2023年8月19日土曜日、北設楽郡設楽町川合の宇連集落跡から海老峠への峠道を探索しました。
前回(1)では、沢の源頭部を巻いていく箇所まで進んできました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
源頭部を通過すると、今度は折り返しが連続する区間を通り抜けていきます。
折り返しを登り切ると短い稜線の上を進んでいきます。
大きく抉れた枯れ沢が現れました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
枯れ沢の向こう側に道筋は見えていますが、けっこう深く抉れているため、一旦倒木に沿って下流側へと下り、足場がある所から対岸へと渡り、道筋へと登り直していきます。
枝が張ったままの倒木が行く手を塞ぎますが、無理せず隙間が広い所を迂回していきます。
またつづら折りを登っていきます。
間伐材がたくさん転がっていて、通り抜けるのに手間取ります。
ようやく海老峠がある尾根が見えてきました。
鞍部に向かって登っていきます。
海老峠に到着です。岩古谷山方面を向いています。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
東海自然歩道を宇連山方面へほんの少し歩くと休憩所があります。
ここに倒れてしまった道標があります。宇連集落と川売集落への案内表示もありますが、両方とも後付けされたような「通行不可」のプレートが貼り付けてあります。
せっかく海老峠まで登ってきたので、川売集落側への峠道を行ける所まで進んでみることにします。
細いながらも直線的に続く峠道を下っていったところ、岩盤が剥き出しになっている小さな沢にぶつかりました。道筋との段差は1m弱くらいですが、沢底へ飛び降りて着地できそうな平らな場所がありません。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
下側へ迂回するか、上側へ迂回するか、しばらくその場で考え込んでいましたが、道筋よりも上側の沢底の方が足場になりそうな岩場の段差があったので、剥き出しの根っ子も手掛かりに使って、沢を渡っていきます。
ようやく難所を越えると、峠道はつづら折りで一気に下り始めます。
急傾斜の植林地に細い道筋が続いています。
落ち葉の下に大量の石が転がる斜面へと出てきました。案の定、埋もれてしまったのか道筋があやふやになってきました。
完全に道筋を見失ってしまいました。これよりも手前で折り返していたのか、今も正しいルートは歩いていて、道が埋もれたり崩れてしまっただけなのか…。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ひとまず、「道のように見える所」を進んでいくことにします。
岩場にある段差を伝って進んでいきます。真っ当に言えば、もはや道とは言い難い状況ではあります。
鞍部を越えていきます。
ここまで来ると、引き返すための決定的な口実を得るために進んでいるようなものです。
尾根が一気に下り始め、もう明らかに一般に使われる「峠道」が通る場所ではなくなりました。大げさですが、引き返す余力も考えておかないといけないので、ここで諦めました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
実は、道を完全に見失った場所の先にあった岩壁に穴が見えていました。天然物でしょうが、もしかしたら石仏などが祀ってある可能性もあり、海老峠へと戻る際に近づいてみようと試みましたが、どう見ても足場が悪い崖を通るしかなく、こちらも諦めました…。
海老峠まで引き返し、あとは宇連集落跡まで下っていきます。今回はけっこう足にきてしまっていたので、要所要所で気を引き締めながら歩いていきます。
宇連集落跡の手前まで戻ってきたところで、「もう大丈夫だろう。」と沢に下りてひと休憩。沢の流れで顔を洗ったりしました。
気持ちに余裕が戻ってきたので、行きに見かけた滝を間近で見るために川まで下りてみました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
上流側にさらに落差のある滝が見えていたので、河原を歩いていってみます。
こちらは一枚前の写真の左側に写っていた滝です。
50mから100mくらい歩くともう一つ滝が現れました。落差は10mから15mくらいでしょうか。
滝のしぶきと滝の上から吹き降ろしてくる風のおかげで、とても涼しくて良い気分でした。
林道宇連線の入口の駐車場所まで戻ってきました。ここで着替えていたら、腰にヤマビルが一匹吸い付いていました。まだ大して血は吸われていませんでしたが、ヤレヤレです…。
あらためて今回の探索ルートの全体図です。新城市の川売集落側からと違い、宇連集落跡からは海老峠まで峠道を辿ることができました。
ここからは余談になりますが、宇連集落側から見ると、日常的につながりが深かったのは、海老峠を越えた先にある新城市海老ではなく、設楽町神田や新城市川合だったようです。
「設楽町誌 村落誌編」には、「宇連集落は他地域との交通が極めて不便であった。神田へ約6km、川合へ約8kmの山道を徒歩で、運搬は人の背に頼っていた。宇連に入る荷を『上げ荷』、宇連から出る荷を『下げ荷』といい、川合には『荷しょいさ』と呼ばれる女性が大勢いて荷の運搬に従事していた。『上げ荷』は味噌・しょう油・米・その他日用品や雑貨がほとんどであり、『下げ荷』は炭がほとんどであった。なかには木挽き板を海老(約8km)まで運ぶこともあった。木材運送のトラックが砂利道で川合へ通行するようになったのは戦後である。」とあります。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行
海老峠が利用されていたことがわかる一文もありますが、内容のほとんどは新城市川合との往来の記述になっています。
一方、集落の児童は、昭和22年(1947年)に集落内に神田小学校宇連分校が開校されるまでは、設楽町神田の神田小学校まで、およそ2時間かけて登校していたそうです。山道での遠距離通学だったために、集落児童の出席率は30%以下の状況で、これが分校設立への原動力になったようです。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行
それ以外にも、「新聞も配達されず、郵便も三日に一度の集配、情報を得る手段はトランジスタラジオが唯一であった。電灯はなく、石油ランプの生活が地区が消滅するまで続いた。」との記述もあり、現代的な生活に浴することなく集落が消滅してしまったことが窺えます。
林道宇連線が開通した翌年の昭和42年(1967年)、宇連分校は廃校となりました。通学していたのは3名で、兄弟だったそうです。そして、廃校時点での集落の戸数は、わずか4戸となっていました。そして現在、宇連集落があった設楽町大字川合の人口は0人です。