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小林あにのブログ一覧

2020年10月09日 イイね!

TGRラリーチャレンジカップin吉野ヶ里戦 参加受理されました

2020年10月18日日曜日に開催予定のTGRラリーチャレンジカップin吉野ヶ里への参加申し込みが受理されました。

ホームページにエントリーリストが公開されたわけですが、今回のエントリー台数は全11台。5クラスは参加が1台のみという状況です。

ちなみに、我々が出場するE―4クラスも1台のみ。スタートして完走すれば1位のポイントが付与されます。昨年、遥か遠方で開催されたTGRラリー弘前戦へわざわざ出場したのと同じ目論みです(笑)。

まあ、高ポイントを稼ぐ分、移動するための時間と労力、お金を費やすわけですけどね。身も蓋もない話ですが、これも作戦です。

ということで、金曜日に休暇が取れたドライバーやすい氏は、その日の夕方から積車を運転して開催地の佐賀県へと先に出発。私は、土曜日に新幹線と在来線を乗り継いで現地入りする予定です。

新幹線で九州へ行くのは小学1年生以来なので、長距離運転するドライバーやすい氏には申し訳ないですが、ちょっと楽しみです(笑)。
Posted at 2020/10/09 06:23:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | TGRラリーチャレンジ | 日記
2020年10月04日 イイね!

静岡県道389号 釜の口橋から臼ガ森集落までの古道を踏破

2020年10月3日土曜日、浜松市天竜区水窪町山住にある静岡県道389号釜の口橋から同じく水窪町山住の臼ガ森集落までの古道を踏破しました。この付近を通過する県道389号の旧旧道に当たる道になります。

地形図はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

古道ながら、現在も徒歩道(破線)として地図に表示されていますが、実際のルートは延々と急坂が続いており、比較的等高線に沿うように示されている徒歩道(破線)よりも、更に標高の高い所を通っているように感じました(赤線で示したルート。感覚としてですが。)。

戦前の地形図がこちら。赤枠内に実線と点線の組み合わせで示されている道が今回踏破した古道になります。

※5万分の1地形図「水窪」。明治41年(1908年)測図。明治44年(1911年)発行。

現在、この地区を通過する県道389号は、水窪河内川沿いを通っていますが、戦前の地形図には川沿いを通る道は全く記されていません。

本来なら比較的緩やかな傾斜である水窪河内川沿いに道を通したかったはずですが、一番のネックとなっていたのが高い絶壁に挟まれた「切通し峡」。


ここにようやく自動車道が開通したのは戦後の1954年(昭和29年)のことであり、それまでは、水窪の町と臼ガ森集落やさらに奥にある河内浦集落を連絡する道は、今回の古道がメインだったはずです。

また、この古道は、水窪の町と山住峠にある山住神社(山犬信仰で知られる。)や、さらに遠方にある秋葉山(火除け信仰で知られる。)とを結ぶ信仰の道でもあったそうです。

この古道以外にも、県道389号から30~40mほど上部の山腹を通る、明治・大正期のものと言われる古道(前回歩いた古道。県道389号から見ると旧道に当たる。)が断続的に残っていますが、正確な建設時期は不明であり、また、いつまで利用されていたのかも不明です。ちなみに、明治41年測図の地形図には記載されておらず、単純に考えるなら明治41年以降に開通したのかもしれません。

さて、午前中に前述の明治・大正期のものと言われる古道を探索し、次に釜の口橋から臼ガ森集落までの古道を探索するため、県道389号の釜の口橋へと移動してきました。




実は、1本目の古道でヤマビルに喰いつかれていて、出発する前に何か所喰われたのか確かめてみたら、12か所から出血してました(笑)。ほとんどは逃げおおせたようで、2匹だけ靴下の中から真ん丸になって出てきました。多分、逃げ遅れて私の足で団子にされたのでしょう。

