2025年8月21日木曜日、新城市内を流れる槇原川沿いにかつて存在していたという伐木作業軌道の跡を探索してきました。
探索内容を書く前に前置きを少々。
さて、ここ1年ほど廃道や廃線の探索をすっかりしなくなっていました。段々とネタ探しをネットなどですることをしなくなっていましたし、山歩きに出かけようという気分自体が乏しくなっていました。
ようやく最近「また探索へ出かけようかな。」という気持ちが戻ってきて、「ひとまずは近場で適当なところを探してみようか。」と地形図で愛知県内の山地を眺めていました。
そんな中で、新城市の槇原川の流域が比較的なだらかで幅広な地形であり、かつ破線道の表記が川沿いにあり、「木馬道の跡とか残っているかも。」とひとまず探索地の候補としました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
いつものように探索の下調べとして、槇原川流域の山行記録などがないかネットで検索してみたのですが、ここでヤル気が上がる(笑)記事がヒット。内容は、「飯田線三河槇原の奥にあった『作業軌道』の地図をやっとみつけました。」というものでした。「軌道」ということは、レールが敷かれた輸送手段を用いていたということです。
地図が掲載されていた資料名とリンク先も付記されていたのでさっそく閲覧。
「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されている昭和6年(1931年)発行の「愛知縣林業報告 第弐拾八號」中、昭和4年(1929年)の事業内容として「第二模範縣有林」の項目に、「當縣有林中槇原本谷ニ屬スル所謂本谷県有林内ノ現在ノ造林保護手入及將来ノ利用開發ヲ計ランガ為メ槇原林道終点ヨリ本谷渓流沿ヒ23林班内ニ至ル在來の『伐木作業軌道』二、〇二〇米(2,020m)ヲ幅員二米(2m)ノ車道ニ改築ス」とあり、ルートが記された地図が添付されていました。
地図は手書きのものでしたが、現行の地形図に落としてみるとこのようなルートになると思われます。添付地図の凡例によると赤線区間は「新設林道」、青線区間は「在来軌道」と表示されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
「槇原林道終点より2.02km」という文章の内容から推測すると、「新設林道」区間が「伐木作業軌道」を改築した区間だと考えられますが、「改築」なのに「新設林道」? 矛盾を感じる記述ですが、林道としては「新設」だからということなのでしょう。
何にしても、「伐木作業軌道」は昭和4年(1929年)の時点で幅員2mの「車道」へと改築されたとみて間違いなさそうです。なので、今回は約96年前に車道へと改築された「伐木作業軌道」跡を探索するということになりますかね。
さて、今回の出発地となるJR飯田線の三河槇原駅へとやって来ました。ここから槇原川へと向かいます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらは旧望月街道にある槇原トンネル。旧望月街道は、宇連川の右岸に明治10年(1877年)から明治19年(1886年)にかけて開削された街道です。街道名は、巨額の私費を投じて街道の開削に尽力した地元の豪商「望月喜平治」に由来します。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
槇原トンネルの全景。左岸側を通る別所街道(現国道151号)がメインルートとして継続的に改良されたため、宇連川の右岸側を通る旧望月街道は、現在も軽四が通るのがやっとの箇所が多いそうです(なので、私は旧望月街道を走行したことがありません。)。
槇原トンネルから宇連川とJR飯田線を見下ろしています。
槇原川沿いを通る林道本谷線へとつながる路地へと来ました。どこまで進むことができるのか。おもしろいものが見つかるのか。楽しみですね。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
今のところは、ごくありふれた砂利道の林道が続いています。
山側にコンクリート構造物が現れました。これは、かつてこの場所に存在した採石場の搬出施設だそうです。ダンプの荷台を構造物へ入れて、上から砕石を流し込んで積み込みしていたみたいです。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
昭和33年(1958年)発行の「長篠村誌」によると、東京や奈良方面へ鉄道用のバラストに出荷していたそうで、昭和30年度(1955年度)は21,115トン出荷したそうです。
林道を外れて、槇原川の河原へと下りてきました。ここまで槇原川の左岸側を歩いてきましたが、探索対象である「伐木作業軌道」や後継の車道林道は右岸側を通っていたので、右岸側へと取り付くためです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
本当は最初から右岸側の林道を歩いて行きたかったのですが、水源地があるという理由で右岸側林道の入口ゲートは強固に封鎖されていたため(たいていは、登山目的などの歩行者が通行できるように隙間が設けてある。)、左岸側の林道から迂回していったわけです。
「ナメ沢」と言うんですかね。川床が滑らかになった岩に覆われています。ただ、川床の一面に茶色の苔が生えていて非常に滑りやすく、歩くのになかなか難儀しました。
今回の探索の本当のスタート地点と目していた、破線道が分岐する場所にようやく到着しました。ここから林道を外れて、木々の間へと突っ込んでいきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
林道から外れてすぐに川へとぶつかり、道跡が途絶えました。
側面へと下りて確認すると石積みの橋台が残っていました。
対岸を見ますが、木々が生い茂り、対となる橋台などを見い出すことはできません。
川の中をザブザブと歩いて渡って対岸に取り付き、木々の中へと入り込んでいくと、低い築堤が続いていました。地形図の破線道のとおりに道跡は残っていそうです。
二股に分岐しているように見える場所へ出ましたが、周囲を確認してみると左側が道跡のようなので、そちらへと進みます。
間違いなかったようです。植林地の只中を一直線に道跡が伸びていきます。
見づらいですが、谷側の路肩に苔むした高い石垣があります。
山側にも背の低い土留めの石垣があります。これらの石垣は、2m幅の車道へ改築された際の遺構のような気がします。
眼下を流れる槇原川までは10m~15mくらいの高低差でしょうか。
ここも一直線の道跡を遠くまで見通すことができます。
路肩に低い石組みが残っています。
そして長い左カーブが続いていきます。
カーブが終わるとふたたび川へと出てきました。橋の跡ですね。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらの橋跡は、先ほどの橋跡と比べて、しっかりとした形で石積み橋台が残っています。
そして川の中を眺めると、コンクリート造の橋脚が1基残っています。ここまで石垣くらいしか目立った遺構がなかったので、思わず「おっ!」と声が出ます(笑)。
この橋脚、間違いなく昭和4年の車道改築時に新造されたものでしょう。現代のコンクリート建造物と比べると粗い表面の造りです。
橋脚の上流側には、三角形の水切りがきちんと付けられています。
対岸の橋台。木や草、苔に覆われて、写真では視認しづらいです。
対岸の橋台の背後へと回ります。橋台に続く築堤も石垣で覆われています。
橋台へ続く築堤の上に登ってみます。
程なくして、ふたたび林道本谷線へと合流しました。ここからしばらくは本谷線を歩いて行きます。
川の中に直線上に盛り上がった岩脈。この付近は凝灰岩に安山岩が貫入した地質が各所に残っていますが(宇連ダムのダム湖に大規模なものが存在する。)、これもその一つなのかもしれません。
本谷橋までやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
「新設林道」はこのまま本谷橋を渡っていきますが、現役の林道をこのまま進むのも面白味が無いので、本谷橋から槇原川の上流方向右岸側に続く破線道を辿ってみることにします。
