2022年7月2日土曜日、弟の誘いで山梨県北杜市高根町清里にあるレストラン「ROCK」へとドライブに出かけてきました。
普段ですと中央道小淵沢ICまで高速を走って、そこから山梨県道11号「八ヶ岳高原ライン」で清里へと向かうところですが、今回は弟の希望で中央道松川ICで下りて長野県下伊那郡大鹿村へと向かい、そこからは国道152号「秋葉街道」で諏訪盆地を目指すルートを取りました。
大鹿村で国道152号へと入り北上。大鹿村北川を走行していたところ、弟が「川の中に壊れた橋が見えるぞ。」と言い出したので停車。
国道152号に並行して流れる鹿塩川の川岸へと降りていき対岸を眺めると、確かに壊れた橋が見えます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ちなみに、地形図を拡大すると廃橋が構造物として地形図上に描かれていました(笑)。初めは「建物なんてあったっけ?」と思い、グーグルマップでも位置を確認してみたところ、廃橋そのものであることがわかりました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
対岸から廃橋を眺めるだけで、鹿塩川を渡れそうな場所が見つからなかったので、一旦あきらめて車へと戻り始めました。
そうしたら弟の呼ぶ声が聞こえたので、再び川沿いへ行ってみたところ、渡れる場所を見つけたとのことで、二人して対岸へと移動します。
対岸にも道があったので、そこを歩いて廃橋へと向かっていきます。
ちなみに、この道には白骨化しバラバラになったカモシカの死骸が2体と、標本のように整った形のまま白骨化した鳥の死骸がありました。なんでまとまって死骸が転がっていたのか理由はわかりません。
廃橋にやって来ました。「破壊された橋の一部が残っているのか?」と眺めていたら、弟が「この状態で橋が全部残ってるんじゃないか?」と話し掛けてきます。
言われてよく見てみれば、川岸との接続部分である橋台とその翼壁が、橋の両側とも付いたままになっています。これはどうやら橋の全体が残っている様子。
ということは、もともと鹿塩川はこの廃橋の真下を流れていたことになります。
でも現在の鹿塩川の流れは廃橋の真下ではなく、かつて川岸の左岸側だった場所を流れています。
どうしてこのような状態になったのか考察してみましょう。
廃橋の造りから見て、戦前から戦後間もない頃の架橋と思われることと、車を停車した場所近くにあった国道の橋が昭和39年(1964年)架橋だったので、昭和39年以前に周辺で大規模な水害が発生していないかネットで検索してみました(山奥でしたが幸い電波が繋がったので。)。
検索でヒットしたのが昭和36年(1961年)6月下旬に伊那谷周辺で発生した「三六災害」と呼ばれる大規模水害。廃橋がある大鹿村北川地区は、6月27日に土石流に襲われ、集落は数戸を残し壊滅したそうです。
この情報から、「もともとは廃橋の下を鹿塩川は流れていたが、昭和36年の「三六災害」により発生した大規模な土石流により、廃橋の両側の川岸が流失。現在の鹿塩川の流れは廃橋の左岸側(東側)へと変わり、廃橋があった場所は河原となりそのまま取り残された。国道(当時は県道)はこの場所に橋を再建せず、さらに上流に橋を付け替えた。」と弟と二人で結論付けました。
※後日、同村内で探索した「他の峠道」の資料確認のために飯田市中央図書館を訪れて「大鹿村誌」を読む機会がありましたが、「他の峠道」の記述を探すのに夢中になり、この廃橋と「三六災害」との関連の裏付けを取ることをすっかり忘れていました…。
廃橋は親柱が無くなっていたので、橋名や架橋年月は特定できませんでしたが、今思うと上流の橋に名前が引き継がれていたかもしれません(素通りしてしまった…。)。
そして、大水害に遭ったことを考えると、橋台の上流側の損傷が激しいのも納得がいきました。
ほんの寄り道のつもりでしたが、昔の大災害の証拠となる興味深い物件でした。
こちらは水害前の国道(当時は県道)の推定ルート。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
現地に滞在したのは45分程。この後ドライブを再開し、「ROCK」へと向かいました。
※2022年7月30日土曜日にドライブで再度同地を通る機会があり、上流側に架橋された橋を確認してきました。
名称は「北川橋」。昭和39年(1964年)12月竣工とありました。同地の地名が大鹿村北川であるので、廃橋となった旧橋の名称も「北川橋」だったかもしれません。

Posted at 2022/07/26 21:59:04 | |
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