さて、ここを流れる釜の沢川の左岸側から古道へと進入していきます。




はっきりとした道跡があるのは、釜の沢川に沿って行く道ですが、そちらへは行かず、県道沿いに向かう細い道へと進みます。




道跡の状態はあまり良くありませんが、歩いていくのに支障はありません。


さっそく、地形図には載っていないヘアピンカーブが現れました。


急な上り坂でグイグイと登っていきます。




所々、荒れた斜面が現れたり、倒木が横たわっています。特にこの先、倒木には泣かされることになります…。




地形図で古道を確認した時は、ある程度まで高度を稼いだら、等高線に沿うような感じで進むように記載されていましたが、実際にはまだまだ急坂で登っていきます。


こういう枝が広がったままの倒木は厄介です。まだ細い枝だったので、手で押してそらしたり、へし折ったりしながら進みます。


明るくて地面が脆い場所は、シダが生えていることが多い気がします。


2か所目のヘアピンカーブ区間。このヘアピンカーブも地形図には載っていないんですけどね。


地籍調査のピンクテープ。廃道歩きをしているとよく見かけるものの一つです。


さらに折り返して登っていきます。


道跡と同じ方向に倒れている倒木…。これも細い木なので、路肩に避けて、手で枝をそらせながら進んでいきます。


やっと倒木を通過したと思ったら、また急坂です…。


道の脇に石組みがあります。


初めは小さなお堂の跡かと思いましたが、すぐ上に炭焼き窯の跡である円形の石組みが残っていたので、作業小屋でも建っていたのかもしれません。

ちょっとした絶壁の上を歩いていきます。道幅があるので、気にはなりませんが。


道跡が細くなっています。土質が硬く締まっていて、その上に小石や砂が浮いている状態なので、こういう場所を通過する時の方が気を遣います。




道跡を落石してきた巨石が塞いでいるので、一段下を迂回していきます。


また厄介な倒木が現れました。今までのものと違い、複数の木々が絡み合っています。


上の斜面にも下の斜面にも迂回できそうになかったので、倒木に登って跨いでいきます。足場にしている枝が折れやしないかとちょっと不安でした。


大きな尾根から張り出している小さな尾根を越えていきます。


また急坂です。なかなか緩くなってくれません…。




3か所目のつづら折りです。




どこまで登っていくのか…。これが山登りなら「山頂」という終点がありますが、長い尾根を登っている道なので、なかなか終わりが見えません。




また小さな切通しを越えていきます。


太い倒木ですが、枝の付け根を足場にして跨いでいきます。


谷側に横木を設置して土留めしてあります。


この辺りは人が入ってくることがあるようです。こういう横木のようなちょっとしたものがあるだけでも道が残るので、本当助かります。


岩の間を通り抜けます。


左側の岩の上に石碑が立っています。釜の口橋からここまでで初めてです。この古道は信仰の道でもあったとのことで、もっと石仏や石碑があるのかと思っていたのですが…。


表面を見ると「牛観世音」とあります。馬頭観音ではなく牛観音。牛観音というのは初めて見ます。この道を通る牛の安全を願ったのか、この辺りで事故に遭った牛がいたのか。


施主は「山下 藤作」さんで、建立は大正14年(1925年)10月。大正14年に建立されたというのが意外でした。現県道の30mほど上の川沿いに明治から大正にかけて新道(この古道に対して。)が開通していたはずですが、それにもかかわらず、急坂が続くこの道を少なくとも大正14年頃に牛を連れて通行している人がいたわけです。

可能性としては、大正14年頃には新道が何らかの理由で利用できなくなっていたのかもしれません。午前中に辿った時でも、絶壁やいくつもの深い沢に行く手を阻まれました。それを思うと建設もさることながら、開通後の道路の維持管理も相当に手間がかかっていたでしょう。

開通後、早い時期に保守が立ち行かなくなって、放棄されたことも想定できます(例:明治33年に煉瓦造トンネルが開通した尾鷲市の旧坂下隧道とその峠道は、トンネルから尾鷲側の絶壁を通過する区間の保守に悩まされ、早くも明治44年には新たにトンネル・新道を建設し直す羽目に陥った。)。

