2023年6月10日土曜日、弟の誘いで母と私の三人で旧東海道小夜の中山、諏訪原城跡、島田宿大井川川越遺跡と巡ってきました。
元々は弟の希望で島田宿大井川川越遺跡だけ行く予定でしたが、どうせ道中なので(笑)、私が道案内して、まず最初に旧東海道小夜の中山へ立ち寄りました。
やって来たのは、久延寺の前の駐車場。お寺の前の道が旧東海道になります。
場所はこちら。地形図内の青線が旧東海道になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
駐車場は接待茶屋があった跡だそうです。
久延寺の境内へと入っていきます。
小夜の中山と言えば「夜泣石」。
「夜泣石」には伝説以外にも曰くがあって、実はこの久延寺にある「夜泣石」は昔から存在する本物では無いそうです。詳しい経緯が国土交通省中部地方整備局浜松河川国道事務所のホームページ内「東海道【東海道小夜の中山】」に掲載されていますが、要は「夜泣石」を金もうけに利用した結果によるものだそうです。
さて、弟が「一里塚の跡を見てみたい。」ということで、徒歩で移動します。
現地を見ると石碑と案内板が立つだけで、塚はきれいに無くなっていました。
それでは車へと戻ります。小夜の中山付近の旧東海道は、なだらかな山の尾根を縦走しています。こうして眺めると高い場所を通過しているのがよくわかります。
久延寺の近くにある峠の茶屋「扇屋」。私たちが一里塚跡へ行っている間、母はお店の人とずっと話をしていたようです。
それでは出発します。
旧東海道小夜の中山を下り、間の宿である菊川宿を通り抜け、つづいて旧東海道菊川坂と並走する道を登り、やって来たのは諏訪原城跡。駿河から遠江への侵攻を目指す武田勝頼軍が築城し、徳川家康軍と激しい争奪戦を繰り広げた城です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
城跡の見物に向かいます。
城跡には、幾重にも張り巡らされた深い堀が各所に点在しています。
「一体どこの原野を歩いているんだ?」というような光景です(笑)。
二の曲輪へと入っていきます。
二の曲輪を横断して、本曲輪へ。
ここにも深い堀があります。
本曲輪の説明板。
本曲輪の中を進んでいきます。
本曲輪の先端からの景色。眼下には金谷の街。その先には大井川を挟んで、島田市街地が見えています。
自軍(武田軍)が安全に大井川を渡渉できるようにするための防御上の拠点、そして徳川氏の領地である遠江への侵攻のための攻撃上の拠点。この景色を見ていると武田軍がこの場所に築城した理由がよくわかります。ちなみに城跡付近の東海道には急坂の金谷坂と菊川坂があり、街道も容易に抑えることができます。
さらに城内を進んでいきます。
カンカン井戸。水はすでに枯れてしまっているようです。
水の手曲輪へ向かう谷筋。
城内に鎮座する諏訪神社へと出てきました。
人と比較すると堀の深さがよくわかります。
諏訪神社前の説明板。
諏訪神社の鳥居。
神社のある場所が「馬出し」になっています。
さらに小径を歩き、車へと戻りました。
諏訪原城跡から牧ノ原台地を下り、大井川を渡って、ようやく今回のドライブの本命である島田宿大井川川越遺跡に到着しました。こちらは街並みの入口にあるモニュメント。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
島田宿へと続く街並み。
「川会所」です。この建物は1856年(安政3年)に建てられたもので、明治時代以降は数回の移転を繰り返し、1970年(昭和45年)にこの場所に復元保存されたそうです。
大井川の川越についての説明板。
「川会所」は内部見学ができます。
役人の人形。
役人についての説明板。
川越の手順の説明板。
川札の値段の説明板。今の金銭感覚だとそんなに高いとも思いませんが、江戸時代当時はどうだったのでしょうか。
後ろ姿が何となく侘しいです。
ふたたび街並みを歩いていきます。まだまだ整備の途中なのか、空き地が目立ちます。
札場。「陸取り」(おかとり。現役を引退した川越人足。)などが川越人足から回収した川札(川越のための切符。)を換金していた場所。換金後、賃金として川越人足へ分配したそうです。
仲間の宿。「陸取り」などの詰所。
「番宿」。川越人足の詰所。川越人足は一番から十番までの組に分けられていました。この建屋は「十番宿」になります。
川越人足の人形。鋭い目つきと色褪せしてきた体躯。夜に見たらビビりそうな迫力があります(笑)。こんな感じの人足さんに肩車されての川越は何か落ち着かないなぁ。
以上、島田宿大井川川越遺跡でした。
帰りは東名高速吉田ICまで移動して高速へ。我が家にとってはお約束の牧ノ原PAに立ち寄り、早めの晩御飯を食べました。

Posted at 2023/07/17 00:36:53 | |
トラックバック(0) |
ドライブ | 日記