2024年11月9日土曜日、ドライブがてら母を連れて、「木地師発祥の地」とされる滋賀県東近江市君ヶ畑町へと出かけてきました。
今回出かけた理由ですが、今までに使われなくなった古い峠道の探索などをしている過程で、峠道の由来などを市町村史などで調べていくと、峠にまつわる集落の話の中でたびたび「木地師」という職業が登場するわけです。
そんな訳で、何となく興味を持つようになり、「ちょっと行ってみようかな。」と思い立った次第です。
自宅から国道23号知立バイパス、伊勢湾岸道、東海環状道と乗り継ぎ、終点の大安ICからは国道421号を走行して県境の石榑トンネルを通り抜けて、滋賀県東近江市にある道の駅「奥永源寺渓流の里」までやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここでひと休憩ということで昼食。親子丼をいただきました。
さて、目的地である東近江市君ヶ畑町へ向かうため、この道の駅近くの集落で国道421号から分岐する滋賀県道34号へと進みます。
二桁ナンバーの県道ながら、所々けっこう狭い道のりを進み、目的地である君ヶ畑町の入口に到着しました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここからは徒歩で集落へと向かいます。
こちらは集落内にある「木地師発祥地 君ヶ畑ミニ展示館」。トイレが隣接していたので、利用させていただきました。
さらにもう少しだけ歩いた場所にある「木地師のふるさと交流館」を訪れました。展示されている資料を見学したり、地元のボランティアの方から木地師の説明を受けたりしました。
建物の写真を撮り忘れたので、その代わりにもらってきたパンフレットの写真を載せておきます。能面がアップで載っているので、ちょっと「ビクッ!」としてしまいましたが(笑)。
もらったパンフレットによると、「木地師」とは、「山の木を伐採し、轆轤(ろくろ)と呼ばれる特殊な工具を使って、盆や椀、コケシなどを作る人のことを木地師といいます。また、轆轤木地師屋とも呼ばれていました。この轆轤の技術は、今から1100年以上前、惟喬親王が法華経の巻軸が回転することから轆轤を思いつかれ、その技術を人々に伝えたのが始まりといわれています。」とあります。
もう一つの伝承として、「文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王が、貞観元年(859年)に都を離れて小椋谷(君ヶ畑町と蛭谷町がある地域。)へと逃れてきて、その後亡くなるまでの19年間を過ごした。」というものがあり、「惟喬親王が轆轤を思いつき、人々へ伝えた。」ことと合わせて、これらの伝承が木地師たちの間で広まっていき、「惟喬親王こそ木地師という職業の元祖」であり、「小椋谷は自分たちの遠い祖先の地」と認識していたそうです。
実際、愛知県北設楽郡設楽町の峠道を探索した際に、椹尾という集落跡に江戸時代の墓碑がいくつか残っていたのですが、「設楽町誌」によるとそのうちの一つが木地師である「小椋」文左衛門という方のものであり、小椋谷の「小椋」を苗字として名乗っていたことがわかります。
「木地師のふるさと交流館」では、座敷に上がってお茶をいただきながら、いろんな話を聞かせていただきましたが、話に興味がない母がいい加減飽きてきてソワソワしだしたので、残念でしたがお暇させていただきました。
交流館を出て、集落内を散策します。
こちらは金龍寺。別名「高松御所」と呼ばれるそうです。
最後に訪れたのは大皇器地祖神社。祭神は惟喬親王。全国の木地師の崇敬を集めたそうです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この神社は金龍寺と共に「木地師支配所」として、全国の木地師の所在地を記載した「氏子狩帳」により木地師たちを訪ねて氏子料を集金。鑑札や往来手形を交付するなどして活動の保護・統括をしていたそうです。
境内の巨木や苔むした石垣など、古い由緒を感じさせる佇まいです。
明治時代になって、土地・山林に対する所有権などの権利が明確化されたり、開発が進んだことによる木材資源の枯渇化などによって、「全国の山々を自由に渡り歩いて木工品を作り続けることができる。」という木地師の活動特権は失われていきました。
そのため、「木地師」という職業は徐々に衰退していったようです。
Posted at 2025/04/27 17:10:02 | |
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