想像は膨らみますが、所詮、想像ですので、まあこれくらいにしておきます。

石碑の先の路肩にミツバチの巣箱が。やはり、この辺りまでは人が入ってくるようです。


先へ進んでいくと、道が二股に分かれました。




まずは左側へと進んでみましたが、写真を撮った先で道跡がわからなくなってしまいました。


この時点で14時を回っており、さすがにいたずらに時間をかける余裕も無くなってきたので(体力的にも疲れが…。)、道がはっきりしている右側へと進んでいくことにしました。


横木が続いていますが、この辺りは機能発揮できず、道跡が消えてしまっていますね。心配するような事はなく、難なく通過していきます。


ここも土が流れて岩が露出し、歩きにくい場所。写真は通過してから撮りましたが、山側に布を割いてくくり付けたと思われる補助ロープがありました。


手をちょこんと添えるだけでも体は安定するので、こういうものでも助かります。

薄暗くなってきた林の中を一本道が続きます。十分間に合うでしょうが、日が陰る前には臼ガ森集落へ着かないといけません。


路肩に石垣が現れました。


上を見上げると幾段もの石垣が見えます。田んぼか畑の跡でしょうか。


どうやら臼ガ森集落に着いたようです。

廃屋が見えています(廃トンネルは平気で撮るくせに、廃屋を撮るのは何と言うか怖いのです(笑)。)。


林を抜けると目の前がパッと開けました。臼ガ森集落で間違いないようです。人家を見るとやはり安心します。


何か所も張られているネット(獣害防止のためでしょう。)を跨ぎながら、細い路地を道なりに進みます。


左側の路地を降りてきて、ようやく車道へ出られました。


まだここから県道まで下っていかないといけません。


電話線の支柱。途中で回線が切られていて、束にされていました。臼ガ森集落には、日常的に住んでいる人はもういないのかもしれません。


15分ほど歩いて、県道との交差点へ。これで釜の口橋から臼ガ森集落を経由して河内浦集落に至る古道を踏破しました。時間は1時間55分でした。


交差点の脇に布滝トンネルの高さ制限の標識が立っていて、トンネルまで1.7kmとありました。トンネルから釜の口橋までは地図読みで約1km。車まで、まだ2.7kmも歩くのか…。


県道を歩き始めてしばらくしたところで、左足の太ももが軽くつりだしました。普通に歩いているだけで痛い…。後ろ向きに歩くと少しマシでしたが、延々と後ろ向きで歩くわけにもいかないので、力の入れ具合を加減しながらゆっくり歩いていきます。

県道に出て25分後、布滝トンネルを通過。


30分後、最初に車を停めた所にある高い切通しを通過。


この頃には、何とか足がつる症状も治まってきました。


なぜか両方とも同じ方向を向いている県道標識。


県道に出てから45分後、やっと車まで戻ってきました。


トータルでは2時間40分、往復の歩行距離は5.5kmくらいでした。1本目は3kmくらい歩いたので、1日で合計8~9kmは歩いたことになりますね。そのほとんどが不整地路面というね(笑)。

しかしながら、今回歩いた古道の歴史を知りたいものですね。やはり一番の資料は地元市町村の地誌ですが、お取り寄せとかできるのかな?また検討してみますかね。
Posted at 2020/10/04 21:32:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年10月04日 イイね!

浜松市天竜区水窪町山住 布滝付近の素掘りトンネルと古道

2020年10月3日土曜日、浜松市天竜区山住布滝にある古道の素掘りトンネルを訪ね、さらに上流側の古道を探索してきました。

ここを知ったきっかけは、インターネットで古道関連の検索をしていてヒットした「秋葉古道の成立過程と果たしてきた役割」という題名の論文。論文に山住峠~水窪の道路事情に触れた項目があり、そこに「明治・大正期の道は、絶壁の中腹にある高さ・巾とも1.8mほどの『トンネル』のある道を通り~」と書かれていて、白黒写真が添えられていました。

