2025年10月16日木曜日、山口県萩市にある「鹿背(かせ)隧道」と山口市にある「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」を訪れました。
さて、萩市街地の名所・旧跡を巡った後、山口県道32号を南下。悴坂(かせがさか)峠にある「萩往還トンネル」の旧道へと入ってきました。
車を停めて、徒歩で鹿背隧道へと向かいます。途中、山の上へと登っていく階段が分岐しています。
悴坂峠へと登っていく旧街道「萩往還」です。萩往還は、毛利氏が居城のある萩と瀬戸内海の港町である三田尻(現:防府市)を結ぶために慶長9年(1604年)に整備した街道です。国道262号が現代の萩往還とも言えます。
萩往還を分岐してすぐにトンネルが現れました。鹿背隧道です。こちらは南側の坑口となります。
鹿背隧道は、萩往還の改修工事の一環として明治16年(1883年)7月4日着工、明治17年(1884年)5月25日に竣工したそうで、延長は182mです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらは戦前の旧版地形図です。

※ひなたGISより引用。
扁額です。「鹿背隧衜」と彫られています。「道」ではなく「衜」という文字が使われていますが、「道」の異体字のようです。
トンネル坑内へと入っていきます。内部は総石積み。総石積みトンネルで今までに訪れたことがあるのは、伊豆半島の天城山隧道、愛知県の伊世賀美隧道、三重県の長野隧道(初代・閉塞)といったところですね。
一応、通行規制の無い現役のトンネルですが、内部照明は無し。車に常備しているLEDライトを点けて進んでいきます。
古い煉瓦トンネルでよく見かける「白華現象」により、壁面が真っ白になっています。
アーチ部分。
壁面にフックが取り付けられています。電線か電話線でも通していたのでしょうか。
反対側の坑口へと来ました。
北側(萩側)の坑門です。
こちらの扁額は、苔に覆われてしまって全く見ることができません。
もうしばらく萩側へと進んでいくことにします。
斜面に設けられた石造りの排水溝。こういう造形も好みですね(笑)。
切り通しにある石積みの土留め擁壁。先ほどの排水溝は整形された石を用いていましたが、こちらの土留め擁壁は不整形な石をうまく組み合わせて積まれています。
悴坂峠を越える萩往還の萩側の分岐です。ここで引き返すことにします。
トンネル前まで戻ってきました。手前の切り通しは、少しでもトンネル延長を短くするために掘削されたのでしょうね。
トンネル内の排水溝。建設当時から設けられていたのかはわかりませんが、その可能性は高いかと思います。
壁面に何か所もチョーク書きがあります。トンネルの安全性を検査した際の痕跡でしょう。
アーチ部分の石の大きさが不揃いで、列が歪んでいますね。それでも隙間なくきちんと組まれているので、しっかりとすり合わせて積んだのでしょう。一定の規格で石を整形してから積んだ方が良いと思うのですが、明治時代のトンネルでは時折こんな状況を見かけますね。
壁面に段差がありますね。土圧でアーチに歪みが出てきているのでしょうか。
これも近づいて見てみると、きちんと石を削って滑らかに整えてありました。この箇所の前後でアーチの大きさが微妙にずれてしまって、調整したのですかね。
南側の坑口へ戻ってきました。
このまま駐車した車の前を通過して、もうしばらく先へと進んでみます。
萩往還が分岐していきます。ここから萩往還は谷筋を直線的に通って、麓の明木集落へと向かっていきます。
小さな沢を渡る場所まで来ました。
ここにも石積みが残っています。
逆方向から眺めています。写真ではわかりにくいですが、道幅が狭くて軽四でないと通行しづらいです。
前述のとおり、この道は明治時代に開削されたわけですが、その後は平成4年(1992年)に現在の「萩往還トンネル」を含むバイパスが有料道路として開通するまで、特に改修されることがないまま県道32号の本道でした。
大正9年(1920年)に、悴坂峠を迂回して阿武川沿いに萩へと向かう現在の国道262号ルートが開通したため、放置されてしまったようです。

※ひなたGISより引用。
それでは、次の目的地へと移動します。
次の目的地である「旧桂ヶ谷貯水池堰堤」の駐車場へとやって来ました。
駐車場からは徒歩道を歩いて行きます。雨上がりで多少ぬかるんでいましたが、その辺りは気にしないでおきます(笑)。
草地の向こう側に建造物が見えてきました。あれが旧桂ヶ谷貯水池堰堤のようです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
堰堤部分がコンクリート造、建物と高欄は煉瓦造ですね。
「堰堤を渡って建物に行ってみるか。」と向かったら、堰堤内は立入禁止となっていました…。
堰堤の下側へと道が続いていたので、降りていって下側からも眺めてみることにします。
堰堤の下(と言ってもやや離れた場所ですが。)に設置されていた説明板。設置場所からして、この堰堤は元々は下流側から見学するようになっていたのかもしれません。ちなみに堰堤から下流側は草ぼうぼうになっていましたが。
見上げた堰堤。
さて、これにて見物終了。車へと戻ることにします。
この草地の谷が、かつては水道用の貯水池だったわけですね。
