2022年4月2日土曜日、愛知県新城市四谷にある旧海老街道(ふりくさ道)の峠「仏坂峠」の峠道を歩いてきました。今回の目的は旧街道のルートを地図上に確定させるためのGPSデータを取ることです。
ここ仏坂峠の峠道は、2011年5月21日、2019年3月9日と2回訪れていて、今回で3回目となります。なので、もはや「ルート探索」というよりは「散策」といった感じです。が、踏破するのは年々困難になっています…。
時刻は12時50分。新城市四谷側の峠道入口へとやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
峠道入口に立っている説明板にある峠道の概略図。
仏坂峠への峠道が道路から左へと分岐していきます。
路傍に祀られている石仏。新城市四谷側から峠までの間には三十三体の観音菩薩像が祀られており、「仏坂」の由来となっているそうです。ちなみに写真の石仏は八番観音になります。
こちらは「役行者」像。文化3年(1806年)のものだそうです。ちなみに、倒木が像に当たったようで、顔が剥がれ落ちていました…。
破損する前の「役行者」像の写真はこちら(2019年3月9日撮影。)。
今のところはまだきれいに保たれている峠道を、直線的な急坂で登っていきます。
ついに倒木が現れました・・・。2019年3月の時点で確認してますが、この先の道中を暗示させる不穏な光景です…。ここは人が通れるようにカットされていたので、まだ大丈夫でしたが。
ここで峠道は沢を渡って対岸へと渡ります。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
沢を渡るとつづら折りがあります。
路傍に石碑があります。
こちらは馬頭観音碑。「馬頭観世音菩薩」と彫られています。
「明治七年戌壱月…」とあり、1874年に立てられたものとわかります。そして明治7年は戌年なので「戌」の字も。
馬頭観音碑のすぐ先に木製の道標が立っています。
「左 仏坂峠ふりくさ道」、「右 カンバンタ山道」とあります。
「ふりくさ道」は旧海老街道の別称。現在の北設楽郡東栄町振草へと向かう街道なので、このようにも呼ばれています。「カンバンタ山道」は旧海老街道から分岐して、カンバンタ(地図に載っていないので場所は不明。)、川売を経由して、新城市海老へと向かう間道です。
分岐を通過するとすぐにまた倒木が現れます。ここもくぐり抜けられるように倒木がカットされているので、そのまま進んでいきます。
倒木をくぐり抜け、つづら折りを登っていきます。
難関に到着です。斜面崩落による大量の倒木が絡み合っています。2019年3月にここを訪れた際にはすでにこの状況で、「あれから3年経っているし、もしかしたら峠道の部分くらいはカットされてるかな。」と期待しましたが、どうやらそのまま放置されているようです…。
これだけ大量の倒木を跨いだりくぐったりして進むことは不可能なので、倒木群の上部まで高巻きして迂回していきます。
この辺りで対岸へと進まないといけないので、倒木の隙間を縫って沢まで下りて対岸へと渡ります。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
渡った先で今度は峠道まで急斜面をよじ登っていきます。
ようやく峠道へと復帰しました。
この先は通行を妨げられるほどの倒木や崩落は無いはずなので(2019年3月以降に何も起きていなければ。)、ようやく一安心です。
石仏群です。
頭上に馬頭をいただいているので馬頭観音ですね。光背には「寛政十二年」と彫られています。西暦1800年になります。
こちらは「十七番観音」。
石仏二体の上にある馬頭観音碑。
まだまだ急坂を登っていきます。
ふと右下の沢へと目をやると石積み橋台が見えました。あんな方向へと行く道は思い当たりませんが、帰りにでも寄ってみましょう。
杉の幹にマジックペンで道案内が書かれていました。木の所有者が書いたのならばいいのですが…。
一旦、沢のガレた河原へと出て、また左側の山の斜面へと入っていきます。
峠道にある名所「釜滝」です。ご覧のとおりの黒い岩肌と形状から「釜」の名前が付けられたのだと思います。
ここから峠道は、「釜滝」の滝口の上を目指してさらに上っていきます。
岩肌に石仏が寝転がっています。多分、上段を通る峠道から滑り落ちてきたのでしょう。
石仏を抱きかかえて、元の場所へと据え直しました。札を見ると「二十二番観音」のようです。台座が傾いていたので、またひっくり返らなように隙間へ石を詰めて平らにしておきます。
「二十二番観音」の手前にある「二十一番観音」。「二十一番観音」は二体ありますが、こちらは新しい方。光背には「大正十三年(1924年)七月」の年号、台座には「二十一番 海老町四谷 馬方連中 建之」とあります。
大正13年の頃には、ここ旧海老街道の隆盛も陰りが出始めていたはずです。大正10年(1921年)に旧別所街道(現国道151号)与良木峠に旧本郷隧道が開通したことにより、信州と三河を結ぶ主力の物流経路が旧別所街道へと移行したからです。
海老町四谷は仏坂峠の西側の地区であり、旧別所街道とはまったく縁がありません。当然、四谷の「馬方連中」が請け負う仕事は減ったことでしょう。石仏を建立したのは道中の安全祈願はあるでしょうが、旧海老街道の復興を祈願したものでもあるでしょう。
さて、「二十二番観音」の先へと進んでいきます。
峠道の右下に先ほど眺めていた「釜滝」がふたたび見えてきました。
ここに二基の石碑が立っています。
南無阿弥陀仏碑と馬頭観音碑です。
南無阿弥陀仏碑の右側面に彫られている年号は「享保三年三月吉日」。西暦で1718年。この仏坂峠の峠道にある石仏・石碑の中では一番古いものだそうです。
馬頭観音碑の下部。「古宿村 大林村 中」、「今泉半右衛門 〇〇〇右衛門」、「三界萬霊等」と彫られています。
古宿村・大林村は現在の新城市四谷にあった村。「村中」とあるので二つの村が「村一同」で建立したものでしょう。名前が記されている二人は各々の村の庄屋だったのでしょうか。「三界萬霊等」と彫られているのは、あらゆる世界(三界)の無縁の霊(萬霊等)を漏れなく供養するという意味のようです。
この二つの石碑の先が、この峠道の中で最大の難所といえる場所です。崖を横目に睨む道幅の狭い場所なので、牛馬が荷物を背負ったまま「釜滝」へと転落することもままあったようです。
「釜滝」の滝口の上に聳える二本の巨木。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
その2に続きます。