「トンネルがある絶壁の古道かぁ。おもしろそうだな。」

次にこの情報を基に再検索したところ、地元のNPO法人のホームページに素掘りトンネルの記事と写真が掲載されていて、場所も特定できました。

今回はこの素掘りトンネルと付近の古道探索に加えて、山住峠の麓の河内浦集落と水窪を結んでいた更に古い時代の古道もあわせて探索することにしました。長丁場になることが予想されたので、普段よりも早く6時前には自宅を出発しました。

素掘りトンネルのある水窪河内川の渓谷「切通し峡」へとやって来ました。素掘りトンネルからは下流側になります。時刻は8時30分です。


戦前の地形図です。青線で描いた川沿いを通る現県道はまだありません。赤線が論文で明治・大正期の道と書かれていた道の推定ルートです。

※5万分の1地形図「水窪」。明治41年(1908年)測図。明治44年(1911年)発行。

手始めに駐車場所付近の山腹をチェックしてみます。


場所は地形図中の赤枠内で、緑色の線が歩いたルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

下流方向の岩壁に道跡を見つけました。ここに登ってくるだけでも、少々手こずりました。


道跡は、静岡県道389号の法面に削られてしまい、すぐに消失していました。


上流側へと向かいます。


コンクリートで固められた沢の先にはっきりとした道跡が見えています。このアングルは、論文の添付写真とほぼ同じなので、倒木が覆いかぶさっている先に素掘りトンネルがあるはずです。


コンクリートで固められた沢は、どう見ても渡ることが不可能だったので、県道へと戻ることにします。

「切通し峡」と呼ばれる所以がよくわかる光景です。


切通しを通り抜けた先にあるのが「布滝」。


こちらが「布滝」です。水量が少なかったので、布ならぬ「糸」にしか見えませんが。


この先すぐにあるのが県道のトンネル「布滝トンネル」。


トンネルの扁額です。「布滝隧道」とあるようですが、傷みがひどくて、はっきりとは読み取れません。開通は昭和29年(1954年)とのこと。


ここ「切通し峡」に道路とトンネルが開通したことで、ようやく河内浦集落まで自動車が入れるようになったそうです。

トンネルを上流側から眺めます。巨大な岩にトンネルを穿ったのがよくわかると思います。トンネルの真上には、この岩の名札が付いていて、「犬岩」とありました。


上流側の扁額です。


戦後開通のトンネルには珍しく、アーチ環が線刻されています。


それでは、素掘りトンネルへと向かうことにします。場所は地形図中の赤枠内で、紫色の線が歩いたルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入口は「布滝」の案内板の所。ここから急斜面を階段でジグザクに登っていきます。トンネルは階段を登り詰めると左側に見えてきます。