これで今回予定していた訪問先をすべて巡ったので、帰路につくことにします。時刻は15時50分。最寄りの山陽道 小郡ICから高速道路へ。防府市内の佐波川SAで晩御飯を食べて、そのまま19時20分まで仮眠。
その後は広島まで山陽道を走行していきましたが、「このまま行きと同じ山陽道を通るのもつまらないから、広島から中国道を通っていくか。」と、中国道へと進入。
さらに、「JR芸備線の備後落合駅でも見に行ってみるか。こんな機会でもないと来られないし。」と、JR西日本でトップクラスの赤字路線である芸備線と木次線の分岐駅である備後落合駅へ立ち寄ることを決定。山奥にあって夜の暗闇でまともに見物できるのかもわからないのに(笑)。
中国道 庄原ICで高速道路を下りて、そこから国道183号を走ること約25km。
22時45分、備後落合駅に到着しました。駅舎・駅構内とも真っ暗ですね…。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
「そういえば、途中に明かりが点いていた駅があったなぁ。」ということで、引き返すことにします。
備後落合駅から三次方面への隣駅となる比婆山駅へとやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
駅舎内の様子。この雰囲気、事務室側は目張りされてしまっているようですね。
時刻表。さすが路線維持が危ぶまれるほどの赤字でよく知られたローカル線。やはり本数は少ないですね。
ホームへと出てみます。線路は1本しかありませんが、反対側にもホームがあるので、かつては列車交換駅だったようです。駅舎内の古写真に拠れば、貨物用ホームもあったみたいです。
ホーム側から駅舎を眺めます。
あらためてこの駅名板を見てみると、古い時刻表を再利用したものでした。下地が剥がれて読み取れる部分をネットで検索してみたところ、どうやら1958年11月以降の岡山駅の時刻表のようです。ある意味、貴重な資料だと思いますが(笑)。
※38列車 急行霧島 4時48分着、32列車 急行阿蘇 6時42分着、302列車 急行宮島 12時44分着など。現在は発車時刻・行き先表記が普通ですが、この時刻表は、到着時刻・始発駅が記載されていました。
ふたたび高速道路に乗り直そうと国道314号を走行していたら、またしても明かりが点いた駅舎を発見。道後山駅です。今の時刻は23時45分(笑)。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらの駅舎も地元の方がいろいろな物を飾っています。
この駅もかつては列車交換駅だったようですね。列車本数が減って、線路を撤去したのでしょうね。
道後山駅の駅舎。やや離れた場所に小さな集落はありましたが、駅周辺は本当に真っ暗でした。
引き続き国道314号を走行し、中国道 東城ICからふたたび高速道路へ。しかし、いよいよ眠気が辛くなってきて、10月17日(金)午前1時、ついに力尽きて大佐SAで仮眠することに。結局、このまま朝まで寝てました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
※おまけ
鹿背隧道の開通についての報告が、明治17年9月8日付け官報第360号に記載されていたので、載せておきます。旧字体の漢字や古めかしい言い回し、用語が多いので読むのは少々大変ですが、内容を汲み取ることは十分できますね。
〇隧道開鑿(山口縣報告)
山口縣阿武郡萩ヨリ美禰郡大田ヲ經テ吉敷郡上郷ニ達スル路線中 明木村字鹿背ヶ阪ノ隧道 本年五月竣工セルヲ以テ 去ル七月十七日開通式ヲ行ヘリ 抑く鹿背ヶ阪ハ萩舊城市ノ南里ニ在リ縣下北部ヨリ南部ニ達スルノ咽喉ニシテ崎嶇險嶢物貨運輸ノ便ヲ遮斷ス 既に前後ノ道路改修ヲ竣ルモ此ノ險阪ヲ平夷ナラシメサレハ九仭一簀ノ歎ヲ免レス 茲ニ於テ隧道開鑿ヲ企圖シ昨年七月業ヲ創メ本年五月功ヲ竣ヘタリ 隧道ハ長六百尺高拾三尺幅拾四尺其ノ工事の景況ヲ略述センニ岩質ノ軟硬一ナラス掘鑿一晝夜多キハ七尺少キハ六寸ニ過キス然リト雖全体ノ巖質堅硬ナルヲ以テ兩口合セテ拾六間五分ヲ除クノ外更ニ巻石等ノ工事ヲ用ヒス坑中多少ノ出水アルモ巖石ヲ破碎スル「ダイナマイト」「ゼラチン」ヲ併用シ發火ハ電氣器械ヲ以テシタレハ工事上敢テ支障ナシ 右「ダイナマイト」「ゼラチン」兩火藥ノ効力ヲ實驗シ優劣ヲ比較スルニ「ゼラチン」ノ「ダイナマイト」ニ優ル凡五割ノ利アルヲ知ル 坑路ノ方向ハ東南ノ間ヨリ西北ノ間ニ出テ眞直ニシテ地盤無勾配ナルカ故ニ日光能ク徹射シ洞内明ニシテ更ニ點燈ヲ要セス 洞門ノ兩口ハ斫石ヲ以テ甃ミ南門ノ頂上大理石ノ額ヲ嵌レ鹿背隧道ノ四大字ヲ彫ル 工業日ヲ閲スルニ三百廿七日工ヲ役スル壹萬八千百慘貮拾貮人六分金ヲ費ス 壹萬三千四百七拾壹圓七拾貮餞ニシテ其ノ金圓タル地方費及地民協議費有志醵金國庫補助金等ヲ以テスト雖全路線ノ改修費ト合算スルカ故ニ獨此ノ隧道ノ工費ノ細目ヲ分チ難シ 舊藩主毛利元徳モ亦壹千金ヲ寄送シケレハ之ヲ洞門甃石ノ工費ニ充テタリ
※「大蔵省印刷局 [編]『官報』1884年09月08日,日本マイクロ写真 ,明治17年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2943565 (参照 2025-11-21)」より。