2020年7月5日日曜日、岡崎市大柳町から豊田市下山田代町にかけての郡界川沿いに残る廃道を探索してきました。
この廃道を知るきっかけになったのは安城市の図書館にあった「下山村誌」。「下山村誌」は、明治・大正・昭和の各時代ごとの村内の道路の状況について、紙面を割いて細かく記述しており、その中に「柴田柳吉氏が私財を投入し、田代日影(現豊田市下山田代町)から柳(現岡崎市大柳町)まで荷車が通れる道を開削した。」というような記述がありました。
下山田代町内に柴田柳吉氏の顕彰碑があるそうで、読み取れるところによると「工事費用に517円かかったが、明治24年(1891年)4月に竣工した。」とのことです。廃道趣味で言うところの「明治車道」というものに当たりますね。
今回歩いたのは、おおむね手書きの赤線ルートになります。蛇行しながら並行している川が郡界川、同じく並行する黄色い道は愛知県道338号花沢桑原線です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
郡界川の左岸に道を切り開いたとあったので、川べりに行く道と想定。途中にかつて石切場だった所があり、その辺りがどのような状況になっているかが心配な点でしたが、距離は地図読みで片道約1kmといったところ。正直、「多少手間がかかっても、そんなに時間は喰わないだろう。」と踏んでいました。
事前情報が全くない中、この想定と見込みの甘さにより、この後、思わぬ苦労を強いられることになりましたが…。
ここは岡崎市大柳町内、県道338号から天王橋という小さな橋を渡って少し入った所です。ここから廃道へと向かっていきます。
車から天王橋方向へと進み、この交差点で右下方向へと下りていきます。この道は行き止まりとなりますが、そこまでは岡崎市道大柳1号線と呼ぶようです。
大柳川にかかる柳橋を渡ります。
十字路を直進していきます。
草の生い茂る道になりましたが、さらに奥へと進んでいきます。
道の上に竹薮が覆いかぶさっています。薮の中を覗くと道形らしきものが奥へと続いていましたが、さすがにこの状態では進めません。
川沿いにはまったく進めそうもなかったので山側へと入ってみたところ、歩いていけそうな徒歩道がありました。この道から廃道の様子を窺いつつ進むことにします。
山側から迂回して、ふたたび川に近い所まで寄っていったところ、道と思われる平場が続いていたので、そこへと下りてみました。
間違いなく道跡ですね。低い石積み擁壁もあります。これでようやく廃道探索のスタートが切れそうです。
ところが、ほどなくして正面の木に塞がれてしまい道跡が消えてしまいました。
取りあえず、木の裏側へと回ってみたところ、何となく道跡らしいものがあり、地面には路肩を示すかのように石が並んでいます。
道跡を塞ぐように大きな木が生えていたことに違和感を覚えつつも、このまま進んでいくことにします。
正面に細い竹の密生地が現れました。進めないことはないので、かき分けながら進むことにします。
竹薮をかき分けて進んだところ、郡界川の川べりへと出て、やがて道と思しきものは無くなってしまいました。
これは長い間に路盤が川に流されて道が無くなってしまったのか、それとも道跡はここではない違う場所を通っていたのか…。疑問が湧き始めます。
とにかく、川沿いは進めないので、また山側へと入り込んでいきます。斜面を見上げていたところ、10mくらい上に道らしきものが見えました。何とかそこまでぬかるんだ斜面を登っていきます。
明らかに道跡です。行き先はわかりませんが、ひとまず様子を見ながらこの道跡を進んでいくことにします。
路肩に小さい石垣がありますね。
しばらく歩いていたら、この道跡もやがて途絶えてしまいました。
終端から山側を覗き込むと石切場跡のようです。「この道は石切場への道だったのか。」とこの時点では考えていました。この先に道跡が続いていたような形跡がまったく無かったからです。
この場に留まっていても仕方がないので、目の前の崖を下りていくことにします。前日の雨のせいで岩が湿っているので、足場を確認しながらゆっくりと下りました。
下まで下りると小さな築堤がありました。場所からして、石切場へ川の水が入らないようにするための堤防でしょうか。
築堤の上をつたい歩きし、さらに奥へと道跡(らしきもの)を辿って進みます。
そして、またしても郡界川に行く手を阻まれてしまいました…。
仕方ないので、また山側へと登っていきます。そうするとまた道跡が現れます。
この辺りから、「道跡が川べりにあると想定したのは間違いではないか?」と思い始めていました。山の中腹には途切れ途切れになりながらも同じような道跡がずっと続いているのです。「この道跡が柴田柳吉氏が開削した荷車道じゃないのか?道幅も大体の部分は荷車道レベルの幅があるし…。」。
また石切場跡で道跡が途絶えてしまいました。
さすがにこれは下りられないので、石切場のさらに上へと迂回して進んでいきます。
反対側へと迂回してきました。道跡が途切れている足元や石切場跡の岩崖を眺めてみても、道や橋があったような痕跡はありません。
しかし、この石切場跡の先にも幅の広い道跡がまだ続いています。