最後だけ「よっこいしょ」と岩をよじ登るとトンネルの真ん前になります。地元のNPO法人により看板が掲げられています。


手入れをされているのか、内部は瓦礫も無くきれいに保たれています。




先ほど、反対側から見ていた道跡です。岩壁を削り込んで道を造ったのがよくわかります。


反対側の坑口。ロープが張られているので、引きの写真はこれが限界でした。こちらはトンネルの形が四角形になっています。


トンネルの上流側にも古道が残っています。トンネルを出ると左側に曲がって、岩壁の下を通っています。これだけ高い岩壁を削り込むのは、相当困難だったでしょう。


ひとまず、進める所まで歩いていきます。

50mも歩かないうちに、道跡がごっそりと無くなっていました。橋を架けていたような形跡はなかったので、昔は道を通せるだけの岩壁や土の斜面があったのかもしれません。


この凹地の上部です。どうやって落石防止ネットを施工したのですかね(笑)。


トンネルが見える場所まで戻ってきました。


県道へと降りて、さらに上流側へと歩いていきます。

ここから斜面へと入ってみます。


山仕事用の徒歩道があったので登っていくと、古道と交差しました。写真で見るとただの斜面にしか見えませんね(笑)。下流側へと向かいます。


こういう礫の斜面は蟻地獄と変わらないので、怖いんですよね。


ここの道跡も県道の法面に削られていました。


道が通っていた証拠である石積み擁壁。


今度は、上流側へと古道を追っていきます。

はっきりとした道跡が出てきました。


と思ったら、細いながらも鋭く抉れた沢に遭遇。


対岸には、岩壁を削り込んだ道跡が見えています。


沢を渡れる所まで斜面を登っていきます。

ようやく渡れそうな場所を見つけました。


反対側へと出てきました。ここから一旦、沢へと戻っていきます。


頭上のオーバーハングしている部分の岩は残っていますが、路盤部分の岩は砕けてしまったようで、半分も残っていません。


対岸に背の低い石積み橋台が見えています。


大きな石積み擁壁が残っています。


再び上流側へと歩いていきます。

ここも石積み擁壁が残っています。


沢の部分がかく乱されていて道跡がはっきりしませんが、道跡とだいたい同じ高さの所を進んでいきます。




道跡が現れました。


道跡が細くなっている箇所を注意して進んでいきます。




両足を揃えて立つのが厳しい幅の所も多いです。


絶壁の上を歩きます。




道が二股に分岐しています。一見、一本しか道が無いように見えますが、ここは左側の斜面に何となく付いている道跡を歩いていきます。


斜面が流出して岩盤が露出している凹地に来ました。


もちろん、横断することは無理なので、また上部へと高巻きしていきます。


ここも何とか渡れる場所があったので、慎重に進みます。


対岸へと無事に降り立ちました。


崩落地です。土質によっては、不用意に体重をかけると崩れていってしまうので、靴で足場を造りながら一歩づつ進んでいきます。


大きな石積み擁壁が現れました。擁壁の上に登ろうとすると、土がボロボロと崩れていくので、けっこう手こずりました。


ここも土の斜面が流出していて、岩が露出しています。幸い、岩に段差が付いていたのと、靴がしっかりグリップしてくれたので、そんなに怖い思いをすることなく渡れました。




こういう場所はちょっと一息つけます。


また崩落地が現れました。ここは斜面が引き締まっていたので、臆することなくスタスタと横断できました。




まあ、頭上に頭大の石がひしめいていることも素早く横断したい理由でしたが。


太くなった蔦の蔓が地面を這っています。蔦はどんなに太くなっても手掛かりには使えませんね(根を張って立っている木と違って、ぶら下がっていたり転がっているだけなので、体重を掛けられない。)。


沢が横断していますが、ここは一跨ぎ。


段々とこれくらいの幅の道には慣れてきました。


竹林が浸食してきている場所を通過。


この後は、写真のような瓦礫の散乱する斜面を進むことに。道跡をうかがわせるようなちょっとした平場すら現れず、渡ることが難しい沢に再び遭遇したことで、探索を打ち切りました。


県道へと転がり出てきました。


県道へ戻るまでに歩いた推定ルートは、赤枠内の赤線になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

古道がどこで県道と合流することになったのか確認したかったですが、あのまま進んでいったとしても状況的に確認は難しかったでしょう。

車まで戻ってきました。


県道へ出た地点から20分、出発してからは4時間が経っていました。予想よりも大幅に時間を使ってしまいましたが、荒れた斜面で道跡を探したり、立ち止まって斜面の状態を確認して試行錯誤したりすることが多かったためでしょうね。

これで今回の予定の1本目は終了。次は、布滝からは下流となる県道389号釜の口橋から分岐して、山腹にある臼ガ森集落を経由して山住峠の麓にある河内浦集落へと向かう、さらに古い時代の古道を探索します。

話は変わりまして、この素掘りトンネルを含む古道、明治41年測図の地形図には記載されていません。古道が開通したのが明治41年以降だったのか、それ以前には開通したものの、何らかの理由により早々に廃道になり記載されなかったのか(地形の険しさから道路維持は相当困難だったことは推測できます。)。

ちょっと謎ですね。
Posted at 2020/10/04 11:27:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
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