2022年8月20日土曜日、愛知県新城市作手白鳥地区の旧挙母街道を探索しました。
最初に余談を少々。
前回の話の終わりの方で「国道との交差点に本宮山の登山口を示す古そうな石碑が立っています。」と記しましたが、石碑の写真が無かったので、2022年10月9日日曜日に別件で新城市作手白鳥にある砥鹿神社の鳥居を再訪したついでに、石碑を確認しに行ってきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
おそらく「本宮山登山口」と彫られた石碑。石碑の下部は地面に埋まっているので、実際に読める文字は「本宮山登」までです。
わたくし、この石碑は現国道沿いに立っていることから、大正期以降のものとは想像していたのですが、今回、石碑の裏面を確認したところ、昭和38年(1963年)に寄贈・設置されたものだとわかりました。拍子抜けするほど新しい(笑)。
現在、この場所から本宮山へ登山しようとする人はまずいないかと思います。そもそも、ここに登山口があったことすら知られていないでしょう。さらに言えば、この登山口からの登山道の半分以上は、本宮山スカイライン建設時に破壊されているはずです。
本宮山スカイラインの開通は昭和48年(1973年)なので、この石碑が設置された当時はまだ本宮山・砥鹿神社奥宮まで登山道が通じていたはずです。とはいえ、今も昔もメインの登山口は本宮山南面の豊川市側(砥鹿神社の里宮は豊川市一宮町にある。)ですから、登山道としては石碑設置当時にはすでに寂れていたのかもしれません。
では、本題に戻ります。
砥鹿神社の鳥居を後にして、ふたたび旧挙母街道を進んでいきます。
小さな峠を越えると田んぼが広がる平地へと出てきました。
田んぼを左側へと迂回して、正面に見えていた山の麓へと取り付きます。ここからふたたび小さな峠へと登っていきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
山への出入口に石仏がありました。摩滅がひどくてどのような像が彫られていたのかあまりはっきりしませんが、小さく愛らしい感じがします。
獣害防止用の門扉を開けて、山道を登っていきます。
登り坂の途中で道が二手に分かれています。左側は林道・作業道として造られた道のようです。なので、徒歩道である右側へと進むことにします。
徒歩道は雨水が流れる溝のようになっています。
先ほど別れた道へと合流します。
登ってみると、峠というほど切り立った地形ではなく、なだらかな鞍部を緩やかに越えていきます。そして傍らにはまた電話線が寄り添ってきています。
道幅は軽四が通れるほどありますが、倒木がそのまま放置されているくらいなので、今は道路として使われていないのでしょう。
橋を渡ります。この橋も架け替えられていて、古い遺構は見当たりませんでした。
林道を横切り、反対側の林へと入り込んでいきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここまで幅広だった道が徒歩道の古道へと戻ります。
丘の上から麓へと下りるのために、1か所折り返しを挟みます。
深い切り通しを抜けると前方が明るくなってきました。
田んぼへと出てきました。右側に国道301号が見えています。
国道へと合流しました。今回の探索はここまでです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
国道から振り返った眺め。あんな場所に街道が通っていたとは、まったく想像できません。
今回探索した区間の旧挙母街道が山越えを繰り返すルートになったのは、巴川沿いは所々で山が急斜面で川へと落ち込んでいる場所があり、街道の開削がそもそも困難であったことが一番の理由でしょう。
現在の国道301号はそんなことを微塵も感じさせることはなく、歩道付きの快走路を提供しています。しかし、車まで戻っていく最中、国道が通る周囲の地形を眺めながら歩きましたが、けっこうきわどい地形を通していることを実感しました。大正年間に荷車道を開削した際は相当苦労したのではないでしょうか。
今回探索した旧挙母街道のルート図です。南北方向に長いので、2枚に分かれています。
最後におまけで、車まで戻る途中に国道301号のミニ廃道を経由しました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
14時10分、車へ到着。歩行距離約6.3km、歩行時間約2時間半の行程でした。

Posted at 2022/10/10 11:48:27 | |
トラックバック(0) |
旧挙母街道 | 日記