そこで、「今歩いている道が柴田柳吉氏が開削した道だろう。石切場が稼働していた頃にはもうこの道は使われなくなっており、採石される中で昔の道も一緒に削り取られてしまった。だから、石切場跡の部分には道があったような痕跡が全然無いのだ。」と結論付けました。自分なりにようやく腑に落ちました。
沢を渡る所には、岩と岩の間に小さな石を詰め込んで平らに均してあるようです。普通だと沢の流れを通すために石造暗渠を設置してあるものですが、そのようなものは見受けられません。
そのため、沢の水は路上を流れていて、「洗い越し」となっています。案外、元から「洗い越し」なのかもしれません。
自分が歩いた明治時代の荷車道だと、地形が険しい箇所はこの写真のような岩壁沿いを通る情景が当たり前でしたが、この道ではあまり見かけません。石切場跡に道があった頃は、このような感じだったのかもしれません。
ここも「洗い越し」になっています。
この辺りも岩が露出して、やや荒々しい風景になっています。
また道跡が途切れました。3か所目です。
またしても山側へと高い所を迂回です。細い獣道を伝って遠巻きにいくか、木々を頼りに何も無い斜面を一気に登っていくか、とにかく何度も高巻きしているとじわじわと体に来るんですよね…。
また道跡へと戻ってきました。山の斜面がなだらかになってきたので、これで少しは落ち着いて道跡を辿れそうです。
久しぶりの石積み擁壁です。しかし、この道は石造構造物が本当に少ないです。
ちなみに同じ岡崎市内の東部にある廃道「明見坂」は、この廃道よりも短い距離ですが、路盤を造るためにふんだんに石積み擁壁を用いていて、工事費用は約7倍の3500円かかっています。まあ、石造構造物の有り無しだけが費用の多寡の理由ではないでしょうし、建設上の要不要の判断もあるかと思いますけどね。
小さいですが砂防施設でしょうかね。この道の建設に合わせて造られたのでしょうか。
この探索中に見つけた唯一の石造暗渠。造りは粗いですが、今も路盤の下に水を通すという役目を果たしています。
沢の水が道跡の上を流れてきています。けっこうなぬかるみになっています。
どうやら県道338号の切通しに出てきたようです。これで道跡も終わりか…。
と思ったら、法面に「道」が付けられていました。こういう配慮があるということは、登記上は一応まだ「生きている道」ということになりますかね。
法面を通過するとふたたび道跡が始まります。
これは厳しい…。くぐれない、跨げないとなれば、山側に高巻きするしかありません。繰り返しますが、これが本当にめんどくさいのです(笑)。
この程度なら、枝を押したり払い除けたりするだけOKなんですけどね。
道跡が土に埋もれて、谷側の路肩に細い踏み跡だけが付いている場所。疲れてくるとバランスを崩しやすいので、慎重に通過します。
ちょっとした広場。コンクリートの枡形がいくつかありました。用途不明です。
太い桜の木。何という訳ではないですが、一本だけ周りの木々と種類が違うので存在感があります。
そして、ちょっとした凹地を越えると、
突然バッサリと道跡が終わりました。下の道路のガードレールの先は郡界川。道跡はここから右へと曲がり、郡界川沿いに田代日影へと向かっていたはずですが、下の道路が造られた時に削り取られてしまったのでしょう。
この状態では道跡が残っている可能性はほとんどないので、ここで引き返すことにしました。
県道338号の切通しを通り、
石切場跡の上を迂回し、どんどん戻っていきます。
行きには通らなかった部分。
ここはヘアピンカーブになっているみたいですが、カーブを曲がったあとの道跡が不鮮明…。ちなみにカーブを曲がらず直進してみても、道跡らしきものは見当たりません。
一番大きな石切場跡を眺めます。この後は、さらに高い場所を通り大きく迂回。
反対側へと下りてきました。
ここからは、行きには通っていない道跡を辿っていきます。
こちら側も道跡が途切れてしまいました。
下の平場へと下りて振り返ると、見覚えのある木が見えます。
どうやら、ここから右側の斜面へと登っていくのが正解ルートだったようです。この状態では全然わかりませんね。
ここからは、行きに通った迂回路を経由し、岡崎市道大柳1号線へと戻ってきました。
ようやく車まで戻ってきました…。今回の行程は3時間強かかりました。初めはもう1時間くらい早く戻ってこられるつもりだったんですけどね…。
最初にも書きましたが、最初からルートの想定を誤っていたり、道跡が石切場で寸断されてしまっていて困惑したり迂回に手こずるなど、短距離ながら大変な廃道でした。情報が全然無い場合は、短くても侮ってはいけませんね…。
最後にもう一度、廃道の終端部へ寄り道です。
天気がはっきりしなかったので傘を持って歩いていましたが、その傘を引き返し地点の木に掛けたまま忘れてきておりました。最後にもうひと汗かいて斜面を登り、無事に回収いたしました(笑)。
またも雨上がりの高温多湿の中で、山中を通り抜ける廃道を探索するという、「旧田原坂」を忘れたかのような行動でしたが、旧豊橋鉄道田口線跡や旧東海道本線仏生山隧道、愛知県道424号の徒歩道峠越えなども雨上がりの同じような条件下で探索してますし、いざ歩き始めてしまえば、滝のように汗をかこうともあまり気にしません。
汗まみれ、泥まみれになって車に戻り、そこで後悔するだけです(笑)。