2025年10月16日(木)、山口県萩市の市街地にある観光地を巡ってきました。
唐突ですが、実はこの週、出勤日と休暇日の入れ替えがあって、私は急きょ木曜日から月曜日まで5連休となりました。「5連休なんてめったにない事だから、長距離ドライブに出かけよう!」と思い立ち、5月の連休の時は山形県へ行ったので、今度は西の方へと向かうことにしました。
「山形県までの距離と同じくらいだと山口県か。だいぶ昔に行ったけど、また萩市へ行ってみるかな。全然忘れてしまっているし。」というわけで、萩市を目的地としました。
自宅を15日(水)22時30分頃に出発。伊勢湾岸道~新名神~名神~新名神~山陽道と経由し、山口県へと向かいました。途中、山陽道 淡河PA、吉備SA、宮島SAで1時間づつ仮眠。
吉備SA。
宮島SA。
自宅を出発してから約12時間半後、最初の目的地、萩城跡に到着しました。萩城は、長門・周防2か国を治めた毛利氏の居城の跡です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
毛利氏は、豊臣政権の頃には中国地方8か国112万石を領有する大大名でしたが、関ケ原の戦いで西軍の総大将を務めたことが咎められ、周防・長門36万9千石に減封。その上、居城であった広島城(広島市)を追われて、幕命により、当時日本海沿いの一寒村であった萩に築城することとなりました。
城跡の背後に聳えているのが指月山です。山頂にも萩城の城郭が存在しているそうです。
こちらは萩城の説明板。明治時代に解体されてしまった天守の古写真が掲載されています。
かつては塀が存在した石垣の上に登って、天守台を眺めます。
天守台まで来ました。
天守台の上には天守の礎石が並んでいます。
天守台から城内へと入ってきた御本丸御門跡前の橋を眺めます。
城内にある志都岐山(しづきやま)神社へとやって来ました。この神社は、毛利氏を祀るために明治12年(1879年)に創建されたそうです。
万歳(ばんせい)橋。
この橋の下にヌートリアがいました(笑)。望遠で撮るしかなかったので、ピンボケしています。
志都岐山神社の社殿。
東園(とうえん)。城内にあった庭園の跡です。
城跡から菊ヶ浜を眺めます。
こちらは、旧厚狭毛利家 萩屋敷長屋です。ここは厚狭毛利家の萩城下の屋敷跡で、安政3年(1856年)に建てられたこの長屋が屋敷内で唯一現存している建物だそうです。
さて、続いては市街地の東部にある松陰神社へとやって来ました。吉田松陰を主祭神とする神社です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらは松下村塾。
松下村塾の説明板。
この小さな建物で、幕末から明治維新への時代の変革を担っていった多くの人々が、切磋琢磨しながら学んでいったわけですね。
こちらは、アメリカ船への乗船に失敗した吉田松陰が、江戸から萩へと送られてから幽囚されていた部屋だそうです。
松陰神社から歩くこと5分程、今度は初代内閣総理大臣である伊藤博文の旧宅へと来ました。
外観から想像したよりも部屋数が多いですね。
伊藤博文旧宅の説明板。
萩市街地で最後に訪れたのは、萩反射炉。西洋式の金属溶解炉で、鉄製大砲製造のために導入されたものです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
萩反射炉の説明板。
国道191号沿いの駐車場から階段を登っていくと反射炉があります。
ちなみに、静岡県伊豆の国市の韮山反射炉を見物したことがありますが、韮山反射炉の外観は総煉瓦積みでした。
一方、萩反射炉は上部の一部だけが煉瓦積みで、外観のほとんどは石積みとなっています。その見た目のためか、風化が進んでいるように見えてしまいます。
萩市街地での観光地巡りはこれにて終了。次は、萩市街地の南側にある峠に残る古いトンネルを見物しに向かいます。
Posted at 2025/11/16 22:14:05 | |
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