずっと曇天でしたが、一時晴れ間が見えました。京都市街地を眺めています。
山上への参拝路はどんどん急坂になっていきます。
こんな急坂に連れてこられると思っていなかった母は、疲れが出てきてだんだんと歩みが遅くなっていきます。私も伏見稲荷大社の奥にこんな参拝路があるとは全然知りませんでした。
三ノ峰(下社神蹟)。
延々と続く急坂の参拝路を休み休み登っていきます。
二ノ峰(中社神蹟)。
一ノ峰(上社神蹟)。標高233mある稲荷山の頂上になります。
もと来た参拝路では戻らず、そのまま先へと進んでいきます。ここからは基本下り坂になります。
「四ツ辻」まで戻ってきました。登ってきた時に京都市街地の写真を撮った場所です。ここで少し休憩します。
伏見稲荷大社の外周を通る道を進んで下っていきます。道に沿って小さな区画がたくさん設けられており、それぞれの区画の中に大小さまざまな石碑が立てられています。長野県の御岳山でも同じような光景を見ます。
JR奈良線稲荷駅へと続く参道へと戻ってきました。足かけ3時間ほどかかり、有名な神社へ参拝しに来ただけのつもりが、ちょっとしたハイキングになってしまいました(笑)。
姉はこれで目的を達したので、「あと行ってみたい所があれば寄ってもいいよ。」と言われたので、私が行ったことのない三十三間堂へ行くことにしました。
京都市東山区へと移動してから、駐車場を探して三十三間堂周辺をウロウロと走り回り、ようやく空きのある駐車場を発見。徒歩で三十三間堂へと向かいます。
道中、大きな塚を発見。「これはあの耳塚じゃないか。」ということで外から眺めます。
「耳塚」とは説明板にもありますが、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際に戦功のしるしとして朝鮮半島から送られてきた敵将・敵兵の耳や鼻を埋めて供養した塚です。
戦功があったことを証明するために敵の首級を上げるということはよく知られているところですが、さすがに遠方の地である朝鮮半島から首級を日本へと送るのは大変なため、かさばらない耳や鼻を削ぎ落として、樽に塩漬けにして送ったそうです。数を水増しするために、一般庶民の耳や鼻を削いだ例もあるようです。
戦争における狂気の一端を感じさせる史跡です。
そして、耳塚から100m~200mほど歩くと、今度は豊国神社がありました。ここを訪れるのも初めてです。祭神は豊国大明神、豊臣秀吉ですね。
唐門。元々は伏見城にあった門だとの伝承があります。その後、二条城へ移築され、それを金地院崇伝が譲り受けて金地院の門となっていたそうです。江戸時代に廃絶となっていた豊国神社が、明治時代になって現在の地に再建された際に再度移築されてきました。
唐門から境内の眺め。
「豊国大明神」の扁額。
「国家安康」の梵鐘。「方広寺鐘銘事件」と呼ばれる日本史好きな方ならよく知る事件にかかわる梵鐘です。
「国家安康」と「君臣豊楽」の銘文。「徳川家康の「家」と「康」を分断して呪詛し、「君「臣豊」楽」と豊臣姓を銘文に入れた。」と徳川家康から豊臣家に対して執拗に行われた非難・追及が大坂の陣を引き起こし、豊臣家を滅亡に至らしめたとされています。
三十三間堂へとたどり着く前に一人盛り上がってしまいました(笑)。
さて、ようやく三十三間堂です。正式名称は蓮華王院。
先にお堂の中で千手観音坐像と千体千手観音立像を拝観してきました。お堂の中は撮影禁止のため、写真はありません。
この後は三十三間堂の外周を巡ります。
境内に居た地元の方が教えてくれた垂木に刺さる矢。
今回の京都は今までに行ったことが無い場所ばかりでした。京都市内は有名観光地ですら行ったことが無い場所が数多あるので、これからも折を見て訪れてみたいと思います。まあ、姉が行く時に便乗する形でしょうけど(笑)。

Posted at 2022/05/14 18:29:42 | |
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