2022年9月10日土曜日、弟に誘われて岡山県新見市の井倉洞、同県高梁市の備中松山城跡へと行ってきました。備中高松城跡は、帰り道のおまけでの立ち寄りです。
当日は自宅を午前3時に出発。国道23号知立バイパス・伊勢湾岸道・新名神と進んでいきましたが、新名神を走行中に情報掲示板で走行ルートに予定していた名神草津JCT~高槻JCTの一部区間が夜間通行止めになっていることがわかり、急遽、京滋バイパス→第二京阪道路→近畿道→中国道へと変更。やや大回りする羽目になりました。
その後は中国道を北房ICまで進み、高速を降りてからはナビの案内に従って国道313号→岡山県道58号→県道50号と経由。ところどころ、道が狭い箇所もあって心配になることもありましたが、10時15分頃、無事に井倉洞の駐車場へと到着しました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
それでは駐車場から井倉洞の入口へと歩いていきます。
こちらは付近を通るJR伯備線をかつて走行していたD51蒸気機関車。
お召列車をけん引したこともある機関車だそうで、デフレクター(除煙板)に鳳凰のプレートが残されています。
井倉洞を訪れるのは相当久しぶりになりますが(少なくとも「みんカラ」を始めた2013年以降は訪れていない。)、その当時は立ち並んでいた土産物店がきれさっぱり無くなっています。駐車場も閑散としていましたし、これも時代の流れなのでしょうか。
井倉洞の入口へとつながる橋が見えてきました。
橋の近くに立てられている説明板と井倉洞の銘が彫られた石碑。
入洞料1,000円を支払い、高梁川に架かる橋を渡っていきます。
こちらが井倉洞の入口です。こんなに小さかったですかね?昔は長距離ドライブの目的地として何度も訪れた場所ですが、すっかり忘れてしまっています。
それでは、しばし洞内の写真をお楽しみください(笑)。洞内をけっこう登っていくので、途中に1か所だけエスケープ路が設置されています。
洞内をずっと登ってきますので、見物を終えると結構高い場所に出ます。そこから橋までは急な通路を下っていくことになります。
ここでちょうどお昼になったので、橋のたもとにある食堂で昼御飯を食べて、次の目的地である高梁市の備中松山城跡へと向かいます。
井倉洞から高梁川沿いに国道180号を進み、備中松山城跡へとやって来ました。場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
案内板に従って国道から狭い路地へと入り込み、お城の麓の駐車場に車を停めてシャトルバスに乗り換え。山の中腹にある小さな駐車場までバスで上がったら、そこからは徒歩で山上の天守を目指します。
大手門跡に着きました。中に入ると三の丸になります。
しかし、天守がある本丸はこの三の丸の石垣群のさらに上にあります。もうしばらくは頑張って階段を登っていきます。
麓の高梁市街地からだいぶ登ってきました。
二の丸に到着です。ここでようやく天守の姿が見えました。
さっそく本丸へと入っていきます。
こちらは猫城主の「さんじゅーろー」。ちとお疲れの様子。鼻先に指を近づけても匂いを嗅いでくれず無反応でした。
天守です。2層2階の構造で、現在の姿になったのは天和元年(1681年)から3年かけて行われた当時の藩主である水谷氏による城郭の大改修によるものとみられていますが、創建年に関しては確定的な資料が無いようです。
城は明治6年(1873年)の廃城令により売却されましたが、不便な山上にあるため解体を免れました。しかし、その後は放置され荒れるに任せる状態となり、昭和初期に地元の教師が調査した頃には天守などの建物はあばら家と化し、崩壊してしまった櫓もありました(その当時の写真が残っています。)。
その後、地元の高梁町(当時)で修復の機運が高まり、二重櫓、天守などが修復され、昭和16年(1941年)に国宝(現在の重要文化財に相当。)に指定されました。
天守1階。
天守2階。
天守を出て裏側に回り、二重櫓を眺めます。
二重櫓側から見上げた天守。
それでは本丸を出て、さらに北側にある後曲輪へと移動します。
後曲輪から見上げた二重櫓。剥き出しの岩山にさらに石垣を積み上げて聳え立つ姿が良いですね。天守よりも気に入りました(笑)。
さて、最後に訪れたのは、岡山市北区高松に残る備中高松城跡。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この城は、天正10年(1582年)の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による「高松城の水攻め」で有名です。
高松城は低湿地の中に築かれており、容易に攻めることのできない「沼城」でした。織田軍対毛利軍の最前線であるこの城を攻めあぐねた秀吉は、高松城の三方が山に囲まれていて、一方だけが平野に開けている地形を逆手に取って長大な堤防を築き、付近を流れる足守川の水を引き入れて、城の周囲を水没させました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こうして高松城の補給線を遮断。急報を受けて高松城方の援軍としてやって来た毛利輝元・吉川元春・小早川隆景率いる毛利軍も、城を囲む湖のために手出しができない状況に陥りました。
こうして秀吉と毛利方が休戦・領土割譲交渉を進めている最中に織田信長が明智光秀に襲撃される「本能寺の変」が勃発。秀吉の「中国大返し」へとつながるわけです。
そんな歴史上の大事件の現場だった高松城。今も城跡を田んぼが取り囲んでいて、「沼城」の面影をわずかに残しています。
城跡に立てられている水攻めの説明板。
帰路は岡山総社ICから高速に乗り、山陽道から中国道へと出て、大阪からは往路の逆順のルートで帰りました。
Posted at 2022/10/24 20:37:53 | |
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